あなたを迎える夜のこと ケープ、そして法衣を脱いだテメノスは、その下に身につけているシャツのボタンを外し、鞄より出した洗い替えのものに腕を通していく。項が痛い。刺さるかのような強い視線が、晒している肌をじわじわと焦がした。だが、それも仕方がないことなのかもしれない。彼はまだ若いのだ。呆れるくらいに真っ直ぐでひたむきな男だけれど、色めいた触れ合いに対する興味が、ゼロではないはずだから。
隆々とした筋肉の男らしさとは無縁であるし、力仕事も得意ではない。更には彼より八つも上。どこがいいのだと本人に尋ねてみれば、「沢山あって、ここで一つには絞り切れません!」と真っ赤になって答えたのは、今より三ヶ月ほど前のこと。思い出せば、ぶつけられた熱情ごとよみがえって胸が苦しくなるが、残念ながらまだ職務中だ。甘い囁きは夜まで取っておく必要がある。
テメノスは仕事のため、フレイムチャーチよりストームヘイルまでやって来た。一連の事件に終止符は打たれたものの、それに関わる雑務は山のように残っている。故に、ここ三カ月は決して近くはない大聖堂と本部を、幾度も往復する羽目となっていた。自分の仕事である以上粛々と対応するが、以前のような穏やかな暮らしを送るには、もう少し時間が必要だった。
宿に到着して早々、書類を持ったクリックが部屋の扉を叩いたのには、流石に驚いてしまった。まだ、顔を見せに本部にも足を運んでいない。急ぎの案件であるのは事実だが、遠路遥々やって来た身としては、少し休ませて欲しいのが正直なところである。
洗いざらしのシャツは、肌によく馴染む。汗で濡れた衣服を新しくできた清々しさから、テメノスは唇よりほう、と息を吐いた。
「失礼しました」
「い、いえ」
「それにしても……」
「? はい」
「本部の皆さんは、随分とせっかちなんですねえ」
「すみません。宿へと歩く姿を、門番の騎士が目にしたらしくて」
テメノスはクリックに向き直ると、目の前で着替えた非礼を詫びた。彼は命を受けて訪ねて来ただけ。それは承知しているが、此方は荷解きすらできていない。見当違いと理解しつつも、よく動く口はつい苦言を呈してしまう。申し訳なさそうに謝罪する恋人に、テメノスはゆっくりと首を横に振った。
「構いません。君を差し向けたのはオルト君でしょう? 人選を間違えないあたりは流石です」
「…………え?」
「私の機嫌を取る方法を、理解しているという意味ですよ」
「……‼ そうなんですか⁉」
「では、書類を見ます」
「えっ。あ、はい。……宜しくお願いします」
言葉が続く前に、テメノスはクリックより書類を受け取り、部屋に備え付けの机に向かって確認を始める。遠距離である二人が会えたのは、実に一カ月ぶり。気持ちに変わりはないのだということを、それとなく彼に伝えたかった。ただでさえ人のいいクリックのことだ。強引に誰かに迫られても拒否できないのではと、勝手な心配が頭の片隅にあった。しかし、真っ赤な顔を満たす喜びからは、心配が杞憂であったことが察せられて。こっそりと胸を撫で下ろしはしたが、それ以上は照れ臭くて一方的に会話を切った。
背後から聞こえてくる、床板の軋みと身動ぎに甲冑が動く音。律儀な彼のことだ、立ったままでテメノスが終わるのを待っているに違いない。同じ機関に所属する以上の結びつきが、二人にはある。もっと無遠慮に振舞ってもいいのにと思ってしまうが、それができないのが彼という男だ。
「座って下さい。といっても、ここに椅子はありませんが」
「は、はい。……それでは失礼します」
ぎこちなく響いた声の後で、ぎし、とベッドが悲鳴を上げた。上背のある男が甲冑に身を包んでいるのだ。受け止める側は、さぞ重たいことだろう。
「…………」
「…………」
座った後は、衣擦れの音すら耳には届かない。それはクリックが僅かな動きすらせず、腰掛けているという証明だ。恋人が感じているだろう緊張が、後方よりじわじわと伝わってきて。テメノスは雪道を歩いて来たのが理由ではない額の汗を、何でもない振りを装い手の甲で拭った。
二人はまだ夜を共にしていない。
幼い頃より、教会に身を置いていたテメノスに艶事の経験はなく。青臭い純情一杯の彼も、恐らくは自分と同じようなもの。肌を重ねるまでの時間は想像するしかないが、だんだんと距離が親密になっていくうち、自然とそうなるのではと考えていた。機会を見定めるのは、どちらだって構わない。ただ、まだ先だと思っていたタイミングは、すぐそこまでやって来ている。無音の部屋からそんな風に囁かれている気分になり、肩に必要以上の力が入った。
……顔が熱い。
背筋をくすぐる甘さに耐え切れなくなったテメノスは、手早く確認を終わらせて勢いよく椅子を引いた。その音に慌てて立ち上がったクリックへ渡すと、労いを兼ねた笑顔の仮面をつけ、動揺を覆い隠す。
「ご苦労様です。少し休憩したら、私も本部へ伺いますので」
「お待ちしています!」
「はい、待っていて下さい」
「…………」
「……あの、クリック君? どうかしましたか」
元気な声で返事をした聖堂騎士は、身を翻してドアを開け、颯爽と歩き出すのだと思っていた。ところが、彼は書類を受け取った姿勢のままで、動き出す様子すら見せようとしない。一体、どうしたというのか。パチパチと目を瞬かせていたら、青の瞳を少しだけ彷徨わせた後、「テメノスさん」と遠慮がちな声で名を呼ばれた。
「なんでしょう」
「あの」
「…………?」
「今夜! ……部屋を訪ねてもいいでしょうか」
「…………‼」
耳に顔を寄せての囁きは、秘め事めいた雰囲気を漂わせている。
これはきっと、他愛ない話をして解散となる流れではない。
肌を重ねたいと、朝まで共に居ようと、暗に伝えているのだ。真っ直ぐに注がれる、燃え上がる瞳。見返すには暴れる拍動があまりに苦しく、視線を逸らして左手首を強く握った。
答えなんて、考えるまでもない。すぐに返事をしなかったのは、そのうちと自分に言い訳しながらも、すぐさま奪って欲しい気持ちが存在していたから。八つも下の男相手に、まるで余裕がない。その真実を彼に暴かれたくはなかった。
テメノスは、少し迷う振りを見せた後で小さく頷く。こっそり盗み見た正面の表情は、零れ落ちそうなほどの笑顔で一杯になっていた。それに唇を引き結び、緩んでしまった口角を懸命に誤魔化す。
頬に乗った影に顔を上げれば、少しだけ屈んだクリックが近付き、一瞬だけ唇を重ねた。
「で、では! 美味しい物持って遊びに来ますね!」
「…………あったかいものだとうれしいです」
「了解です!」
恋人の甘い葛藤に気付かない男は、敬礼をすると部屋を飛び出していく。そうして弾むように廊下を軋ませ、遠くなる足音は階段に吸い込まれていった。
「…………子羊君に一本取られましたね」
真っ赤になっているだろう頬をぺちぺちと叩き、気持ちを仕事へ切り替える。しかし、一向に引く様子のない火照りに、顔を洗おうと洗面台へ歩き出した。
――夜。どんな顔をして迎えればいいのだろう。
未だ忙しない胸をゆっくりと撫で、頭の中で順序立ててイメージしてみる。しかし、余計に気持ちが落ち着かなくなり、テメノスは思考することを放棄した。