嫉妬その日、北信介は、おにぎり宮の2階、宮治の居室の台所で絶望していた。
つい先日、祖母に分けてもらった上等のクリームクレンザーで、この部屋にあるいくつかの鍋の、ちょうど半分をピカピカに磨き上げた後のことだった。
「残りはまた今度」
そう言って帰宅し、そして今日がその「また今度」だった。
日々使い込まれ、焦げ付いて茶色くなった鍋を綺麗に磨き上げる作業は、この上なく心地よい時間だった。今日という日を楽しみにしていたと言っても過言ではない。
ところが。
「なあ、治。鍋、傷だらけやんか」
不器用にところどころまだらに残った汚れと擦り傷で、鍋は見るも無惨な姿になっていた。
「………はい。すんません」
背後から、この部屋の主のしょぼくれた声が響く。高身長なはずの彼にしてはかなり下の位置からだった。たぶん自主的に正座をしているのだろう。
「力任せに磨いたんか」
「………もうちょっと、上手にやれるかと、思っとったんですけど」
「俺、残りもやる言うたやんか」
「だって!!北さんせっかく来てくれはっても、ずっと鍋につきっきりやったやないですか」
北は思わず振り返った。
「鍋に嫉妬したんか」
「そんなんやないです。………でも、鍋がきれいになっとったら、北さんはもう鍋磨きせんでええかなと思うやないですか」
そこには、眉間に皺を寄せ、俯いて不貞腐れる治の姿があった。
傷だらけの鍋と、しょぼくれた治の姿を交互に見る。
確かにあの日、夢中で鍋を磨いて、上機嫌で帰った。治のこと、すっかり忘れとったな。
そう思い至って、まるでこの鍋のような不器用な愛情に、信介の胸がキュッとなる。
「………すまんな。俺が一人でやるんやなくて、治にやり方を教えるべきやったわ。そうしたら次から治が自分でできるもんな」
「そんな、謝らんといてください。勝手に台無しにした俺が悪いんで」
「まあ、こんくらいの傷なら、鍋として使うんに影響ないやろ。続き、一緒にやるか。やり方教えたるわ」
信介のその言葉に、治は、ぱあ、と笑顔になる。
「はい!お願いします!」
「治なぁ、鍋に嫉妬するんやで。可愛えやろ」
「鍋に!?」
久しぶりにおにぎり宮に顔を出した同級生の尾白アランと二人、肩を並べて飲んでいた信介が、突然そんな話を口にした。
閉店時間を過ぎて、スタッフはみんな帰し、店を締めた後に治が車で送ってくれるというので洗い物が終わるのを待っている所だった。
「そう、鍋」
「何でなん?その状況が全くわからんわ」
「うふふ。ないしょ」
頬杖をついて悪戯っぽく笑う信介に、初めて見る色気を感じて狼狽える。
「おい、信介。大丈夫か、飲み過ぎと違うか?」
「北さん、お水飲んでください」
カウンターの中から湯呑みを差し出す治の顔は、幾分か酒を飲み過ぎたらしい信介よりも何故か赤い。
「え?どういう状況?分からんわ」
とうの信介本人は、とろりと酔って、ニコニコと治を眺めている。
「アランくんと久しぶりに会うて、北さん嬉しなっちゃったんですかね。北さん、少しニ階で横にならはりますか?」
嫌や、もっと話したい。ダメです、もう。嫌や、嫌や。そんなやりとりをしながら、大の大人が駄々をこねながら横抱きに二階に連れ去られていく様を、呆然と見送る尾白アランの姿だけが店に残された。
「え?え?あいつら、そういう感じなん?」
二階で治が酔った信介を布団に寝かそうとドタバタと格闘する音を耳にしながら、尾白アランは治が出していった煮物で日本酒をちびちびやりながら、自分の置かれた状況を必死に整理するのであった。