きっかけは戸森君 今年の晦日はちょうど定休日にあたる曜日だったので、おにぎり宮は12月29日をもって年内営業を終了し、晦日に大掃除をして大晦日からのんびりすることにした。
経営もやっと軌道に乗り出しバイトを雇う余裕もできて、初めて雇った戸森という青年はおっとりとしているがよく気の効く働き者で、初めて雇う側に立った治にしたらとてもやりやすい相手だった。その戸森と二人で朝から普段できない棚の奥や冷蔵庫などを念入りに掃除していた。
あと2日で新年ということで街もざわめき、店の前の通りも人通りが多い。
「戸森君は帰省せんの?たしか奈良の方やったやんな?」
棚から食器を取り出して拭き掃除をしていた戸森は振り返ることなく返事をした。
「明日帰るんですよ。同じ関西ですから帰ろう思たらすぐですし」
「電車やったらどうやって帰るん?」
「大阪まで出て、天王寺から奈良ですね。ちょっと高いけどJRの方が早いんで」
なるほどなー、と言いながら戸森を見れば、高い棚も背伸びをして難なく拭いている。
テーブルにひっくり返した椅子を置きその脚を磨きながら、やっぱ当たりやな、この子、と肩を震わせて忍び笑いをしているのを気づかれてしまった。
「…店長。俺が背ぇ高くて良かった、思てるでしょ」
戸森が苦笑いしているのでとうとう声を出して笑ってしまった。治よりは低いが戸森は身長が179センチで男性平均身長よりはかなり高い。
「ほんまショックでしたわ。俺が面接通ったん背が高いからて」
「いや、ちゃんと他にも理由あるで。ただ背が高いと助かるな、て。ほら、厨房俺の背に合わせて特注やから背ぇ低いとしんどいやろ思て」
「そういや、それ以外の理由て何ですか?」
「そやな、まず学生ん時スポーツやっとったやろ。俺もそやからやっぱ体育会系の方がやりやすい思た。それに俺とツム知らんかったやろ。下心持って来るヤツかなわん思てたし」
戸森は手を止めて治を見た。
確かに宮兄弟はここ地元で小さい頃から有名だったらしい。双子で小さい頃からバレーで全国レベルで活躍してて、地元の応援団があって、ファンクラブもあって、そしてもう一人はそのままプロになっている。
双子で強者でビジュアルもよぉて、か。そら金いらんから傍で働かせてくれ、言う子も多かったんやろな。
「ほんで何より。俺の作ったおにぎりめっちゃ美味そうに食ってくれてた」
磨き終わった椅子を元通りになおしながら本当に嬉しそうにそう言った治を見てちょっと赤面してしまった。
ずっと大家族で育ってきて、大学生になって憧れていた初めての一人暮らしを始めたのに3ヶ月もするとホームシックにかかってしまった。そんな時にたまたま用事で来たこの下町の、偶然入ったこの店で食べた温かく優しい味のおにぎりに、実家を思い出しつい涙ぐんでしまったのだ。それを治が見ていたことも知らず、会計時に表にあったバイト募集の張り紙を指さし、あれまだ募集中ですか?と聞いて、そのまま面接となり即採用となったのだが、あとからなんで泣いとったん?と聞かれてめちゃめちゃ恥ずかしかったな。
それが夏だったからここでバイトを始めて5か月ほどになる。店長が有名人なのはすぐにわかって、そしてびっくりするくらいよくモテていて、だからバイト初日から店長狙いの女性客からリサーチを受けて面食らった。曰く、彼女いてはらへんのかな?どんなタイプが好きなんやろ?暇なとき何してはるんか知ってる?
それからも戸森は人好きの顔をしているからかこの5か月の間にどれほどこんな質問を受けたかわからない。
もちろん店長に彼女がいるのは知っていた。それもこの5か月で4人入れ替わったことも、どれもタレントか女優かと思うほど綺麗な人ばっかりだったことも。
女性にだらしない人でもチャラい人でもないのは働けばわかる。しかし彼女も彼女でありながら皆、自分にさりげなく浮気をしていないかと訊ねてくるのを見れば、店長は仕事が一番で恋愛はほんのおまけな人なんやな、とわかった。恋人に不自由しはれへんのはすごいけど、なんとなく寂しい人生やなと思いながら、戸森はすぐ側で治を見ていた。
夢中になって拭き掃除をしていると、とんとんと扉が叩かれ、遠慮がちに開いて北が顔を見せた。
「大掃除、手伝いに来たで」
いつもの仕事着ではなく、セーターにジーンズ姿の北を初めて見たが、とても店長より年上の一次産業者には見えないな、と思う。どちらかと言えば弁護士とか医者とか。よく通る声で冷静に諭すように話をする人だ。それでいて店の裏で治と言い争いらしき声を二度ほど聞いたことがあり、後で聞いたらいろんなことで未だ注意されんねん、と苦笑いをしていた。
「喧嘩してるんか思てビビりました」
「言い返しても、結局冷たい声で正論で返されるから太刀打ちできんでな。ほんま怖いねんあん人…」
なるほど、こんな店長でも頭上がらん人がおるんや、と感心し、それがこのたった一つ違いの元部活の先輩というのが微笑ましい。
北は治を見ると少し眉を顰めて黙り込み、しかしすぐに表情を戻すと俺は何したらええ?と聞いてくるのを治は恐縮しながらもすんません、助かりますわ、と嬉しそうに頭を下げた。
手際の良い北の参加であっという間に店内掃除は終わった。
最後の点検をしている治を北がじっと見つめている。表情がなく目の圧だけがすごいな、と戸森は思い、ふと気になって同じように治を見た。
あれ?ちょっとふらついてはる?ほんの一瞬だったがよろけた気がした。
ぱっと北を見ると、視線に気がついたのか戸森を見て、帰省するん?と聞いてきたので治に返した同じ事を答えてやる。
「北さんは今日は?」
「いや特に用事は入れてないねん、帰って自分の部屋ざっと掃除するくらいかな」
すべてチェックを済ませ近づいてきた治に年末最後の挨拶をすると、エプロンからポチ袋を取り出した治が、帰省の足しにしてくれ、と手渡すのを北が小さく微笑みながら見ていて、しかし治が厨房に戻った隙にやはり気になったので戸森は小声で聞いてみた。
「あの…店長ちょっとふらついてません?」
「…まぁ微熱やろ。一晩寝たら治る程度や思う」
ふう、と北は小さくため息をつき、なんか顔見た時ちょっと様子おかしいなて思てん、と呟いた。
すごい、一瞬でそこまでわかって、せやけど店の事人任せにしたくない店長の性格もわかってはる。そういえばさりげなく水回りは自分が全部やってはったわ、と戸森はなんだか嬉しくなった。
ここは本当に働きやすくて、常連さんも皆ええ人で、おにぎりはほんま美味しぃて、店長は一生懸命働く人で。だから戸森はこの店も店長も大好きだ。
だから店長が時々寂しい人やと思えてしまうのが気になっていたけど、でも大丈夫やんな。店長の事こんなよぅわかってくれてる北さんおるし。
「店長!今から上の家の方の掃除するつもりでしょ、北さんに手伝ってもらってください!」
戸森がいきなり大きな声で治の背中に呼びかけた。
え?いや、上は俺の部屋やからプライベートやしそんなんは…ともごもご言いながら近づいてきた治に、まるで親が子に言い聞かすように戸森が言う。
「今日一日見てましたけど店長は掃除雑です。上の部屋は見たことありませんけどまともに掃除したことありはれへんでしょ。北さんにきっちり手伝ってもらって、ええ新年迎えてください」
こちらの都合も聞かず何をいきなり、と北は目を丸くしていた。でもこちらを見た戸森の目は真剣で、心から治の事を心配してくれているのがわかり、これで帰るつもりだったのに思わずうなずいてしまう。
良かった、安心しました、と笑って、では良いお年を、と手を振って小さくなっていくバイト君を二人見送りながら、ほんまええ子やな、と北が呟き、はい、ほんまええ子雇いましたわ、と治が返事する。
よし、ほな上やろか、と北がくるりとこちらを向いたその表情があまりに嬉しそうで治は面食らった。
「おまえの部屋入らしてもらったん、だいぶ前やけどちゃんと掃除してるんか?」
「…先に謝っておきますわ」
なんやねんそれ、入るの怖いわ、と二人笑いながら店に戻る。
この日を境に二人の関係が変わり、そのきっかけを作ったのは自分であることを戸森は知らない。