食事で信頼エクササイズ 歯が溶けそうなほど甘いシェイク、じゅわりと肉汁染み出すハンバーグ、さわやかな甘みのフルーツに、香り豊かなアッサムティー。自分の舌を喜ばせてくれるものであれば、アダムはなんでも好物だった。天国ではその手軽さ故にジャンクフードを好んでいたが、気まぐれに手料理に凝ってみたり、東洋のヘルシーフードにハマってみたりする。要するに食べることが大好きなのだ。
「──限界だ!」
アダムは地獄の底で悲鳴をあげた。悪魔に堕ちるという屈辱的な境遇にではない。地獄の食事は、天国に甘やかされたアダムの舌には合わなすぎた。第一鮮度が悪い。ここでいう新鮮な食材といえば、採りたて、いや殺したての──そこまで考えて、吐き気がこみ上げてくるのをおさめるために思考を放棄した。アラスターや食人街の連中とは違って、アダムにそういう趣味はない。
という訳でアダムは普段地獄のよくわからない食事をとっている訳だが、地獄に堕ちて2週間、そろそろ限界に達していた。もうあの肉もどきは見たくもないし、何を煮出したんだか分からないお茶も飲みたくない。水でさえ体に合わず、体調を崩すありさまだった。人間から地獄に堕ちたホテルの面々は「じきに慣れるよ」なんて笑っていたし、ヴァギーに至っては根っからの軍人気質で気にも留めていなかったが、冗談じゃない。今日こそ、なんとしてでもこの環境を改善してみせる。そう意気込んで部屋を出ると、何やら懐かしい、甘いいい匂いがアダムの鼻腔をくすぐった。それにつられてキッチンに足を踏み入れると、そこにはエプロンを付けたルシファーの姿があった。
「なんだお前か。もうすぐできるからダイニングにいろ」
「……ああ」
ルシファーが軽々とひっくり返しているのは数センチは厚さがあろうふわふわのパンケーキだ。久々に見るそれに、じわじわと期待が溢れてくる。あれなら、もしかするともしかするかもしれない。
「さあチャーリー! ヴァギー! あとついでにアダム。パンケーキだよ」
「まあ! ありがとうパパ!」
「ありがとうございます」
コトリと音を立てて目の前に置かれたパンケーキは、見た目で言えば天国で食べていたものと相違ないように思えた。お礼を言わないアダムに不満げなルシファーをよそに、アダムは大きくひと口を切り分けると恐る恐る口に運ぶ。瞬間、驚きに打ち震え、思わず口に手をやる。
シロップの染みた生地にバターの香り。添えられたホイップの甘さも、何もかも、アダムが夢にまで見た「まとも」な食事だった。
「……アダム? どうした?」
「あー、地獄の食事が口に合わないって騒いでたけど……」
「顔をみるに、口にあったのね!」
ルシファーは地獄の王だが元天使だ。その味覚が天国に寄っていてもおかしくはないだろう。
「そうなのか?」
顔をのぞき込むルシファーに何を言う余裕もなくて、必死に頷く。ああ、涙が出てきた。
「なっ……!」
「そんなに……?」
「良かったわね!」
ひと口ひと口噛み締めるように咀嚼するのを、ルシファーは奇妙そうな顔で見つめていた。そして少し口角をあげる。いくらアダムといえども、自分の料理が喜ばれるのは悪くない気分だった。
「ねえパパ、私ひらめいたわ」
「何かな?」
「食事を通して信頼を育むの! 一緒に食事を作ったり食べたりして、パパとアダムが仲良くなれたら素敵じゃない?」
まさに名案、とばかりに瞳を輝かせるチャーリーに、ルシファーは頷く以外の選択肢を持ち合わせていなかった。
*
それからというもの、アダムの食事は「食えたものじゃない」から「そこそこ美味しい」にまで改善されていた。食材は依然として地獄のものだが、調理や味付けによって完璧とはいかずとも、アダムにも美味しいと思えるものに仕上がっている。シェフはもちろんルシファーだ。
「美味い!」
「そうか」
「次はリブが食いたい」
「考えておくよ。ああ、それから冷蔵庫にタルトを冷やしてあるから、あとで──」
「今食う」
ダイニングを飛び出すアダムに、思わずルシファーも笑みがこぼれる。地獄に堕ちて尚無邪気で天使らしさを失わない姿に、若干救われていないこともなかった。それだけでなく、毎日の献立を考えたり調理したり、それに伴って毎食きちんと食事をとることがルシファーの鬱にかなり効いていた。罪のもとであるアダムにそこそこ懐かれ始めていて、関係が良好になってきたことも一因だろう。
しばらく経つと、手料理期がきたアダムと一緒にキッチンに立つことも多くなった。最初こそ食材の下処理なんかにぎゃあぎゃあと騒いでいたアダムも、すっかり慣れたものでルシファーとの連携も取れてきたし、ルシファーもアダムの味の好みを覚えて寄せてやるようになっていた。つまり、チャーリーのアイデアは大成功を収めたわけだ。
*
「おやつを作ったんだが食うか?」
アダムの部屋を訪ねると、アダムはベッドに腰掛けて本を読んでいた。アダムはルシファーの声に反射的に目線をあげると、皿に乗ったトリュフチョコレートに目を奪われる。が、読んでいる本がいいところで、手を休めたくない。ココアパウダーのついた手で本は捲れないので、ぱかりと口をルシファーの方へ向けると、ルシファーはわかりやすく動揺した。
アダムは天国でも相当に甘やかされていたため、食べ物を食べさせてもらうことなど日常茶飯事で、ルシファーにそれを求めることは自然なことだった。しかしルシファーはそういった行為に慣れているわけでもなく、アダムがそこまで自分に気を許しているのかという衝撃も相まって固まってしまう。
「ルシファー? 早くしろよ」