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    使わなくなった遺書です。

     前略 お世話になった皆様へ。
     私、加藤美穂は令和4年6月1日をもって自分を殺すことを決めました。5月10日、病院にて診断書をもらった日に覚悟を決め、この3週間の休みの間お世話になった方へのあいさつをしようと思いました。家族をはじめ、小中高で出会った友人に挨拶をして回りました。死ぬということについては話してはいませんでしたが、どれも私の中で素敵な思い出になりました。この場にて感謝いたします。ありがとうございました。
     自分を殺める理由と致しまして、まず第一に家族との不仲が原因です。
     おそらく、母は母なりに私を愛してくれたのでしょうが、私にはそれが苦痛でしかなく、母に束縛されているような気持になりました。中学2年から発症した鬱を黙っていたのはそのためです。母は精神疾患についてあまり理解がありませんでした。そんな母に相談することもできず、私はストレスで胃に穴が開きました。その当時の私にはそんな知識もなく、ただお腹を下してるだけかと思いましたが、日中は立っているのも無理で、座ってもいられず、毎日保健室のお世話になっておりました。当時の保険医の方に「何時間寝ているの」「ご飯は食べてるか」を聞かれましたが、その当時不眠症も患っており、2時間睡眠で、胃痛が収まらないこと、食事をとると吐き戻すこと、お腹を下すことがあり、ジュースやお茶、スープなど固形物を避けて摂取していました。そのことを素直に保険医に話したところ心配してくださったのを覚えています。
     ですが、度々学校を早退する私に母は「ずる休みするのもいい加減にしろ」と言いました。私は何度も無理に学校へ行きましたが、激しい胃痛に道路でうずくまることも何度かありました。そんな私をみかねた母が、漸く病院に連れて行ってくれたと思えば、案内された場所は産婦人科でした。母には、私が見知らぬ男に種付けされたと疑われました。検査の結果はもちろん子宮に異常など無く、至って健康、と言われた記憶があります。そのため、母は「もうこれでずる休みなんてできないから」と言っていたのを覚えています。もう無理だなと思い、激しい胃痛は我慢しました。今でも胃は弱いです。自力で治癒したためか、癖がついたのかはわかりませんが、ストレスがかかるとすぐに胃に負担がかかります。そのため胃薬を手放すことができなくなりました。当時、元々肥満多型ではありましたがそんな食生活と吐き戻す癖がついてしまい、7日で7キロほど痩せることができました。
     私は昔から魚アレルギーでもありました。母もそれはわかっていたはずです。
     食べると湿疹が出るものから、喉がかゆくなるだけというのもありました。魚の品種によって症状も違いましたが、それは当人の私にしか分からないことでした。ですが母はそれを食わず嫌いだと言いました。「私の出した料理が食べられないのか」と言い、私の前にほっけか、スズキか忘れましたが、白身魚を提供してきました。嫌だというと面倒なことになるので、食べました。そのあとすぐに喉の痒み発症し、とれず、熱湯でつくったスープを飲み込んでごまかしていました。その当時、熱湯を飲み込んで食道や喉を焼くのが好きでしたが、今思えばただの自傷でした。それが心地よいと感じていました。
     
     数えればきりがありませんが、母に対して恐怖や、畏怖など、そういった類の感情を抱いているのは間違いありませんでした。その気持ちは幼少期から抱いていた自覚はあります。
     母は、私にとっては実の父にあたる人間の事が嫌いでした。記憶している限り、父は喫煙者であり多少パチンコを嗜んでいる人物だったと記憶しています。無職でもあり、母が嫌悪する理由も分かりました。ですが幼い頃の私は両親が好きでした。だから父に懐いていましたが、今思えば父に虐待をされていました。気に食わないことがあれば頬を叩かれ、寝起きが悪いため起こしてしまうとまた叩かれました。幼い頃の私はそれも良く分からずに教育だと勘違いしていました。幼い頃病気がちだった私が点滴の痛みを克服したのも「パパに殴られるより痛くないから」と看護師に言ってしまった記憶があります。私はそれが普通だと思っていて、なんの違和感も覚えることはありませんでした。

     理由は忘れましたが、父と母が喧嘩をして、その声が聞きたくなくて布団に引きこもり気付いたら寝てしまっていて。朝起きると玄関にガラス片が散らばっていたこともありました。私と兄はそれについては触れず、母に行ってきますと言いランドセルを背負いました。学校から帰ると玄関はいつも通りでした。
     母はいつの間にか父と離婚していました。そんな母の口癖は「父親のようになるな」でしたが、父からも「母親の様になるなよ」と言われてきました。二人の遺伝子を引き継いでるというのに、そうなるなと言われても難しいものがありました。どちらにも似るなと言われましたが、両親の背中を見て育つのが幼い子供だと私は考えています。ですが、両親にはそんな考え毛頭なかったようです。
     離婚した後、父とは母に秘密で会っていました。虐待されてたとはいえ、私はその時まで父が好きでした。なぜかは分かりません。殴られたら怖いなと思いながら父と会っていた事だけ覚えています。ですが、私は馬鹿なので父と秘密で会っていたことが母にばれました。その時、初めて見る母の激高した顔が恐ろしく、あまり記憶に残っていません。「父親が好きならそっちにいけ、養ってもらえ。金も無いからお前は学校にさえ通えなくなるがそれでも良いんだろう。お前は私の子供ではない」「お前は父親に似ている」と罵詈雑言の嵐だったことだけは覚えています。その記憶が恐ろしく、あまり覚えていません。が、その事実をもとに見た夢は今でも思い出します。母に怒られることがトラウマになり、母に殺される夢を見ました。それから暫く母の顔を見ることが出来ませんでした。母の顔を見ると恐ろしく、恐怖を抱き、震えが止まらなくなるからです。母は私を叱るときに「父親に似ている」とよく言うようになりました。父親の血が半分受け継がれているので、無理なしかり方をするなと思いましたが、離婚した父親に似ているなんて母は私の事が嫌いなんだと思いました。なにかとつけて言われるその言葉に、それはどんどん確信に変わっていきました。

     そんな母は、彼氏を何回もとっかえひっかえしていました。
     私が男性を嫌いになった理由はそれにあります。当時母と付き合っていた男は、母にしか興味がありませんでした。恐らく私の事が本当に邪魔だったんだと思います。大曲の花火へ一緒に行ったとき彼は酷く酔っ払っていて母の顔立ちによく似ている私を母だと思い、膝枕をしてほしいと強要し、足を触ってきました。やめてくれと距離を取り、私は母ではないというと驚いた顔をして離れていきましたが、そのころから男性が恐ろしいものだと思えました。意味が分からない嫌悪です。
     夜、母とその男が居間で情交に及んでいました。私は当時性知識がなかったので、母と男が裸で抱き合っているだけだと思っておりましたが、それを実の父と兄に話すと気まずそうな顔をしていたのを覚えていますし、そのころからセックスに対して良い思い出が無いのは事実です。

     まとめると、最悪な家庭環境でした。
     ですが、その環境でも兄は良い学校に行き、就職先も良い会社に勤めています。だからこそ、私だけどうしてこんなクソみたいなことになっているのかが理解できませんでした。

     鬱を発症した中学生のころ、母は新しい男をみつけ、その男と交際し妊娠しました。一人目は流れ、どうしてかまた懐妊し私が14歳の時に出産しました。義父は頭が良い人間のことを慕っており、頭の悪い人間を嫌いました。兄を好み、私を嫌悪していたのはそれだろうなと思います。義父は「私の娘に触るな」といいました。そう言われたことを私は今でも律儀に守り、妹をむやみやたらに可愛がったりすることはありませんでした。かわいいと思う事も無く、そんな私と違って兄は妹をかわいがりました。こういうところが兄と私の違いなんだろうと思います。
     そんな義父ともうまくいかず、母は義父にそそのかされ私へ罵詈雑言をむけてきました。お前のためをおもっているだとか、お前には期待していないとか様々な事を言われた挙句に「美穂の事を考えて言っている」の1点張りでした。私にはそれが理解できませんでした。なにより、妹が生まれても義父とは結婚をしていませんでした。漸く籍を入れたのは令和に入ってから記憶しています。
     
     高校や専門を選ぶ際にも私の選択権は無く、行きたい場所があるなら言えと言われ、私は心理学を学びたいと言いました。ですが、母と義父は反対し、お前にそんなことが出来るわけない、途中で投げ出すと言い聞く耳をもってはくれませんでした。心理学を学んだあとの就職はどうするんだと叱られ、学ぶことを許されはしませんでした。その際私はメンタルがボロボロになり、階段から落ちて足を捻挫しました。
     
     就職を決めたのも義父でした。北海道のきのとやに就職したいという私に北海道は住むところじゃないといい、まずいいからどこにでも就職しろと大企業に勤めろと言ってきかず、自由な就職場を選ぶことは出来ませんでした。母の言うとおり、提示された場所にエントリーシートを送り、大学卒でも無い私は選考から落とされ書類審査さえもたどり着かないことが多く、行けたとしても大学生向けの筆記試験で知識不足で落ちるのが関の山でした。
     高校も母に言われた通り調理に関する高校に行きました。自分は自頭が良くなかったので偏差値も低い学校に行きました。後に聞くと、私をシャトレーゼに入社させたのは「どうせやめるから、最初は大企業に就職したほうが再就職しやすいから」だそうです。私は、どうせやめるから、という偏見で北海道に行く夢を諦めさせられ、行きたくも無い会社に就職しました。

     自頭が悪いというのも、家庭環境のせいだと責任を押し付けることを許してください。
     アトピー性の鼻炎を放置され、小学生のころから蓄膿症を患っていましたが母はそれについて病院に連れて行ってくれるなどはしてくれませんでした。そのため常に酸欠で口呼吸しかできませんでしたし、鼻水がずっと鼻に溜まっていて頭が回りませんでした。勉強をすることなど到底無理でした。
     なにより、家で勉強をしていると母に怒られていました。怒られるか、「美穂はかわいいから勉強しなくてもいいよ」と妨害してきました。母はおそらく覚えていないでしょうが、勉強をしているとそのやり方にけちをつけてひとつひとつ小言を言ってきました。だから、私は誰かの前で何かをすることが恐ろしくなりました。誰かに何かを言われることが、恐ろしく、誰かに見られれているとき手や思考が止まってしまいます。冷汗がでて、普段ならできることもできなくなります。簡単な足し算なんかも「もし間違えたら怒られる」とそればかりが脳内を占めてほかの事が考えられなくなります。だから私は接客業が出来ません。人に見られていると緊張しますし、人の目が怖いから。レジのバイトを一度だけしたことがありましたが、手が震え、お金の勘定もうまくできずにお店側に迷惑だと思いすぐに辞めました。

     思ったことがあるとしたら、このようなトラウマや面倒な身体的障害をずっと私は引きずっていかなければならないのかということです。
     喘息もアレルギー、アトピーも、親からの遺伝です。遺伝してから親よりもひどくなってしまったのは事実です。このような遺伝子が私には必要ないと考えました。それに、私は同性愛者でもあります。子供など残す気もありません。親に酒を飲んだ勢いで話した時は「いつか治るよ」と言われました。この人には一生理解されないんだなと実感しました。もともと子供は嫌いですし、母しか見てこなかったので私子育てをできるとは考えていません。なので、それに関して後悔はしていませんし法律を抜きにして今結婚を考えている女性もおりません。

     また、母は私を完璧に育てたつもりでしょうし、以前「決められたことをやってるだけだと」伝えたら金を出してるのはこっちだ、親のせいにするなといわれたことを覚えています。母は自分の中で自分を正当化しているようにも思えました。恐らく事実でしょう。お金を出してくれたのは母なので、その面には感謝しています。ただ、私が望んだ結果では無い事だけはご理解ください。
     母は、子供は何も言わなくても年齢を重ねるにつれ大人になると勘違いしている節がありました。それは違って、私がここまで倫理的論理的に物事を考えられることが出来たのは今まで出会ってきた友人たちによるものです。妹はそんな人間に出会える可能性が引くと考えると、きっと母と義父に似た傲慢な女性になることかと思います。
     第二に、仕事についてです。先に述べました通り、親が提示した企業にいやいや就職しました。だからこそやりがいも、頑張ろうといった気持ちもありません。ですから、予想以上に重労働で過酷で、パワハラとセクハラが横行しているような職場が私には厳しいものがありました。お菓子もまともに作れない会社に就職し、お菓子を物質としかおもっておらずに床に散らばったまま放置されてたりまともにお菓子を作れる人間がいない会社で「高品質なお菓子をつくろう」と宣っている弊社に違和感を覚えていました。この一年間ずっと。自分の部署でもお菓子を作れる資格を持った人間が同期3人と先輩1人で、私含めて5人で全国のYATHUDOKI22~24店のムースケーキの仕込みをしてきました。限界に近いです。同期ともそりが合わずに、残業や重労働が多いため同期同士の責任の押し付け合いと「やりたくないから」と仕事の押し付け合いが横行していました。
     そのわがままに耐えかねて、私は仕事を都度休んでしまいましたが、その際にも次の日出社すると無視やあからさまな態度を取られたり。上司からも嫌な顔をされたり裏で陰口をいわれたり、とてもじゃありませんが過ごしやすい職場とは言えませんでした。みんながみんな、自己中心的で自己満足の為に生きて、高いお給料の為に品質も最悪なケーキを生み出していました。品質が最悪で味も良くないケーキに時間をかけて作ることも、こだわりを持つという訳の分からない行動は私を苦しめました。美味しくもないケーキの為に4時起きをして、6時に出勤し21時に帰るという愚行が私には耐えかねました。それも1か月程度の事でしたが、クリスマスとお正月にかけて責任の押し付け合いと仕事の押し付け合いが重なり、精神的にガタが来ました。誰のせいで仕事が増えたとか、誰のせいでミスをしたとか、そんな話題ばかりで解決策を見出そうとはしませんし、それはそれで私もこんな会社のために時間を割くことが嫌でした。だからこそ仕事のためにしか時間がさけないこの日常が嫌でした。
     
     そんな私ですが、この22歳になるまで一生懸命に生きてきました。鬱を身内に告白する訳でも無く、病院で治療する訳でも無く。その中でも救ってくれたのは友達でした。友達に現在の話をして救われた場面が20年の中で様々ありました。だからこそ、最期まで知人に支えられてきたと思っています。
     じゃあどうして死に至るのかと言うと、その支えも限界に達したからに他なりません。地の底についてしまえば支えの意味など成すわけも無く、私は限界を迎えました。
     だからこそ、医者に診断書を書いてほしいと頼みました。今の世界でいうところ、私は社会不適合者なのだと思います。医者に鬱だね、と言われた時も何の驚きもありませんでした。
     親不孝者だと思われることだと思います。幼い頃から今の今まで、母は私に「金ばかりかかる娘だ」と罵られてきたので気持ちは痛いほどわかります。中学生になり制服を買っていただいた事も女子の制服は金がかかるなと言われましたし、高校は調理専門学校だったので制服代、指定の靴代、教科書、名前入りの包丁など準備するものはたくさんありました。兄よりも金がかかる学校だなと文句を言われたのを今でも覚えています。最後に、製菓の専門学校でも専用のコックコートや靴、教科書、製菓道具一式、安くはない学費を払って下さりありがとうございます。金の事は気にするなとおっしゃってくれたのに、私を罵倒する際にいつも「金ばかりかかる女」と言われたことは、きっと忘れないかと思います。バイトさえも許してくれず、私の事だから夜の仕事をするだろうと信じて疑わずに毎日の様に電話をして私が変な事をしていないかを確認し、学校にさえ電話をかけてくる過干渉ぶりに、脱帽せざるを得ませんでした。母からしてみたら、自分の仕事を継いでくれる立派な娘を育てたつもりでしょうが、私はそんな親孝行をするほど、母に感謝していません。お陰様で子供のころからずっとぼろぼろのままです。最後くらい自分勝手な我儘を押し付けても良いかと思いました。
     母にとって、0歳のころから22歳まで課金してきた娘が突然保険も利かない自殺に手を出したのですから、驚くことかと思います。もしくは、私が精神疾患を患っていると知った際にはそれにも適応する保険に入るかもしれません。どこまで母や義父が策士なのかは今の私には見当する余地もありません。それほどの憎しみを、ここ数十年で重ねてきたことを自覚してください。母が実母に抱いている憎しみや後悔といった、同じような事を、私も母に抱いています。毒親に育てられた子供は毒親なのだと、ご理解した上で今育てている妹はしっかりとした人間になるように善処していただけたらと思います。これ以上かわいそうな人間を生み出すことは、やめてください。

     上記に記載した出来事すべてが健常者から見れば些細な事かもしれませんが、当事者の私にとってとても耐えられるものではありませんでした。だからこそ、私は自分で自分を殺すことにしました。
     自殺の原因としては、毒親の過干渉、言葉での虐待、アダルトチルドレンや鬱になってしまった自分の後始末をするためです。もう生き抜く意味も意義も無く、そんな疲弊したまま会社に忠誠を誓う必要も無いと感じたため、人生を終わらせようかと考えました。
     最期に、どうか先立つ不孝をお許しください。22年間とわたしにとっては長い間、大変お世話になりました。         草々

     令和4年 5月30日   加藤 美穂







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    MOURNING使わなくなった遺書です。
     前略 お世話になった皆様へ。
     私、加藤美穂は令和4年6月1日をもって自分を殺すことを決めました。5月10日、病院にて診断書をもらった日に覚悟を決め、この3週間の休みの間お世話になった方へのあいさつをしようと思いました。家族をはじめ、小中高で出会った友人に挨拶をして回りました。死ぬということについては話してはいませんでしたが、どれも私の中で素敵な思い出になりました。この場にて感謝いたします。ありがとうございました。
     自分を殺める理由と致しまして、まず第一に家族との不仲が原因です。
     おそらく、母は母なりに私を愛してくれたのでしょうが、私にはそれが苦痛でしかなく、母に束縛されているような気持になりました。中学2年から発症した鬱を黙っていたのはそのためです。母は精神疾患についてあまり理解がありませんでした。そんな母に相談することもできず、私はストレスで胃に穴が開きました。その当時の私にはそんな知識もなく、ただお腹を下してるだけかと思いましたが、日中は立っているのも無理で、座ってもいられず、毎日保健室のお世話になっておりました。当時の保険医の方に「何時間寝ているの」「ご飯は食べてるか」を聞かれましたが、その当時不眠症も患っており、2時間睡眠で、胃痛が収まらないこと、食事をとると吐き戻すこと、お腹を下すことがあり、ジュースやお茶、スープなど固形物を避けて摂取していました。そのことを素直に保険医に話したところ心配してくださったのを覚えています。
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