露呈 源博雅はひとりである。朱雀門からの帰り道、自分の屋敷に帰るため徒歩で夜の闇に身を浸していた。
(うん、今宵も良い時間を過ごした。月が綺麗で、風も穏やかで。笛の音が深く響いたなあ。あの御方の笛の音も深く響いたから、楽しめたやろか。)
つい先程までの時間を思い出しては息を吐いた。幸せだったと陶酔した気持ちが乗せられた息は春色である。
神泉苑の前を通り抜け、二条大路をまっすぐ歩いている。ここら一帯は貴族たちの住まい──今で言うところの高級住宅街──が多くあれど、この時間帯のひとり歩きはあまりにも無謀である。
いつもの事であれど、心配性の家人が見たら諌めるどころか胃に穴を開けそうである。
この時代、身分の高さと治安の良さは直結しないのだ。
(どないしょ、どこかで曲がろうかな。)
だというのに、この男はのんびりと笛を手の中で遊ばせながら帰り道にも曲を吹こうかな。そのために帰路を延ばそうと寄り道をしようとしている。
おそらく、曲の長さによってはこの平安京を練り歩くことになる。
(あ、曲作りたいよなあ。)
唐突の思いつきである。手の中で遊ばせていた笛を丁寧に持ち直し、まじまじと笛を観察する。元々、自分が持ち主ではないが色々とあって所持している葉双が月明かりに照らされる。
今おのれが認識している世界の中で一等きれいな物だと思う。そして、この笛が生み出す音も。
「あんな、葉双は速い曲もいけるんやろか。」
答えは帰ってこない。勿論、葉双は声帯など無い笛なのだから。しかし、博雅は軽く目を瞑っていつものように口を添えた。
(──試してみたいよなあ。いっそ、管弦だけで舞の無い曲とか。葉双に限らずもっと音の重なりとか……)
慣れないことをしたと思う。いつもは音に寄り添い、心を笛に溶かして吹き続けるのだ。
しかし今度は頭の中でしっかりと自己を固定し続け、譜を生み出そうともがき続けた。
おかげさまで、頭の中の譜は未完成のままなのに息切れで頭の中が暗くなり、くらりと目眩を起こしたので強制的に笛を吹き終わることになった。
「うーん、これは宿題やわ。」
これ以上難しいことは考えずにゆるゆる行こか。そう思い直して吹き慣れた譜を頭の中に並べた。博雅は当初の寄り道を諦めていない。
東京極大路にさしかかっていよいよ気の向くままに曲がって寄り道してしまおうと曲がり角で方向転換をしようとした時だった。
背後から悲鳴が聞こえた。
すぐに振り向く。静かな夜に声の名残りが反響していた。一本か二本、路を挟んだ先だろうか。そこは西洞院大路──たぶん、東三条殿──辺りか。
哀れな悲鳴に駆け寄りたい気持ちを何とか抑える。
こんな夜更けに自分ひとりが行ったところで何も解決には繋げられない。そもそも、悲鳴の出処には自信が無い。
楽を堪能する聴覚は特別なものではない。楽を聴くのと、今必要であろう物ごとを、緊急性のある聞き分けは違う技能である。まぁそれ以上に──
「噂に聞いてんはこれやろか。」
博雅は噂、忠言とも言える言葉を思い出していた。──聞こえる悲鳴には応えてはいけない、と。
「悲鳴?」
「はい。その場に人がいようと、いまいと。最近、夜中に悲鳴が聞こえるようです。あぁいえ、悲鳴だけ、と言いましょうか。」
博雅が最初に噂を聞いたのは安倍晴明、友の屋敷でほろほろと酒を飲んでいたことである。
夜更けにひとりで徒歩で都に出る博雅への説教混じりに繰り出されたひとつの雑談のこと。
耳が痛いとばかりに眉を下げていた博雅は疑問とともに眉を上げた。
「でも晴やん、そないなこと、聞いたことないで。当事者になる土壌あんのに。」
「実際に博雅様が遭遇した訳では無いにせよ、都で何かが起きているのでしょう。こちらとしては依頼も実害も出ていないので出しゃばりませんが。」
案外、友垣の反応は他人事であった。
しかしまぁ、珍しいこともあるのだの博雅は目を丸くした。晴明が視線ひとつで「なんですか」と問うた。
いやなあ、とのんびりした口調で博雅は応える。
「晴やんが噂を噂として扱ってるの、初めて見た思てな」
「……そうですか?」
「うん」
少なくとも、博雅にとって晴明という陰陽師は不確定要素を不確定、不安定のまま扱うことはあまりない人間である。
そんな晴明が「これは噂なのですが」という前置きと共に話したことがどれほど驚いたことか。
「まぁ、噂の変質は面倒ですからね。あまり触れようとは思いません。」
「そうそれ、だいぶ前に言ってた『名付けという呪』とかなんとかやん。」
「なんとかって何ですか。」
「一言一句間違えずに言うんは無理やて」
酒の隙間に二人のやり取りが続いていく。テンポよく敷き詰められたり、突如途切れては二人の間に風が通り抜けていく。
しかし、二人共に気まずいとは思わなかったし思い出したように話の続きが差し込まれても自然体のままである。
「うん、この時間、大切やもんなあ……」
「どうしましたか、いきなり。」
博雅の朗らかな声に固まった声が返される。時たまにあるのだ。
思うまま、友と過ごす喜びを声にすれば晴明は眩しそうに博雅を見る。時々、理解のできない生き物を見るように腰が引けてもいるが。
「や、晴やんは俺のことを心配してこの事を教えてくれたんやろ?安心してもらいたいよなあって。」
「は、──まぁ〜、博雅様になにか起きては大事になりますからね。」
「アラ、今日は立ち直しはやいんやね。」
「おかわりは無しということで宜しいですね?」
「あぁあぁ堪忍して」
思わず零れた言葉に目を細めた晴明が二人の間に置かれていた瓶子を掴んで自分の後ろに隠した。酒の没収は大変に、大変に心苦しくなるので博雅はひゃあと悲鳴をあげた。
さして怒っている訳では無い晴明はハイハイと呆れた様子で隠していた瓶子を二人の間に置き戻した。
「もう怒っとらんの?」
「博雅様が持ってきた酒なのですから、怒るのはそちらでもおかしくは無いでしょうに。」
「そうなん?晴やんと飲む為に持ってきたやつやし、半分は晴やんが権利あるやろ」
ため息をついた晴明に博雅はごめんなさいとありがとうを共に告げると嫌そうな表情になってしまったが。
「良いですか、博雅様。ひとりで夜に歩くなとは常々言っていますがやりますでしょう」
「うん」
「素直だなぁ……!んん、ひとまず、しばらく夜の都で悲鳴が聞こえてきてもそちらの方へ行ってはなりませんよ。」
「そちらへ行かんだけでええの?」
「そうですねぇ……では、応えてはいけませんよ。助けに行っても、見物に行っても、勿論声だけで相手の無事を聞くのも。」
「ん、覚えとく。」
博雅はとにかく素直に頷いた。こういうことは晴明の言葉が大概正しいので。
晴明としてはそのような博雅の考えは知らないので「返事だけはちゃんとしてるけど表情が真面目じゃないんだよなあ」とふやけた笑顔の博雅を見て眉間に少し皺を寄せるだけであった。
──それが、大体一週間前のこと。博雅は確かに覚えていたし晴明からの言葉を守っていた。
だが、既に悲鳴は怒号に変質していた。つまり、噂は、元となった異変は変容をしていたのだ。
(あぁ……こら怒られるわぁ)
最初に悲鳴が聞こえた位置はもっと遠かったはずだ。冷や汗が背中に入り一気に身体を冷やしていく。
ただ、それ以上に身体を冷やすのは──悲鳴が、すぐ後ろから聞こえてくるから。
だから、博雅は晴明の言葉を──暗転。
渓流の中で生きている魚たちを見ている時の透明感だった。
どこか鮮明で、しかしぼやけている。そんな視界で博雅は佇んでいた。
ようやく意識が浮上した、という自覚もなくぼんやりと空を仰ぎみていれば視界の隅になにごとか異変が起きていた。白い衣月明かりを反射して見える。誰かがこちらに走って向かってきている。
その人物がすぐ近くにやってきて誰かの名前を呼んでいる。
「博雅様、博雅様!」
あぁ、そんなに必死になって呼ぶということは何かしら緊急のものだろう。大変だ、相手が無事なら良いけど。
どこか宙に浮いた意識でなんとなしに相手の無事を願う。自分が呼ばれていると思い当たらずただぼんやりと佇んでいる博雅に晴明はぐしゃり、と表情を歪ませた。
「……良いですか博雅様。そのまま持っていかれては帰って来れませんよ。こっちを、私を見て。」
依然として、博雅の意識はどこかぼやけている。
温かい泥に沈んでいる気持ちだ。気付けばおのれの腕を取られ、顔をつき合せる。
「私を、」
「博雅様」
顔が近いなあと思うが思考はそこで止まってしまう。先程から思考が長く続かない気がして何故か悲しくなった。
目の前の人物の警戒するような険しい瞳にのぞき込まれ、抵抗のしようもなく視線が交わった。
まるで自分の心の底まで見られるような感覚さえした。本来多少の悪寒を感じるべきだがそれは困らない、嫌ではないと思える自分が不思議だった。
「っ……博雅様、失礼しますよ!」
次の瞬間、瞳が離れたと思いきや背中を何度か叩かれる。何かを追い立てるように、何かを叩き起こすように。
実際、それは博雅を文字通り、叩き起した。
先程まで沈んでいた温かな泥のような無意識の領域から引っ張りだされたのだ。視界が一気に広がり、夜風にあたる肌の感覚が涼しく、気持ちが良い。
ずっとぼやけていた意識に一閃の光が、迸った感覚がした。ハッと息を飲み込めば頭に酸素が行き渡り、ようやく真っ当に思考がまわり始めた。
「俺、なにを……?」
「起きましたね、博雅様。」
本当に安心したようで、強ばっていた表情が花開くように穏やかになる。晴明は叩いていた背中を案ずるように撫でている。
「晴やん?……ありがとお」
「意識がまだしっかりしていないのに、律儀ですねぇ。」
緩やかになっていた眉は下げられ博雅を見ている。そんなことはしなくてもいいのにと表情が物語っていた。
随分と心配をかけてしまったのだろう。感覚でしかものを言えないがもう大丈夫だと伝えたい。
先程まで叩かれていた背中がようやく痛みを訴える。ジンジンと広がっていく痛覚にあいててと声が出た。
「ああ、強くしすぎましたね。大丈夫ですか?」
「多分いけるやろ、これくらいは。ほっといたら治るやろうし」
「呑気すぎませんか。もう少し危機感をお持ちなさい」
「んえー」
まだ少しくらくらと頭が揺れるがもう大丈夫だとはっきり言える。しかし晴明としてはまだ駄目な範囲らしい。
先程までと同じように指先を揃えて博雅の背中に手を添える。
「まだやる事がありますから。もう少し、痛くしますよ。」
「晴やんの乱暴ものお!」
いつものように笑ってみるが流石にちょっと駄目だったらしい。単純にお叱り言葉を受けることになった。
「ふざけてる場合ですか!あぁもう乱暴者で良いですから失礼しますよ!」
「ひっ、やめ──」
嫌な予感しかせず思わず生娘のような悲鳴が出た。
肩を掴まれ、口の中に晴明の手が差し込まれる。嗚咽感に異物を追い出そうとする身体の反射で彼の手を噛みそうになって、と、博雅の脳内が忙しなく混乱していた。
「すこぉし、少しだけお辛くなりますよ。」
晴明の言葉に少しだけ思考が整理された。案外筋力があるようで掴まれた肩も、口の中に差し込まれている手からも逃げられそうに無い。
かつて、晴明が陰陽師は体力勝負、脳筋みたいなところがある、とボヤいていたのを思い出したがこれは現実逃避である。
強制的に口を開けたままであるからして、口からは涎も垂れてきたし顎も疲れた。しかし晴明の手のひらが、指がそれ以上の現実逃避を許さなかった。
口の中を、主に上顎に文字を描くように──博雅がそれを知らないだけで実際に文字ではある──指を動かすのだ。逃避なんぞ出来ない。
「動かないでくださいね。なんとかしますから。」
じんわりと上顎をなぞる指先が熱くなっていく。舌の上に移動してきた瞬間、えもいえない感覚に背筋が震えた。
博雅の意思とは関係なく身体が晴明から逃げようとしたせいか、肩を掴んでいたものは博雅を抱え込むように変化している。
動きがあったのはいよいよ疲れから閉じかけたせいで晴明の手首あたりに歯が落ち着いた頃だった。
何事か、晴明が真言を唱え始めたのだ。博雅の口の中の指先は変わらず熱い温度で文字を描き続けている。
(あぁ、気持ち悪い──え?)
博雅は自分の意思をつい疑ってしまった。特に考えてもなかった嫌悪の感情に戸惑うしかなかったのだ。
気持ち悪いの論点が嘔吐感にあるのなら分かるが、いまの自分は安倍晴明に対する嫌悪感を持っていたのだ。それはおかしい。
この状況にいよいよ気が参ってしまったのだろうか。すこし、それなら否定もしにくいが、と自身の頭を心配した所で鋭い視線と交わった。抜き身の刃の如く、鋭いものだった。
陰陽師が見ている。こちらを、ここを見ている。気持ち悪い気持ち悪い!逃げなければ、この身体から!?嫌だ、この身体は──はて、先程から自分は一体なにを考えているのだ。博雅はいよいよ自分の頭が心配になった。
「──違う。ややこしいけど、こちらか。」
晴明の呟きが聞こえて、再び、否、博雅は分からないが別物の真言が唱えられる。
口の中の指の動きもまた違うものとなる。それが激しく、爪をたてるようなものだったので流石に博雅も苦悶の声を上げた。がり、と口内が抉れるような痛みがはしる。
「っあ、ぅ」
突然の事だった。これはまずいと必死に博雅は晴明の腕の中から逃げ出した。もう捕らえておく必要が無かったのか晴明は博雅を逃がした。
助かった、と博雅は地面に転がり込むように逃げ出す。これ以上は本当に我慢が効かないのだ。
「はっ、あ、ハッ」
「博雅様、吐けますね。」
すぐ近くに晴明の気配がする。恐らく近づいてしゃがみこんでいるのだろう。
激しい吐き気が、博雅の喉もとに込み上げてきた。喉が焼き切れそうなほどの熱さを持った何かが出てくる。
酒焼けだとか、吐瀉物だとか、そんなものとは比べ物にならないそれに呻き声すら出なかった。
「もう終わりますから。」
晴明の声は最早届いていなかったがそれで良かった。首元に添えられた手のひらが人の体温だったから。それだけで良かった。
──その体温が真言が力が気持ち悪くて気持ち悪くて折角折角折角、入り込んだのに出ていくしか無かった。あぁ悔しやくちおしや。おのれ陰陽師。おのれ、おのれ──
ゴエッ、ガエッと蛙の鳴き声かと思ったら博雅の喉から出てきていた。しかし次の瞬間異物音がひねり出されて喉が開いた瞬間と同時に酸っぱい匂いが漂う。
がしゃん、とそれなりの質量がある物体が地面に落ちる音がした。これただの嘔吐反射ではまずないだろう。
「ははあ、なるほど。悪趣味ですね。」
晴明の呆れた声が静かな夜に響く。
博雅に時たまに向けられる呆れとは違う、ひどく冷たいもの。
ぼんやりとした頭では博雅は言葉の意味は理解出来ないし袖で目元を隠されてしまえば吐き出したものが何かを確認できなかった。視界が晴明の衣の色で、真っ白で、霞んできた。
肩で息をしていたが落ち着いてきて口からはただの胃液ではなく血が混じった胃液であることに気づいた。
(あぁ、ぜったい、めっちゃおこられるやん──)
安倍晴明は、源博雅の怪我をひどく嫌うから。友に落ち着いて欲しいが宥める言葉は口から出てくれない。しまったな、と悩むがその思考するも続かない。
酷く疲れた身体と同じく博雅の意識は崩れ落ちた。
「博雅様!」
博雅が地面に強かに身体を打ち付けなかったのは晴明が受け止めたおかげだろう。博雅が吐き出したものから博雅に目線を移し、彼の状態を視る。
少々内臓が傷んでいるがそれは無理やり入り込んだモノを吐き出させたせいだ。
薬湯を飲ませてしばらく粥だけ食わせていればじきに治るであろう。なんだったら晴明の力を少し使うだけで治りを早くするのは可能だ。
しかし、
「博雅様に血を流させましたね。あなた。」
これは、たいへん、許されざる者だ。
意識のない博雅をゆっくりとこれ以上傷つかぬように地面に置いて晴明は立ち上がる。月明かりが差し込み、辺り一面を照らす。
博雅の血液混じりの胃液が道標のように転々と続いている。なぜなら吐き出されたモノが動き、逃げようとしているから。
「あら、どちらに行くのですか。」
これ以上逃げる姿を見るのは腹立たしいので動きを止めることにした。術も使わず、その脚で踏み止めるという乱雑なものになったが──まぁ、恐怖を多少与えられるのなら良いか。
月明かりが反射するのは骨である。人骨、しかも頭蓋だ。下顎が無いとはいえ博雅の喉から捻り出すのは負担がある大きさである。
脚に少々力を込めすぎたのか、みしりと嫌な音を立てて崩れそうになっている。ただの骨ではないのに弱いものだ。
「腹立たしい──」
晴明の声が辺りに響いた。雲が出て、月が隠される。それたけでこの都は暗がりの塊となる。
鈍く、鋭く、晴明の瞳が震える頭蓋骨を見つめていた。
土御門の屋敷。人の気配は無い。動いているのは晴明ただひとりである。普段屋敷を切り盛りしている蜜虫、蜜夜の姿は無い。
濡れ縁で読み物をしていた晴明は静かに顔を上げる。庭の草葉の隙間から見慣れた毛並みが見えたからである。
「……沙門」
ぴくりと晴明の声に合わせて沙門の耳が震える。すでに猫の形に成っている事からして、沙門の本性である大きな虎の姿の間に連れてきたであろう師匠はどこかしらにいるのだろう。
まぁ良い。屋敷の奥深くまで行かないのなら今回だけなら秘蔵の酒をくすねるくらいは見過ごそう。晴明がそう考えて再び読み物に目線を落とす。意識を文字に添わせていようと。
「よっこいせ」
しかしそれはすぐ近くで聞こえる声のせいでならなかった。晴明の師匠、賀茂保憲その男がわざとらしく音をたてて座り込んだからである。
「なんの御用ですか。今日は絶対に仕事を押し付けられても何もしませんよ。」
「あーあ、ピリピリしとる。」
面倒くさそうに煙管をくゆらせる保憲にさっさと帰れとばかりに手で追い払う仕草をするがきっと意味は無いのだろう。
「さて、災難やったな。博雅様は。」
瞬間、ギッと晴明が睨みつける。
荒れている事がわかっていながらどうしてあの御方の名前を出してくれるのだ。
保憲の懐に潜り込もうとしていた沙門が毛を逆立て威嚇の声を上げる。
「あーこらこら、沙門落ち着き。今のんはわざと晴明のやつを煽っただけやから。」
「ひっぱたきますよ」
沙門を撫で落ち着かせる保憲に向かって晴明は即座に言った。なぜ煽るだけ煽るのだ。本当に要らぬ煽りである。
「ま、どこぞの誰かがただの骸となったあとも人間を夜な夜な襲ってたってやつは晴明がもうなんとかしたしな。それだけでええなら兎も角、被害者の一人が博雅様やからな。」
「……」
「とはいえ、喉が少々傷付いた……まあ、俺も視たし、医者も診る限り魚の小骨が引っ掻いた程度の傷やしなあ。あんなん怪我に入らん。」
「傷ではあるでしょう。」
「よう言うわ。過剰治療手前までしといて。ちょい過保護ちゃうか。今は博雅様はご自分の屋敷で伏せとる聞いたけど──」
「えぇ。ここで治療はしていましたが博雅様の家人に請われましたからね。」
まったく、よく出来た家人である。博雅をなかなか手放さない素性の妖しき陰陽師に対してただ、真摯に頼み込むだけだったのだ。
治療だ厄祓いだと説明はしていたものの自邸に帰してくれとあそこまで請われたのなら晴明も博雅を帰そうと思った。
過ごし慣れた空間での療養は何も問題ない、それ以上に博雅の怪我は軽傷だ。正直すぐにでも日常生活に戻しても平気なのだ。だから、晴明も博雅を帰そうと思った。
「──よう言うわ、ほんま。」
保憲が視線を晴明からゆっくり動かした。その先はこの屋敷の奥深く──晴明の結界の奥だろう。
「わざわざ病人のふりした式神を新たに作って帰すかあ?」
「はて、なんのことでしょう。」
保憲は分かっているのだろう。あの結界の奥には源博雅本人が眠っていることを。
晴明は博雅に仕える家人たちの言葉で帰そうとは思った。思っただけである。実際に渡したのは博雅の形をして、ただ眠るだけの式神。
すっとぼけた晴明に保憲はまた視線を向けて、すこしまた面倒くさそうに息を吐いた。
「帰す時は帰せよ。」
「えぇ。」
保憲が懐を撫でると沙門が出てきて庭先向かいに走り出す。やがてその影が大きくなり、虎の形になる。
「軽傷は軽傷やけど、怪我人を襲うんやないぞ〜」
「師匠ッ!」
笑い声を上げながら保憲は沙門に乗って去っていく。思わず声を荒らげた晴明はどっと疲れが全身に乗った。
気の張っている時にあの手の輩は本当に疲れる。博雅は保憲が察した通りに屋敷の奥深くに隠している。
ただでさえ浅い傷だったのに完治するまで、纏わりついた瘴気が消えるまで……と治療を続けていたら彼を手放せなくなっている自分がいたのだ。
(あぁもう全てが手遅れなのでは)
それに納得出来てしまう自分に対して嫌悪感さえあった。
屋敷の奥へ歩いていく。新しく用意した褥には博雅がひとりで眠っている。
傷が完全に消えるまで、と術で眠らせているせいなのか寝息が薄く「実は重傷ではないか」と心配になる程に静かだ。
「博雅様……」
晴明は本当に嫌だった。
今もこうして手元にいる博雅に満足感を得る自分が。こうでもしないとまともに息もつけない臆病な自分が。
屋敷の奥深くに博雅を隠し、結界の都合上侵入経路になりやすいであろう濡れ縁にはおのれが座して──さては門番気取りか。
否、獣の番のような気分だったのやもしれない。
「嫌になりますね。本当に。」
呑気で、平和ボケで、どこまでも眩い貴方がいないと酷く物足りなかった。眠るだけの博雅では、駄目だったのだ。
そもそも、眠らせ続けるのは逆に身体に良くないだろう。少々記憶をぼやかして起こすべきだろうか。晴明が博雅の額に手をのせた時、
「ど、ないしたん?」
博雅がゆっくりと、その瞼を薄く開いて小さく問いかけた。
「──!」
思わず、額から手を離した。
まだ意識を取り戻すわけがない。起こそうかと多少力を緩わせただけであってそれでは博雅の意識が戻る事など有り得ないというのに。
「なぜ、起きる事が……」
「んぁ?あぁ……けほ」
博雅は暫く眠っていた。水は定期的に呑ませていたが今日はまだである。慌てて水差しで博雅の喉を湿らせる。
今となっては小骨程度の傷だってあるかないか分からないほど塞がっている。乾いた以外で声を出すのに問題は無い。
「んん、あー、あー。よし。」
「博雅様」
「あぁ、おはよお」
「……はい。」
「そないに気になる?いま起きたの」
「えぇ。」
博雅は気にしていないが晴明の表情は強ばっていた。ここまで博雅相手に自分の気が乱れるのなら修行不足どころの問題では無い。
ただでさえ、この人間に並々ならぬ感情を向けてしまうのに──
「やって晴やん。えらい寂しそうな声で俺の事呼んだやん。そんなん、起きななー、てなるやん?」
「は、」
「もう寂しない?」
ゆったりとした動作で博雅の腕が持ち上がり、手の甲で晴明の頬が撫でられる。二度ほど撫でてからまたゆったりとした動作で腕が離れていく。
幼子を相手するような動作が恥ずかしくて、離れていく温度が寂しくて仕方なかった。
「…………あなたという人は、どうして、」
晴明はほんの少し、自分が嫌になった。この程度で胸の鼓動が鳴り止まない自分が。どうしようもなく幸せだと悦にはいる自分が。
「なあ晴やん」
「はい、なんでしょう」
「今度な、新しい曲作るさかい、いっちゃん最初に聞いてくれん?」
「いの一番にそれですか。」
しかし、博雅の前ではその程度の葛藤、どうでも良くなってしまうのである。
土御門の屋敷。足音がする。人の気配──蜜虫と蜜夜がやれ白湯だ粥だついでに薬だと慌ただしく、しかし優雅に準備を始める。
他ならぬ晴明がその許可を出したからに過ぎないが蜜虫も蜜夜も安堵の表情で動いている。
「やぁ良かった良かった」
「うんうん」
雲の隙間から月明かりが差し込む。土御門の屋敷は明るく照らされ、まるで誰かの心を洗うように清廉であった。
「どないしたん、晴やんご機嫌やなあ」
「いいえ。いつもこの表情ですよ。」
「せやろか。踏ん切りがついたって顔やけど」
「あぁ、そうやもしれませんね。」
「ふうん……あ、今回の事って一体何が起きたんやろか。言ってもええ事なら教えてくれる?」
「良いですよ。当事者ですからね。まずは──」
終
□
参考文献
藤田勝也「平安貴族の住まい 寝殿造から読み直す日本住宅史」(2021)
主に立地に関して
遠藤徹「平安朝の雅楽ー古代譜による唐楽曲の楽理的研究」(2005)
主に長慶子について(作品内で出てきた博雅が新たに作る曲)