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    hyz0sh

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    hyz0sh

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    ニトログリセリン

     珍しく酔っている。
     陶器みたいに白く滑らかな肌が、淡く染まっている。涼やかな眼差しもとろりと、眠たげにとろけていて。やけに色っぽいその姿に目のやり場に困ってしまう。
    「袴田、眠いなら寝ろ」
    「手を」
     ぼんやりとした、夢と現の境を揺蕩う声が俺の手をねだって、そのまま勝手に攫っていった。
     何をするのかと眺めていると、普段秘められた不可侵領域の口元へと運ばれていく。唇で指の形をなぞって、やがて招き入れるように開かれる。
     綺麗な歯並びがみえて、こいつはそんなとこまで整っているのかと、何度見ても新鮮に感心する。指の先に感じた熱く湿度を孕んだ吐息。
    「はかま、だっ!?」
     ぬるり、と人差し指の腹を熱く濡れたものが這っていった。赤い舌が俺の指を舐めている。
    「ぁ!?っ、おいっ!」
     ゆっくりと口内に収められていく人差し指を、見送ることしかできない。
    「っ、あっ、クソッ…!」
     悪態に反応して上目遣いにこちらを伺う眼差しとぶつかった。青と緑の境の色が笑った。
    「いい加減に…」
     薄い歯が、表面に当たるたびにぞわぞわとする。ちゅく、ぐちゅ、とやらしい音が立つたびに、映像でしか知らない、夜の行為を思わせて、ぞくぞくと知らない何かが腰にたまる。
    「袴田、なぁ、も、ぁ、やめ」
     やめてほしくないが、少し待ってほしい。こんなのは流石に知らない。下半身に溜まる熱を悟られてしまったらどうしようと柄にもなく焦った。
    「あまくない」
    「は?」
     執拗なほどに丹念にしゃぶって、愛でるように舐めていたそれを、ようやく口から解放する。濡れた指に外気は程よく冷たくて、当てられた熱を覚ましていく。
    「ニトログリセリンは甘いらしいと聞いたから、君の手は甘いのかと」
    「……制御、しとるわ」
    「ん、あぁ、そうか。垂れ流しだったら不便だったな」
     薄い唇を赤い舌が舐めていく姿が目に焼き付いた。
    「……クソが、ささっと寝ろ酔っ払い!」



    初夜

     もうずっと長い事好きだった。学生の時から、これが初恋だったと確信している。呆れるほどに長い時間をかけて口説き落として、ようやく今夜初めての夜を迎える。
     本当に初めてだ。実地経験が無さすぎる。知識しかない、経験が伴わない。
     本命相手にぶっつけ本番なんて。本番にも強い方だと思っているが今までのものとは、方向が違いすぎる。
     慣れない緊張で体がうまく動かない。言葉も出てこない。
     袴田の家のやたらにおしゃれな間接照明が最低限の光量の薄暗い部屋で、ベッドに横たわる袴田を見下ろしている。
     シーツの上に転がされた袴田は、俺と違って余裕があるのかいつも通りの涼やかさだ。
     風呂上がりのセットをしていない金の髪が、その目にかかって煩わしげだ。ぎこちなく手を動かして、髪をはらうと青い瞳を細めて笑った。たったそれだけのことで、どくどくと心音が大きくなる。これ、袴田にも聞こえているんだろうか。
    「ぁ、ッ〜〜……!」
     俺の熱に反して相変わらず涼やかな表情はいつも通りのもので、俺ばかりが意識して緊張して余裕がない。俺と同じぐらい、この夜に意味を見出して、特別だと思って欲しいのに。
    「どうした、爆豪」
    「…なんでもねぇ」
     ふふっ、と品のいい笑いをこぼす。
    「やけに緊張してるな。おろしたてのジーンズのようだ。そう気負うなよ、初めてというわけじゃないだろう」
     内臓を無遠慮に撫でられたような不快感。
     緊張をほぐそうとしたのだとはわかる。だが、これまでの俺の気持ちを軽んじられたようで悔しくてたまらない。
    「初めてだ」
    「うん?」
    「初めてなんだよ。俺は、お前が初めてで、初恋だ」
     長いまつ毛に飾られた瞳が大きく見開かれて、ぱちぱちと瞬いた。動揺したのか視線があちらこちらに向かう。
    「ああ、そうか…いや、すまない。失言だった。許して欲しい」
    「てめぇはファンの女を取って食ってたかもしれねぇな」
    「悪かった。拗ねないで、そんな意地悪言わないでくれないか」
     許しを乞う声に少しだけ溜飲も下がる。袴田の方をみると謝っていたくせに口元は緩んで、隠しきれない笑いが見える。
    「てめぇ、なぁにをヘラヘラしてやがる」
    「いや、すまない。ふふっ、ん、いや、一途な男に愛されたものだと思ってな」
     うれしい、と幸福そうにつぶやく声に、一気に熱が回った。
    「そ、ぉかよ…」
    「私が君の初めてでいいのか、なんて野暮なことは今更問う必要はないだろう」
     シーツの上に散らばる金髪、まっすぐ見つめる瞳に俺のシルエットがうつっている。
    「爆豪、お前の好きにしていい」
     普段隠された口元が晒されている。今この時、俺にだけ。
    「存分に愛してくれ」



    体育祭
     熱心に画面を見つめている。何か考えるように、顎のあたりにに添えられた指が、滑らかな肌をなぞるように動いた。綺麗に整えられた爪をもつそれは、男にしてはほっそりしているが筋張っていて誰かを助ける形をしていた。
     横から見ると長く豊かなまつ毛が強調される。髪と同じ金色のそれは、頬に影を落とすほどに存在感がある。
     観察するような視線に気づいたのか、無視できなくなったのかようやく俺に声をかけた。
    「…どうした、爆豪」
    「だれか指名すんのか」
     今年の体育祭の録画だろう。よく知った雄英の学舎が画面に映る。見慣れた運動着を纏った、初々しい存在がちまちまと動いている。
    「そうだな……」
     いつかの自分のように、この事務所に呼んで世話を焼くのだろうか。そうなればインターンで来ている俺に割く時間は、やはり減るのだろう。そう思うとつまらない気分にもなる。多くのヒーローが去り、傷ついている今、後進の育成は重要だと理解はしてる。だが、それでも、今この瞬間だけの邪魔ぐらいは許されるだろう。
     革張りのソファに腰掛けた袴田の隣に行こうと座面に膝を乗せた。軋む音に反応して、画面に向けていた青がこちらを見た。
    「ジャケットは脱ぎなさい。皺になる」
     長すぎて持て余し気味の脚を組むのをやめ、太腿をぽんぽんとたたいて見せた。それが意味することに少し照れ臭くなって、誤魔化すように舌打ちを響かせた。
     言われたことに従って上着を脱ぎ、背もたれにかける。袴田はそれを見咎め何かいいたげにしたが、指先が操ったインディゴブルーの繊維が上着をさらってハンガーにかけた。わかりやすい甘やかしにささくれだった気持ちも和らぐ。
     ソファの上に転がって筋肉で締まった硬い太腿の上に頭を乗せた。
    「でかい猫みたいだな」
    「うっせ」
     皮膚の少し硬い指が、俺の髪をかき混ぜる。
     一年の初めの頃に、この事務所に来た時を思い出す。焦燥と苛立ちに塗れていたあの頃の俺が、馬鹿みたいだと切り捨てた時間を。
     次に来るやつにとって、あの時間はどんなふうに見えるのだろうか。まだ存在しないものについて考えたところで意味がないのに。
    「んで?あんたのお眼鏡に叶うような奴がいるのかよ」
     見下ろしてくる眼差しを独り占めにする優越感。手を伸ばし襟の内側に忍び込む。さらりとした滑らかな手触りに目を細めた。
     あれだけ毎晩熱心に手入れをしているのだから、その結果なんだろう。よくもまああんなに丁寧にやるものだとも思ったが、俺はこの肌がどうにも好きでたまらなかった。
    「お前の目にはどう映る?一年生はどうだった?」
    「さぁな、興味ねぇよ」
    「そうか」
     無愛想な返事でも袴田は気にせず、目を細めて笑った。テレビは変わらず体育祭の様子を流すのに、袴田はこちらを構い続けている。止めるなりなんなりしたらいいのに。
    「……体育祭、いいのかよ」
    「今年は良い子ばかりのようだから」
     チラと視線を画面に向けたが、またすぐにこちらに戻ってくる。髪を手櫛でいじって8:2に分けようとする。俺の髪の癖より強く矯正するのはやめろ。なかなかもどんねぇんだから。まだ寮で8:2坊やだなんだと笑うアホの声を思い出して苛立った。
    「…そんなん、わかんねぇだろ」
     俺は職場体験生を呼びたくないのか呼びたいのかわからない態度を見せている。自分の感情だけなら呼びたくないが、全体を見れば呼ぶべきだ。相反する思考を止めたのは、甘い響きの声だった。
    「今は私の仕事を邪魔する悪い子の相手で手一杯だ」
    「……そりゃ大変だ」
     袴田の手を取る。指を絡めて、引き寄せる。冷たい手の甲に口づけた。
    「他で悪さしねぇように、よぉく躾けておかねぇとな?」
    「全くだ」
     襟を引っ張って下げる。顕になる唇の淡い色に、どこもかしこも色素が薄いのかと感心する。身をかがめてくるのに応え肘をついて体を起こした。
     ほのかに残ったコーヒーの苦味に眉を顰める。下唇に噛みついて引っ張った。


     個性「バニースーツ」視認した相手に強制的にバニースーツを着せるぞ!時間経過で解除される!
     世界をバニースーツでいっぱいにしたかったと喚く男を確保し、ジーパンのサイドキックに任せ被害に遭った男を衆目から隠すために路地裏へと連れ込んだ。やけに静かにしている袴田を振り返る。先ほどまでは「くっ…見ないでくれっ!こんな…こんな、デニムじゃない私なんて!」と言っていたのに。
    「袴田?」
     項垂れ、肩を落とす姿は普段からは想像もつかないほどに萎れている。普段の厚着では分かりづらいが、やはりトップヒーローらしく、しっかりとした厚みのある肩をしている。そんな、今はどうでもいいようなことを思った。
     サイドキックに服の調達を依頼しているが、この男が本当に我慢ができないなら今から自分が行くほうが早いだろう。
    「んなに、デニムじゃねぇのが嫌なのかよ…仕方ねぇな、ちょっと行って買ってきてやろうか」
     そう言ったが早いか、袴田が痛いぐらいの力で俺の手を掴んだ。
    「い、行かないでくれ」
    「あ?」
    「こんな場所で、こんな格好で、1人なんて流石に…は、はずかしい」
     もにょもにょと小さくなる声と、普段は秘された顔が顕になって、真っ赤になっているのまで白日の元に晒されている。不安げにするのも、恥ずかしげに擦り合わされる脚も何もかも全てが俺の理性を打ち砕く。
     ありえないぐらいに整った顔とはいえ、とても女には見えないがっしりした男の体にバニースーツなんて、笑いこそすれ欲情するはずがない。するはずがなかったのに。
    「爆豪…?」
    「生殺しじゃねぇかよ、クソッ」
     その膝を合わせたせいで生まれた白い太腿の隙間に手を入れたいし、前屈みになったせいで危うい胸元を暴いてしまいたい。
    「一緒にいてくれ」
    「仕方ねぇなぁっ!クソが!」
     
     
     バニー2
     
     個性「バニースーツ」視認した相手に強制的にバニースーツを着せるぞ!時間経過で解除される!
     世界をバニースーツでいっぱいにしたかったと喚く男を確保した。あまり見ないデニム以外を纏った袴田の手によって。敵を警察に引き渡し、モブの目に晒されないようにして事務所に戻ってきたところだ。
     時間経過で戻るらしいからと、まだバニースーツのままでいる袴田は常と変わらぬ態度で執務室にいる。
     安っぽいエナメル生地はテカテカと光を反射する。いくら細くとも柔らかさのない筋肉を纏った男の脚は、薄いデニールのタイツに覆われていた。まだ見苦しさがないのは、この男が堂々としているからなのか、それとも造形の良さはトンチキな服装すらもカバーするのだろうか。
     モブ共が渡してきた布は首元から肩までを覆うのに使用されており、この男の優先度はどうなっているのかと呆れ果ててしまった。
     無防備にさらされた長い脚にぐらりとする。女の脚に欲を覚えたことはあるが、どう見たって男のものなのに。
    「見過ぎじゃないか?私とてデニム以外を纏っているのはまことに遺憾だ」
    「デニム以外だって着るだろあんたは…」
     モデルの仕事もしているのだから、ありとあらゆる服を着ている。そのどれもがよく似合っていて、確かにカッコよくみえて、一度だけ本当に一回だけだが、似た服を合わせて着てみたことがあれ。どうにも体型が違いすぎて違和感があったから諦めたが。
    「私に1番似合うのはデニムなんだ」
    「そぉかよ」
     始まったデニムに関する話を聞き流し、しまっていたスマホを取り出した。カメラを起動し画面を叩いてピントを合わせる。
    「なぁ」
     一応声をかける。ヒーローとて肖像権はある。正しく機能することが稀なだけで。
    「なんだ」
    「写真撮りてぇんだけど」
    「私のか?」
     意外だと声音が告げる。
    「お前以外いねぇだろ」
    「まあ、構わないが。着替えてからにしよう。これでは格好がつかない」
     袴田の手がエナメルを纏った腹を撫で下ろしていった。それにほんの少しだけ、欲が煽られる。
    「いや、今のその格好がいいんだわ」
    「な、ぜ?」
     眉を顰め、首を傾げる。顔の近くでびしりと決まっていた指先が解かれた。
    「今夜使う」
    「なにに…いや、詳しくは聞くまい…」
     問うたあとで察したらしい。珍しく苦い顔だ。顔のほとんどが隠れているのと、感情表現の起伏を表に出すタイプの男じゃないから。これはなかなかに貴重な姿だ。
     うろうろと視線が泳ぐ。
    「あんたのエロい格好で抜くからよ」
    「聞かないと言ったぞ」
    「夜に思い出せ」
     トン、と画面を叩いてシャッターを切る。パシャとなった音が、起きたことを理解させる。スマホを奪おうとした繊維が伸びて、手首に絡みつく。
    「消せ」
    「嫌だね」
     ぐっと強く巻きついて締め上げる。
    「あんま繊維使わねぇ方がいいんじゃねぇのか、今日は露出が激しいぞ」
    「お前が大人しく渡せばいい」
     手のひらに入り込んだ線維が器用に俺の手を開かせ、落ちかけたスマホを攫っていった。
    「まったく、手間をかけさせる」
     ため息をつきながら長い指が画面を操作し削除する。
    「ならかわりにここで焼き付ける」
    「仕事中だ」
    「だから見るだけにするって言ってんだろ」
     線維が緩むがまだ解かれはしない。困ったように眉を下げて、口を隠す布をいじった。
    「……私が仕事にならなくなる」
     顔を逸らされると完全に表情がわからなくなってしまう。だが、隠せない耳が真っ赤で照れているのは伝わってくる。
    「君の視線を意識してしまう。プロとしてあるまじきことだが…君にみられてると思うと、どうしても」
    「わざとやってんのか?煽ってんだろそれ」
     これで触れないなんて生殺しにもほどがある。
    「袴田…」
     喉からでた声が甘えた音で震えて強請る。年下に甘えられるのに弱い男は、拘束を緩ませる。解かれて許されたもう止まれない。
    「爆豪」
     あと少しのところでスマホからけたたましい音が鳴った。
    「出動要請だ!行くぞ大・爆・殺・神・ダイナマイト!」
    「上に服着ろ!」


    路地裏

     甲高い声が側の男を呼ぶ。それに合わせて俺よりでかい一歩は簡単に足を止めた。振り返って、ゆるりと、その長身に見合った長い指の手をふった。それにますます喜びの悲鳴が上がる。鼓膜を強く揺らすそれに眉間に皺がよる。
     重たい前髪は斜めに流され、鼻まで隠す襟も堅牢。ほとんど片目しか見えていないのに、それでも造形の良さを伝えてくる。この男が好かれるのは、信頼されるのは、見た目の良さだけでないとわかっている。
     いつまでも気前よく手を振っているが、今に取り囲まれてしまうだろう。
    「…おい、ジーパン」
     視線をこちらに奪いたい。お前らがきゃあきゃあいってるこの男の、絶対にお前ら見れないこの口元を俺は暴けるのだと見せつけてやりたい気にもなった。
     澱みのようにたまる独占欲。
    「ほら、大爆殺神ダイナマイト、お前も」
     呼ばれてる、と指差す先で野太い声が雄叫びのように俺を呼ぶ。ファンの男女差の偏りをわかりやすいと笑われたのを思い出した。
    「うっせぇ!聞こえてるわ!」
     叫び返せば余計に騒がしくなる。
     視線を感じて顔を横に映せば、子供の成長を感じた親みたいな顔して、俺をみる奴の視線とぶつかった。
    「……んだよ」
    「いいや、弟子が人気で誇らしい」
    「そぉかよ、おいそろそろいくぞ。俺らは媚び売んのが仕事じゃねぇだろ」
    「ああ、そうだな」
     名残惜しむ声を背に街を進む。
    「ジーパン、こっち」
    「どうした?そちらはルートから外れるぞ」
     薄暗い路地裏の落書きに汚された壁、そこに男を追い詰める。
    「なぁ、袴田」
    「おい、大爆殺神ダイナマイト、こんなところで何考えて」
    「おい、名前」
     かつきだと呼ばせたかった。今ここで、俺しか知らない顔を見せて欲しかった。幼稚な我儘とわかっているのに。それに今更だ。もうずっと前からこの男はヒーローで大人気で知らないやつなんかいないぐらいなのに。関係に恋人が追加されたら、途端に独占欲が、目も当てられないほど強くなった。
    「ヒーロースーツを纏っているならヒーローだ、私も、君もな」
    「…わぁってる」
    「だから」
     袴田の指の背が、丸い俺の頰の輪郭をなぞるように撫でていった。柔らかい、俺だけが知っているふれかたで。
    「は、」
    「ヒーロースーツを脱ぐまで、我慢できるな?」
     口元を隠す布を引っ張って下ろして、あのファン達が見れない口元を晒して、薄い唇が弧を描く。
    「わ、かった」
    「いい子だ。さぁ、あと少しだ!いくぞ、大爆殺神ダイナマイト!」



    赤い糸
     ジーニストオフィスの昼下がり。デスクで船を漕ぐ袴田という珍しい姿に、やや面食らった。長めの首ががくりと動くと苦しそうにもみえる。眠りに落ちた男が手に持ったままのボールペンが、無意味な線を引く前に奪い取った。そんなに疲れているなら諦めて休んでしまえと思うが、生真面目な性格はそれも許さないのだろう。
     触れても起きる様子はない。ここが自分のオフィスだから気を許しているのだろう。だができれば、触れているのが俺だから、であって欲しいと思ってしまう。
    「袴田」
     返事はない。あの低く柔らかい声が聞こえない。
     椅子を動かして、その体を抱き上げた。側から見てるとほっそりとしているから、軽いのかと思ったが、腕にかかる体重はその長身に見合ったものだった。贅肉はなく殆ど筋肉なんだろう。だから、細さの割に重い。
     ワイヤーの上で立ち続ける体幹の強さを思い出す。卓越した技術だけでなく、それを底上げするフィジカルの強さも持ち合わせている。流石トップヒーローだ。絶対に本人には言わないが。
     袴田の身体をソファに横たえると、案の定脚がはみ出る。だがこれはどうにもならないのだから仕方ない。
     片目にかかった髪が邪魔そうだが、触れるとがっちりと固めてあって崩せない。このシンプルなくせにこだわりの詰まった髪型にも入念に時間をかけているのだろう。
     同じクラスの切島なんかはあれで1分だと言うのに。
    「……」
     ガチガチの髪型、防壁じみた襟元、不可侵領域の男の内側に踏み込みたい。降り積もった新雪を踏み荒らしたくなるような、野蛮な欲が首をもたげる。
     そんなことして嫌われたくないのも本心だった。
     綺麗だが、確かに男のものの手を取って甲に唇を押し付けた。それでもまだ起きない、起きないのならばと、ヒーロースーツからほつれた赤い糸を抜き取ってその小指に絡めて結んだ。
     気づかないだろうと思って、気づいて欲しいと願って、左右均等の輪を作っておく。
    「……すきだ。あんたきっと気づいてないけど」
     穏やかな眠りを守るためにブランケットを取りに立ち上がった。仮眠室にならば、袴田の長身にも対応したものがあるだろうか。できる限り音を立てずに扉を潜った。閉まる直前に溢された声に俺が気が付かない。
    「……気づいているさ、ずっと前から」



    サイン

     何かの懸賞らしく、袴田がせっせとカードにサインを書いている。ヒーローチップスのカードに似た、ホログラムできらめくそれに、刺さった棘のように抜けないやりたかったことを思い出す。
    「いいなぁ、サイン…」
     ぽつりと口から勝手に出ていった言葉は、すぐそばにいた袴田の耳には入ったようで驚いたように顔を上げた。
    「私のか?」
    「…ちげぇわ」
     ベストジーニストのサインならば欲しがるものも多いだろうが、俺が欲しくて仕方ないのは、手を伸ばしても届かない満月のようなもので。あれだけチャンスはあったのに、ついぞ望めなかったそれ。
    「実は私ももらったことがない」
    「ハァ?」
    「もうあとは学校に帰るだけだな?私が送ろう、支度をして待ってなさい」
     びしっと俺を指す。それに抵抗する隙もなくさっさとどこへと向かい、俺が制服に着替え事務所の前で大人しく立ち尽くしていると、すぐに袴田の装甲車が事務所の前につく。助手席の扉が開かれるから、大人しく収まる。
    「学校はどうだ?」
    「べつに、ふつーだわ」
    「そうか」
     愛想のない返事でも袴田は楽しそうにする。ちらとみた横顔も、その眼差しを柔らかくしていた。それが気恥ずかしくて寝るっ、と宣言して会話を終わらせてしまう。
    「安全運転を約束しよう。おやすみ、爆豪」
     その声がなんだかくすぐったくて力が抜けるようで、袴田に背を向けた。
     ポーズとして目を閉じただけだったのに、それなりの疲労と宣言通りの安全運転で快適な移動は眠気をもたらしたらしい。袴田に揺り起こされてから、自分が熟睡していたことを知った。
    「あと少しで寮だから」
    「…起きてる」
    「ならもう少し付き合ってくれ」
     少し寝たからか頭がスッキリしている。袴田は門の警備にヒーロー許可証を見せ、差し出された書類に何かを書きつける。顔の知られたヒーローであってもセキュリティは厳しい。それもそうか。
    「爆豪」
    「わぁってる」
     言われずともついていく。卒業して長いだろうに当然のように前を、迷いなく歩いていく。

    「失礼する!」
     ビシッとするのはあのやかましい委員長と同じなのに、あれとは雰囲気が全く違うのはなんなんだろうか。
     職員室がざわついて、ジーニストだ、なんだ、かんだと騒がしい。このやたらにスタイリッシュな男の横にいる俺に気づいて、担任が腰を上げた。
    「爆豪がなにか?」
    「爆豪はインターンでもよくやっている。一年の時から才能があったが、より磨かれているな」
     するすると糸を紡ぐように澱みなく褒め言葉が出てくるから困惑する。
    「……爆豪を褒めにきたんで?」
    「いいや、オールマイトに用があってな」
    「おや、私かい?」
     なんだろう、といいながらちょこちょこと寄ってくる。オールマイトが愛想の良い笑顔でジーニストを見つめると、やつは場所を変えようと歩き出した。
     ややあってたどり着いた会議室は人気がなく、電気もついていない。
    「ここの会議室を借りても?」
    「ああ、構わないよ」
    「ではこれを」
     袴田がここまで持ってきていた色紙とペンを持たされる。ここまでお膳立てされれば意味はわかる。
    「ほら、爆豪」
     そっと背を押される。温かくて大きな手が添えられたまま俺に言葉を促した。
    「ぁ、う、ッ…袴田ァ!!」
     グイグイと前に押し出されると思わず腰が引ける。
    「しかたないな、代わりに言ってやろうか」
    「いるかァ!」
     サインが欲しい、そう、ただ一言だ。ばっと顔を上げて、そうしたらオールマイトの落ち窪んだ眼孔の、柔らかい眼差しが俺を見つめていた。
    「さ、いん、その、サインが欲しい!」
     差し出したサインペンに、オールマイトの目が少し見開いてややあってまた嬉しそうに緩んだ。
    「嬉しいなぁ、あっ、そうだ。爆豪少年のサインをもらえないかな。今のうちにね、きっとすぐに人気ヒーローになっちゃうから」
     にこにこと笑う顔と喜びに満ちた声に、心の柔いところをくすぐられるようだ。
    「オールマイト、順番です。それは私が先だ」
     びしりという袴田の声に、困ったように笑う。
    「自慢の生徒だからさ」
    「自慢の弟子です」
     あ、とオールマイトがこちらを見る。
    「宛先は何にする?」
    「かつきくんか?」
    「ァ、う、ば、爆豪少年、で…」
    「では私にはつなぐくんでお願いしよう」
    「え」
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