気を揉んだのは一瞬で 何もかもがうまくいかない日というのは年に一回くらい、いや半年にニ、三度、もしかしたら一月のうちにも。頻度は別として誰しも当然あるものだろう。
それをどう切り替えて過ごしていくかが重要になるわけで、トーマも普段ならあれこれと気を紛らわせながら乗り越えてしまうのだけれど。
今日はそれすらも、だめらしかった。ようやく一日が終わったとソファに沈む頃にはどっと疲れが押し寄せて、せっかく空の元を訪れたというのに大きなため息が出てしまう。
どうにか空には聞こえないように努めたつもりだったけれど、盆を揺らしながら湯気の上がる湯呑みを運んだ空には目ざとく指摘されてしまった。
隠せなかった。それすらもだめなのか今日は。それとも、空のそばにいるから気が緩んでしまうだけなのか。
「疲れてる?」
「いいやオレは、ええと……うん……そう、疲れてる」
とっさの否定にも顰められた表情に、トーマは素直に白状せざるを得ない。うむよろしい、とばかりに差し出された湯呑みを受け取れば、空は隣に腰掛けて、それから手を伸ばしてくる。その視線がトーマのおでこを、いやさらにその上だろうか、を見つめていることに気付き、かざされた手に潜り込むように頭を垂れた。
「トーマ、おつかれさま」
空の手がつむじの辺りをくるくる往復する。時折髪を掬い上げて、指の隙間を落ちるそれを撫でつけて。頭を撫でられて「いい子」だなんてかつて言われたことがあっただろうか。あったのかもしれない、何故ならこんなにも心が解れていく。空の手が、その見知らぬ温かな記憶と重なっているのかもしれないと思えた。
ただの子ども扱いに見えるけれど、頭に触れる手からは本当にトーマを労りたいのだと伝わってくる。ならば遠慮も気遣いもいらないだろうと、そっと頭を擦り付けてみた。
こっそりと笑っているのは、大方トーマが犬みたいだとでも思っているからだろう。空はよくそう言う。トーマからすれば空の方が犬に見えるのだけれど、それを言うとどうしてか拗ねてしまうから心に秘めておくしかない。
「ありがとう、元気になったよ」
「本当?」
決して嘘じゃない。完全な回復まではまだ時間がかかろうが、気持ちが軽くなったのは事実だ。空は犬ではなく魔法使いかもしれないなどと半ば本気で考えながらお茶を啜れば、温かくてほんのり甘くて、思わずほうと息が漏れる。空はまた腕を上げただろうか。
「トーマ、大丈夫? おっぱい揉む?」
あと数秒間違っていればトーマは盛大にお茶を吹き出しているところだった。さすがに幻聴であってくれ。動揺のあまり結局数滴手に零しつつ、念の為に聞き返してみる。
「おっぱい揉む? って。疲れてる人にはそうやって訊くといいって教わったよ」
誰に。トーマが知る人物だけでも心当たりは少なくなかったし、稲妻を囲む大海の向こうにも数多くの交友を持つ空のことを考えれば、そういう冗談を吹き込む人など山のように存在するに違いないが。
「あのな空、そういうことは軽く言うものじゃないよ。オレだからいいけど」
「うん? うん、トーマだから言ってるよ?」
そう言って小首をかしげる恋人のなんと可愛いことか。大きな瞳が不思議そうに瞬き、いらないの、なんてにじり寄って来る。その可愛らしい仕草とは裏腹に話題はとんでもないのだけれど。
そもそもその胸を見下ろしてもどこにも揉めるものはなさそうだが、それでも空は本気らしかった。
心配してくれる気持ちを無下にもしたくないし、場所は置いておくとして、空のぬくもりが感じられれば、確かにトーマのいらぬ憂いは払拭されるかもしれない。恋人に触れるのが嫌なわけがないし。
湯呑みを机に戻し、小さく頷く。手汗の滲むそれを穿き物に押し付けてから改めて空と向き合った。
「じゃあ、いいかな」
「もちろん」
ふにゃりと緩んだ表情を確かめてから、そっと震える手を持ち上げる。触れ合いなど初めてではないけれど、改めて空の胸に触れることを意識するとどうも緊張してしまって。躊躇の間に迎えにきた空の手がトーマのそれを通り過ぎ――通り、過ぎ?
「あ……え、オレ?」
ぺたん、トーマの胸に着地した。空の手の中で胸筋が形を変える。それに身体が跳ねたのはおかしな意味ではなくて、決して。驚いただけ。その反応を正しく見極めた空は、もう一度トーマの胸を優しく揉んだ。
揉むって、空が。トーマが揉まれる側だったのか。
空の問いかけは自分の胸を差し出して癒やす常套句だったと記憶していたが、空も空で中途半端に話を聞いただけだったのだろう。確かに誰の胸を揉むかとは明言はないし、空とトーマの関係を考えればこれが正しい形にも思われる。
「ふふ、どきどきしてるね」
しかし、胸元に手を添えた空がこちらを覗き込んでそんなことを言うものだから。トーマの反応を受けて細められた目に、胸に触れる手に、おかしなことを考えてしまう。
持ち上げられて、解されて。硬い胸を空の指が這う。身じろぎを受け止める柔らかいソファは軋むスプリングのようで、だってそんなのまるで。ただの緊張にうるさかった心臓が別の意味で鼓動を速くしていくようだった。
「どう、気持ちいい?」
「きっ!?」
こんな、こんなの刺激が強すぎる。宙に浮いたままだった手で顔を覆い隠すが、かえって熱い頬を自覚してしまってよくなかった。
「ごめん、痛かった? 俺マッサージってあまりやったことなくて」
「マッ、サージ……? マッサージ……あうん、そう、だよな……」
「え、なに?」
トーマばかりが狼狽えて、空の無邪気な態度も腑に落ちた。空には本当にそんなつもりはなかったのだ、最初から。純粋な労りの提案で、純粋な労りの触れ合いで。
邪なことを考えたのはトーマだけということ。勝手に緊張した自分に呆れてしまう。極端な思考は疲れのせいだろうか。
「痛くはないけど、」
それでも、違うと理解しても、ついた火は簡単に消えなくて。会話の間にも絶えず形を変える胸の感覚に腰の辺りはどんどんと重くなっていく。
トーマがもどかしさに震えていることに気づかない空の手は、頭に肩に腕に、あちこちを巡っていった。その手つきはいたって普通だけれど、触れられたところから、優しく揉まれたところから熱くなっていくような。
「ありがとう空、そろそろ」
「満足できた?」
「うん、そう、満足したから」
だから解放してもらわなければ本当に変な気分になってしまう。もう手遅れのような心地だけれど、とにかくせっかくの空の善意を違う捉え方にしたくはない。
不自然にならない程度に空の手を押さえ、握りしめる。トーマの体を這っていたそれは温かくて穏やかだ。邪な何かはひとつもない。トーマだけがひとり、沸騰しそうなだけで。
「……トーマ」
恥ずかしい。今日一日沈んだ気持ちがどこかに行ってしまう程に。なら目的も果たされたと思っていいのか、いやよくないだろう。よくない。
にいっと悪戯っぽい笑顔の空にはそろそろばれてしまったに違いないが、最後の抵抗に思い切り目を逸らしておく。
「顔真っ赤だね。なに、変なこと考えちゃった?」
それも、胸元に倒れ込んできた空の上目遣いから逃げるために。押さえていたはずの手に促され、トーマのそれは空の背中に回り込む。
解されてほんのり柔らかくなったような胸筋に頬を寄せた空は、その壁に埋もれるように押しつぶしてくる。うるさい鼓動は嫌というほど伝わっているだろう。
「考えたって言ったら」
「うん、可愛いなって思う」
「……そら」
なあに、と返事がある前に抱き締めた体を引き上げて唇を合わせた。煽ってくるならもう気を遣う必要もないから。
すでに熱く湿ったそこはすぐにトーマの唇を飲み込もうとする。ああなんだ、空だって。
こうなればもう、最初の空からの提案も真に純粋な話だったのかはもうわからない。けれど少なくとも、トーマの体に触れた空がその呼吸を熱くしていたのは事実だから。浮かれていたのが自分だけではないとわかるとどうしてこうも嬉しくなってしまうのだろう。
示し合わせたように絡んだ舌が互いの口を行き来する。ひどく甘ったるいような空の唾液を纏って歯列をなぞれば、鼻にかかった声がトーマの鼓膜を震わせた。
トーマが引き寄せたのか、空が押し倒したのか。二人で倒れ込んだソファが沈む。今度こそ明確に、そういう意図を持ってトーマの胸元を這う手がおもむろに服を捲り上げた。
「おっぱい、揉むかい」
ひっくり返った台詞を聞き届けた空は、トーマの上で肩を震わせた。「いいの?」なんて野暮なことは聞かなくていいのに。