おはようのひとり占め 途中から皿が足りなくなるほどに張り切りすぎた料理も見事に平らげた旅人とパイモンは、明日も早いのだとそそくさと帰っていってしまった。去り際のぎこちない二人分のウインクは、トーマというより、その後ろの主人に向けられていたような。謎の気遣いには曖昧な笑みを返すしかできなくて、全く、どんな企みが待っていることやら。
そのままパーティもお開きになると、急に静まり返った空間にほんのりと寂しい気持ちになる。楽しい時間の後のこれはいつまで経っても慣れない。湯けむりに紛れて溶けていってくれと、熱い湯に足を落とした。
それにしても今年もいい誕生日だった、忠誠を誓った主人たち、並んで家を守るたくさんの同僚に、不思議な出会い方をした友人とその仲間。これだけの素敵な人たちに囲まれて祝われて、もしかしたらトーマは世界一幸せな人間かもしれなかった。
明日からもまた頑張れそうだ。なんだか物足りない寂しさも次に会えた時にはその分大きな喜びに変わるのだから、怖くなんてない。
今日はこのまま幸せに微睡むのがいいだろうと、すっきりした体を引きずりながらようやく帰ってきた自室の戸を開ける。
「おや、おかえりトーマ」
すぐに戸を閉めた。パーティに浮かれすぎて幻覚を見てしまった。はだけた寝衣の上に真っ赤な幅広のリボンを巻いた主人が、乱雑に広げられたトーマの布団に転がっている幻覚を。
冷静にならなければ。かぶりを振り、深呼吸をひとつ。それからもう一度、今度はゆっくり戸を引いた。
いた。幻覚が。先ほどよりも唇を尖らせた綾人がじっとりとこちらを見ている。
「どうして閉めたの」
「いや……いや、何してるんですか」
「トーマを待ってたよ?」
首をかしげてこちらを見上げるその姿にトーマは頭を抱えるしかなかった。
早く服を着ろと言ったって、その顔を見れば聞いちゃくれないことはよくわかる。それにこの人は元々一人で単衣が着られない。帯が結べないだか、裾の高さが揃わないだか、都度着せてくれとトーマを呼びつけて。それが本当に出来ないのか、はたまた甘えたふりなのかは知らないが。
ならばトーマが着せてやるしかないのだが、行灯の柔らかい光を跳ね返す白皙はあまりに目に毒で。その身体を絡め取るように走る赤いリボンは綾人が身を捩るたびに締め付けが強くなる。ふっくらと押し込まれた肌のその質感が指先に思い出されるようで、トーマは思わず喉を鳴らした。
触れてしまえば止まらなくなる。明るいうちにも何とも思わず相対したことがあるはずなのに、今は何故か、そう、煽情的に見えてたまらない。緩んだ合わせから覗く小さな黒子を見つめながら、どこか遠くへ意識を投げて邪な感情をやり過ごした。
「全く、なんて格好してるんですか」
「プレゼントだよ。ほら、私をあげる」
臍のあたりの大きな蝶々型を揺らした綾人がその側のリボンの端を差し出してくる。さらにはだけていくその姿は、よく見れば帯もなく、衣を留めているのは真っ赤なリボンだけだ。それを解けばあっと言う間に中身が現れてしまうのだろう。
どこから突っ込めばいいかわからないと言えば、ここだよと裾を捲り上げようとする。いよいよ幻覚などと冗談で流すことも逃避することもできなくなり、馬鹿なことを宣う主人に慌てて掛け布団を被せた。
「……なに」
「なに、じゃないですよ。こっちの台詞です」
「いらないのかい私のことは。ふうん、冷たい男だね君は」
いらないとは言っていないのだ、一言も。恋人からのそれはそれは可愛いプレゼントが魅力的でないはずもないし、遠回しなおねだりになんとも思わないほど出来た人間でもない。
ただ、その目を飾る隈を前に自分の欲だけを優先して飛びつけるほど、愚かな人間でもないつもりだ。どれほど待っていたのかは知らないが、布団に転がるうちに睡魔が襲ってきたのか、トーマを睨みつつも溶けた瞳はもうすぐ瞼に覆い隠されてしまいそうだ。行灯がちらつく度にまばたきも鈍くなる。
「もう湯浴みも済ませたんだよ、私は」
不機嫌さを隠さない綾人がふいと目を逸らして呟く。大きく動かない口元に、喋り方もぼやけてきただろうか。
「なら、このまますぐ寝られますね。よかった」
「……準備もしてきたのに」
枕元についた膝をつつかれる。据え膳。過ぎった言葉へのたった一瞬の逡巡も見逃さなかった綾人が、布団を捲り、畳み掛けるようにトーマを誘い込んだ。
「ね、私のことを好きにしていいんだよ、トーマ」
やや掠れ始めた声は確かに眠気からくるそれだったが、どうしても、トーマの下で息も絶え絶えな姿の記憶と重なって。ぐるぐると巡る欲が少しずつ腰の辺りに溜まり、思考がぼやけていく。
愛しい人から誘われている。嬉しいに決まっていた。触れたいとしか思えなかった。理性との狭間で揺れながら照明を落とす。
トーマの名を呼ぶ声を頼りに布団に潜り込む。温かい、綾人の温度。姿勢を落ち着ける前に絡みついてきた手足はやはり素肌のまま、そして眠くないとぐずる幼子と同じく熱かった。
「オレの好きにしていいんですよね」
手探りで見つけた輪郭。リボンを避けながらその背中をゆったりと撫ぜると、腕の中の綾人が期待に濡れた声で頷いた。
「なら寝ましょう、若」
大男二人が収まるにはさすがに狭かった布団の中、二度脛を蹴られた。軽い動きで特段痛くはなかったけれど、反射でつい漏れた声に慌てた綾人がぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
最後まで上手に拗ねられないところが可愛くて。
位置を確かめるように伸ばした手は冷たい耳朶を掴む。ならばこの辺りかと狙いを定めた唇は綾人の頬を掠め、鼻を擦り合わせてもう一度、今度こそ。ぴったりと寄り添ったやわい唇は押し当てただけでもずいぶんと甘ったるい気がして、さらに鼻にかかった声が鼓膜を震わせると止まらなくなった。
暗闇で見えない桃色を撫でるように食む。薄く開かれたところからこぼれ落ちる吐息はしっとり熱くて、抱き寄せた身体の間で硬くなり始めた二人分の欲が触れ合った。
まずいとはわかりつつも、でも、どうしても。気分が高揚しているのは事実なのだ。楽しい一日を過ごして、さらには夢のようなプレゼントを受け取って。
閉じた唇をぬるぬるなぞってくる舌を押し返す。それだけは本当に抑えが効かなくなる自信があったから。綾人の腰を往復していた手のひら、どさくさに紛れるようにリボンの端を掴まされて、トーマはようやく甘い誘惑から身を離した。
ずり落ちそうな掛け布団を引き上げて、脱ぎかけの綾人の寝衣も整えて。繊維の上から、寝かしつけるようにその身体を優しく撫でた。
月のない夜は、互いの呼吸が混ざり合う距離にいてもその顔をはっきりと見ることはできない。しかし、今の綾人の顔はきっと不満に塗れているだろうと、それだけはよくわかる。
「トーマのばか」
「馬鹿とはなんですか」
「ばか、ばかだよトーマは。ここまでしておいてよく言う」
宥めるように唇を合わせたが、その程度で機嫌が直るはずもなく。
「好きにしていいっておっしゃったのは若ですよ」
「……本当にばか、もう知らない」
本格的にへそを曲げてしまった綾人はトーマの腕の中で器用にも反転する。背を向けて、ため息をひとつ。
しかし。知らないとは言いつつ、トーマからは逃げなかった。むしろ収まりのいいように人の腕を持ち上げて身体の凹凸に這わせる。指先は緩く絡めてから、トーマの胸元に寄り添うように背中を丸めた。
それがあまりに健気で、本当にこのまま食ってやろうかと思えてくる。
「若。明日の朝、どうですか」
それでも、日頃忙しくする主人にゆっくり身体を休めてほしい気持ちは変わらないから。綾人に対してではない、どうしても恋人に触れたくてしょうがない自分自身に対しての、トーマなりの譲歩、甘やかし。
ぴくりと動きを止めた背中に「急ぎの仕事もないんでしょう」と付け足して囁けば、石けんの香りを漂わせる細い髪がトーマの鼻先を擽った。
「二人でゆっくり寝るのもいいと思いませんか。しっかり休んで元気になって、それで」
「あした」
「……うん、そう。だめですか」
繋いだ手に力を込める。髪をかき分けて、項にそっと口づけた。
だめですかと問うて、だめと言われたことはない。わかっていて訊いているし、その思惑に綾人が気づいているのも承知の上。色づいた頬で唇を尖らせてずるいと訴える反応が愛しくてやめられないのだ。
あいにく今はそれを拝めないけれど、むっと頬が膨れた気配には笑みが零れてしまう。
「寝坊したら許さないからね」
「それは若の方じゃないですか? オレは大丈夫ですよ」
「……ちゃんと起こして」
「はいはい」
おやすみなさい、いい夢を。せいぜい明日の朝までトーマでいっぱいになってしまえばいいと、「『はい』は一回だろう」と騒ぐ愛しいプレゼントを思い切り抱き寄せた。
やはりトーマは、世界で一番幸せな人間にちがいない。