拗ね拗ねの貴方「いいわよね、君は」
はて。何のことやらと首を傾げた綾人を見ても、千織はそれ以上口を開かなかった。
しかしその横顔はまだものを言いたげだ。それを眺めながら湯呑みを口に運んだせいか、熱い茶に触れた舌先が痺れてしまう。空気に触れさせるよう舌を突き出した間抜けな表情はいつもならば眉毛を下げて馬鹿ねと笑ってもらえるはずなのだが、代わりに寄越されたのは呆れたようなため息だった。
怒っているのだ、千織は。感情の機微に聡い綾人は気づいた。それと同時に体が強張った。
これが余所の誰かならば自分の機嫌は自分で取れと放置するところだったが、千織相手となればそうはいかない。綾人の隣では笑っていてほしいし、少しでも楽しく、心地よく思ってほしい。綾人も惚れた女には弱かった。当然だ、これでもただの人である。
「千織さん?」
とはいえ、千織が臍を曲げた原因には全く心当たりがなかった。
特段何か言葉を交わしていたわけでもなく、こぶし一つ向こうにある未だに慣れない千織の温もりに意識のほとんどを集中させながら淹れたての茶を飲んでいたところだ。千織に触れたわけでもないし、触れられたということもない。
何か粗相があっただろうか。あるとするなら、この茶も千織の手料理に分類されるのだろうかとずいぶん初心なことを考えながら緩みそうな頬を必死に引き締めていたくらいだが、もしそれがばれたとて、千織が今さら気味悪がるとも思えなかった。
「なんでもないわよ」
「そう、ですか」
壁を作られてしまうとそれ以上踏み込むこともできず、綾人は大人しく引き下がることにした。
手持ち無沙汰にもう一度湯呑みを傾ける。トーマが淹れてくれるよりもいくらか薄い茶に千織の慎ましい生活が見えた気がした。
それで。未だ壁紙を睨みつける千織をどうしたものか。思案しながら小さなテーブルに湯呑みを戻した音が案外響いて、かと思えばぐらりと体が揺れる。
それを持ち直すよりずっと早く、綾人の片身には控えめな重みが加わった。息を呑む。声を上げれば逃げてしまうと思った。優しく、というより恐る恐る、綾人の反応を見るようにゆっくりと肩に乗る千織の頭。鼻を擽った人工的な整髪料の香りは不思議と不快に感じることはなく、むしろ甘ったるい幸せが肺の中を満たした。
恋人同士である二人がこうして体を寄せ合うのも、頭を預けるのも、何らおかしなことではない。とはいえ、千織にしてはずいぶんと珍しい行動だった。
本当に、何があったのだろう。横目で窺うもいつの間にか閉じられていた目に意図を読むことはできない。綾人は不意の接触にどきまぎしながら、片側に張り付いた温度をどうするべきかと頭を回した。
声をかけたらきっと逃げる。それだけはわかった。
だからそっと手を繋いでみた。千織の膝の上で固く握られていた拳を包み込む。案外素直に緩んだ指先を絡めて、短い爪をなぞる。
千織がさらに距離を詰めた。肩が重くなった。合っていた、たぶん。
次は、綾人も頭を預けてみた。髪飾りを避けて、重ねるように首を傾ける。頬には整髪料を纏った髪がぺたりと甘えるように張り付いて、まるで今の千織本人のようだと思う。
繋いだ手が引き寄せられた。千織がこちらを見上げると頭を預けた土台が傾く。夕暮れを閉じ込めたような瞳が真っ直ぐ綾人を見つめて、ひとつふたつ瞬いた。
「……君、わからないでやってるんでしょ、これ」
かと思えば睨まれた。
「本当、腹立つわ」
「……はらたつ」
「そうよ。ごめんなさいね、可愛くない女で」
「え、と? 千織さんは誰より愛らしいですが」
現状を飲み込めず鸚鵡返しするしかない綾人に、千織はさらに意味のわからないことを言う。わからないなりに続けた言葉はお気に召さなかったのか、そういうことではないと盛大にため息をつかれてしまった。
「やっぱり、君はフォンテーヌに来なくていいわ」
「えっ」
「私があっちに帰るから。あそこなら君が街を歩いてたって誰も話しかけてこないでしょ」
稲妻における綾人といえば一応は「偉い人」である。遠巻きに騒がれることはあるだろうが、確かに、わざわざ声をかけるような人物はいないだろう。
ただそれの何が先程の「腹立つ」に繋がるのかがわからず首を傾げた。少しだけ饒舌になった今なら教えてくれるだろうかと口を開くも、聞いてくれるなとばかりに再び目を閉じてしまった千織がもたれかかってきたものだから、綾人はそれ以上尋ねることもできず、ずいぶんと甘えたな重さを支えるしかなく。
何もわからないが、しかしくっつきたがる千織に綾人も嬉しくないわけがなくて、考えることはすっかり諦めることとした。