綾人くんの話 綾人が千織の元を訪れるとき。それは、抱えたものに押し潰されて心が破裂しそうになったとき。大した出迎えもなく「また来たの」と呆れる千織は、それでも帰れとは言わなかったし、綾人を拒絶もしなかった。
それに甘えて腰を降ろせば、千織は隣に座ったり、はたまた作業の手を止めずに背を向けていたり。ただ変わらぬ日常を紡いでいてくれることに綾人はひどく安心するのだった。
そういうときに二人の間を埋めたのは綾人自身の話ではなく、もっぱら千織の愚痴だった。染料や反物の値段が上がったとか、一月かけてようやく作った型紙を真似されただとか。大げさな感情もなく空気を伝う緩やかな声に相槌を打ったり打たなかったり、綾人の反応に関わらず進んでいく独り言のような話は、千織のほうも気に留めてほしいわけではなかったのだろう。
素直に吐き出せない綾人に代わって適当に静寂を埋めてくれただけ。変に気を遣われないほうが嬉しかった。そのうち大した悩みがなくとも千織に会いに行くようになったのは、それがずいぶん心地よかったから。重荷を一旦忘れ、自分はただの人間なのだと実感するにはちょうどいい。千織の隣にいるとようやく息ができる気がした。
そして千織が稲妻を出てから、ようやく。その感情がただの友人に抱くものではないと気付いた。甘ったるくて重いそれが心に開けた穴を埋める方法をずっと探して、結局千織以外にはなくて。
「君……また来たの」
長い時間が経ってしばらくぶりに聞いたその台詞には、飛び上がりたいくらいの喜びが駆け抜けた。焦がれていた音が心の深いところまで滲みていく。
「千織さんの愚痴を聞かせてもらおうかと」
「そんな毎日毎日ないわよ。たまには君が話したら?」
「あの時は毎日毎日、お話ししてくださったでしょう」
帰れとは言わないし、綾人を拒絶もしない。こうして会いに来るのも五度目なのだから嫌なら場所を変える方法だってあるにも関わらず、千織は今日もここに座っていた。話がしたいと言った綾人に対し、いつもこの時間にカフェに立ち寄ると教えてくれたのは千織本人だ。
「今の元気そうな君にはいらないでしょ」
「慣れない土地でいっぱいいっぱいですよ、これでも」
「へえ? 白々しいわね」
向かいの席に断りなく腰を下ろした綾人を、コーヒーカップを揺らした千織が見遣る。じっとりと睨むような視線に微笑みかければ小さなため息に遮られてしまった。
「貴方の話が……いえ、声が、聞きたい」
千織の側に気が緩んだのか思わず溢れた本音。やはりこの場所は、綾人をただの綾人に戻してしまうのかもしれない。肩ひじを張る必要もない、繕う必要もない。こんなに心安らかにいられる場所は他には知らなかった。
千織は、こうやって綾人の仮面が剥がれると満足そうに幼い笑みを浮かべる。確かあの時もそうだった記憶があると、その表情に見つけた面影に綾人の心臓が高鳴った。
「ほんと、仕方のない子ね、君は」
「ええ。そうなんです」