あたっくカリカリカリ……とシャープペンが紙をひっかく音が部屋に響く。プライドの部屋の床に敷かれた上質なカーペットに座り、脚の低い机に向かう2人は勉強をしていた。
「痛っ」
集中していたプライドが顔を上げると向かいのカラムが右目を押さえて痛みに顔を歪ませる。
「カラム先輩?」
「すみません、目にゴミが入った様です。お手数ですが鏡を貸していただけますか?」
「ええ、勿論です」
そう言って隣に置いていた通学鞄からコンパクトミラーを取り出し渡す。
「ありがとうございます」
無事ゴミを排除したカラムは、手に持つソレが以前自分がプレゼントしたものだと気付けば頬を緩ませた。
「ありがとうございます、いつも持ち歩いてくれているのですか?」
「勿論です!これは大切な恋人からの贈り物ですから」
プライドは受け取りながら頬を桃色に染め、上目遣いに言う。その愛らしさにカラムはいつもの如く心を甘く掴まれたような感覚に顔の表情筋が緩むのを隠せなくなる。頬まで熱くなるのを感じれば思わず前髪を触って隠す。
気持ちを確かめ合い、恋人の関係になったものの未だプライドとは何もない。彼女の立場もあるが、既に成人した自分が高校生の女性に手を出すのは自粛したいところだ。ちょいちょいと乱れていない髪の毛を直して気付かれない程度に息を吐く。
「あの、本当にゴミは取れましたか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「本当に?」
何故か疑り深いプライドはスッとカラムの横に来てそっと顔に手を添えた。隣に座られただけでも驚いたが、その白く細く柔らかな指先が驚く程冷たく、そして震えていたことの方が驚きは大きい。
「プライド様?」
何か怖い事や嫌なことがあったのか、それとも外的要因で冷えてしまったのかと心配になりプライドの顔を見た。そしてその少しツリ目の愛らしい紫色の目に真っ直ぐと見つめられて思わず身体が硬直した。
「……私に、見せてください」
カラムは思わずゴクリと口の中のものを飲み込む。プライド様の冷えた指先がそっと右目の下に触れた。瞬きをしてプライドを凝視しているとその目に懇願の色を浮かべていることに気付く。
「あの……プライド、様……」
近いです、と注意したくてもそれ以上言葉にできない。美しいアメジストのような紫色の目の奥に、〝私にだけ見せる〟欲の色を見てしまえば、そのまま吸い込まれ溺れた。
「……カラム先輩……」
息が出来ない。まるで身体が石になってしまったかのように動かない。
口を開けても音すら出ない。そんなカラムにどんどんと顔を近付けてくるプライドに成す術もない。
彼女を好きになってからずっとその美しさ、愛らしさ、そして妖艶さに身も心も縛られていたのだから、彼女に本当に求められれば拒否など出来るわけない。
脳が狂ったのだろう、時がゆっくりと進んでいく。まるで水中を漂っているように全てが遅く感じてしまう。
プライドの息が掛かるほどの近さに身体が疼く。今すぐに抱きしめその柔らかな身体を好きに貪り喰らいつきたい衝動が身体を燃え上がらせる。
プライドが求め憧れるような優しさなど己の中には存在しない。ただただ獣の雄のように己の欲のままに喰らいつき貪るだけである。
(ああ、本当に私は欲に溺れているのだな)
純粋で純白なプライドには似つかわしくない自分だ。それでもこの席を誰かに明け渡すなど一度座ってしまった今ではもう考えられない。
彼女への欲は無限に湧き続けている。
今身体が動かなくて良かった、もし動いてしまつまたらその欲のまま動いて彼女を傷付ける事になるのだから。彼女を自身から守る為にも動かないでくれ。
「カラムせんぱい……」そう甘い声が聞こえた気がするがそれは自分の都合の良い妄想だろうか?
先ほど飲んだ紅茶のいい香りが目の前からする。その後に花の香りが鼻腔を刺激してくる。
愛らしいプライドの香りをこのままずっと間近で嗅いでいたい。この場所を誰にも取られたくないし、誰にも知ってほしくもない。
(ここを私だけの居場所にして欲しい)
プライドがゆっくりと目を瞑る。
この妙に長ったらしく感じる時間も時計針では秒の世界だろう。耳には自身の心臓が鳴らす大きな鼓動が聞こえる。試合ですらこんなにも緊張はしないというのに、彼女の前では全てが緊張の連続だ。
毎回彼女の部屋で2人っきりになるだけでどれだけ緊張しているか、欲を抑えているのか知らないだろう。
『プライド様』唇を動かせば唇だけが動いた、気がする。自身の声ですら心音が煩すぎて出ているのかどうかも分からない。
音も動きもゆっくり過ぎて今五感に感じている全てが夢か現か現実か判断出来ない。
ああ、もう本当にプライドの唇があと数ミリの距離にいる。形の良いピンク色のふっくらした、とても柔らかそうで美味しそうな唇が触れるまで時間はない。そう思えば私も自然と目を閉じ────
トントン。
ビクッ!?突然のノック音にお互い身体が飛び跳ねて大慌てで離れた。
「ひゃっ、は、はい」
プライドは慌てて向かいの席に向かいながらひっくり返った声で返事をする。
「プライド、カラム先輩すみませんステイルです。プライド、この間お渡ししたファイルを返してもらえないでしょうか?今使いたいので……」
「えッ!?あっ、ええ、いいわよ」
ガチャとドアが外側から開かれれば申し訳なさそうな顔をしたステイルが頭を下げた。カラムも慌てて頭を下げ返すが、動揺でいつもよりもオーバーになった。
ステイルも2人の挙動不審に気付きながら本当にお邪魔をしたことに気付く。だがどうしても今そのファイルを受け取らねばならなかった。
プライド様は慌てて机から分厚いファイルを持ってパタパタとステイルに礼と共に返した。
「すみません、カラム先輩もお邪魔しました」
ステイルはそう言うともう一度2人に深々と頭を下げた。そこには言葉通り2人の時間の邪魔をした事を謝っているのだろうと2人も気付く。
「大丈夫よ。それよりごめんね貸して貰ってたのにそのままにしてて」
「いえ、返して貰えれば僕は構いません。では失礼します」
ペコリとまた2人に深々と頭を下げステイルは去った。
「「………………………………………」」
静かになった部屋に気まずい空気が流れる。
先程の行為を思い出せば2人共に恥ずかしさに打ちのめされた。
身体が燃えるほどの熱で互いに顔も見れない。カラムは後ろを向き顔を手で覆い、プライドは手近にあったクッションに顔を埋め床にコロンと丸まった。
両想いの恋人と2人きりの部屋。それだけで年頃の女の子にとっては憧れのシチュエーションである。プライドが今までどれだけドギマギし、楽しみにしていたか、それが分からないワケがないカラムなのに、やる事は勉強のみ。どんなに近くに寄ってもカラムは指一本触れようとしてこないそんな態度に不満は爆発していた。
──少しぐらいイチャイチャしたい。
何もしてこない、ならばこちらからと何度も迫ったが今まで全て断られ拒絶された。
流石にここまで端にも掛けて貰えないのは『カラム先輩は私の事、恋愛対象として見ていないのではないか』と疑ってしまう。『王女の我儘に仕方なく付き合っているだけなのでは?』と。
『カラム先輩に限ってそんな事はない!!』と言い切れたらどんなに良かったか……。ここまで2人きりで何もないことに、風が吹けば簡単に揺らいでしまうほどプライドの心は弱っていた。
「………プライド様、こういう事はもうおやめください」
「むぅ〜…………」
「プライド様、お願いですからご自身を大切にしてください!!」
カラムはいつもそうだ。そうやって逃げる。
勿論まだまだお子様な自分には大人のカラムが取る行動としては〝正解〟だと分かってはいる。学生の内は勉強が一番大切で、それが王女なら当たり前だ。もし恋愛にかまけて交際を反対されたらそれこそ本末転倒である。そうならないように己の役割を全うしようとしているだけで〝正しい〟のだ。
そうカラムはいつもそうだ。だが、
(私はお子様よ、だから少しぐらい〝間違い〟を犯しても許されるんじゃない!!)
子供だからこそ〝愚か〟な〝間違い〟を犯したい。お子様と言っても結婚は出来る年齢で恋人持ち。ならば恋人同士の甘い行為に興味があるのも可笑しくない。
なのに何度抗議しても堅物なカラムは頭を縦に振らない。
「カラム先輩の意気地無し!!」
クッションで顔を隠したのを良いことに頬をぷ〜と膨らませ、出た言葉は子供の悪口だ。
こうやってプライドからアプローチしたことは一度や二度ではない。その度にカラムが止めに入る。
(今日は邪魔されなかったのに……)
珍しくカラムが止めなかった。緊張から震える冷たくなった指でカラムの頬に触れたらその温かさが愛しくて仕方なくなった。
お願い動かないで、と何度も願った。
キスがしたい。
たったそれだけだというのに。
さらりと髪が撫でられた気がして顔を上げればいつの間にか近くにカラムが四つん這いの姿勢でプライドを覗き込んでいた。さすがに吃驚して小さな悲鳴とクッションを抱いたまま上半身だけ起こして後退る。
(さすが大学騎士部の部長だ。気配も物音も立てずに私の背後に付くなんて)
でもすぐにカラムに距離を詰められ顔を近付けられた。それも怒ったような表情で、正直とても怖い。
「カラム……先輩?」
「男と2人きりの時に寝っ転がるのは無防備過ぎます」
抱いたクッションをとりあげられ、そっと肩を押されたら簡単に押し倒された。ゆっくりと倒されたから頭は打たなかったが、突然の事に「えっ?えっ?」と混乱していると、トンと私の顔の真横にカラムの手が置かれる。床ドンというものだと変なところは理解した。
「ふぇ??」
カラムに身体を覆い被され上から見下され、初めての事態に吃驚したまま固まる。
「それとも私に襲われる為にわざとスキを作っているのでしょうか?」
「えっ!?」
フルフルと首を振るもカラムは無視。さらりと皮の厚く自分よりも太い指先で髪、頬、そして顎へと優しく撫でていく。
「そんなにもして欲しいのなら私も覚悟を決めましょう。あなたに『意気地無し』とは思われたくありませんから」
(……あ、あああぁぁあ!!やっぱり怒ってた!!)
プライドからすれば子供の悪口だが、現役騎士部部長として一番の護衛対象である第一王女、そして恋人である女性に冗談でもそんな言葉をぶつけられて黙っているわけにはいかない。本当ならもっと相応しい場所、相応しい時、相応しいシチュエーションでと考えていたものの、それは自分の我儘だと理解した。
〝プライドが望むこと〟それ以上〝大切な事〟はない。
今だ固まったままのプライドの手を撫で指を絡ませると条件反射のように彼女からも緩く握られた。
「覚悟はよろしいですね」
カラムの真剣な目がプライドを貫く。
そこには既に怒りはなく、大切な人へ向ける真摯な眼差しだけであった。
「………ぁ……はぃ……」
カラムの指先がプライドの唇をそっと撫でるから凄く擽ったくて唇をキュっと結んでしまう。
「プライド様……」
名を呟くカラムの目の奥に欲望の炎が灯るのを見てしまえばドクンドクンとここぞとばかりに心臓がうるさく耳の奥で鳴り響く。
無意識にギュッと手に力を込めればギュッと握り返されて、そこで初めて指が絡められている事を知る。緊張のあまり全く気付かなかった。
「…………っ………………」
力を抜こうと無理矢理口を開けてカラムにかからないように顔を横にして息を吐く。カラムが少し困った顔をした。プライドの緊張具合に辞めようかと考えているのが分かる。
「カラム先輩……」
ギュッと今度は意識してカラムと繋いだ手に力を入れるとプライドの目を見て、小さく頷き、握り返す力で応えてくれた。
自分よりも大きく力強い男性に押し倒されて、顔を覗き込まれて、怖くないと言ったら嘘になる。
例えそれがカラムだとしても。
それでもプライドはカラムが好きで、カラムに好きになって貰えて、両想いになれて、付き合えたのはとても幸せだ。
それに今恐怖を感じているのはカラムに対してではなく、知らない行為に対してだと理解もしている。
そして恐怖は好奇心に勝てない。
(だって今こんなにもカラムと先に進みたくて仕方ないのだから)
これはプライドが心から望んだ事だ。
カラムがぐっと顔を近づけて最終確認のようにプライドの顔を覗き込んだ。
「プライド様、好きです」
囁き声なのにしっかりと耳に届くカラムの声に背筋から腰がゾクゾクとして力が抜けてしまった。腰が抜けたのだと分かると、寝そべった体勢でよかったと心底思う。別の体勢ならカラムに気付かれて中止されただろう。
「わ……たしも……好き、です……」
囁こうとしたら掠れた声になったがからむになら伝わっただろう。目が一層優しく細められた。
初めて至近距離で見た赤茶色の目は柘榴石のように赤いと思った。
「ぁ……カラム先輩……」
その赤茶色の目で見られたら、真実の姿を曝け出され、嘘のつけないだろう。
何にもしてないのに体温と息が勝手に上がる。おかしいほど心臓の音が耳に煩く鳴り響いて、カラムの耳にまで届いている気がしてとても恥ずかしく、同時に腰がゾクゾクとした。
「プライド様……」
カラム先輩が私の名を呼びながら顔を近づける。その目は先程よりも欲が赤く赤く燃え上がっているように見えて、初めて見る好きな男性の雄の顔に私の身体に力が入いる。
全ての感覚が鋭くカラムにだけ集中する。
互いの息が掛かるほどの距離が焦れったい。
時間にしたら1秒も無いだろうに10倍にも20倍にも感じてしまう。
まだ触れ合って無いのにカラム先輩の熱を感じた気がして思わず目を瞑った。
とうとうキスされるのだ。
片想いしていた時からずっと望んでいた瞬間がすぐそこに──
好きな人にキスされる事を初めて望んだのは何時だったろう。ティアラと一緒に絵本を読んだ時だろうか?
幸福の象徴のような気がして子供の頃はよくベッドの中で妄想して悶えたことも思い出せば、その瞬間がもうすぐ訪れるのだ。
──私は間違いなく幸福だ。
だって好きな人と
キスが出来るのだから──
ならば願いは一つ。
この幸福を永遠にする為に。
カラム先輩の彼女だと己に自信を付ける為にも。
さぁ舞台は整った
さぁいざ心からの幸福を
「すみません、プライド、何度もノックしたので………すっ………が…………」
唇が触れる直前に部屋のドアが開かれた。
顔を出したステイルは私とカラム先輩を見て、驚いた顔で固まり、手に持っていた先程のファイルが滑り落ちドンッという重い音が室内に響いた。
固まったのはステイルだけではない。
カラムと押し倒されたプライドも動けなかった。
「あ……あぁ…………ああああぁ…………………」
ステイルは状況を把握していくと共にどんどんと顔を赤くさせ頭から湯気が出始めた。
その様子をカラムもプライドも身動き一つせず見ているしか出来なかった。
というより完全に放心していた。
やっと全ての状況を把握したステイルは真っ赤な茹でタコのような顔で「失礼しました!!」とドアを乱暴に閉めて出て行ってしまった。
残されたプライドとカラムは真っ赤な顔で暫くそのままの体勢で固まるしか出来なかった。
※ステイル様は返してもらったファイルに資料が欠落しておりそれを貰いに来ました。
何度もノックと声掛けしましたが返事がいつまでも無かったので不思議に思いドアを開けたので悪くはありません。