ノーシスが本拠地をイェラグに戻してから数年が経つ。
ロドスにおける在籍形態は「臨時」となり、研究者としてもオペレーターとしても表立って関わる機会は減ったが繋がりは健在だ。むしろ、イェラグにおける幾つかの動乱を経て存在意義を示したロドスは国の有力者に覚えがめでたく、カランド貿易を通した協力体制はより強固となっている。
なにせそれを主導した男が、今なおロドスのブレインにご執心なのだ。
二週間に渡る長期の国外出張、そしてそれに合わせたロドスでの任務を終えて帰国したエンシオディスは、帰着が日暮れであったことを免罪符に全ての事後処理を放り投げ、議会の申請処理に追われるノーシスの傍らで紅茶を片手によく回る舌弁を振るっている。話題は近隣諸国での見聞から件のドクターの功績まで幅広い。ノーシスとて興味の範疇ではあるものの、こうも取り止めなく語られては片手間の雑務もままならない。根負けしたノーシスが仕事を切り上げることまで織り込み済みなのだろうから、その傲慢さたるや昔から何一つ変わっていなかった。
ただその傲慢さの根本に、臆面もないノーシスへの甘えが混じるようになった一点を除いて。
「……それで?君があいも変わらずドクターに固執しているのはよくよく理解したが、彼らへの居住地提供の件は進展したのか」
ひたすら相槌で受け流していたノーシスがようやく口を挟んだ時、時刻はすっかり夜更けになっていた。にも関わらず、その問いにきょとりと目を開いたエンシオディスはあっけらかんとした顔で「明日報告する」と言ってのける。ここまで時間を要しておきながら、ノーシスが抱えたタスクと天秤に掛けられるような話題はほぼ皆無に等しい。思い返せば玄関で粉雪と共に迎え入れてやった時、彼は申し訳程度の手土産を片手に提げるだけで、鞄どころか書類の一束すらも持ってはいなかった。
「……まさか、全部放ってここにきたのか」
「そうだが?」
「何をしにきたんだ君は」
その問いに答えは返らなかった。代わりに返されたのは「ふむ、」という吐息。顎に指を這わせて視線を逸らす様はいかにもわざとらしい。
「……明日のお前の予定は?」
「……」
「……」
「……成程」
彼を迎え入れてからここまで二時間弱。
どれだけ長い前座だ。
胡乱気に目を細めたノーシスの目の前で、ティーカップが軽い音を立ててソーサーに戻される。いつの間にか什器から茶葉まで全てを勝手に揃えられ、勝手に淹れられ、これまた勝手に飲み干された一杯だ。ここが元々彼の所有地だったとはいえ、現オーナーを前に本当に好き放題をしてくれる。自分の分が淹れられなければ頭からひっくり返してやろうと決めているノーシスだったが、幸いなことに未だその機会は訪れていなかった。
「……明日は生憎と朝一でクルビアの技師と約束がある。その後は縫製業の委託先と面談だな。午後の会議に向けて準備にも時間が欲しいところだ」
「ノーシス」
この期に及んで、濡れた響きを纏わせて名前を呼ぶのだから狡い男だった。
「君が〝どうしても〟と言うなら、都合をつけてやらなくもない」
しかし今はそれと同等の狡さをノーシスも身に付けた。
「——どうしても、だ」
ノーシスの仕掛けた言葉に、エンシオディスは正面から乗った。
情熱的に身を寄せながら伸ばされる腕。それを自ら迎えに行くだけの余裕がノーシスに生まれたのもイェラグに戻ってからのことだった。入れ違いに引き寄せてやった腰の向こうで、太い尾が機嫌良さげに揺れている。季節の変わり目を前にしてやや乱れた毛並みが目についた。ふと換毛期やら毛繕いやらと一瞬だけ思考を揺らした隙に、身体は強く抱きすくめられる。
「……っふ、……いつもそう素直ならいいのだが」
「私は常に正直だろう」
「君が?素直と正直は別物だ。そもそも正直かどうかも疑わしい。言動を見直してみろ」
「……」
反論もなく口ごと塞ぎにかかる仕草は、慣れた手管に反してどこか子供じみた可愛げすらある。そんな幼い戯れも束の間、浮ついた空気は背を辿る手に襟足を混ぜられた途端に夜の気配に飲み込まれた。目を閉じて受け入れてやれば、吐息で笑う気配がより近く感じられる。
「……冗談だ」
「どれがだ」
「明日。君と何年の付き合いだと思っている?」
互いにうっすらと開けたままの唇をやわく擦り合わせて数秒。乾いたぬるい温度を食み合ってさらに数秒。そのこそばゆさの中で、二人声を潜めて言葉を続ける。
「君が来ると分かっていた」
「……私が?」
「あぁ。想定より2時間ほど早かったがな……可愛いやつめ」
「なら、……」
喜色を帯びた瞳が瞬く。この距離であればきっと、湯冷めしたシャワーの残り香も嗅ぎ分けたはずだ。
「——そういうことだ」
ここまできて続ける言葉はいらない。舌先を伸ばしたのは同じタイミング。ざらりとした感触をにじり合わせながらも、主導権を奪いたがる舌先へわずかな隙を見せてやる。正確にその間を捉え上顎まで攻め入ってくる粘膜に応えてやっていたその最中、腰を撫で下ろしてきた腕に力が籠った。
「……っ、な」
疑問符を浮かべる間も無かった。突然の浮遊感に思わず唇を解き、瞬きをひとつ、ふたつ。そこそこ上背のあるはずの身体を力強く抱き上げる腕と、天井が広がる視界の中でひどく満足そうに見下ろしてくる銀灰色。
「……ご機嫌だな、エンシオディス」
腕の中で素直に身を委ねれば、その笑みはいっそう輝いた。時を経るごとに彼はこうして稚く甘い愛情を表すようになってきた。それがひどく愛おしい。
「お前が構ってくれるからな」
少し浮かれた足取りのまま寝室へと向かうパートナーに、ノーシスは柔らかく鼻で笑った。