やられてばかりではいられない 厳しく長かった残暑が去って、夕方ともなると少しひんやりとした空気を感じるようになってきた。
すっかり夕暮れに包まれ茜色に染まる屋上で、東屋の近くに据え付けられたハンモックの中時折吹く風に揺られて穏やかに眠る桜の姿がある。
夕日に照らされてオレンジ色に染まる桜は何だか綺麗で、それでいて溶けて消えてしまうのではないかと思うほど儚く見えて、その光景を目にした杉下はほとんど無意識に、その存在を確かめるかのように桜に向かって手を伸ばしていた。
いつからここにいたのだろう。
ぺたりと手の甲で桜の頬に触れると、心なしかひんやりとした体温を感じる。
単にここで眠りたい気分だったのか。
それとも、もしかしたら畑の世話に勤しむ杉下を待ってくれていて、そのうちにうっかり寝入ってしまったとか、そういうことだったりするのだろうか。
そうだったらいい、と思って、何にせよ愛おしい恋人のまろい頬をするりと撫で上げ、額にかかる髪を搔き上げて剥き出しになったそこにそっと唇を落としてやると、桜はぴくりと身体を揺らしむずかるように小さく呻いてころりと寝返りを打った。
まだ眠っていたいらしく、薄い瞼の先に瞑色と黄昏を閉じ込めたままでいる桜に小さく笑う。
心地よい微睡みを手放しがたい気持ちはわかるが、夜が深まるにつれ冷え込みの増すこの時期に、これ以上ここに居続けるのはあまり宜しくない。
風邪を引いてしまわぬうちに起こして帰らなければと、ぐっと身を屈めて眼前に晒された桜の耳にそっと唇を寄せた。
「……はるか、帰るぞ」
「っ、ん」
普段ほとんど呼ぶことのない名前が思わず零れ、自分でも驚くほどとろりと甘やかな声が出た。
桜の口から押さえきれなかった甘い声がまろびでて、ぶわりと赤く色づいた耳を手で覆い隠した桜がぱちりと目を見開いて杉下を見る。
信じられないものでも見るようなその顔に思わずくつくつと笑っていると、屈めたままでいた身体の胸の辺りを拳でぽすりと叩かれた。
「…起こし方、おかしいだろ…」
叩いた手でそのままくしゃりと杉下の胸元を掴んで、起こし方に対する不満と咄嗟の反応を笑われた苛立ちが交じったような目でじとりと睨みつけてくる桜が可愛くて、少し意地悪をしてやりたくなった。
「何、ここにキスでもして欲しかった?」
意地悪く歪む口許を自覚しつつ、すり、と桜の唇を親指でなぞる。顔を真っ赤にして怒るかと思っていたのに、桜は杉下の胸元を掴んだままじっと杉下を見据えるばかりで何の反応も寄越さない。予想とは違った桜の反応に戸惑い、どうしたものかと考えることに気を取られた杉下はその一瞬の隙を桜に捉えられ、ぐいっと身体を引き寄せられていた。
驚く間もなくかぷりと口づけられ、至近距離で互いの視線が絡み合う。杉下の頭を抱き込むように腕を回して柔く誘うように唇を食んでくる桜にじりじりと欲が煽られて抗いきれずにうっすらと唇を開いたところで、突如唇にチリッとした痛みが走って杉下は思わず息を呑んだ。
「っ、!」
「ふは、…あんまり調子乗ってんなよ、バーカ」
杉下から唇を離し、べ、としてやったりの顔をする桜を見て噛まれたのだと理解する。
「、てめぇ…」
「ほら、帰るんだろ。置いてくぞ」
楽しげに口許に笑みを浮かべたまま、杉下の首に絡ませていた腕を解いてハンモックから下りた桜はさっさと扉の方へ向かおうと木の根に架かる橋を歩いている。
「…可愛くねぇヤツ」
うっかり桜にしてやられて悔しげにぼそりと呟いた杉下の声は、既に扉に手を掛けている桜には届くことなく夕日に溶けて消えていった。