繭の中 ──場地に、線香をあげさせてください。
深く頭を下げると、場地の母親は力なく笑って「顔を上げて」と言った。もともと線の細い人だったけれど、少し会わない間に更にやつれたように見えるのは、きっと気のせいじゃないんだろう。場地も背ばっかり伸びて全然肉がつかなかったから、こんなところは母親に似てたのかも知れない。
面影を探して、じっと黒髪を一つに束ねた後ろ姿を眺めていたら、どうぞ上がってと言われた。
狭い団地の一室は、幾度も通ったことがある筈なのに、場地の気配ひとつないだけで、まるで知らない場所のように見えた。奥の六畳間に通じる襖を開けると、そこにもまた、慣れ親しんだ景色が広がっている。
本棚にずらりと並ぶガキの頃から繰り返し読んでいた動物図鑑、飼い猫もいないのに戸棚の上には所狭しと猫グッズが置かれて、壁には大切なもののように黒い特服と並んで、佐野道場に通っていた頃の道着がぶら下がっている。何一つ変わらないその風景の中、いつも開かれていた西日の差し込む窓は固く閉ざされて、棚の上に置かれた小さな仏壇だけが不気味なほど異質に見えた。
後ろ手に襖を閉めても、場地の母親は何も言わなかった。戸棚の上に据え付けられた小さな仏壇には、全然知らない漢字ばっかり並んだ位牌と写真、小さな鈴に線香。
あいつ、バカだったから、こんな読めない字ばっかじゃ自分の事だってわかんないんじゃねえかな。なぁ、場地。読める?
フレームの中、いつだったか、神社の境内で撮った何気無い日常の一コマで大口を開けて笑っていた呑気な笑顔に問いかける。
墓に足を運ぶことはできても、ここに訪れることはもうないと思っていた。
怖かったのだ。場地を作り上げていたこの空間の中にある幾つもの違和感が、もう本人がいないことをまざまざと突きつけてくるようで。きっと、自分はそれを見過ごすことなんて出来ない。線香を灯し、鈴を鳴らして手を合わせる、こんな一連の動作に慣れてしまった自分が嫌だった。薄く香る、この煙くさい匂いが大嫌いだ。
万次郎は思う。この匂いはいつだって、オレから大切なやつを奪っていく。兄貴も、場地も。
長い時間をかけて立ち上がると、寝床にしていた傍らの押し入れは襖を取り外されていた。新しい家ではベッドがもらえるのだと浮かれていた期待のベッドとやらがこの戸棚の上段だった時は、ずいぶん笑って、場地の機嫌を損ねたものだ。もう寝る人間のいない戸棚は寝具こそ片付けてあるものの、マットレス代わりの敷布団はまだ述べられたままになっていた。
背後を確かめ、そっと前框に手を掛ける。寝ればそう寝心地は悪くないと場地は笑って言っていたけれど、狭そうで嫌だと終ぞ上ったことはなかったのだ。音を立てないよう、猫のように静かに飛び乗ると、中板が微かに軋んだ。
「……はは、狭」
人一人、どうにか横になれる程度のスペースは当人より小柄な自分でも少々手狭で、やっぱり狭いじゃないかと口許を歪めた。加えて縦の長さも足りないから、背の高かったあいつは碌に足も伸ばせず、相当寝づらかっただろうと思う。薄い敷布団の上、壁側に転がり膝を抱えて丸くなると、辺りはしんとした。押入れの中だからだろうか、少しずつ藍の混じる冬の夕暮れの日差しも届かず、締め切った部屋特有の生温い微かに篭った空気と共に、全身が意外にも心地のいい薄闇に包まれている。天井は腕を伸ばせば届きそうな程、近い。迫る三方の壁に守られているような奇妙な安堵感の中、目を閉じると頬を預けた敷布団越しの中板の硬さに、不意に涙が溢れそうになった。
眠る自分を背負うまだ薄い肩に、硬く張り出した骨を思い出す。
場地で、良かった。
場地が、良かった。
全部、オマエだから良かったのに。
──あぁ、ここは繭の中だ、と万次郎は思う。
二人、ここで手を繋いで蹲れば、繭の中で癒着した魂は、何かに成れたのだろうか。
唇を噛み締め、あの薄くて脆い、愛おしい骨の感触を求めて一人、目を閉じる。
こうしていても、もう何も実らないことはわかっている。
それでも、今はまだ、この生暖かな繭の中から目覚めたくなんてないのだ。