シュレディンガーの、 春千夜が捕まった。
もうずっと昔、顔も覚えてねーような遠い昔にノしたどっかのクソチームが「あのガキ死にかけてるらしいじゃん」とマイキーを嘲笑ったらしいと風の噂で聞きつけた春千夜は、あろう事か、ばぁちゃん家の床の間に飾られていた日本刀を持ち出して単身乗り込み、抜き身のそれで斬りかかったんだそうだ。あのバカが。とは言え、今回はどうにか生き長らえたそいつらも、一生モノの派手な刀傷をこさえるか、バカみてーな顔面がぐちゃぐちゃになるまでオレにブン殴られるか、どっちが先かの選べない2タイプだったんだから、きっと今回はたまたまそういう運命だったんだろう。
とにかく、春千夜が敢無くお縄になった所為で、オレは一人になってしまった。一緒にマイキーが目を覚ますのを待つって約束したじゃねーか。……約束、したのに。
春千夜がいなくなって、ただでさえ少ない友達が誰もいなくなった。佐野道場は先生が体を壊して、あれから間もなく閉鎖になった。母ちゃんが嘆いたところで学校なんて行く気もしなかったし、呑気なツラして毎日笑ってる奴らに混じって生きていくなんて、死んでもごめんだった。一時は足繁く通っていたマイキーの病院からも少しずつ足が遠のいた。
あいつの事を忘れたんじゃない。
日当たりのいい、真っ白で明るい病室にマイキーは眠ってる。保健室のシップの匂いすら大嫌いだったあいつが、文句の一つも言わずに、ただじっと黙ってベッドに横たわってる。
ショクブツジョータイって言うんだって、真一郎君が教えてくれた。きっとオレが治して見せるって笑っていたけど、周りの大人達はもう二度と、マイキーが目覚めることがないってみんな分かっているみたいだった。
それでも、いつか、もしかしたら。
あいつは無敵のマイキーだ。どんなアニメだって、ヒーローは奇跡を起こせるじゃねーか。
頭ではそう信じている筈なのに、あの病室の扉に手をかける度に指先が冷たくなる。扉を開けて、カーテンを引いて、そこにいるあいつの目がオレを映してくれないことに、毎回律儀に絶望する。
それが怖くて、怖くて仕方がなくて、どうしても足が言うことを聞かない。
あの事故から決して短くない年月が過ぎたけれど、一人ぼっちになったオレに出来るのはせいぜい、あと何年も何十年も、目の前に積み上げられた、頭が真っ白になるほどの有り余る無意味な時間を、端からムダに使っていく。ただそれだけ。
楽しいことなんて何一つなかった。それはマイキーが生きたかった時間で、春千夜が守りたかった時間で、オレ達の間にこれからもずっと変わらず流れていくと信じていた時間で、こんな風にオレだけに浪費されるものじゃなかった筈なのに。
退屈しきったある日のことだ。
晩飯に美味くもないカップ麺を啜りながら聞き流していたテレビから聞こえたナンタラの猫、の言葉に珍しく顔を上げた。何度聞いても覚えられそうにない、舌を噛みそうなその名前がすんなりと耳に馴染んだのは今考えても不思議としか言いようがないんだけど、とにかくオレの目はその画面に釘付けになった。
シュレディンガーの猫。
昔、どっかの国の学者が考えた実験だそうだ。蓋のある、中の見えない箱に、猫と毒ガスの装置を入れる。その装置は一時間以内に五十パーセントの確率で壊れて毒ガスが発生する仕組みになっていて、さて一時間後に蓋を開けた時、中の猫は生きてるか死んでいるか。
最初、オレなら絶対に蓋を開けらんねーし、そもそも猫を殺しかねない実験なんてふざけんなと随分憤慨したもんだけど、それはあくまで理論上の思考実験で、実際に苦しんだ猫はいねーそうだ。良かった。
とにかく蓋を開けるまで分からないこの瞬間、箱の中には生きている猫と死んでいる猫が同時に存在することになるんじゃないかってパラドックス?がどうとかいう話らしい。
どうにか理解できたのはここまでで、ぶっちゃけこれが合ってるのかも疑わしい。だけどその時、オレの脳みそはまさしく百年に一度と言ってもいいくらいの閃きを見せたのだ。天啓、ってやつかもしれない。
これって、あいつも同じなんじゃねーのかな。
あの真っ白な、蓋の閉まった箱みたいな外から見えない部屋の中には、生きながら死んでいるみたいな今のマイキーと同時に目を覚まして元気に起き上がったマイキーが存在している可能性があって、そのどちらかは扉を開ける瞬間までわからない。
箱に閉じ込められた猫。箱に、閉じ込められたあいつ。
これって、もしかしてマイキーなんじゃないだろうか。
もちろん、いくらでっかくてピカピカのまん丸い目をしていてもあいつは猫じゃないし、潔癖症の春千夜が聞いたらバカじゃねーか場地、マイキーを猫なんかと一緒にすんなって一発くらい引っ叩いてきたんだろう。
でも、生憎そんな風にオレを笑ってくれる奴は、もう誰もいなかった。
誰も、それは違うだろって言ってくれなかったから、オレは自分の閃きを信じるしかなかった。
だってそれは、ずっとずっと、真っ暗だったオレの世界にただ一つ灯った、初めての希望の光だった。
オレが病室の扉を開けなければ、その向こうには呑気な顔で「あー、よく寝た。シンイチロー、腹減ったからたい焼き買ってきてよ」なんて目を覚ますマイキーがいる可能性があるんだ。行けないんじゃなくて行かないだけだと、祈るように足を遠ざけるしかなかった。あの扉を開けてしまったら、オレの手でマイキーを殺してしまうような気がして。
───オレが再びあそこに立ったのは、真一郎君から電話を受けた日のことだ。
あれほど硬く閉じられていた扉は大きく開かれて、そこから空っぽのベッドが覗いていた。縋るように信じた、元気なマイキーの姿なんてどこにもなかった。
失敗だったんだと思った。
花に囲まれたあいつとようやく対面して、随分長くその顔を見てなかったことに気づいた。
久しぶりに会った血の気の失せた頬は、もうすっかりオレが知ってるものではなくて。ぷっくら丸かった頰のラインは肉が削げたことで少し大人びてすら見えて、知らない人の顔みたいだと思った。
骨の浮いた手も、目にかかった前髪も全部、あんなことになっても、マイキーが今日まで生きてきた証だった。
そばに居れば良かった。
少しずつ死に向かいながらも生きていたあいつから逃げずに、ずっと見ていたら良かった。
そしたら、こんな後悔しなかったかもしれないのに。
いつかを信じて待つって約束から逃げ出して、果たせなかったのはオレの方だ。
知らない顔をしたよく知る幼馴染へ涙を流す資格があるのかもわからないまま、泣いてる春千夜の隣でただじっと唇を噛み締めて、見送ることしか出来なかったオレはきっと、大バカ者だ。
もう一度、マイキーの瞳にオレが映る。
ただ、それだけでよかったのに。