人魚姫。薄暗い海の中。
私はゆっくりと沈んでいく。
身体が重いーー。
見上げれば、水面に揺れる月が見えた。
なんで?
だって私は泳げるはずなのに。
モヤのかかった頭が少しずつはっきりしていく。
これは夢?
現実?
ーーそうだ。
私はもう、人魚じゃない。
王子様は、私を選んではくれなかったんだ。
ゆっくりと瞳を閉じる。
ハリーは未来へ帰った。
『お姫様』と幸せになるために。
王子様に選ばれなかった人魚姫は、泡になって消える運命。
でも…、
ハリーが幸せなら、それでいい…。
お姫様と王子様。
笑い合うふたりの顔が浮かぶ。
胸がチクリと痛んだ。
心にぽっかりと穴が空いたように虚しくて。
でも、消えてしまうのなら…もう何も考えなくてもいいんだ。
泡になって消えるって、案外楽なのかな。
でも私、ハリーを好きになった事…後悔してないよ?
次第に意識が遠のいていく。
薄れ行く意識の中、誰かがぎゅっとほまれの腕を掴んだ…気がした。
***
ここは、どこ?
「……ま…れ…?」
最後に見たのは水面に揺れる月だった。
その月が今は綺麗に輝いている。
「…ほまれっ」
名前を呼ばれてハッとする。
慌てて身体を起こした。
ここは、浜辺だ。
王子様と出会った浜辺。
「・・・・っ?!」
身体が重い。
それと同時に寒くて、呼吸が苦しくて肩で息をする。
「……なん…で…?」
苦しい…?
私は、生きている?
びしょ濡れで重くなったほまれのドレスは、あの時王子様に選んでもらった黄色のドレス。
「ハリー…っ」
見上げれば、心配そうに見つめる赤い髪の王子様。
やっぱりびしょ濡れで、重たそうな赤い上着が放置されていた。
「ハァ、ほまれ…、良かった…」
ハリーはほっとしたように膝から崩れ落ちた。
彼もまた、肩で息をしている。
荒い息遣いで苦しそうに見えた。
「ハリー何でっ?大丈夫?!」
お姫様に向けたものとは違うけど、優しくほまれに向けられた、少し困った笑顔。
ハリーは呼吸を整えながら小さく頷く。
「俺は、大丈夫や…。ほまれは?」
「私も…大丈夫。だけど…」
何だか久し振りに見たような気がするその顔に涙が溢れた。
同時にたくさんの不安が胸を過ぎる。
「なん、で…?」
本当は…、
すごく悲しくて。
辛くて。
悔しくて。
でも、やっぱり大好きで。
諦めきれなくて…。
彼女が…少しだけ憎い…。
「ハリーは…だってハリーは、キュアトゥモローと…っ」
一緒に未来に帰ったはず。
《恋が叶わなかった人魚姫は…》
ほまれは俯く。
こんな思いをするのなら…。
「だから私は、泡に…」
視界に入った自分の両手。
「ハリーに触れることが出来ない手なんて、いらない…」
その両足。
「ハリーに近付くことが出来ない足なんて、いらない…」
こんな思いをするのなら…、いっそ泡になった方が楽かもしれない。
その手に涙がこぼれる。
「…消えて…しまいた…
「そんなん、絶対許さんからな」
ほまれの言葉は低い声に遮られる。
「消えるなんて、絶対許さん」
言われてぎゅっと肩を掴まれた。
痛いくらいの肩と、いつもと違う彼の雰囲気に少し驚く。
…怒ってる?
恐る恐る顔を上げると。
ハリーが真っ直ぐにこちらを見ていた。
「何で俺、こんな大事なこと忘れてたんやろ…」
辛そうなハリーの顔。
怒っているのはほまれにか、自分自身になのか…。
「何してたんやろ…。急にほまれのこと思い出して…必死に探した。そしたらここで、初めて会ったこの場所で…海に沈んでくほまれがおった…」
怒りを露わに、でも少しの悲しさを含んだ複雑な眼差し。
「ここが《人魚姫》の世界だって気付いて…、ほまれが…泡になるかもしれんって思ったら…必死で海に飛び込んどった」
肩を掴んでいた腕が背中に回り。
身体が引寄せられる。
ぎゅっと抱き締められて。
その体温を感じて…。
「怖かった…。
ほまれが居なくなるかもしれへんって…考えただけで、怖かった…」
その手が震えているのがわかった。
「もう、絶対に離さへん。俺が絶対に、泡になんか…させへんっ」
もう離すまいと、その腕に力が篭る。
「俺の一番大切な人は…、」
少し間があって、ゆっくりと耳元で囁く。
時が止まったような感覚。
「ほまれや」
ただただ涙が溢れた。
胸がいっぱいで。
「…ありがと…」
絞り出すように声を出す。
涙がとまらない。
ほまれは濡れたままのハリーのシャツをぎゅっと掴んだ。
「いつになるかはわからんけど…必ず迎えに行く。せやから、待っててくれ」
ハリーの表情はわからない。
でも、真剣に考えてくれているのはわかる。
ほまれがその腕の中で頷く。
「うん…。待ってる。
いつまでもずっと、待ってるから…っ」
End***