籠 あの庭で文机に向かい、書面を眺める。
教養のあるであろう綺麗なその文字は、いつも香耶の身体を気遣い心配する文面からはじまり、その後は、今どのように自分が暮らしているか、それがいかに辛いものか、その全てが斎森美世の責任であり、彼女一人だけが幸せになる事が許せない、と言う内容が続く事がほとんどだった。
ため息を吐き、手紙を丁寧に畳んだ香耶は小さく灯るランプの火を見た。
思い出すのは、鬱々としたあの家の雰囲気。
仮面のように張り付いた父と母の笑顔。
上辺だけの綺麗事を話す使用人。
そしてーー、
涙をも見せず、必死に耐えて俯き、謝罪する異母姉。
何故だろう。
こんなに嫌いなのに。
不思議と今顔を思い出せるのは、異母姉の美世だけだった。
ーー母は、何処で道を踏み外してしまったのだろう。
母に、父に。
私は愛されていたとは思う。
それはまるで愛玩人形のように。
異母姉に…、異母姉の母である澄美に見せつけるために、有能という仮面を被った人形。
それが私の役目だった。
異母姉より『上にいる事』が、人形の役割。
…けれど。
母を哀れとは思ど、やはり嫌いになれないのは、優しくされた記憶があるからか。
香耶は小さなランプの灯りを消して文机から離れ、自分の荷物の中にそっと手紙を仕舞った。
暗くなった部屋を見渡し、薄い布団に潜り込む。今夜は冷える。
ーー母は、私を通して異母姉を見ていた。
否、異母姉の母である、澄美その人か。
結局誰も『私』を見てはいない事を、香耶は知っていた。
奉公人の朝は早い。
仕事を慣れた手つきでこなし、簡単に朝食をとると、店の開店準備をするのが日課だ。
香耶の奉公先は厳しくて有名だった。
始めの1年こそ世間知らずのお嬢様で、厳しく叱られる事も多かったが、2年近くも経てば慣れたもの。奉公先としては厳しいが、主人は自分にも厳しく堅実な人であり、奉公人に対しては休日も作り、わずかながら決まった給金を与えもした。世間を学ぶと言う意味では、これ以上にない場所に思える。
寒さが少しずつ厳しくなる中、香耶は水仕事にも励んだ。手にはあかぎれが出来ている。
奉公の使用人用に薬が少し用意されているが、あまり効かない。最も、使用人の為に薬が用意されているだけでもありがたい事なのだが。
「香耶、お客さんだよ」
珍しく呼び止められて顔を上げると、女主人が笑顔で香耶を手招いていた。
店の裏は母屋になっていて、香耶の主人らが暮らす屋敷が併設されている。
「…?はいっ」
軽く手を拭いて店を抜け、慌しく屋敷の玄関の方へ行くと、そこには香耶の主人と話をする見知った顔があった。
「一志さん…?」
婚約者の辰石幸次の兄である、辰石一志その人だった。意外な人物に香耶は驚く。婚約が順調に進めば義兄になるが、もう何年も会っていない間柄になる。
2人はこちらに気付き、一志はにっこり笑って手を振った。
「奥へどうぞ」
店を構える主人だけあって、人当たりの良い笑顔で一志に部屋を進める。
香耶には客間を使うようにと短く指示した。
香耶は主人に一礼して、一志を案内する。
庭園が良く見える純和風の客間だった。奥の上座に座布団を用意して一志に進める。それと同時に、客用の急須と湯飲みに茶菓子が乗ったお盆を同僚に手渡された。ありがとうと小さく告げて受け取り、膝を突いて戸を閉める。
香耶は慣れた手つきで湯飲みに茶を入れ、茶菓子と一緒に机に置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
言われた一志は、ほぅと感嘆していた。
「変わったね。香耶ちゃん」
にっこり微笑む。
「否…、そう言う何でも器用にこなす所は、昔と変わらないのかな」
とんでもないです、と香耶は人好きのする笑顔で手を振り否定する。
自分が器用だなんて、思ったことはない。
不器用だからこそ、それを隠して何度も練習して、振る舞うのが得意になったのだと香耶は思う。あの家で。
香耶は一志に向き合う形で、下座に座り姿勢を正した。
「ごめんね、忙しい時間に。何分僕も忙しくてね。昼前には汽車に乗って帝都に戻らなくてはいけなくて」
香耶の入れた茶を啜り、はぁと、わざとらしくため息を吐く。
湯飲みを置いて、小袖から何かを取り出すと、机の上に置いた。
「手紙、ですか?」
一志が小さく頷く。
書かれた宛名は斎森香耶。
癖のある字だが、丁寧に書かれている。
受け取ろうと手を伸ばすが、一志の言葉に手が止まった。
「斎森美世さんからです。いえ、久堂美世さんとお呼びするべきかな」
その名前を聞いて、ひやりとした。心臓がうるさく脈打ち、胸がぎゅっと痛む感覚。
伸ばしかけたその手で胸を押さえ、呼吸を整える。
使用人以下の生活をしていた異母姉の文字を、久しく見ていない。それは、彼女が文字を読み書きする道具を持たなかったから。手紙を書く相手や時間さえ、私たちが奪ってきたから。
香耶は俯く。
震える拳をぎゅっと握って唇を噛んだ。
今はもう、立場で言えば自分よりずっと『上』の義母姉。
こうして離れてしまえば、上下関係なんて本当はどうでも良い事だった。だって私はもう、『あの家』には居ないんだから。
頭では理解できていても、気持ちが追いつかない。
言葉が出ずに押し黙る。
「受け取る受け取らない、読む読まないは、君の自由だよ。それは彼女もわかってると思う」
察したように一志が告げる。
一志は庭園を眺めて目を細めた。
「読んでないからわからないけど。美世ちゃんの事だから、怨みつらみが書いてある訳ではないと思うよ。たぶんね」
俯いたままの香耶は動く事が出来ない。
この人は知っている。
香耶が今まで、どんなふうに生きて来たのか。
香耶の味方でもなければ、美世の味方だったようにも見えなかった一志。彼は幸次とは違い、いつも斎森からは一歩引いた所に居たように思える。
どうする事も出来ずにいると、不意に足音が聞こえた。足音は客間の扉の前で止まり「失礼します」と女性の声が聞こえてきたと同時に、勢い良くその戸が開かれた。
香耶も一志も何事かとそちらを見る。
「兄さん!!一人で行かないでって言ったじゃないか!」
開口一番の大声に、案内してきた女性は少し驚き、目が合った同僚の香耶に笑い掛けて静かに戸を閉めて行った。
「お前が準備に手間取っているからだろう。婚約者に会うからって洒落込んで」
「…っ!!違っ!そんな話してるんじゃなくて!」
顔を真っ赤にする幸次に、涼しい顔の一志。
まるで大人と子どものようだ、と香耶は思う。
こんな光景に、香耶は見覚えがあった。
あれはたぶん斎森の実家にある庭。純和風に作られた豪邸の庭だった。
頬を膨らませ、顔を真っ赤にして何やら怒る幼い幸次に、やはり涼しげに悪戯な笑を浮かべる一志。そして、それを困った顔で見る美世。
でもそこに、香耶はいない。
庭園が見渡せる様に小窓が備え付けられた障子戸から、そんな風景をよく見ていた気がする。
俯いて、ふっと笑う。
目を閉じて思い出すのは、やはり大嫌いな美世の顔だった。
…大嫌いな、義母姉なのに。
幼い笑顔が思い出と重なる。
「昔から、変わりませんのね」
言い合いをする2人に目を向けて笑えば。
幸次は恥ずかしそうに笑う。
一志も変わらず笑っていた。
ひとしきり笑い、香耶は幸次を見た。
そして、一志の居る方の机に向き直る。
「とりあえず…ですが、受け取っておきます」
「うん。そうしてあげて」
手紙を受け取り、懐にしまう。
一志は笑顔で頷いた。
「さて、用事は済んだし、ぼくはそろそろお暇するよ。汽車の時間もあるし、少しこちらで買い物もしたいし。香耶ちゃんのお仕事の邪魔もしたくないしね」
「え?あ、じゃあ僕も…」
と幸次が言い掛けるが、一志が手を出して止める仕草をする。
「買い物はひとりでしたいんだ」
聞けば一志は度々仕事や旅行で旧都に立ち寄っているらしい。
様々な店を歩く一志は、下手したら奉公の仕事で休みが少ない香耶や幸次より旧都には詳しいかもしれない。
「それに幸次は今日もこれから修行でしょ」
一志が扉に向かうと、香耶も立ち上がる。先に引戸を開けて客である一志を通し、そんなに遠くない玄関の方へ案内した。
物音に気付いたのか、顔を出した主人に2人は並んで挨拶をして、玄関を潜る。香耶もそれに続いて見送りに出た。
少し遅れて玄関を出ると、兄弟は立ち話をしているようだった。
「本日は早くから、ありがとうございました」
「いえ。お邪魔しました。香耶ちゃんの顔を久しぶりに見る事が出来て良かったよ。また近くに来た時は挨拶に寄るね」
幸次をちらりと見て、
「出来の悪い弟だけど、幸次のことよろしくね」
小さく言って、笑顔で手を振る。
それが聞こえたか聞こえないかはわからないが、またねと幸次も軽く手を振っていた。
香耶は静かに頭を下げる。
深くゆっくりと、礼を尽くす。
また寄るね、はたぶん社交辞令。
気が向けば来るだろうし、気が向かなければ来ないだろう。そう言う人だと思う。
斎森に居た時には分からなかった。
人が人を訪ねる事の大切さ。
自分を思って来てくれる。
それがこんなにも嬉しく、有り難い事だと。
実際、住み慣れた帝都を離れて香耶を訪ねて来るのは幸次くらいだった。
帝都にいた所で斎森の看板がなくなればどの位の人が香耶を訪ねただろう。
そんな彼が今日はたぶん、香耶の為にわざわざ時間を割いて来てくれたのだ。
ーー美世と、香耶の為に。
頭を上げると、一志は一度も振り返る事なくそのまま行ってしまった。
「兄さん、何か用事だった?」
一志が見えなくなると、幸次が香耶に尋ねた。
香耶が小さく頷く。
「…お姉さまからの…、手紙を持って来て下さったの」
幸次は驚いて目を見開いた。
「…それ…さっきの、受け取るとか何とか言ってた…?」
これにも香耶は頷いた。
「迷ったけど、受け取っておいたわ」
香耶は見えなくなった一志の方をただ静かに見ていた。幸次はそんな香耶を心配そうに見ている。
「…その…大丈夫?」
幸次が呟くと、香耶はそちらを振り向きふっと笑う。
「少し落ち込んでるわ。…本当はもうちょっと、気が効く言葉が欲しいのだけど」
兄弟なのにどうしてこうも違うのだろう。一志ならここで、上手い言葉を言ってくれるんだろうけど。
私の知っているこの人は、昔からずっと不器用だった。姉の事が好きで、でも見ている事しか出来なくて。…そんな人だったはずなのに。
あの出来事以来、幸次は香耶に気を遣うことはなくなったが、何故か今もずっと婚約者として側にいる。婚約破棄でもおかしくはない出来事だったのに。
ただ側に居て。
人として、接してくれた。
斎森の人形ではない私の側に。
ただ、居てくれる。
それだけの関係、なのだけれど。
香耶の反応に、眉を八の字にして困り果て、頭を掻く幸次に、妙に心が安らぐのは確かだった。
小さくごめんと言う情けない声が聞こえる。
それに香耶は笑って応えた。
「幸次さんらしくて好きよ。そう言う所」
深い意味は無いけれど。
本当に無いけれど。
そんな幸次の優しさが、心地良い。
「…違うの。幸次さんが来てくれたから、受け取ったのよ。迷ったけれど、幸次さんの顔を見たら…受け取ってもいいかもって思ったの」
安心した。
ひとりではなくて、この人となら…、と思った。
「今はまだ、この手紙を読む勇気はないけれど…」
香耶は幸次を真っ直ぐに見る。
「奉公が開けた時に…開封しようと思ったの」
年季奉公が明ける事はつまり、婚約者である私たちの結婚を意味する。
もしこのまま、順調に行けばの話だが。
「…付き合って下さる…かしら?」
香耶が首を傾げる。
少しだけ笑ってその顔を覗くと、幸次は少し驚いているようだった。
私たちは親が決めた婚約者と言うだけの関係だから。
この先の事は正直まだ、分からない。
「…そうだね、うん。君がそれで、彼女と向き合えるのなら。付き合うよ」
幸次が優しく笑う。
仮面を付けた、嘘ではない笑顔。
ただ私は、それが欲しかっただけ。
障子越しに見ていた、幼馴染の3人。
自分は今から習い事の稽古があるのに、遊ぶ義母姉の姿が大嫌いだった。
妬ましかった。
羨ましかった。
笑いたかった。
私もこんな風に、幼馴染と。
…お姉さまと。
一緒にただ笑いたかっただけ。
遠くに見ていたあの時の庭が、その景色が、今はすぐそこにある。
今はそこに、自分の足で歩いていける。
そんな気がした。
End***