籠 妹ーーお姉さま。
そう、呼ばれた気がして。
美世は立ち止まり、振り返る。
隣を歩いていた清霞も、立ち止まる美世に気付いて足を止めた。
人混みで、彼女の姿を見た…と、美世は思う。
綺麗で目を引くその顔に、艶やかな着物を身に纏った異母妹。
あれから2年の月日が流れようとしていた。
香耶は奉公に出て、此処にいるはずはないのに。
苦しいくらいに心臓が脈打ち、呼吸が一瞬止まる感覚。
その姿を探すが、人混みに紛れてもう見つける事は出来なかった。
ーー何処に行ったんだろう。
「…待って、」
美世は走り出す。
ーー待って。
自分でも驚くほど自然に身体が動いた。
もう、会う事はないかもしれないと思っていた異母妹。
彼女がそこに居るかもしれない。
美世が数歩進んだ時、不意に後ろから腕を掴まれる。痛いくらいに握られて、それを振り払う事が出来ない。
「美世っ!」
少し大きな声が頭に響いて我に帰る。
言われて足を止め、振り返れば心配そうな清霞の顔。
「美世…?」
「旦那、さま?」
心配そうな清霞の顔を、きょとんとした美世は不思議そうに見る。
「急にどうした?何かあったのか?」
言って美世の頬に触れた。
清霞の温かいその手が、美世の頬に伝う涙を拭う。
ーー涙?
いつの間にか頬が濡れていた。
美世は自分が泣いていた事に気付く。
「申し訳、」
言いかけて止める。
違う。
もう、あの家に私はいない。
最後に彼女に会ったのは、もう随分前なのに。
目を閉じると、あの家での出来事を今でも鮮明に思い出す事が出来た。
でも、今の私は、昔の私とは違う。
美世は小さく深呼吸をして、清霞を見た。
「気のせいかもしれないのですが…妹を、見た気がします」
清霞の袖を無意識にぎゅっと握る。
少しだけ、手が震えていた。
清霞が辺りを見回すが、それらしい人影は勿論ない。
「たぶん居ない、と思うが」
見当違いか他人の空似か、もしくは…。
清霞の言葉に美世も辺りを見回す。
やはり何も見つからない。行き交う人々は美世と清霞に何ら構う様子はなく流れて行った。
美世はほっとしたような、少し複雑な表情を見せる。
「そう…ですね。勘違いだったようです。すみません…」
美世は香耶の奉公先を詳しくは知らない。
ただ、遠くとだけ聞いていた。
聞かれれば伝えると告げられているが、美世の方から話題にする事は今まで一度もなかった。
故に、清霞は少し驚いたようだった。
ただ此処に、彼女が帝都には居るはずがないと清霞自身は知っている。
「…あの子は、帝都には…もういないんですよね」
清霞は静かに頷く。
美世の手を引いて道の端に寄った。
元より人通りの多い道だ。店々を見て立ち止まる人もいれば、立ち話をしている人もいる賑やかな大通り。清霞と美世が話をしていても誰も気に留めない。
「気になるか?」
小さく呟いて、それ以上は何も言わない清霞。
それは美世を気遣ってのものだろう。
美世はいえと短く断って、何処か宙を仰ぐ。
晴れやかな青空が、何処までも続いていた。
「最近、昔の夢を時々見るんです。斎森のあの大きな家で、幼い頃に遊んだ夢を」
夢。
美世の言う夢は、時折深い意味を持つ。
全てが異能と言う訳ではないと思うが、全く意味が無いとも勿論断言は出来ない。
「幼馴染の幸次さんや一志さんと庭で遊んでいるのですが…。そこにあの子はいないんです」
振り返ると障子の向こうから見ている香耶がいて、声を掛けようとするけれど…。
一瞬躊躇った所で目が覚める。
目覚める寸前に「香耶、行きますよ」と彼女を呼ぶ義母の厳しい声。
「あの時私が声を掛けたかどうか、記憶はありません。そもそもこれが現実だったのかもわかりませんが…」
何処か朧気な視線を彷徨わせる美世。
「私は幼い頃、異母妹と遊んだ記憶があまりありません」
そして、それはそのまま確執へと変わっていったーー。
美世は寂しそうに笑う。
その先には、姉妹が揃いの着物を着て、母の手を握り歩く姿があった。楽しそうに話をしながら、歩く小さな姿。片手には風車がそれぞれ握られていた。
「あの時、一度でも勇気を出して声を掛けていたら…、何かが変わったのかも…しれません」
親子は通り過ぎて、すぐに人混みに消えていった。美世はそれを優しい眼差しで見送る。優しくて、哀しい瞳。
胸がぎゅっと痛くなる。
ーーどうして私たちは、上手く付き合う事が出来なかったのだろう。
「美世が、それを責める必要はない」
彼女は、それ以上の事を美世にしてきた。
香耶の歪んだ人格形成は、斎森家に責任があるだろう。あの家での出来事の被害者は、美世だけではない。でもそれは、それだけで済む問題でもない。だから美世に辛く当たっても良いと言う理由にはならない。
清霞に出逢った頃よりも幾分か明るくなった美世。
今、異母妹を語る彼女の表情は、辛いとか悲しいとかそんな暗いものではなくて、何かを必死で探しているような…。
自分自身でも気持ちの整理が付かない。
清霞は遠くを見る。
躊躇ったが、美世に視線を戻して言葉を続けた。
「文を出してみるか?」
美世は大きく目を見開いた。
考えた事もなかった、と言う表情をしている。
「文…、ですか?」
書類関係は全て清霞を通すように伝えてあるが、いつか美世が斎森に何か思う事があれば、文字にする事をと清霞は考えていた。父か継母か、香耶か幸次辺りか。
「考えるだけでもいい。文字に起こして、やはり止めるなら捨て置けばいい。書くだけで出さずとも構わない」
美世は小学を出ているし、久堂家に来てから勉学にも励んでいた。今なら気持ちをしたためる事も出来る。
「もっと言ってしまえば、受け取る相手側も、読む読まないは自由だから、美世が気負う必要もない。ただ…、」
とは言え、手紙は受け取れば余程の事が無ければ読む。美世と異母妹ーー斎森の実家は今は絶縁状態だから、「余程」の間柄だと美世も清霞も認識している。
「良い意味でも、悪い意味でも、相手を気にかけていることは知られてしまう」
美世は大きな瞳を曇らせる。
ーー文。
それはきっと…もし上手く行ってしまえば、また再び香耶と繋がる事になる。
繋がらなくとも、お互いを意識せざるを得なくなる。
絶縁した異母妹。
今は何をしているのか。
あれからどうしているのか。
元気だろうか。
奉公は辛くはないだろうか。
奉公人となった今、
…私を、どう思っているのだろう。
やはりまだ、良くは思われていないのではないだろうか…。
何もかもが理不尽だったあの家。
罵られ、蔑まれて育った自分。
対照的に褒められ、持て囃されて育った異母妹。
あの家に産まれていなければきっと、お互いもっと違った人生を歩んでいたかもしれない。
もしそうなら。
もう少し違う関係になっていたかもしれない。
色んな気持ちが一気に押し寄せる。
息が詰まる。胸が苦しくて潰されそうで。
胸元に手を当てた。
何故、今更あの家の夢を見るのだろう。
と、考えてすぐにそこに至る。
ーー何故?
美世はちらりと、清霞を盗み見た。
清霞はそれに気付いたのか、美世に目線を下ろす。視線が交わって恥ずかしくて思わず俯いた。
幸せ、なんだ。
胸にあったしこりが解けていくように軽くなる。
毎日清霞と一緒に過ごせて、何でもないその毎日が幸せで。
自分は今満たされていて…、だからこそ自分が救えなかった異母妹を思い出す。
彼女の全てを、許せる程優しくもなれないけれど。だからと言って、頭から彼女を否定は出来なかった。
「無理に、とは言わない。気が向いたら書けばいい」
清霞はただ隣に居て、何も言わない美世を見ていた。
美世は顔を上げる。
「あの子に会いたい気持ちは、…まだ、ありません…。でも、」
怖い。私は異母妹が、怖い。
やはりそれは、すぐには消えない。
彼女に会って、平気でいられる自信もない。
ただ、清霞はいつも、隣に居てくれる。
斎森の家を出て、清霞と暮らして。辛い事もあったけれど、いつも背中を押してくれた。
だから…。
「文を、出したいです」
美世は真っ直ぐに清霞を見た。
自分の過去と、彼女ー香耶と向き合う為にも。
「たった一人の妹ですから」
いつか、会うことが出来たら。
何かが変わるのだろうか。
あの頃の
斎森美世ではない自分と、
斎森香耶ではない彼女と。
そんな風にいつか出逢えたら。
何を書けばいいんだろう。
言いたい事は、もう然程ない。
彼女は応えてくれるのだろうか。
否、返事はいらないのかもしれない。
ただ、どんな形であれ貴女を思う姉がいると、伝えたいだけ。
あの家は、もうないのだと。
End***