いつかまた 二深呼吸をして、薫子は道場の扉に手を掛ける。
未だかつてこの扉をこれ程重たいと感じた事はあっただろうか。
ーー俺じゃダメ?
駄目…。
じゃないにしても。
今の私には、人を好きになる余裕なんてない。
私はまだやっぱり、あの人が忘れられないから。
それをそのまま伝えようと。
扉を開くと、そこには項垂れて座り込む五道の姿があった。扉の音に気付いているだろうが、そのまま動かない。
「なんで…五道さんが落ち込んでるんですか…」
と、声を掛ければ、五道がちらりと此方を見る。
「だって〜。俺今からフラれる事確定じゃん」
「…今更ですか」
「勢いってたまには大事かな〜って」
軽口を叩く五道に、思わず笑みが漏れる。
何だがこの軽い空気に、ほんの少し安堵する。それは穏やかに流れる優しい色を含んでいた。
「どんな顔で陣之内に会えば良いのかわからない」
ふいっとわざとらしく顔を背ける五道の『いつも通り』の姿に、彼の優しさを感じた。
「…私もです」
薫子も、自分らしく笑って応える。
いつも通りに笑える事が今は何だが嬉しい。
「五道さん。今日はありがとうございました」
薫子が頭を下げると、背を向けたままの五道が少しだけ頭を上げてこちらを見た。その表情は、いつものように笑顔で。
「別に。俺は何もしてないよ」
「いえ…。何だかすっきりした気分です」
「それは何より」
ニッと笑う五道に、薫子はもう一度頭を下げる。少し迷いながら言葉を選び、ゆっくりと続けた。
「あの、五道さん。私、その…」
私は、彼の気持ちには気持ちには応えられない。
しばらく、恋はしたくない。
言葉を選びながら、口を開く。言い掛けた言葉は五道の声に遮られた。
「知ってるよ」
静かだけれど、はっきりした声。
「知ってるから。言わなくていい」
その言葉に薫子は言葉を失う。
「言っただろ?誰が誰を好きでも構わないって」
軍の施設病院で。
婚約者のある清霞を好きになっても構わない。ただ、迷惑は掛けるな、と。
「隊長の婚約者候補でも…、好きになる気持ちは自由だから」
少しだけ寂しそうに笑う。
「でも、隊長が幸せになるんなら、陣之内だって幸せになってもいいんじゃない?」
ーー幸せ。
私に幸せになる権利は、あるのだろうか。
薫子は口を開くが、でもそれを言うのを少し躊躇い、両方の拳をぎゅっと握る。
俯いて、五道から目を逸らして。
「・・・・・・」
五道は薫子の言葉を静かに待つ。
意を決して薫子が口を開いた。
「五道さんは、…私がまた裏切ったら…。どうされる、おつもりですか?」
清霞から言われた婚約に至らなかった理由。
万が一にも仕事に私情を挟まない為、と。
少し違うけれど。
軍人である薫子が軍人である清霞を好きなように…、この人はどう思っているのだろうと。
驚いたような表情を見せて、五道からは笑顔がなくなる。
しばらく考えるように静かに宙を仰ぎ見て。
「…どうだろ。わかんない」
口調は軽いが、彼の空気が、表情が、また変わった気がした。
「わかんないけど。相手が身内であれ何であれ、覚悟はしてる。まぁ、時には無慈悲にならなきゃいけない、…そう言う仕事だし。割り切ってなきゃ、陣之内にわざわざ会いに来ないよ」
気付いてはいたが、道場内では動き易い胴着に着替えて、木刀や竹刀意外は丸腰に近い薫子に対して、五道は始めから腰元に武器を携帯したままで此処にいる。一応すぐに応戦出来るようにはしているのだろう。
実力でも差があり、薫子が背中から向かって行っても正直勝てる気はしない相手だ。
「まぁ、俺は“久堂少佐”じゃないから。陣之内の求める答えは持ってないけど。その時その場で、一番正しいと思う選択を出来ればいいんじゃない?と、思う訳よ」
五道は薫子を見上げる。
「あんま…悩まなくてもいいんじゃない?隊長は隊長だし。俺は俺。陣之内は陣之内だから」
その顔は、全く笑わない。
「でも、次に裏切るんなら俺は絶対に許さない。勿論、容赦はしない」
怒っているとは違うが、何の表情も見せないその顔は普段の五道を知っているからか恐怖すら覚える。久堂少佐とは違う威圧感がある。
容赦しないとは、おそらくはその場で殺す事も辞さない、と言う意味だろう。
迷いなく言ったその言葉は酷く冷たく感じるが、軍人としては正解だと薫子も納得する。
流石、久堂清霞の側近だ。
「…厳しい、ですね」
「いや〜。腹括ってるだけ。陣之内も逆の立場なら同じ答えでしょ?そもそも、もう裏切らなきゃ問題ないんだし」
五道が立ち上がる。
今まで座っていた五道が立ち上がると、薫子が少し顔を上げて見上げる形になる。
身体ごと薫子に向き直り、五道は真っ直ぐに薫子を見た。
「大丈夫。たぶん陣之内はもう、裏切ったりしない」
それだけ言ってから、優しく笑う。
「違う?」
首を傾けて薫子を覗き込む。
さっきの今で、つい意識してしまう。
顔に熱が昇るのを感じた。
「そ、そのつもりです」
慌てて一歩二歩と後ろへ下がる。
「じゃあ、いいんじゃない?」
いつも通り五道は笑う。
「さてと。冷えてきたし、そろそろ行くよ。寮?」
「はい。あ…、いえ!一人で帰れます!」
慌てて道場の鍵を閉める。
いつも一人で帰る道だ。寮まではそんなに距離もない。
「いや〜いいよ。送ってく」
と言って、薫子の手から道場の鍵をひょいっと取り上げる。
「あぁっ!いいです!大丈夫です!」
薫子が手を伸ばすが、軽く交わされてしまい、その身体には届かなくて。
五道は道場の鍵を手に歩き出す。
「いいの。俺が送りたいのっ」
ほら行くよ〜と軽く呟いて歩き出す。
あ、と呟いた五道は、薫子の手を軽く掴んで引っ張り、自分の隣に寄せた。
「陣之内はここね〜」
一応の前科者だから、五道の後ろを歩く訳には行かないが。この場合は本来、薫子が前であって隣ではない。
目線に気付いたのか、五道は薫子を見て悪戯に笑う。
「役得」
End***