ジョセフが倒れ、意識を失ってからもうどれほど経ったのだろう。ジョセフ以外のあらゆる事柄に意識を割く余裕などなかったから数えていなかった。ああ、でも確か、タチアナから飯を口に突っ込まれ、死にたいのかと散々怒られたような気もする。そこまで記憶の糸を辿って、やがてどうでもよくなり考えるのをやめた。
ここに来てからずっと離さずにいる、パレヴィア島で共に暮らしていた時より随分と頼りなくなった手を握る力を少しだけ強める。握った手から伝わる暖かさが、まだ彼はこの世に留まっているのだと教えてくれた。
(まだいてくれるというなら応えてくれ。受け入れなくて良い、俺の懺悔を、我儘を、貴方に伝える機会をもう一度だけ)
そこまで考えて、アレインは己の身勝手さに苦笑を浮かべた。そんな機会、今までいくらでもあったのに。
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戴冠式を終えた翌日、アレインは二人きりで話をしたいと、一角獣の噴水がある城の中庭にジョセフを呼び出した。
戴冠式の日も、この日も雲ひとつない晴れやかな空模様だった。まるでアレインが即位したのを世界が祝福し続けているようだと、兵達が嬉しそうに話していたのを覚えている。
「お待たせしました、陛下。二人きりでのご相談とは如何されましたか」
「ジョセフ」
そんなことをぼんやりと思い返していたら待ち人の声が聞こえ、慌てて背筋を伸ばす。王として恥ずかしいところを見せてしまった情けなさでじんわりと顔に熱が集まる。そんなアレインの様子を見てジョセフはふ、と柔らかい笑みをたたえた。
「確かに、王としての立ち振る舞いは重要です。ですが、今くらいはいいでしょう。二人きりですから」
「……いいのか?」
「ええ。この様にお話しする機会は、そうそうあるものでも無くなるでしょうから」
顔に集まった熱が冷え、心のやわらかいところにちくりと針を刺される感触がした。
(だってそれは、この先の未来、俺の隣に貴方はいないと言っているのと同じじゃないか)
不快な感傷を追い払うように目を閉じて息を吸い、吐く。きっと自分の勘違いだ。そうであってほしい。
「……今日は、そのことで話があって呼んだんだ」
コルニアへの清い忠誠をそのまま映したような紺碧色の瞳を正面から見つめる。心の臓が彼に聞こえているのではと思うほど忙しなく脈動しているのを感じながら、彼に向かって手を差し伸べた。
「聖騎士ジョセフ。他でもない貴方に、コルニアの宰相になってほしい」
ジョセフが驚いたように一歩後退り、やがてその表情が僅かに歪むのを見て、やってしまった、と思った。後に続く言葉など聞かずに、さっさと逃げ帰ってしまいたかった。
「……申し訳ありません。辞退させていただきたく存じます」
「…………顔を上げてくれ、ジョセフ。……何故だ。貴方が宰相になることに文句を言う者など、フェブリス中を探し回ったとしても一人だっていない筈だ」
差し伸べた手を取らず、深々と頭を下げる聖騎士を眺めながら、それでもなんとか声を絞り出す。もう彼の言葉を聞くのも嫌だったが、理由を聞けば何か反論できるのではないかと、共に歩める未来が、まだあるのではないかと、僅かな可能性に縋りたかった。
「私は既に老いさらばえた身。新しいコルニアの未来は、若い者たちの手で築き上げるべきです」
命令通り顔を上げたジョセフは淡々と答える。
「解放軍はジョセフが立ち上げたものだ。ゼノイラに気付かれないよう戦力を増やしていった立ち回りと、至らない俺を支えてくれた手腕を誰よりも高く評価している。貴方が俺の隣にいてくれるのなら、もっと、……コルニアは」
「評価してくださるのはこの上ない光栄です。国のために必要であるのならば、無論いつでもお力になりましょう。しかし、私が宰相になるという願いだけは聞けません。その立場にいるのは、未来があり、陛下と長い間共に歩める者であるべきです」
「っ、だが……」
「アレイン陛下」
静かに、それでいて一切の発言を認めぬかのような声音だった。
「過去の業績に囚われず、前に進むべきかと」
ずるい。という単語が頭の中を支配する。だって、その言葉で救われた俺が、貴方からそう言われたら、従うほかないだろう。
(…………嘘つき)
嘘つき。嘘つき嘘つき嘘つき!あの島で共にいると言ったのは貴方のほうじゃないか。貴方が手を差し伸べてくれたからここまで来れたのに、今になって全部なかったことにして自分を過去の人間と宣い、こちらが触れる手段を断つなんて。そんな惨い話があっていいものか!
「…………そうだな、分かった。無理を言ってすまなかった」
口元まで出かかった憎悪を無理やり飲み込んで、隠した。
本当は分かっている。ジョセフはなかったことにしたい訳ではないと。あの日共にいると告げてから、アレインが一人で抱えようとした傷を、責任を、苦しみを、隣で支え導き続けてくれた。十年間何も返せないままのアレインを、国を取り戻す日までずっと。
そうやって彼の人生を踏み台にして、自分にだけ都合のいい幸福が続くことをアレインは望み、相手は当然断った。ただそれだけの話なのだ。
「いえ、こちらこそ。ご期待にはお応えできませんが、それでも評価していただいたこと、心より嬉しく思います」
重荷を下ろした聖騎士は目尻に皺を寄せて笑みをたたえている。彼が自由になれたことを喜びたい、枷になってはいけないと思ったから、アレインも笑顔を作った。
「これからジョセフはどうしたいんだ?俺に手伝えることがあればなんでも言ってくれ」
「そうですね……。叶うならば、これからは一騎士として陛下とコルニアに仕え、これからのコルニアを担う兵達を育てたいと考えております」
仕える、と言われた瞬間に黒い感情が芽生えながらも、心の隅でほんの少しだけ安堵した。仮に城から離れる選択肢を取られてしまえば、引き留める権利などないから。そうして彼の自由を願いながら、結局は自分の目の届くところにいてほしいと望む心の醜さに直面して自己嫌悪する。
「……そうか、分かった。こちら側で調整しておこう」
「陛下の御慈悲、痛み入ります」
「気にしないでくれ。ジョセフが若手の指導者になってくれるのなら、コルニアの守りはより堅牢になるだろう」
聖騎士の肩をぽんと軽く叩く。はたから見れば主君が従者に期待を寄せているかのように、演じていられているだろうか。
「話は以上だ。これからもよろしく頼む。……それじゃあ」
置いた手を離し、踵を返して振り返らずに歩を進める。
全てが不快だった。雲一つない澄み渡る空も、うららかで穏やかな空気も、アレインの心情など知る由もなく平和に過ぎゆく時間の、何もかもが。
それでも過去に縋って、囚われてはならない。前に進まねばならない。個人としての繋がりが断たれた以上、彼がくれたやさしい光を、せめて名残りだけでもいいから一片も汚さぬまま抱えていたかった。
だから未練も傷も飲み込んで進み続けた。
何年も、島で共に過ごした時間よりも長い歳月が経っても。
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泣き喚いてでも引き留めれば、差し出した手を握り返してくれたのだろうなと時折思う。願望というより確信に近かった。コルニアのためという建前を使わず、ジョセフのこれからの人生全てを犠牲にして一生共に歩んでくれと頼めば間違いなくやる人だ。それが嫌だったから、あの日から彼の前で一切の私情を見せなかった。
(城に残らず故郷に帰るとでも言われたら、やっていたのだろうとは思うが)
こんなにも苦しんでおいて、会おうと思えばいつでも会えるからと、心の何処かではまだ余裕があったのだろう。
復興のために奔走していた頃は解放軍時代より会う機会が少なかったものの、それでもある程度は顔を合わせて話し合った。無事に復興が終わってからは会う理由がなくなり、一ヶ月に一回、半年に一回と自ら会いに行く時間も回数も少なくなっていった。会おうと思えばいつでも会えるのだからという怠惰があった。
(…………いいや、違う。それは本音を心の奥深くへと埋め立てる為にとってつけた言い訳にすぎない)
誰にも見つからぬよう隠し続けて、いつしかアレイン自身すら忘れてしまった胸臆を数十年振りに掘り返し、ああ、そうだったなと独りごちる。
怠惰ではない。甘えだった。
彼の近くにいるのが怖かった。あの日中庭で飲み込んだ憎悪をつい吐き出してしまう瞬間が来やしないかと不安で仕方なかった。だから会おうとしなかった。そうすれば傷つけることも、傷つくこともないから。
ジョセフのこれからの人生が一点の曇りもない幸福なものであってほしいと願いながら、いつでも会える範囲にいることを望み、それでいて上手く話せる自信がないから会わない。中途半端な距離感でいることに甘え、逃げ続けた結果がこの有様だ。
とんでもない腰抜けだと、今更遅すぎるだろと自分でも思う。それでも、ジョセフが倒れたとクロエから聞かされた瞬間に、せめて最期にこの想いを伝えたいと、願ってしまった。
想いが報われるなどとはなから想像すらしていない。今、自分が救われたいがために彼を傷つけようとしてるのだと分かっている。それでも聞いてほしかった。
「……父さん」
ぽつりと絞り出した掠れ声が無音の部屋に響く。返事はない。
頭を垂れて祈る。どうか奇跡が起きてくれ。もう逃げるような真似はしないから、伝えた後に軽蔑されても構わないから、一度だけ、どうか。
アレインは祈り続けたが、ついに奇跡は訪れぬまま終わった。