子ライが宰相補佐を信じる話 やめて、やめろ!
やめろぉ!
腕の中の自分より小さな体を覆い隠す。背中に浴びせられるのは罵倒の数々だ。
「出ていけ!」「魔女め!」「悪魔の手先っ」「消えろ!」「おぞましい!」
ファリンが一体何をしたというのか。俺を助けるために霊術を使っただけじゃないか!俺を助けなければよかったというならまだわかる。けど彼らは、俺のことは次の村長だからと村に必要な存在のように扱うんだ。それならファリンの霊術だって村のために必要な力だったじゃないか。
そんなことが何故か彼らにはわからない。不吉で汚らわしいとか、気持ち悪いとか、到底納得できない理由で、ファリンを追い出そうとする。
「うあ……っ」
ファリンを抱える腕に痛みが走った。振り返ると、振りかざされた彼らの手に石ころが握り込まれていた。
痛みを覚悟して目を瞑る。腕に力を込めた。
何かがぶつかる鈍い音がして、けど痛みはなかった。
「……この子達が何かしたんですか」
まだ若い青年の、でも少しだけ高めの声が、すぐ後ろから聞こえて、俺は目を開いて恐る恐る後ろを見た。
後ろ姿で顔はわからないけど、黒い巻き毛の青年が俺と、彼らとの間に立っていた。
村人たちは動揺するようにざわついている。青年が腕を持ち上げた。再び降ろされた袖にはべったりと赤いものが付着していた。
「よ、よそ者が口を出すことじゃないっ」
村人の一人が青年を指差して怒鳴りつけた。それを皮切りに周囲もそうだ、そうだ!と口々に叫び出す。腹が、むかついてなにかを吐き出したいのに何も出ないような、そんな気持ち悪さがせり上がってきた。
「そうですよね。ただ、できるなら僕も、事情くらいは教えて頂きたいなと思いまして」
声は穏やかに響いていた。
村人達は彼の言葉にしばらくざわついていたけど、やがて握り込んでいた石を足元に放った。誰が話すかで話し込んだ後、一人が一歩前に出た。壮年の男で、たまに父さんと話すために家にも来ていた顔だ。
「無関係な人間に怪我をさせたのは申し訳ない。だが、やはりよその人に話すことではないんだ」
「口外しないと約束します」
淡々と響いたのは巻き毛の青年がそう返す声だった。村人達はまた少しざわついたが、男が片手で制するとすぐにおさまった。
「……その子供、女の方だが、魔女なんだ」
「魔女……」
繰り返した青年の声は問い返すようにも、ただ確かめただけにも聞こえた。不穏な単語に腕の中のファリンを強く抱き直す。いつでも駆け出せるように地面につま先を立てた。
男は頷いて見せてから、さらに言葉を続けた。
「ああ、その子供は霊の姿を見て霊の声を聞ける。悪魔と契約した魔女に違いない。霊を使って俺たちを呪い殺すことだってできるんだっ」
「ッ、……っ」
口を開きかけて、青年の背中に回された褐色の手が、人差し指を立てた形でいるのに気づいた。「しーっ」と子供に言い聞かせる時に唇の前に立てられるあの形だ。言葉を飲み込む。村人からは青年自身の身体の影になって、その手は見えないんだろう。
彼は……どういうつもりなんだろう。
背中を見上げる俺の靴の下で、じりっと地面と砂とが擦れる音を立てた。
「それは……」
青年が口を開いた。その場に緊張が走ったのがわかる。全員が次の彼の言葉を固唾をのんで見守っていた。
「恐ろしいですね」
続いたのはそんな言葉で、村人の面々からは少し緊張が和らいだのがわかった。
一方で俺の心中は何故か、伽藍洞になったように失望がじわじわと広がっていた。
かばってくれたから、理由を聞いて冷静に判断しようとしているように見えたから、信じられるかもしれないと思ったのに。
彼の手もまた石を握りしめて投げつけて来るのかも知れないと考えると空っぽになったはずの胸がずんと重たくなったような気がした。
彼の声がファリンを否定する前にここから逃げ出さなくてはいけない。
ファリンの手を握り込んで腰を浮かせた。
「そんなにも恐ろしい力を持っているなら、気に入らない相手なんてすぐに呪い殺すことができるんでしょうね」
そう続いた青年の言葉は、けれど村の大人達がファリンを責め立てるときとは違って、俺にはとても理性的に響いた。
言葉はまるで、ファリンを恐ろしいもののように語っているようで、受ける印象は全く逆で、タイミングを見て駆け出そうとしていた脚からは踏み出す意志が抜けた。思わず彼を見つめるけど、俺に見えるのは黒い巻き毛の後頭部だけで、彼の表情はわからない。
村人達は「そうだ」「そうなんだよ」「恐ろしいだろう」と口々に話している。
「ええ、とても……。ところで」
まるで無力な少年のような声で肯定する彼の声に、村人達は頷き返した。そんな村人達の顔を見回すようにゆっくりと首を右から左へと動かすと、青年は心持ち声を低くして言葉を続けた。
「彼女が霊術に目覚めてから、この村で不審な死は何件ありましたか?」
「……そんなことは起こってない」
不吉な質問にムッとしたような声で答えが返ってくる。
「おかしいですね。気に入らない相手を呪い殺せるような力があったとして、僕なら、石を投げつけてくるような人、すぐ呪ってしまいますよ」
村人達の間に、当惑が広がっていく。彼は気づいているのだろうけれど、だからといって言葉を止めるつもりはないようだった。
「霊術でやられたとしか思えない不審な死体がないのは、彼女が善良な証拠では?」
「まだそこまで力が強くないだけかもしれないだろうっ」
すかさず反論をされたけれど、それがちっとも反論になんかなっていないと俺は思う。それは、彼も同じようで、勢いで押し切るかのように語気を強めた村人に、彼はただ淡々と返した。
「事件を一つも起こしていない少女を、これから起こすかも知れないから、という理由で裁くんですか?」
「うるさい!あの子は魔女だ!悪魔と契約した魔女だ!」
男が激昂する。まるで癇癪を起こした子供のようだ。理屈が通じない。
だから嫌いなんだ、こんな村は。
例えばとても体格に恵まれた少年が居たとして、「君が将来暴れたら誰も敵わないだろうから村から出て行け」と言われることがあるだろうか。そんな理不尽が、何故か魔術師には許されると思っている。おかしい。おかしいんだっ。こんな村……っ!
ギリッと口の奥で歯が軋んだ。握り込んだ拳を地面に叩きつけると、べチャリと音がした。
手に粘るような何かがまとわりついた気がして、手を見ると真っ黒な何かが手を覆っていた。
「ひ……っ」
思わず手を振って、その何かを振り払おうとしたけれど、べっとりとまとわりついたそれはちっとも剥がれてはくれなかった。
周囲を見渡すとさっきまで激昂していた村人達は顔のない黒い人影になっていて、一人の首がぼたりと落ちた。それは獣すら食べない有毒の果実が、じゅくじゅくと熟れて腐り落ちていくようだった。手が、腕が、脚が溶けるように滴って、それはもう不定型の黒い何かだった。地面だったはずの場所も、黒い粘度のある液体のようなもので覆われていた。
足首に濡れたような何かが巻きつくのを感じて視線をやれば、黒い巨大な水たまりから妙に指の長い手が生えて、俺の脚を掴んでいた。
「ライオ……ッ」
巻き毛の青年がなにかを言い掛けながら手を伸ばして来たけれど、せり上がった黒い水に飲み込まれた。
足首から脚へ、ペチャペチャと這い上がってくる黒い手に後退って、でも背中にも湿った感覚が当たった。そう気づいた瞬間に、視界が全部黒で塗りつぶされていた。
ずっと握っていたはずのファリンの小さな手も、目を凝らしても、手で探っても、ちっとも見つからない。
「あれは魔女だ」「悪魔と契約した」「恐ろしい娘だ」「村から追い出さないと」「不吉な娘だ」「村長を誑かした」「君は騙されているんだ」「ああ、恐ろしい」「なんて穢らわしい」
上も下も右も左も真っ黒で、耳許から、遠くから、全ての方向からそんな声ばかりが響いてくる。まるで耳から悪意が流し込まれるみたいだった。
耳を塞いでも声は止まなくて、その声を掻き消したくて叫んだ。
「どうして……っ!わかってくれないんだ…っ、信じてくれないんだッ!」
大声で叫んだ口からズブズブと黒い何かが腹に流れ込んでくる。息を吸うたびに、村への怒りや、子供の俺ですらわかる理屈さえわからない大人達への蔑みが腹に渦巻いていく。
「なんで!なんでッ!?」
ファリンを排除しようとする全てが憎かった。俺では守ってやれない不甲斐なさが許せなかった。
中も外も黒い何かに包まれて満たされて、自分の叫びすらひどく遠い気がして、それがもどかしくてまた声をあげた。
もがいた手が、何かに当たった。それが人の手だとわかったのは、俺の手首を掴まれたからだ。
ぐっと腕を引かれて、温かな何かに包まれた。
「信じます、ライオス」
耳に、そう声が送り込まれた。新緑の森の木漏れ日のような、暖かくて穏やかで、心地よい響きをしていた。
顔を上げるとすぐ目の前に、青空のような瞳があった。
「貴方を信じます、ライオス。貴方が信じるファリンを信じます」
力強く真っ直ぐに見つめてくる彼のそばでは口を開いてもあの黒いものは流れ込んで来なかった。それから、彼の口から出た名前で、俺の手が空なことを思い出す。
「そうだ、ファリン!ファリンを探さないと!」
「彼女なら、安全な場所で休んでいますよ」
走り出そうとした俺をおさえて、彼が穏やかにそう言った。見知らぬ青年の言葉なのに、それはすとんと胸に落ちて安堵感を広げていく。
でも、なぜそう思うのか俺にはさっぱりわからなくて、じっと彼を見つめた。
「俺の顔、何かついてますか?」
「あ、いや……怪我をしてたと思ったから」
首を傾げた彼に、思わず言い訳を口にした。彼は、大きな青い瞳をぱちりと瞬かせると、それからふわりと微笑んだ。
「心配してくれるんですか?」
「そ……っ、それは、俺達を庇ってくれたせいで怪我をしたんだから、当たり前だよ」
なんだか妙に心臓がうるさい。けど、俯きながら上目遣いに盗み見た彼の額にはもう傷はないようだった。
彼はそんな俺の視線に気づいていて、ニコッと笑いかけてきた。
「簡単な治癒魔法なら使えるんです」
彼はそう言うと、俺の腕に優しく手を当てた。静かな声で呪文が紡がれて、温かいものが腕に流れた。腕にあった痛みが引いていく。
同時に、俺達の周囲を取り巻いていたあの黒い液体のようなものも、俺達の周囲から消えていく。怖いものが消えていくようで、その光景を見ながら、俺はようやく深く息を吸い込んだ。
何故だろう。彼のそばだと呼吸がしやすい。
そうしてすっかりと明るくなった世界には、ファリンや村の人達どころか、村さえなかった。ただ、白い空間が広がっている。
「……ファリンは本当に安全な場所にいるの?」
「ええ。俺の言葉では信用できない?」
「……そういうわけじゃ」
むしろ何故か信じたくなってしまう。その理由がわからなくて、俺は俯いた。
彼は俺の前に膝をつくと、俺の両手を彼の両手で包み込むように握った。
「俺は貴方を信じてます。ライオスはまちがっていないと、最後は正しい選択をしてくれると、本当に悩んだときは周りを頼ってくれると、……信じています。」
とても、とても穏やかな声でそう語られて、でも俺はその言葉をどう受け取っていいのかわからない。
彼の語る「ライオス」は俺ではないような気がして、彼の手から逃れようと身を捩った。
「頼れるような相手なんて……」
「俺がいます」
俺にはいない、と続けようとしたのに、そう彼の声が重なった。
「ええと……」
「俺の他にも貴方を支える人は大勢います。今貴方が傷ついてることはわかってる。でも、俺は貴方にこんなところにいてほしくない」
見上げてくる眼差しは真剣で、彼が俺を心から案じていることが伝わってくる。
どうしていいかわからなくて、左手を彼の手からすり抜けさせて、一歩後退った。
「思い出して、ライオス。貴方の世界を。ファリンが今、どうしているかを。貴方とともにファリンを思って旅をした人達を」
更に引き抜こうとした右手は彼に阻まれた。しっかりと意図を持って握られた右手は、彼の熱から逃げられない。
「生涯、貴方とともに在ると、貴方を支えて生きると誓った俺のことを」
祈るように切ないまでの響きを持ってそう言うと、彼はそっと俺の手を持ち上げた。手の甲に、熱くて柔らかいものが触れて、彼が、口づけたのだとわかった。
パチリ、と瞬きをした瞬間に周囲の景色が変わった。目の前に空色の瞳があって、その背後には少々古びた建物の天井が広がっていた。
「カブルー……」
「ああ、ライオス!良かった……!」
彼の名前を呟くと、カブルーが声を震わせて身体を寄せてきた。その身体を抱き止めると、夢の中で彼に感じていたのと同じ安堵感が胸に広がる。ああ、あの悪夢は、と思い至った。
「もしかして、夢魔が……?」
「はい」
肯定する彼の頭を胸に抱き寄せる。今更ながら怖くなって、胸が少しだけうるさくなった。
「この方法は危険だと言ったじゃないか」
「アンタだって俺を助けたじゃないか」
咎める俺の声に、彼は顔を上げて言い返してくる。
「あれはファリンがいなかったから」
「ここにだってファリンはいません」
この話題は平行線を辿る。彼は「俺のため」と信じる行為に躊躇いはしない。俺だって、彼のため、メリニのための行動なら、躊躇いはしない。彼は咎められるようなことは何もしていない。
「助けてくれてありがとう、カブルー。でも無茶はしないでほしい」
彼を抱き締めて、額に口づけながらそうねだる。彼は「気をつけます」と返しながら、一度だけ、俺の胸板に額を擦り付けてきた。
公人として「わかりました」と言えない彼が、恋人として俺の思いを汲んでくれた精一杯の返答だ。
もう一度彼の髪をかき混ぜるように撫でて、改めて部屋を見回した。城じゃない。簡素な、木造の民家の一室だ。
ここはメリニの端にある、小さな村。国内視察ならば、俺が不在となる地の魔物対策をきちんと施せば可能であろうと計画してくれたのだ。
同行者はカブルーと護衛の兵士を数人。ファリンはいない。マルシルとともに城に残り、魔物対策をはじめ、俺が不在の間の穴を埋めてくれている。
そうまでして何故この村に来たのか。それは、ある視察のためだった。
以前、カブルーに仕掛けられた夢魔だが、あれを捕らえたとき、俺は提案した。夢魔の養殖ができないかと。
センシがダンジョンで酒蒸しにしてくれた夢魔は美味かった。自分で調理したときは失敗したが、あれは調理法や調味料に問題があったのだと思う。食材としては夢魔はアリだ。魔物だから資源はそれほど必要ないし、移動もそれほど得意でないから管理もしやすい。
うまく行けばメリニの特産になるだろうと思っての提案だった。その養殖を試験的にこの村で行っているのだ。
まだ悪夢を見せる力の弱い小さいうちに食べてしまえば、人的被害も出ないだろうと考えての試みだ。
だが、脱走し特大の悪夢を見せる大物になるものが、ごくたまに現れているらしい。まさか、昨夜の俺の枕に潜んでいるとは。
枕の中を探ると案の定、俺の掌ほどの大きさの夢魔が出てきた。
見た瞬間に、眉をしかめた正直なカブルーに笑う。魔物なんて見るのも嫌いなのに、俺の呪いを祝福だなんて説き伏せることもなく、彼はただ俺に尽くしてくれる。そのことに感謝をしながら、もう一度彼を抱き締めて、二人、身支度を整えた。
高級な宿泊施設なんてない辺鄙な村だ。食事は村の広場で村人総出で作ってくれることになっていた。
調理を請け負ってくれる村の女性達に夢魔を渡すと彼女たちは恐れ慄いて謝罪を繰り返した。気にしなくていいと、これまでの成果を是非見せてほしいと告げると彼女たちは忙しく動き出した。
ここで一つ誤算があった。誤算というよりは、ただ忘れていただけなのだが。
夢魔は、命が尽きるとき、食べた夢を吐き出すのだ。
長々と様々な夢を吐き出した最後に、幼い頃に傷ついた王と、そんな王を救う忠臣の、まるで物語のような夢が吐き出され、村人達は喝采した。
カブルーは村人達の喝采に応え、跪いて俺の手の甲に口づけを捧げながら、彼の生涯で恐らくは三度目になるだろう誓いの言葉を口にした。
祭りのような浮ついた雰囲気の中でも、彼の眼差しが、声が、唇の熱さが、彼の真剣さを物語る。真摯に、魂さえも捧げるような彼の眼差しを受け止めながら、俺も言葉には出さずに誓いを立てる。
俺の全てを、君が故郷として愛するこのメリニのために。