君に降り積む 使者から悪意は感じられなかった。
毒見も問題はなかった。
それなのに、王が、ライオスがそれを口にした瞬間、彼はひどく咳き込んだ。
口を手で覆い、体を折り曲げて、体内の異物を吐き出そうとしている。
毒か……!
マルシルがライオスに駆け寄ったのを視界の端に捉えた。治癒魔法が使える彼女に任せるよりほかない。俺が行って何になる。彼に駆け寄りたいと湧き上がる欲求を理屈でねじ伏せる。
今、俺がすべきことは。
「失礼」
演技なのか、想定外なのか、驚きの表情を浮かべて尻餅をついている使者の背後から、腕を拘束した。
「話を聞かせて頂きます」
過敏になった耳に、パサパサ、と乾いた音が届いた。同時に、ライオスの咳が止まった。ふう、と呼吸を整えるために息を吐く音。マルシルのライオスを気遣う声。
大した抵抗をしない使者の男を拘束したまま、ライオスを見ると、彼は折り曲げていた上体をやや起こして、足元を見つめていた。
その視線の先には、先程まで確かになかったはずの花が落ちていた。
青く小さな花弁が連なるようについたそれは、ライオスの足元で何事もないような様子でただ、落ちていた。恐らくはライオスの口腔から吐き出されたはずのそれらは、けれど濡れているようにも、花弁が千切れたり花茎が折れたりしているようにも見えない。
「え、何これ。花?」
「触ってはダメですッ!」
腰を屈めて手を伸ばそうとしたマルシルに、拘束されたままの男が声を上げた。びくり、と動きを止めたマルシルに使者が続けた。
「花に触れると感染するんです」
「感染……?え、病気なの?」
「はい、花吐き病です……」
マルシルの問いかけに男は静かに頷いてそう続けた。口振りからして悪意を持ってライオスに近付いたわけでもなさそうだ。逃げる素振りも見せない。拘束を僅かに緩めたが、男はやはり俺を振りほどこうとも逃げ出そうともしなかった。
その日は北方の短命種、トールマンの国の使者を迎えていた。悪魔さえ食した悪食王に相応しい品です、と差し出されたのは、収穫された人面果実で、かつて彼らの国の端にある貧しい村の少女が転じたという伝説の魔物の実なのだという。正式な記録ではないが村人達に伝わる口伝では、飢饉の際、村人達がその実で命を繋いだという伝承もあるのだとか。
魔物を食べるなんて冗談じゃない、と言いたいが、正式な外交相手がもたらしたのでは無碍にもできない。悪食王ライオスは外交にかこつけて魔物が食べられるとウキウキだし、ヤアドは十分な毒味をすることを条件にその贈答品を受け入れる決定をした。結果、十分に信頼できる者、つまりはこの城の料理人が調理し、陛下と使者とでこの魔物食を実食しようということになったのだ。
料理人、料理長はもちろん、専任の毒味役も食した上で、それはパイとなってライオスに供された。誰一人として体調を崩す者も、異常を訴える者もいなかった。
唯一人、ライオスを除いて―――。
「それで、結局花吐き病とは何なんだ?治るのか?」
ライオス、ヤアド、マルシルと俺の四人は談話室に集まっていた。ファリンは今、メリニにいない。
城の警護は顧問魔術師のマルシルが魔法でかためているが、中でも王の寝室とその周辺エリアには特に力を入れているということで、重要かつ身内だけにとどめておきたいような話はこの談話室でされることが多かった。
「彼の祖国でかつて発生していた奇病だそうです。治った例はあるそうですが……」
「でも簡単に解析した感じだと、病気っていうより呪いに近い気がするよ」
ライオスの吐き出した花と、パイの残りを調べたマルシルは、口許に手を添えながらそう口にした。その手には白い手袋がはめられている。もちろん、手袋は俺とヤアドの手にもある。
こんな状況を招いた原因である使者の男が言うには『断じて故意でなく、花吐き病治療のためには協力を惜しまない』そうだ。とはいえ、こちらとしては王を未知の病に罹患もしくは呪いに曝した相手なのだから、そうですかありがとう、とはいかない。男の処遇についてはヤアドが彼の祖国と話し合うことになっており、当面はメリニの城に『滞在』してもらうことになっている。
「じゃあ、その呪いはどうしたら解けるんだ?」
ライオスの視線がマルシルに向けられた。当然の疑問を問うライオスの口から、はらはらと花びらが溢れ舞った。
あのパイを食べて以降、ライオスの口からはほぼ常に花びらが落ちるようになってしまった。初めて症状が出た時こそ苦し気だったが、今のライオスは平然としている。あまりに気になったマルシルが「それ、大丈夫なの?」と聞いていたが本人曰く、痛くも痒くもないらしい。
口から溢れる花びらはなぜか濡れてもよれてもおらず、摘みたての生花のような瑞々しさを保っていた。まるで、ライオスの呼吸にでも合わせて花びらが生成されているように見えた。花の種類は様々なようで、今この場にも色とりどりの花びらが床に散っている。
「順番に確認していきましょう。マルシルさんの方では何が分かりましたか?」
ヤアドがマルシルに問いかける横で俺は次々床に積もる花びらを袋に無造作に詰めていった。ただし、花には触れることがないよう注意を払う。使者の話が事実ならこれは結構な危険物だ。
そんな俺の上にマルシルの声が落ちてきた。
「うん。まず、原因はあのパイで間違いないと思う。魔力が同じだったから。ライオスの感情の揺らぎに合わせてカロリーを消費して、花を生成することで魔力を物質化させてる……んだと思う。そんなに深刻な事態になるような消費量ではなさそうだけど、感染が広がるのは問題だよね。でも、これ以上調べるにはもう少し時間と情報が欲しいかな」
「感情……ですか」
マルシルの説明に俺とヤアドは思わず顔を見合わせた。
使者から説明されたにわかには信じ難いと感じた情報にマルシルの見解は信憑性を与える。
絶えず花を生み出し続けるライオスに袋を押し付けると、ライオスは大人しくそれを抱えた。王には見えない威厳のなさだが、この場には俺たち四人しかいないから問題ないだろう。
俺は立ち上がってヤアドと頷きを交わすと、ライオスに改めて向き直った。
ライオスの目を真っ直ぐに見つめると、彼の口からパラパラと白い小さな花が落ちて、袋の口に吸い込まれていった。
花びらでなく、花そのものが落ちるのを見るのは初回以来だなとなんとなく思った。
「俺たちも話を聞いてきたんですが、その……ライオス。貴方、今、好きな人はいますか?」
ライオスの婚姻問題は俺たち臣下の気にかけるところであり、中には自分の息のかかった妃を娶らせようと執拗に彼に結婚を勧める者もいた。そのことにライオスは辟易した様子を見せるようになっており、少なくとも俺はここ最近ライオスにこの手の話題を振ることを避けるようにしていた。だからこそ、通じなかったのかもしれない。
「そうだな。今は、ファリンを助けるために俺に協力してくれたみんなと、メリニのために俺を支えてくれるみんなが好きだよ」
ライオスは穏やかに笑ってそう答えた。はらりと花びらが袋に散るのが妙に爽やかに感じられて、俺とヤアドは再び顔を見合わせた。
「いえ、そういう好きではなく、妃として迎え入れたいという意味で好意を向けている方は誰なのかと……」
「いないって知ってるだろ」
やはりライオスには不快な話題だったようで、軽く眉をひそめられてしまった。けれど、今日は、そうですかと話を終わらせるわけにはいかない。
「すみません。ただ、彼の話ではこの病気を発症する者は皆、片思いに悩む者であって、その恋を成就させれば、銀の花を吐いて完治するというのです」
何故わざわざライオスを不快にさせる話題を出したのか、使者の男から聞き出した話によれば、それこそが治療法であるからだ。
それでもライオスは納得はできないのか、それとも納得できるように一度自分の胸の内をさらってくれたのか、何かを考えるように視線を彷徨わせてから口を開いた。
「よく似た症状の別の呪いということはないのか?」
「ないとは言えませんが、これほど独特な症状の呪いがそうあるものでしょうか?」
ライオスの疑問にヤアドがマルシルを見やった。マルシルは頬を紅潮させ目を輝かせてライオスに視線を送っていたが、話を振られたと見ると軽い咳払いをした。
「んん……っ、可能性は低いんじゃないかな。とにかくできることからやっていくのが大事だと思うし、ライオスは本当に好きな人がいないかちゃんと考えてみよう?私達みんな協力するよ!そうでしょ?」
そう言って、マルシルは手袋に包まれた手でライオスの手を包み込んだ。彼女はもともとよく笑う人だが、今はむしろ表情を引き締めきれないような表情をしていた。年頃の女性だ。俺やヤアドたち臣下一同とは違った理由で、彼の恋の話というものに興味があるのだろう。
意気揚々と張り切るマルシルに対してライオスは納得はしていない顔で首を傾げている。
「ライオスにとっては不本意だと思います。ただ、現状最も花吐き病に詳しい人物からの情報です。無視はできない。一度、貴方が最も大切に思う人物は誰なのか、考えてみてくれませんか?」
ライオスを見上げてそう告げる。理由があって真摯に頼み込んだなら、彼は決して無碍にはしない。案の定ライオスは、
「……わかった」
と短く答えて頷いてくれた。それに合わせてまた花が乾いた音と共に落ちていった。鮮やかな黄色の花弁に斑紋の入った花が落ちていくのを見届けながら、かつてならばこんな風に話を聞いてもらえることもなかったなと思った。
今後の方針としては、引き続き使者から話を聞きながら、彼の祖国にあるという資料の取り寄せを待つこと。その間、マルシルには解析を続けてもらい情報収集、ライオスは念の為自身の想い人を特定するということでまとまった。困るのは謁見や会食などのライオスの王としての予定で、賓客はもちろん、国民にも花吐き病なんていう病を感染すわけにはいかない。
こうなるとやはり頼れるのはマルシルで、ヤアドはもう少しマルシルと相談したいと、二人を談話室に残して俺はライオスを寝室まで送ることにした。
冒険者などという市民権を得ているのかいないのかわからないような仕事をしてきたライオスは、俺よりよほど自分の世話を焼ける、らしい。元パーティメンバーの話では。いつの間にそんなにライオスと仲良くなったのかと問えば、大抵の人間は俺より身の回りのことをこなせるという。俺だって元冒険者だし、必要となればできると思うのにとんだ言われようだ。
ともかく、何もかもが不足していたメリニ復活当初はライオスのそういったところに随分助けられたが、国が安定してきた今、こまごまと自分のことを自分で片付ける王というのは、少々外聞がよろしくない。
そんなわけで、俺はヤアドの補佐とライオスの側近を兼任し、朝は彼を起こしその身支度を手伝い、夜は寝室へと送り届けるという日課をこなしている。当初こそ「必要ない」と辞退しようとしたライオスだったが、俺が「傅かれるのも王の役目です」と言えば、彼は大人しく受け入れてくれた。本当に、かつてでは考えられないほど彼に言葉が届く今の環境は、俺を簡単に浮かれさせる。
同時に近づいた分だけ面倒な感情を感じることも多い。
「カブルー?」
ライオスの声が降ってきて、はっとした。
ここはライオスの寝室で、彼は今半裸で俺に背を向け、寝衣を着せられるのを待っていた。「すみません」と短く謝罪して、慌てて彼の腕に袖を通した。
これも当初ライオスに必要ない、と言われた習慣の一つだ。
「考え事かい?」
「いえ……ええ、まあ、そうですね」
淡々と問われて、誤魔化すことを諦めた。
実際、今日の俺の思考は余計なところに飛びがちだった。今この瞬間も。
「俺には話せないこと?」
そう静かに問いかける彼の声は、穏やかで優しくて、話して楽になるなら聞くと言ってくれているのだろう。
話せない、と言ってもよかった。俺の思考を捉えているのは、彼に話してはいけない内容だから。
けれど、俺に向けられる彼の優しさを無碍にしたくなかった。
「いえ、ただ、もう少しちゃんと確認しておけば、と」
ああ、とライオスの呟きが聞こえて、それから俯いた俺の視界に、はらりと花弁が舞い落ちていって、彼が俺に向き直ったのだと知る。
肩を掴まれる。
「君のせいじゃない」
そう、端的に、はっきりと言われた。
恋をしている者にだけ有効な毒があるなど想定しきれるわけがない。今回、調理を担当した城の厨房勤めの者は、見習いを除いて皆、既婚者であるし、専任の毒見役の者は、細君と死別し、子ども達も独り立ちしたからと、自ら危険な役に志願してくれている者だ。
そんなにも対象が限られる呪いに対応できるよう毒味役を用意するなど、とても現実的ではない。
そのようなことをライオスはポツポツと話している。
ああ、失敗したな、と思った。彼の優しさを受けたいなどと姑息な真似をするべきではなかった。
彼の言葉に合わせてはらはらと舞う花弁を見つめながら、この物理的なヴェールがあることに感謝した。
もし、触れてはいけない花の壁がなかったなら、彼は俺を慰めるために、その腕の中に俺を迎え入れたのだろうかと考えてしまう自分が、ひどく浅ましくて厭わしかった。
七歳からの十五年を、迷宮攻略に捧げてきた。そのために俺の生涯を捧げることが、何もできない子供だった俺があの惨劇を生き残った意味になると思った。結果的にそれを成し遂げたのは俺ではなかったけれど、それが成されたことこそが、俺には僥倖だった。いや、世界にとってもそうだろう。あのとき悪魔をどうにかできなかったなら、世界は滅んでいただろうから。
ライオス・トーデン。それが世界にとっての、そして俺にとっての英雄の名だった。
二十二からの俺の生涯を全て彼に捧げると決めた。悪魔を倒すために彼がなくしたものの代償になれるなんて思っちゃいない。ただ、彼の役に立ちたかった。
俺の全てが、今、彼のためにあるのだと思っていた。
これは断じて恋ではないと思っていた。彼が、どこかの姫と婚姻を結び、後継をつくることを望ましいことだと思っていたし、心から祝福できると思っていた。
けれど、彼が恋をしているかもしれないと突きつけられて、その全てがとんだ幻想だと思い知らされた。
器用な人ではないから、政略結婚なら相手を大切にはすれども愛することはないと思ってはいなかったか。彼が、自ら望んで誰かの手を取ることなどないと、思ってはいなかったか。
誰かを想っているから吐き出されるという花を見ると、彼に求められている誰かが居ると痛切に悟らされ、ただ、受け入れ難いと感じた。
あの呪いが花吐き病ではないことを一番願っているのは、案外、ライオスでなく俺なのかもしれない。
翌朝の目覚めは決して良いものとは言えなかった。ライオスと同じ城で眠るようになって、最も寝付けなかった夜だったと言ってもいいかもしれない。
ともかく、俺はライオスの部屋へと向かった。普段なら、声を掛ければ返事があるのだが、この日は物音一つ返ってこない。
嫌な予感がして扉を開いて寝室へ入ると、ライオスは寝台で寝ていた。花に埋もれるように横たわる顔は、カーテンによる暗がりを差し引いても決して良いとは言えず、俺は寝台に駆け寄ってライオスの身体を揺すぶった。
「ライオスッ」
「かはっ、げほッ!」
ライオスは身体を折り曲げて咳き込んだ。口を押さえ込む彼の手の中に花びらが吐き出される。寝台を埋め尽くす花弁と、彼から吐き出される花弁とに、下手をしたら眠っている間に窒息しかねないのではと思い至って、俺は寒気がした。手が彼の体温を感じられることに縋るように、彼の背中を繰り返し擦った。
「ありがとう、カブルー。もう大丈夫だ」
「いえ……すごい花びらですね」
改めて落ち着いた彼と、周囲に落ちる花を見回した。彼の恋心が形になった花弁が、彼を奪おうとしたように思えて、俺は持ってきた袋を広げると無造作に花弁を鷲掴んで袋の中に突っ込んだ。
マルシルが解析する分以外、ライオスが吐き出した花は、焼却処分されることになっている。
「触れると危ない。俺がやるよ」
「直接触れなければ大丈夫です。手伝えなくてすみませんが、貴方は着替えを」
ライオスの申し出を短く断って促した。彼がこの花に触れるのがなんとなく嫌だと思った。
「一晩中吐き続けたんでしょうか。マルシルは貴方の感情の揺らぎで花が生成されると言っていましたが、何かおかしな夢でも?」
「……どうだったかな、よく覚えていない」
「想い人の夢だったのでは?」
「うーん……」
結局、ライオスが夢の内容について思い出すことはなかった。
その日、ライオスは会議の予定だったが、これは体調不良により休むこととなった。後で議事録に目を通してもらおう。
書類仕事にも慣れてきたライオスには一人執務室にこもってもらい、部屋から出ないようヤアドから言い渡された。
俺はライオスを休ませることも提案したが、ライオス本人がそれを拒否した。執務室の前には護衛の衛兵を置く。不測の事態や王からの命令以外では執務室には入らぬように言い置いたが、念の為に既婚者が選ばれた。
ヤアドはライオスが出られない分もフォローする形で予定通り会議に出席することとなり、俺は使者の男から話を聞くことになった。
今朝のうちにヤアドにはライオスの状態を共有した。マルシルは研究室を兼ねた自室に籠もっているし、どの道やってもらうことは変わらないからこそ情報共有をして急かす必要もないのでは、とはヤアドの言葉である。
花吐き病に死者はいるのか。もしいるなら、発症してどれほどで亡くなることがあるのか。恋を成就させる他に症状を止めるすべはないのか。聞き出すべきことはいくらでもある。
焦るより、今はできることをしましょう、というヤアドの言葉に、俺は黙って頷いた。
結論から言うと、新たに得られた情報はとても有用だった。
使者でさえも、花吐き病を実際に目にしたことはなく詳しいことはわからないことばかりだと言っていた。そのため、祖国にあるという資料の取り寄せを頼んでいたのだが、物質を送ると言うのはどうしたって日数がかかる。だからだろう、彼らの方からある提案がされた。つまり通信魔法で資料を読み上げるので、そこから写本を作ってはどうか、ということだ。
実際の資料を見られるわけではない分、向こうがその気になれば情報の隠蔽もしやすいが、より多くの情報が早く得られることはありがたかった。いずれこちらの使者が彼の国を訪う際にでも原本を見せてもらうのでもいい。これでライオスが治れば、だが。
その日、俺は彼の国の文官をひたすら問い詰めた。彼がぐったりと疲れた様子を取り繕う気もなくす程度には。
「それで、ライオスの好きな人はわかったの⁉︎」
「いや、皆目……」
「自分のことでしょ。それがわかれば全部解決するかもしれないのに。
ライオスの周りの女性って言うと、ナマリでしょ、キキ?フィオニル……は違うよね。チルズ三姉妹?それともパッタドルとか?まさか城下の視察で行ったお店の看板娘さんに一目惚れしたから名前がわからないとか⁉︎」
その晩、諸々の調整業務を終えて疲労が見えるヤアドと共に俺が談話室に向かうと、そんな会話が交わされていた。
会話というには、やや一方的な気がする。ライオスは相変わらずけろりとしているが、マルシルは髪がほつれ目元にクマも見えることから、疲労や睡眠不足による精神の高揚もあるのかもしれない。
「流石に一目惚れというほどインパクトがあるならライオスだって恋をしている自覚はあると思いますよ、多分……」
口も挟めず困惑しているライオスへの助け舟のつもりで口を挟んだ。言い切れないのは申し訳ないが。
「あ……、そっか。そうだよね」
マルシルは俺の言葉におとなしく頷いた。疲労を自覚したのかも知れない。
魔術関連となると、彼女頼みになりがちなのは、このメリニの改善すべき点かもしれない。優秀で真面目だからこそ彼女一人でどうにかなっているが、聞けばまだ50代だという。エルフなら未成年だきちんと休めるよう周囲が環境を整えるべきなのだろう。彼女は、必要なことには何にでも一生懸命になる人だから。
「それで、それぞれなにか、進展はありましたか?」
「いくつか、花吐き病について新しい情報が手に入りました」
「私も、まだ試作だけど」
ヤアドの問いかけに俺とマルシルがそれぞれ答えた。ライオスが少し気まずそうに口を開いた。
「すまない。ちっとも見当がつかない」
そう告げるライオスの口からは相変わらず花弁が落ちる。
「今日わかったことと、ライオスの思考と照らし合わせれば何かわかるかもしれません」
俺が右手を軽く挙げてそう言うと、三人の視線が続きを促すように注がれた。
「わかったことは
花吐き病はやはり恋患いと連動していて、完治するには恋を成就させる必要があること。
また、それが難しい場合には完全に恋を諦める必要があるということ。この場合、花を吐くことは一時的に止まるものの、新たに恋をすると再び花を吐き始めるのだとか」
「諦めるとはどういう状態をさすんだ?相手すらわからない俺は恋人になりたいとかの願いもないわけだが……」
「それは……、無意識ではそう望んでいるということなのかもしれません」
「そんなの、自分の意思でコントロールできる範囲をこえてない?」
マルシルが眉を下げて声を上げた。
「『諦める』という方向で症状を抑えた人は、自分の意志で症状を抑えたとは言い難い例ばかりでした。相手が亡くなったり、あるいは別の誰かと結婚したりという決定的な何かがあった場合が多い。別の人間に求婚され、それを受け入れたというものもありましたが……。
とにかく、結ばれなくても構わないと考えているのに治らないのであれば、もういっそ成就を目指す方が可能性はあるのかと……」
そこまで説明して、俺はライオスに向き直った。
「貴方の婚姻問題は臣下にとっても懸案事項です。俺もヤアドも、貴方の恋を成就させるためにできる限りの協力はしますよ」
俺の視線を真っ直ぐに受け止めるライオスに、意識して目を細めて笑顔を向ける。
花が、乾いた音を立てて落ちていった。ふっくりとした小さなピンクの花がいくつもの花弁とともに床に散っていた。
その花を俺は無造作に拾い上げた。摘んだ花を人差し指と親指とで挟んでくるくると回しながら眺めてみる。これが、ライオスの恋心。
「あと、気にかかるのは、ライオスの花を吐く頻度が資料にあった例より比較にならないほど高いということですね」
「ずっと吐いてるなとは思ったけど、異常なの?普通はもっと少ないんだ?」
「資料の調査結果では、ほぼ常時吐き続ける例はあまりなく、基本的には想い人と一緒にいるか、相手のことを考えている時に花を吐く人が多いそうです」
なるべく淡々とした口調になるよう意識した。
声を震わせるな。
俺は花を焼却処分行きの袋の中に落とした。
「それって、つまりライオスはずっと好きな人のことを考えているってこと?」
マルシルが顔の前で両手を合わせて目を輝かせる。「どう?どう?」とライオスの顔を覗き込んでいるが……。
「特別変わった人物のことは考えていないと思う。なあ、やはり、違う呪いなんじゃないか?花吐き病は、患者が吐いた花に触れると感染するんだろう?少なくとも俺は、こうなる前にそんな花に触れたことはないし、魔物を食べて感染した記録はないんだろう?」
「公式記録に魔物食の記載はありませんが、花吐き病が初めて確認されたのは、食糧難のあった頃と一致しています」
「飢饉の時に食べてたらしいとは言ってたね」
「ライオスの症状の原因は、マルシルの解析からあの魔物を食べたことと見ていいでしょう。そして花吐き病も情報を組み合わせて考えたなら、感染者第一号は魔物食が原因の可能性があるわけです。
あなたは花吐き病であるとみて間違いないと思います」
彼なりに一晩考えてみても本当に相手が思いつかなかったんだろう。ライオスはまだ少し納得しきれない顔で首を捻っている。
「仮に俺が恋をしているとして、そういう意味の好きという感情と、友人や家族への好きという感情はどう区別したらいいんだ?」
そう。多分、ライオスはそこを取り違えている。ライオスが常に花を吐き続けるのは、想い人が常に一緒にいるから。自覚できないのは既に家族同然の立ち位置にいるから。
それを自覚させれば、事態は進展するはず。と、思うのだが……。
「それは、顔を見ると安心するとか、笑っていてほしいとか、幸せでいてほしいとか、考えるだけで心があったかくなるような素敵な気持ちが恋だよ!」
「……それは、ファリンやマルシルへの気持ちとどう違うんだ?」
「え?えと、つまり……そう!君を誰にも渡したくない!とか、お前は俺のものだ!みたいな情熱的な気持ちもあるかもしれないっ」
これならどうだ、と少し頬を紅潮させたマルシルがライオスに人差し指を突きつけた。
「……人を所有するような言い回しに抵抗がある」
そのライオスの答えに、マルシルは今度こそガックリと肩を落としてしまった。おそらくは当人同士だろうに、当事者という自覚がないせいで全く話が進まない。
俺は軽く息を吐くと二人の間に口を挟んだ。
「そこを探っていくことも重要ですが、早急に対策しなければならないこともあります」
「あ、そうだよね!昨日ヤアドくんが言ってた外交とかの話でしょ。一時的にでも花を止めたいんだよね」
「ええ、元々は謁見や会食を予定通りにという目的だったんですが、実は花吐き病の患者には死亡例があるんです」
「えっ!?」
マルシルが驚きの声を上げた。彼女の解析では花吐き病は命に関わるようなものではないという話だったからだろう。次いでわかりやすいほどに顔を青くして俺とライオスとを交互に見た。
「何か私が見逃してたそんなに危険な事態だったの」
「落ち着いてください。花を吐くことは直接的な死因ではないんです」
「じゃあ原因は?」
「原因は、窒息です。睡眠時に花を吐くせいで花弁が呼吸を妨げることがあったようです。なので、せめて眠っている間だけでも花をとめられればと」
するとマルシルが少し慌てたような動作で懐から小瓶を取り出した。揺れた動きで中の液体がちゃぷんと音を立てた。
「これは……?」
「一時的に花の生成を止める薬の試作だよ」
マルシルが瓶のコルク栓を抜いて、中の液体をスプーンで掬い取った。
「ああ、それは助かります」
ヤアドが心底安堵したように溢した。この二日、ライオスが人前に出られなかったフォローは、主にヤアドがしていたからだろう。
「これはどれくらい効果があるんだ?」
「スプーン一杯で二時間くらいかな。もう少し長時間効かせたいなら最初にまとめて飲んじゃっていいけど、生成を止めるのにライオスの魔力を使うからあまりたくさん飲んでも、途中で魔力切れになって意味ないかも」
マルシルから差し出されたスプーンを受け取ってライオスが薬液を口に運ぶ。ライオスの喉が上下して、薬液を嚥下したことがわかった。
俺達三人がじっとライオスを見守るなか、小瓶とスプーンをテーブルに置いたライオスは、ゆっくりと自らの腹を撫でた。
「自分ではあまり変化は感じないな」
そう溢したライオスの口からは、花は一片も溢れなかった。
「よかった!うまくいったぁ」
「ありがとう、助かるよ」
「ああ、さすがですね。これで随分憂いが晴れます」
三人それぞれが喜びの声をあげる。
その日は、特にマルシルの疲労具合が気になったためだろう、それぞれ早めに自室に戻った方がいいだろうとライオスが言い出した。
ライオスはマルシルに、明日試作品を使って使用感を伝えるから、明日はゆっくり休むようにと重ねて言い含めていた。
「少し、相談があるんだが……」
話せるか?とライオスの目が問うてくる。俺は頷いて、促されるまま彼の寝室に踏み入れた。
寝台に腰掛けたライオスが、すぐ近くに置かれた椅子を勧めてくる。俺はおとなしくその椅子に腰を下ろしてライオスの言葉を待った。
「その、あくまで参考までに教えてほしいんだが、君は恋をしたことはあるのかい?」
今まさに、貴方にしていると思います、とは答えられなくて、俺は一瞬言葉を詰まらせた。
実のところ、俺もライオスが特別である確信はあるが、それが恋なのかは決め手に欠けると思っている。いや、思いたいだけかも知れないが。
とにかく、俺はライオス相手のこの思いを除くと、恋というものをしたことがない。
恋の悩みを聞いたことはある。貴方が好きだと言われたこともある。けれど、俺にとって彼女たちは全員それぞれに魅力的だけれど、大切さは同等な一人の人間に過ぎなかった。
以前酒場での雑談で、相手を恋愛対象として見られるかの見極めとして、口吻けできるかどうかで判断できると聞いたことがある。
ライオスに口吻けられる……。
カッと顔が熱を持った気がして、ライオスから顔を背けた。
「あると思います……」
「そうか。よかった」
俺の言葉にライオスはホッと空気を緩めたように笑った。
「マルシルが説明してくれたけど、今ひとつわからなくて。君はどうやって恋愛の好意と、友情や家族への好意とを見分けるんだ?」
ライオスは困ったように眉間を寄せて眉尻を下げて俺を見た。マルシルの熱弁は気持ちはこもっていたが、ライオスには届かなかったようだ。
俺は少し考えてから、つい今しがた自分自身がやった方法を伝えてみることにした。
「そうですね。俺、というか男ならマルシルのような見分け方より、もっと即物的な見分け方のほうがわかりやすいかと」
「即物的とは?」
「相手に口吻けたいかとか、普段衣服に隠された肌を暴きたいかとか」
「君、そんなこと考えてるのか」
「別に普段から誰にでもなんて考えてやしませんよ」
なんだか失礼な勘違いをされていそうで、短く訂正した。
「うーん……でも、そういうことを相手の承諾なしに考えるのは」
「気が咎める?」
「……うん」
ピュアか。
思わず胸中で突っ込んだ。しかし、まあ、ライオスにとってマルシルという存在はそういう相手なのかも知れない。
俺は一つ咳払いをすると真っ直ぐにライオスを見つめた。
「なら、こういうのはどうですか。『今度、結婚します。貴方以外の人と』これを想像上の相手に言わせてみて、ショックを受けるなら……ライオス?」
突然、ライオスがその場にうずくまった。背中を丸めて、呻くような声を漏らしている。
「ライオスどうしたんですっ」
腰を浮かせて、慌てて彼の背に手を添えた。
かはっとライオスの喉がなって、黒いものが吐き出された。一瞬、血を吐いたのかと背筋が凍ったが、吐き出されたそれは固形物のようだと見てとると、俺はそれを手に取った。黒い、花びらだった。
ライオスは繰り返し咳き込んで花びらを、いや、花そのものを吐き出していた。
花には詳しくないが、それでも俺はその花の名を知っている。大輪の黒薔薇だった。
「ライオス、大丈夫ですか」
「……ああ、すまない。大丈夫だ」
意味があるかもわからないながら背を擦りながらそう声をかけると、ライオスはふう、と息を吐いてから答えてくれた。口からはまた花弁がはらはらと落ちるようになっていた。
「まだ二時間も経っていないのに」
「いや、多分、魔力切れの方だ」
ライオスが自らの額に手を当てながら気怠げにそう言った。
「それこそ、まだ二時間も経ってないじゃないですか!」
「時間じゃないんだろう。感情の揺れで花を吐く。花を吐かないようにするために魔力が必要。なら、感情の揺れ幅が大きいならより大量の魔力が必要になるのは当然だろう」
上体を起こすライオスを支えようと添えた手を、制された。
ライオスの感情を揺れさせれば自覚すると思ったが、それはつまり花吐き病の悪化に繋がるということなのか。失敗したな。
ギリッと奥歯を一度噛んで、けれど今、それほどにライオスの心を動かしたならこれが自覚を促すチャンスだと思った。
「それはつまり、今アンタの感情が大きく揺れたってことですね?誰のことを考えたんです?」
「いや、特別誰かを想像したわけでは……」
「そんなわけないでしょ!」
「カブルー……」
はぐらかすのか、本当にわからないのか、そんなことを言うライオスに思わず声を荒げたが、ライオスはむしろ静かに俺の名を呼んだ。
「多分、わかった。わざわざ想像する必要はなかったんだ」
それは、つまりどういうことだ?わざわざ想像せずとも、件の相手に現実に言われたことがあるということだろうか。
「アンタ、まさか既婚者に惚れてんすか?」
何故そんな茨の道を……と頭を抱えかけた。
いや、でもライオスと常に一緒にいて、既婚の女性なんていただろうか。ライオスが常に花を吐いていたのは事実なのだから、常にそばにいる相手というのは間違いないはず。実はマルシルから結婚に憧れてるという話でも聞かされていたんだろうか。
頭の中を色々なことがぐるぐるしている俺の腰に、ライオスの腕が回された。「そういうことじゃない」と、少し不満気に唇を尖らせたライオスが俺を見上げてくる。やめろ、そんな顔をしたって可愛くなんかない。
「君は俺の思いを成就させるためなら、なんでも協力してくれると言ったな?」
「……はい」
「その気持ちに変わりはない?」
「……ありません。俺にできることであれば」
逃げ道を封じるような確認に返答を躊躇わないではなかったが、まっすぐに俺を見つめるライオスの視線は真剣以外の何でもなかった。
ライオスという人は観察力に優れている。通常その観察眼が人間に発揮されることはないのだが、マルシルをはじめとした身近な人間相手のことは意外と見ていたりする。今夜マルシルを休ませようと提案したのもそうだ。以前、俺が睡眠不足気味で体調を崩していた時も、真っ先に気づいたのはライオスだった。顔も名前も覚えてもらえなかった身からすれば大出世だ。
だからこそ、少なくとも俺の覚悟に嘘はないことは言っておきたかった。俺にできることならば、なんでもする。けれど、俺の力が及ばないことはある。そんなこと、ライオスは十分にわかっているだろうけど。
「君は恋をしたことがあると言っていたけど、それは今もしているのかい?俺のこの花に今、君が触れたらどうなる?」
「それはアンタの花を止めるのに必要な質問なんすか?」
「もちろん」
「……今、アンタの花に触れたら、俺も花を吐くと思います」
「君ほどの人ならば、誰だって君を好きになると思うけど、片思いのままでいるのには何か理由があるのかい?」
それをアンタが聞くのか、と恨みがましい気持ちになる。ライオスは俺の気持ちなんて知らないのだから、この怒りは八つ当たり以外のなんでもない。そもそも、この思いはメリニのためにもライオスのためにもならない。
「この思いは墓場まで持って行こうと決めているので」
「なぜ」
「希望があると思えない」
「なら何故、諦めない?君ならそんな相手を選ばずとも、もっと幸せになる方法があるだろう」
何故そんな質問をアンタがするんだ。
言わないと決めたのも、欲しがらないと決めたのも俺なのに、それを知らずに揺るがす彼の声に、今度は勝手に傷つきそうになる。
「アンタだってわかってるでしょ。諦められないんすよ。そんなもん、俺の意思でどうこうできるもんじゃない」
「つまり、諦められさえすれば、君は他の誰かの愛を受け入れて恋人関係になる可能性もあると」
「そうすね。諦められれば」
実際のところ俺には無理だと思う。俺の生涯の全てをライオスに捧げたって構わない。むしろ、捧げると決めている。そして叶うなら、彼からも俺を望んでくれたなら、そこに愛などなくても俺はこれ以上のことはないと思う。
そんな風に思考に捕らわれていたのがいけなかった。不意に俺はライオスに捕まえられ、寝台に転がされた。
手首をシーツに縫い止められたまま、腰の上にライオスが跨る。
常であれば、体格差の不利さえ覆して彼に膝をつかせることもできたろう。けれど、この体格差でこうもがっちりと抑えられては、今更抜け出すのは困難だ。
「ライ……っんう……」
抗議の声を上げようとした口を塞がれた。口腔に分厚い何かが無理やりねじ込まれて、舌を入れられていると理解する。せめて呼吸をしようと隙間を空ければ、ライオスの舌は遠慮も容赦もなく、さらに奥へ入り込んできた。その舌は、何か異物を俺に送り込もうという明確な意思を持っていた。彼の舌先に何かが纏わり付いていて、俺の舌に擦り付けられる。
突然、胃の腑を何かで削り取られるような強烈な苦痛が襲ってきて、俺は体を丸めようとしたけれど、ライオスに抑え込まれてそれも阻まれた。
唐突に唇を解放されて、俺は顔を背けて咳き込んだ。俺の口から零れ出たのは、縁が薄桃色に色づいた小さな白い花がいくつもついた一房だった。
花吐き病を感染されたと知って、知られてはならないことを暴かれたのだと胸を重たいものが塞いだ。
手首が拘束されているせいで唾液に濡れた唇を拭うこともできないまま、ライオスを睨み上げた。
「何、するんすか……っ」
「報われないのに、君が幸せでないのに、君の心が誰かのものだというのがすごく不愉快だ」
ライオスが不機嫌さを隠さない表情で俺を見下ろしていた。はらはらと彼の口から花弁が舞い落ちてくる。誰かを思う証を俺に降らせながら、よりによってアンタがそれを言うのかと腸が熱くなるような思いがした。あの時のように一発ぶん殴ってやりたいと思った。
彼の下でどうにか拘束を解こうと暴れてみたけれど、寝台に磔にされたまま無様に身を捩らせるくらいしかできなかった。
「なんでもすると言ったのは君だよ。カブルー、俺と一緒に花吐き病を治そう」
「余計なお世話だ!何故俺を巻き込んだ!アンタの花吐き病を治したいならとっととマルシルにプロポーズでもしてくればいいだろっ!」
実らぬ恋を選ぶ俺を憐れんでか、そんなことを言うライオスに心底苛立って怒鳴りつけてやった。
しかし、ライオスは俺の激昂に怒るでもなく、怯むでもなく、ただただきょとんと瞬きを返してみせた。
「……マルシル?なんでマルシルが出てくるんだ?」
「……いや、だって、他にいないでしょ?」
彼の素の表情に毒気を抜かれて、俺も思わず脱力して返した。
ライオスは俺の手首から手を離すと自分の顎に手を当てて考え込むように唸った。
「何故、マルシルだと思ったんだ?」
「貴方は毎日、花を吐いていました。そして特別な相手のことは考えていないと言った。なら、毎日一緒にいる人が相手だろうと思いました」
「マルシルだったらさすがに自覚できると思わないか?」
「家族愛や友愛と恋愛の区別がつかないと言っていたので、家族同然のマルシルへの思いを家族愛と考えてしまったのではないかと」
「マルシルは婚約者もいないし、俺に結婚するという話をしたこともない」
「彼女は恋愛に憧れを持っているようですし、雑談の延長で結婚への憧れなどを口にしたこともあるのではと」
ライオスに問われるたびに淡々と答えていると、とうとう今度はライオスが額に手を当てて俯いてしまった。
しばし、お互いに呼吸だけを繰り返した。その間も俺たちの間に花弁が降り積もっていった。
「カブルー……」
「はい」
「いくつか訂正したい」
「……どうぞ」
「……まず、俺が好きな人が毎日一緒にいる人だという点については、その通りだ」
「はい」
「次に、俺が自覚できなかった理由だが、多分大きく分けて二つあると思う」
「二つ……」
「一つ目は、臣下の期待に応えられないことだ。君やヤアドたちにとって俺の婚姻問題が重要なのは、俺の後継者問題の解決に繋がり得る事柄だからだと思う。だが、俺の好きな人と俺が結ばれたとして、後継者問題の解決にはならないんだ」
「はぁ……」
やはり、マルシルじゃないか、と俺は思った。彼女はハーフエルフで、子どもができないと聞いている。
「次に、俺は自分を異性愛者だと思っていた。だから、彼をそういう対象として見ているという自覚がなかった」
「……は?」
思いもよらぬ言葉に、思わず間抜けな声が漏れた。パラリと花びらが散っていくのにも気を留めていられない。
誰がなんで、そういう対象に見ている相手が何だって……?
「それから、彼は間違いなく現実で、彼の声で、『今度結婚します。貴方以外の人と』と言ったんだ。正直、嫉妬という感情があんなにも重たくて暗い感情だなんて、初めて知ったよ」
ライオスは照れくさそうに苦笑してみせたが、こっちはそれどころじゃない。まて、待て待て。その条件を満たす彼というのは……
「わかっているかい、カブルー?」
ライオスが穏やかに俺の名を呼ぶ。でも退路を与える気などないのは、彼の手が俺の顎を掴んでいて、俺が彼から顔を背けることを許さないことからわかった。
花弁でなく花そのものが、俺の唇からこぼれ、頬を伝ってポトリとシーツに落ちた音がした。
その花の色が何色かなんて見なくてもわかる。
ライオスは一瞬だけ花を目で追って、けれど、すぐに俺の目を真っ直ぐに射抜くように見下ろしてきた。
「え……、と……」
「俺の花吐き病を治すためになんでもしてくれるという気持ちに変わりはない?」
現実感のない状況で頭が回らない俺を、ちっとも待ってくれないライオスが再びあの質問をした。
「……はい」
彼の唇から降る赤やピンクの花弁混じりの花を受けながら、俺は、ただ、馬鹿正直に頷くことしかできない。
ライオスはそんな俺の答えに微笑みを浮かべて、俺の頬に積もっていた彼の花をそっと指で押し退けて、問うた。
「俺の花吐き病は治るだろうか?」
「俺が治せるんですか?」
往生際悪く質問を返した。けれど、ライオスはきっぱりとこう言い切った。
「君でないと、治せないんだ」
彼のためにできることがある。
彼に、求められている。
胸に溢れる喜びが、何故今花となって吐き出されないのか不思議で仕方ない。こんなにも抱えきれないほどの幸福なのに。
未だ俺に降り積もる彼からの花弁が、銀のそれになるように、俺は彼の首に腕を回して引き寄せた。
彼の重みがのしかかって、それが愛しくて、少しだけ苦しい。
薄く唇を開いて、彼に捧げるように喉を反らす。
解呪の口吻けは、ひたすら甘く、花の香りがした。