子カブが悪食王に助けられる話 逃げなきゃ、逃げないと……!
お母さんはどこに行ってしまったんだっけ。
顔は怖いのにいつも優しくしてくれた酒場のマスターは?
余ったからと嘘をついて温かいご飯を分けてくれる隣のおばさんは?
懸命に足を動かしていた。どこへ向かえばいいのかなんてわからない。どうしたらいいのかもわからない。ただ、走って走って走っていた。
背後からは様々な足音が追ってくる。そのどれもが人の足音とは似ても似つかない。
人の背丈もあるような歩く茸。巨大な尻尾を振り上げて迫ってくる大きなサソリ。大人よりずっと大きくて動き回る土人形。吟遊詩人が唄う冒険譚の中で倒されるような竜。
そんな化け物たちが執拗に追ってくるのだ。
はぁ、はぁ、と上がる呼吸音が耳に響く。胸が痛い。足も痛い。
立ち止まれば追いかけてくるやつらに殺されてしまうだろう。
前方に森が見えてきた。あの森の中なら、追いかけてくるやつらの目から逃げられるかもしれない。ほんの欠片の希望が見えた気がして、懸命に手足を振った。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
森の中に入ってもしばらくは必死で走った。やがて走り疲れて、後ろを振り返ったときには視界は真っ暗な森でいっぱいだった。あの大群に喰い殺されるのと、この森で一人寂しく朽ち果てるのとどっちがマシだったろう。思わずそんな考えが浮かび、頭を振った。
こんなわけもわからないまま終わるのは、嫌だ。
疲れたと不満を告げる足を無理やり引きずって歩いた。ガサガサと物音が鳴るたび確認していた周囲への警戒も、疲労が上回って、とにかく前に進むことしか考えられなくなった。
「あ……っ」
不意に足首を何かに取られて、そのまま地面に倒れ込んだ。起き上がろうと地面に手をついて足首を確認しようと身体を捩る。
「え……?」
同時に足首を何かに締め付けられそのまま地面を引き摺られる。驚きと恐怖で声もでない。気づいたら足首だけでなく、身体中を緑色の細長い何かが這い回っていた。
「ひ……っ」
喉が引き攣った。
緑色のそれは植物の蔓で、まだ自由になった両の手で慌てて掴んで引きちぎろうとしたけれど、力が入ってないのか、そもそもこの蔓がやたらに丈夫なのか、その両腕ごと拘束されてしまった。
その時だった。
「◯◯◯ー!」
人の声が空から振ってきた。いや、人も振ってきた。大人の男の人だ。どこから振ってきたんだ?上を見上げても森があるばかりだ。元々樹の上にでも潜んでいたのだろうか?
「うわあ、シャドーテールじゃないかッ!」
弾んだような声が聞こえた。なんでそんなに嬉しそうなんだろう。でも、こんなに嬉しそうなら彼にとってこの植物は脅威ではないのかもしれない。
「あの、助けてください!」
「わかってる、◯◯◯ー。あまり動くな」
彼がスラリと剣を抜いた。危機を感じとったのか、植物が無数の蔓を揺らし始めた。彼目掛けて蔓が伸ばされる。彼は、その蔓を躱して走った。ああ、どう見ても押されている。一対多数の戦況で、魔法使いならばまだ対応もできたろうに。目を塞ぎたいのにそれもできなくて、でも彼から目を逸らせなくてハラハラと見守るしかできない。
と、彼の剣が一閃、煌めいた。
途端、身体を締め付けていた蔓が力なく流れ落ち、落下感とともに地面が近づいてくる。
「大丈夫かい、◯◯◯ー」
予想していた衝撃はなくて、彼の腕が抱き留めてくれたことを知る。
見れば、あの植物は根元からバッサリと断ち切られていた。
温かな力強い腕の持ち主は、穏やかに笑っている。
「ありがとうございます。あの、あなたは?」
平和な農村に広がる小麦畑のような髪をした彼は、その質問に簡潔に答えてくれた。
「ライオスだ」
「ライオス」
繰り返したその名前は何故かとても口に馴染んだ。そのまま、そっと地面に下ろされ、なんだか寂しい気がして離れていく袖を掴んだ。
「なんだい?ああ、怪我をしているのか」
治療しよう、と言われてその場に座らされた。見れば膝を擦りむいていた。転んだときだろう。大きな手が脚にそえられて、温かな何かが流れ込んでくる。心地よくて、その優しさに身を任せていると、また彼が口を開いた。
「さっきの植物型の魔物はシャドーテールといって、人の皮膚に種子を埋め込むタイプなんだ。花の刺に触れていないかい?」
そんなおぞましいことを言われて全身が総毛立った。
いつの間にか消えていた膝の痛み以外、どこも痛いところはなかったはず。恐る恐る頷くと、ライオスは「ならよかった」と笑った。
「ライオス……さんはどこから来たんですか?何をしている人なんですか?」
「ライオスでいいよ」
彼はそう言って笑って、それから少し考えるように視線を斜め上へと向けた。
見れば見るほど不思議な人だと思う。
身につけている服は仕立てのいいもので偉い人が着ているような生地だし、剣を使っていたのに防具なんて何一つ着けていない。それなのに、凄腕の冒険者みたいにあの植物、シャドーテールを一太刀で倒してしまった。
「信じられないかもしれないけど、俺の今の職業は王様なんだ、◯◯◯ー」
そう言って笑った彼の答えは妙に納得ができて、でもさっきからずっと気にかかっていたことがムクムクと膨らんで存在を主張してきた。
「それ」
「ん?」
「その◯◯◯ーってなんですか?」
そう尋ねると、ライオスはぱちくりと瞬いた。
「君の名前じゃないのか?」
「僕の?いいえ、僕は……」
あれ?僕の名前はなんだっけ?
「てっきり◯◯◯ーだと思っていた。何か事情があるのかな。俺は君を何と呼べばいい?」
「僕は……」
僕は、ライオスに何と呼ばれたらいいんだっけ。お母さんが呼んでくれた名前は……いや、違う。
「いいえ、ライオス。俺のことは今まで通り○○○ーと」
地面に片膝をついた。彼の手を取って、口づける。
「俺は、貴方の○○○ーです」
視界が白一色に染められた、と思ったら眩しくて瞼に力が込もる。妙に腹が重たい。
薄く開いた眼に映ったのは、俺の腹の上で眠る我が君ことライオス王だった。
「ライオス、ライオス。起きて」
肩を揺すぶると小さく呻いて彼が目を開いた。
「……カブルー?」
寝ぼけ眼のまま、ゆっくりと起き上がって俺を見た。
「ああ、よかった。無事に目覚めたんだな」
そう言いながら、むんずと俺の枕を無造作に掴んで、ナイフで縫い糸を切った。中から、ゴロゴロと転がり出たのは握りこぶしほどもある貝。こいつ、もっと小さかったけど見覚えがある。そう、こいつは、
「夢魔!?」
「ああ、最近の君の窶れようが異常だし、夢見もよくないと言ってたろ?もしかしたらと思ったんだ」
「そんな!ここはメリニですよ⁉︎貴方の膝元であって魔物なんて……」
ライオスは俺より一回り大きな両の手で夢魔を拾い上げながら、落ち着いた声で状況を説明してくれた。しかし俺の方はそんなに落ち着いてはいられない。ライオスは悪魔の呪いで魔物の方が逃げて行くため、魔物に近寄ることができないはずだ。俺の部屋も城の一室でつまりはライオスの居城の一部である。ライオスを恐れてメリニ周辺にすら入って来られない魔物が、こんなところにいるはずがない。
「最近枕を変えたりした?」
「いいえ」
のんびりとした声で夢魔を愛でるように撫でるライオスに短く答える。この人はこういう人だとわかっているけれど、とため息を吐きかけて、ふとひっかかった。
「まさか、人為的な?」
「外傷も残さず、自力移動が苦手な夢魔は嫌がらせに使われることもあるらしい」
呪いのせいでライオスから逃げだす魔物たちでも、怪我など移動が困難な状況であれば逃げられないこともある。
夢魔は枕に潜んで人々に悪夢を見せる魔物だが、獲物の枕に潜んだあとはじっと獲物に取りつくため、長距離の素早い移動など必要としないのだろう。本来は。
「内部の人間のやっかみかもしれませんね」
というか十中八九そうだろう。他国からわざわざ狙うなら俺のよう半端な立場の者を選ぶ意味がない。よほど気の長い計画なら?それにしたって他国からしたら狙うならヤアドだろう。
「君が若くて優秀だから?」
あまり動きのない魔物に飽いたのか、それとも興味が移ったのかライオスがこちらに手を伸ばす。直前まで夢魔に触れていた手で撫でようとするな。身を引いて手を交わすと露骨にしょんぼりとした顔をする。
シーツを引っ張って夢魔を寝台から転がして、ライオスの隣に座り直す。
「いえ、政務経験のない若造がコネで採用されてるようなものなので。想定しておくべきでした」
ヤアドに教わるべきことが多過ぎて、自分に不足している事柄を埋めるのに一所懸命で視野が狭まっていたらしい。ため息と共にライオスの肩に寄りかかって体重を預けると彼の視線が注がれる。
「俺から忠告しようか」
「いえいえ、この部屋に入れる人物に協力者がいることは確実ですから、そこからさぐればいいんです。大丈夫、すぐ見つけてみせます」
常より少し低めの声で提案されて、少々不機嫌らしいとわかった。その理由が俺を害されたことなのだからこちらは上機嫌にもなろうというもの。
「……頼もしいな」
得意の笑顔で請け負って見せると、ライオスは頬を少し引き攣らせていた。そんな物騒なことはしませんよ。まあ、向こうの目的次第ですけど。
どう詰めていこうかと考えを巡らせようとしたが、寄り添う体温が心地よくて、加えてここのところの夢見の悪さも手伝って、なんだか瞼が重たくなってきた。二度寝をする時間はないよな、と視線を巡らせると、ライオスの肌艶が妙によく見えた。
「ところで一緒に悪夢をみた割に貴方は随分元気そうですね」
「ん?ああ。まさか君の夢で魔物と出会えると思わなかった!夢の中とはいえ、あんなに間近で、生きて動いてる魔物と対峙できるなんて!」
「……喜んでいただけたなら何よりです」
今度はこちらの頬が引き攣ったけれど、でも俺を助けてくれた彼が楽しそうなら、まあ、いいのかもしれない。