3月9日「去年、春に軌道エレベーターからこの地域を見降ろすと、島が桜色に染まっているのが見られると聞いて、地球に来るのを楽しみにしていたんだ」
どんよりと曇って寒そうな空を車内の窓から眺めながら、グエルは「前にも言ったかもしれないけど」と、ちいさく呟いた。
この地方の言葉で三寒四温と言うらしい。昨日は春が来たのかと勘違いして上着を忘れそうな気温だったのに、今日は雪が降る予報が出る冷え込みだ。
ジェターク社CEOを襲名して3年経ったグエルの、地球滞在時ボディガード兼運転手として最近雇われるようになったオルコットは、なかなか暖まろうとしない型落ちのレンタカーの暖房を運転席から最強に上げた。
「結局去年の桜の時期は、仕事のトラブルもあって会社にこもりっきりになっちゃって、年度末も重なって地球出張どころか外出もままならず、やっと地球に来られたと思ったらもう梅雨入りしていてがっかりしたんだよな……。今年は桜、見られる……かな……」
あんたと、一緒に、と続く言葉は少しずつちいさくなって、グエルが両手を温めているコーヒーの紙コップに吸い込まれていった。
軌道エレベーターから定宿のホテルへ向かう見慣れた風景が車窓を流れていったが、ふと、いつもは入らない横道にオルコットは車を向けた。
「あれ?こっちの道だったっけ?」
まだラッシュを避けるような時間ではない。明日とんぼ返り予定の地球でのスケジュールは分単位で詰まってはいたが、今日は終日移動の予定にしていて、あとはホテルにチェックインするだけだ。
グエルの疑問は聞こえているはずだが、オルコットは無言で運転を続けた。
「え? ……あれ、なんだ?」
グエルは、わぁっとちいさく歓声を上げた。山道から急に視界が開けたかと思うと、鮮やかなマゼンタ色のかたまりが視界に飛び込んで来た。
路肩にオルコットが車を止めるか止めないかのタイミングで、もうグエルはドアを開け飛び出していた。寒々しい裸木ばかりの林の中に、ふわりと優しい色の花が宿る木が数本立っている。
「……咲く時期が早い品種の桜、だそうだ」
「もしかして、俺のために探してくれたのか?」
グエルが映像で見たことがある、一般的な桜よりも緋色が濃く、それはその木が寒さに抗って花ひらく力強さにも感じられた。
ふたりはしばらく声もなく桜に見入っていたが、濁った曇天からついに白いものが落ちてきた。
「夢みたいに綺麗だな……」
鮮やかに咲き誇る緋色の桜を愛でるように、ひらひらと舞い落ちるぼたん雪は、グエルだけでなく、地球に住んでずいぶん経つオルコットすらはじめて見る美しい光景だった。
「ありがとう、嬉しいよ」
グエルがくしゃみをしたのをきっかけに、オルコットはグエルに車内へ戻るよう促した。
🌸
「天候の変化が激しい地球では、桜は、雨が少し激しく降ったり、ちょっと風が強めに吹いたりすると、あっという間に散ってしまうものなんだ。桜は、儚さとか、潔さの象徴でもある」
「そうなのか?」
暖かな車内で、サーモボトルから熱い珈琲を紙コップに注いでもらいながら、グエルは不思議そうに答えた。
「フロントの管理された花樹は花の時期も天候もコントロールされていて長く見られるだろうが、地球の桜はタイミングが難しく、在住していても見られない年がある。……お前は、見られなかったとがっかりしてしまうんだな」
「……子どもっぽかった、かな?」
みるみるうちに赤くなったグエルに、オルコットは
「いや、そういう意味じゃなくて、その」
めずらしく少し慌てた様子で軽く頭を掻き、改めて話を続けた。
「……俺は、お前と出逢うまで、春には花が咲く事すら忘れていた。誰かと一緒に桜を見て、綺麗だな、なんて思える日がまた来るなんて、夢にも思っていなかった」
オルコットは、手元の珈琲に落としていた視線をグエルに真っ直ぐ向けて
「俺の方こそ、お前に感謝しているんだ。グエル・ジェターク」
グエルの背後の車窓から見える早咲きの桜は、再会する前に思い描いていた通り、グエルの前髪と同じ色だった。
それをいま確かめられたことに、オルコットは内心満足していた。
🌸
ミオリネ・レンブラン代表取締役のベネリットグループ解散宣言と地球への資産売却宣言を、合流したオルコットと一緒に聞いたナジは、各地の難民キャンプを転々としながら組織『フォルドの夜明け』の立て直しを計っていた。
春になり地球の桜の花が咲きだすと、オルコットがふと移動の足を止め、しばらく眺めているのに気が付いていた。
「御曹司のこと考えてるだろ?」
と言われて
「……何のことだ」
とうそぶくオルコットに、ナジは
「まったくお前さんは」
と笑った。
「昔のお前さんは、花どころか地球の景色すら気にしたこと無かったじゃないか」
瓦礫を踏んで足早に歩き出したオルコットの背中を、ナジは笑いながら大きな掌でばちんと叩いた。
🌸
「桜を誰かと一緒に見る、っていいな」
グエルは、運転するオルコットの横顔を、助手席から見つめながら呟いた。
「俺、今日のこと絶対忘れないよ。桜だけじゃなくってさ、花を見たら思い出すんだ。それはさ、俺たち離れていても、同じものを見て、同じように綺麗だな、と思って、一緒に居るのと同じなんじゃないか?って思うんだよ」
「ふふ」
オルコットの口元が少しだけ緩む。
「あはは、俺何か変なこと言ってるかな?
でも、少なくともこれから花を見るたび俺は、俺に桜を見せたいと思ってくれた、あんたのことを考えるよ」