秘密の花園 初冬の肌寒い夕方。木枯らしに負けじと、隠し刀の中にも木の葉を散らすような風が吹いていた。
仕事の報酬を受け取り、長屋へ帰ろうとしていたところ、目の前を歩いていた幼子が、何が気に食わないのかはわからないが駄々をこね、この世の終わりかと思う程の泣き声をあげて母親を困らせていた。
報酬の中にミルク入りしょくらあとがあった事を思い出した隠し刀は足を止め、怖がられぬよう子の目線に近くなるようしゃがんで、しょくらあとをそっと差し出す。
すると、知らない人の出現に驚いたのか、子がぽかんと呆気にとられ、涙が引っ込んだ後、手中の見た事のない物を不思議そうに眺める。
西洋の甘味だと教えると、恐る恐る手に取り、小さく齧ればたちまち笑顔が咲いた。もじもじと恥ずかしそうに、ありがとう、とお礼を言われ、心が温まるのを感じてそっと微笑む。
すっかり機嫌も直り、手を繋ぎゆっくりとした歩みで家路につく母と子を見送ると、ふと幼い頃の家族との幸せな思い出が甦り、一抹の淋しさを覚える。
久方ぶりに顔を出したこの感情は、刀として研がれていくうちに心の底に沈殿していったものだった。しかし片割れを追うこの旅で大切な人ができた事により、湯を沸かした時の泡によって上へ押し出されるように、水面に浮かび上がってきた。
要は、人肌が恋しいという感情を持て余しているのだ。夕日によって赤く染った空が、余計に淋しさを増幅させる。
会いたい。そう心に思い浮かべるのは、片割れではなく、恋人である福沢諭吉だった。
片割れは家族同然の関係なのだが、刀として共に生きる為にあろうことか戦のある世を作ろうとしている。それを止める為に説得したいという理由で会いたいとは思うが、今この淋しさは逢瀬の意だ。
恋人の勤めはもう終わっていてもおかしくない時間だが、終わっていなくとも少しでも顔が見たい。あわよくば共に夜を過ごしたい(言葉の通りで決していやらしい気持ちは無い、はず)と想いを募らせ、足早に福沢の勤務地へと駆けていった。
◇◇◇
「福沢殿ならとっくに帰られましたよ。」
姿が見当たらず近くにいた役人に尋ねたところ、そう返事が返ってきた。それならば、宿舎に戻っているか、店で一杯ひっかけているかの二択なのだが、取り敢えずここからそれ程遠くない宿舎に向かう事にした。
しかし、これも残念ながら空振りだった。それに加えて、海に荷物を落としたから探してほしいだの、喧嘩を止めてほしいだの、急いでいる時に限って足止めを食う事ばかり起こるので、酒を持っていないかと酔っ払いに絡まれた時には、煩わしさからそこら辺にあった適当な酒を浴びせた。やり過ぎたかもしれないとも思ったが、粋なことをするなあ、と喜んでいたので結果的に良かったらしい。
紆余曲折を経て、やっとこさ福沢が好んで通う居酒屋に到着した。すっかり日が暮れて、冷たくなった体を両手で擦りながら情人の姿を捜す。すると、すぐに彼を見つけた。
ここへ到着するまでの苦労や肌を突刺す寒さも、彼の姿を見た瞬間、一気に吹き飛ぶくらい嬉しい。嬉しさに口元を綻ばせたが、恋人にだらしない顔を見せたくなくて、きゅっと口と気を引き締めて心を落ち着かせる。
心の準備を済ませ、さて、声をかけようとするも、顔見知りの常連客と楽しそうに酒を飲んでいるのを見て、水を差すのも悪い気がした隠し刀は少し気が引けた。
気の置けない友と語らう時間が、彼にも必要だろうと言い聞かせ、今日は一人このまま長屋に帰ろうと踵を返そうとした時、気になる会話が耳に入ってきた。
「……この話は誰にも言わないでくださいね。」
何やらこれから内緒話が始まるようだった。
盗み聞きなぞ良くない事だと理解しつつも、情人の秘密が気になってしょうがない。迷いに迷った挙句、心の中で福沢にすまないと謝り、二人の視界に入らぬ場所へ隠れ、そのまま聞き耳を立てる。
「その日の事はよくおぼえていますよ。なにせ、衝撃的でしたから…自分に、こんな感情があったのかと…今でも信じがたい、です。ぼくは当時、横浜貴賓館が勤務地でして…そこの庭に、きれいな花が植わってるんです。その花を見ながら…煙管をふかしていたのですが、あるひとが…今にも雨の降り出しそうな曇天の空の下で、花を…じっと、見ていたんです。もも色の花の茎をそっと、かたむけて…香りをかいで…その表情が何とも儚げで美しくて…目が離せなくなりました……」
その時の情景を思い出しながら少し呂律の回らない舌で語る福沢は、いつもはおっとりとした落ち着いた話し方なのだが、酒のせいなのか、話の内容のせいなのか、ふわふわと夢心地な様子だ。
どうやらこれは恋の話らしかった。福沢とこういった話をした事も、された事もなかったので、とても新鮮に感じる。生きていれば恋をする事もあるだろう。自然な事だ、何もおかしくはない。過ぎ去った恋を時々掬いあげては眺め、感慨に浸る性質なのかもしれない。
格子窓から福沢の顔をちらりと見やると、今でも忘れられない程好きだと言わんばかりの表情で、瞳がとろりと熱を持っている。
その目を見て隠し刀は、感じた事の無い、煙のようなもやもやとした感覚に襲われたが、すぐに悲しみが襲い、それを飲み込んでいった。好奇心は猫をも殺すと言うが、刀をもへし折るとは。
あの時、変に遠慮せず声をかければ良かった。そうすれば秘密の話は中断され、余計な事を知らずに済んだのに、と後悔するものの時すでに遅しである。
まさか恋人がすぐ傍で聞いているとは知らない福沢は話を続ける。
「煙草をのむのも忘れて…しばらく、その人を見つめていました。すると、ぼくの視線に気付いたのか、こちらへ顔を向けて…くすりと微笑みかけたのです。その瞬間、ものすごい、轟音と共に視界が白一色になり、稲妻がぼくのなかにもおちました。前が見えないほどの雨が降りはじめましたが…そんな事、どうでも良くなるような衝撃で…自分でも本当にびっくりしましたが…初めて、恋に…おちてしまったのです。あの土砂降りですから……どこかに、避難したのでしょうね。いつの間にか、その人はいなくなっていました…」
初恋。そうか、初めて感じた気持ちなら印象も強いだろう。実際、自分自身も初めて恋心を自覚した時は、まさか自分にこんな感情があるとは、と信じられなかった。まぁ、その相手がすぐ近くにいる諭吉なのだが。
心が浮ついてその人の事ばかり考えてしまうけれど、それが心地良いのだ。熱を失ってしまった心を暖かく包んでくれる。幸せな気持ちになるし、相手の事も幸せにしたい。
今は私と想い合う仲なのだ。なにも比べる事などない。諭吉が初恋の人をどう想おうが、その経験を経て、今の福沢諭吉という人間を作っているのだ。それならば、私はその想いごと受け入れようではないか。ありのままの彼が好きなのだから。
そう必死に自分に言い聞かせ、無理やり納得させようとしていた。大切だからこそ嫌われたくない気持ちが大きく、福沢の前で格好つけたり、本心を隠すところがある。そんな臆病な隠し刀であった。
すると、話を肴に飲んでいた常連客が喋り出した。
「へぇ…あんたは一目惚れをする性格には見えないけどねぇ。でも良いじゃないか。それで、その相手とはどうなったんだい?何か進展があったのかい?」
楽しそうにしていた常連客が話を促すと、その言葉を待っていましたと、福沢はえへへとはにかみ顔で話を続ける。
「それが…後日、そのひとが横浜貴賓館に人捜しにきまして…姿を目にした瞬間、心がおどりました。再びあえた嬉しさについ顔が緩みそうになりましたが、ぐっと抑えこみました。むこうは…ぼくの事など覚えていないでしょうし、いきなり知らぬ人に好意を向けられるのは…気味悪がられそうな気がしたので…しかも、その捜している方が誰かに襲われたばかりで、いくら好いた人でも、名前も素性もしらない人に居場所をおしえるわけにはいかなかった。すると、その場にいた外交官の方が、ぼくに、彼の詳しい居場所をおしえるから共に行ってくればいいと、そう提案したのです。」
その話を聞いて、隠し刀は初めて福沢に会った時を思いだした。
この話、身に覚えがある。ハリスを見つけられれば護衛をしていた片割れに辿り着けると、横浜貴賓館を訪れた時の事ではないか。
これが勘違いではないのなら、今までの惚気話は私との馴れ初め話だったという事なのか?
これまでの話を思い返し、気付く。もしかして私は自分に嫉妬していたのかと。何が「初恋の人の想いごと受け入れる」だ。そんな心配は最初から無用だったらしい。安心してほっと胸を撫で下ろしたと同時に、自分の感情の起伏に可笑しくなり、笑いが込み上げてくる。
脱藩前の任務に必要な知識や技術を学び習得し、言われた事を言われた通りにこなすだけの刀の日々からは考えられない成長だ。
しかし、共にハリスを捜しに行くと決まった時、気が進まないとも言われたし、私の振る舞いも良くなかったせいもあるが、とても怪しまれていると思っていた。そんな態度の裏にこんな想いが隠されていたとは。そのうっとりした瞳も、その甘ったるい声も、全部最初から私に向けられたものだった。
滑稽さから生じた笑みが、次第に愛しさに満ちた笑みに変化していく。
お互いが初めての恋、という事実が嬉しくてつい舞い上がってしまうが、裏庭の事は記憶に無かった。横浜貴賓館になら何度も足を運んだが、全く思い出せない。必死に思い出そうとうんうんと頭を捻っていると、福沢と共に飲んでいた常連客の声で意識が居酒屋に引き戻された。
「あらら、福沢さん、大丈夫かい?」
「大丈夫…です…すこし、酔ってしまっただけ…ですから…」
にへら、と周りに心配かけまいと笑顔でそう呟くも、どう見ても大丈夫ではなさそうだ。夢から現実に戻ってきたような様子で、お猪口を軽く回しながら中の酒が波打つのをぼうっと見つめている。
「おやまぁ、珍しいねぇ。福沢さんがここまで酔うなんて。」
「嫌な事でもあったのかねぇ…少し元気が無さそうな顔をしていたし。しかし…どうしようか。そろそろ帰ろうかと思ってたんだが…このまま放っておいたらここで寝ちまうかも…」
「彼の宿舎の場所は知っているかい?」
「いいや、知らないねぇ…」
店の者と常連客がどうしようか考えあぐねている。ここは自分が送り届けた方が一番良いだろうと判断した隠し刀は、あたかも今到着したような素振りで、暖簾をくぐった。
「こんばんは。諭吉はここに居るか?」
「ああ!良い所に来てくれました!福沢さん、べろべろに酔っちゃいまして…宿舎まで送ってやってくれませんかねぇ…」
福沢と何度もこの店に来ている隠し刀は、福沢と同様、ここにいる店の者たちと顔馴染みである。この店の隠し刀の位置付けは、やや浮世離れしているところはさて置き、人当たりが良い上に、福沢の友という認識のようで、それならば送迎は彼が適任だと判断したようだ。
「わかった。その前に水を一杯飲ませたい。」
「あいよ。来てそうそう悪いねぇ。」
そう言って水を用意しに店の者は奥へと引っ込んだ。
「…あまり諭吉にぱかぱか飲ませないでくれないか。」
軽口を叩ける程度には仲の良い、常連客に文句を垂れる。
「ははっ!その言い草だと私が酔わせたみたいじゃないか。違うぞ。彼が自ら進んで飲んだんだ。少し沈んだ様子だったし、元気になりそうな話題をふったら、嬉々として語り始めたんだが…今はこの通りさ。」
止めないお前が悪いと言わんばかりの言い草に、少しも腹を立てず全く気にしてない様子だ。気の使えてからっとした性格がこの人の良いところで、福沢も隠し刀もこの客が好きだった。
「冗談だ。いや、私と飲んでいる時はこんなに酔っ払う事が無いものだから。」
「そうなのかい?…稀に泥酔状態になる時はあるかなぁ…」
水を持って店の者が戻ってくると、隠し刀に手渡した。
小上がりにいる恋人の顔を心配そうに覗き込みながら話しかける。
「諭吉。大丈夫か?ほら、水を飲め。飲み終えたら帰ろう。」
話しかけられた事で隠し刀の存在に気付いたらしく、目線が恋人に移り、ゆっくり見開く。
「迎えに、きてくれたんですか?」
すると、先程の物思いに耽る様子は何処へやら。花が咲いたような笑顔を見せて、こちらへ腕を伸ばし、抱きついてきたではないか。
「…………いつもこうなのか?」
酒で気が大きくなっているとはいえ、周囲の目がある場所でこんな大胆な行動をとるなんて。
隠し刀は何が何だか理解できずに狼狽え、常連客に問うも、彼も驚いたようで目を丸くしている。
「いやぁ、こんな福沢さん、初めて見たねぇ…なかなか可愛いじゃないか。」
「弱ったな…」
福沢とはもう数年の付き合いで二人で朝まで飲み明かす事もあるが、ここまで周りの目が気にならないほど酔っ払う姿を見たのは初めてだった。常連客も言っていたが、嫌な事があってやけ酒でもしたのか、はたまただいぶ疲れていたのか、心配になるくらいだ。
だが、ここまで歓迎されると内心嬉しい。人目が無ければ、そっと抱き締め返して顔中に唇を落とすところだが、そうもいかない。何せここは噂話の集まる居酒屋だ。恋仲だと知らない者からしたらまだ、「友に会えて思わず抱擁した酔っぱらい」に見えなくもない。
私達が懇ろな関係だと知られるのは、私は一向に構わないが、諭吉がどう思っているのかわからない以上、ここに居るのは危険だった。
バレていやしないかと肝を冷やしながら、周りを見渡すと、各々好きな様に飲んでいる。中には一触即発といった雰囲気の客もいて、そちらに注目が集まっているのか、今の一連の流れを気にしている様子は無さそうだった。
こちらはどうだろうと、常連客の方へ振り返ると、暖かい目で見守られていたので彼にはバレたかもしれない。
一応、諭吉に害をなそうとしている人物か心配になり、身辺を探ったのだが、特に問題は無さそうだった。そればかりか周りの人間からの信頼が厚く、簡単に言えば頼れる兄貴分といったところだったので、そんな彼ならば他言はしないだろう。そこも彼の好感の持てるところだ。
兎も角、諭吉がこれ以上ボロ(私にとっては最高のもてなしだが)を出す前に一刻も早くここを去らねばと、そっと恋人を引き剥がし、用意してくれた水も飲まず勘定を済ませ、彼を支えながら店を出た。
今度は一緒に飲もう、と福沢と共に飲んでいた常連客の声が後ろから聞こえてきたので、力なく垂れている恋人の腕を持ち上げ、ぶらぶらと振って応える。
このまま長屋まで連れて帰り、たっぷりと可愛がりたかったが、きちんと横になって体を休めるべきだと隠し刀は判断し、大人しく宿舎まで送ろうと決めた。
ひんやりとした風が福沢の髪を撫でていく。しっかりと固められているように見える髪型だが、案外そうでも無く、柔らかい毛がふわふわと揺れている。
それを見た隠し刀は何か忘れているような気がした。
何を忘れているのかまでは不明だが、頭の片隅に引っ掛かるものがある。記憶の糸を辿ろうとすると、猫のように頬を擦り寄せてきた恋人によって思考が妨げられた。
「あなたは冷たい。」
「…寒い中、歩いて来たからな。」
情人の前で格好つけたくて、どうしても会いたいと必死に街中を駆けてきた事実を隠すと、福沢はむすっと口をへの字にさせて不満そうにしている。
「そうじゃなくて…なぜ…抱きしめてくれなかったのですか。ぼくはあなたに会えて嬉しかったのに…」
嘘がバレたのかと思いきや、どうやら迎えに来た時の反応に文句があるらしかった。
「すまない、あの時は驚いてしまって…許してくれないか。」
「……朝までいっしょに居てくれないと、ゆるしません。」
駄々をこねる子供を彷彿とさせて、思わず夕暮れ時に会った幼子を思い出す。あの時とは違い、ミルク入りしょくらあとでは機嫌は直らなさそうだ。
「しかし…これだけ酔い潰れたのも疲れたからだろう?宿舎に戻って休んだ方がいいんじゃないか。」
「ちがいます。あなたに会えるとおもって、長屋でまっていたんです。けれど…待てど暮らせど、あなたは帰ってこない…なので、店で飲んだくれようとおもいまして。」
なるほど、そういう経緯で来店した時落ち込んだ様子だったのかと、隠し刀は納得した。しかし、大酒飲みの『飲んだくれる』は洒落にならない。これからは自重するか自分の前だけにしてほしいと願わずにいられなかった。
「……せっかくこうして会えたのに…このままさよならは、淋しすぎます…」
素直に心の内を吐露する恋人に、隠し刀は格好つけて嘘をついた事が馬鹿らしくなってきたと同時に、やはりこのまま返したくないと悩ましげに眉間に皺を寄せる。
すると、彼の唇が耳元へ近付き、甘い声で囁かれる。
「…ちなみに、明日はひばんなので…もんだいないです。」
恋人に艶のある眼差しで誘われて断れる者などいるのだろうか。
心の中で愛しさに悶え、お前がそこまで言うのなら、と先の決意を遠くへ放り投げて長屋への持ち帰りを決めたのであった。
隠し刀が見るに、福沢は馬に乗せれる状態じゃないのは一目瞭然だったので、背中に温もりを感じて帰路へつく。しっかり掴まっていてくれと念を押すも、道中落ちやしないか気が気でなかったが、しっかりと言いつけを守り無事に長屋へ到着した。
草履と足袋を脱がせ足を洗ってやると、水が冷たいのか指がひくりと跳ねて強ばるのがわかった。隠し刀は心配の声を掛けようと福沢を見上げた瞬間、そっと唇が重なる。風をきって冷えたそこから甘い吐息が漏れ、じわり、と熱を纏っていった。
◇◇◇
縁側の障子戸が拳一つ分ほどの幅に開いている。そこから朝の凍みるような空気が流れ込み、寒さで隠し刀は目を覚ました。
隣りに寝ていたはずの福沢がおらず、姿を捜すとどうやら縁側に座っているようだった。どてらを着込んでいるのか、むっくりとした影が障子に映っている。
「体は平気か?」
昨夜の酒の影響で具合が悪くなっていないか気になり、戸を開け声を掛けると、びくりと体を強ばらせ、ゆっくりこちらを振り向く。
「昨晩はすみませんでした…!あの様な醜態を晒してしまうなんて…」
いくら酔っても記憶を無くさない性質らしく、居酒屋で人目をはばからず甘えてきた事をしっかり覚えているようだ。俯いて恥ずかしさに顔を赤くしている。
「いや…私こそ、淋しい思いをさせてすまなかった。……実は私もお前に会いたくて、あちこち捜しまわったんだ。」
隠し刀は変に格好つけるのを止めた。内緒話を盗み聞いた罪悪感もあるが、一番の理由は素直に自分の気持ちを話してくれた恋人に自分も素直でありたいと思えるようになったのだ。
「そうだったんですか。…すれ違っちゃいましたね。」
互いに顔を見合わせて照れたように笑い、隠し刀は福沢の隣に座る。
くっつく口実に使ってくれと言わんばかりに木枯らしが通っていき、そっと身を寄せた。
起きてさっと撫でつけただけなのだろうか、風が吹いた事によって福沢の柔らかな髪の間から寝癖がひょっこり顔を出す。それを微笑ましく撫でていると、その頭に枯れ葉が落ちてきた。
「あ。」
思わず声が出た。居酒屋で福沢が喋っていた庭の記憶が蘇ってきたのだ。
あの時も彼の頭には木の葉が乗っていて、葉柄が引っ掛かっていたのか、葉が立つようにこちらを向いていた。しかも二枚。
まるで動物の耳を生やしているかのようで、そんな風貌の男がぽかんと呆けた顔でこちらを見ていたのだから、笑わずにはいられなかったのだ。まさかあれが諭吉だったとは。
「どうかしましたか?」
思い出し笑いを浮かべていると、不思議そうに福沢が尋ねる。
「うん。お前を初めて見た時の事を思い出したんだ。…こんな風に頭に二枚、葉を乗せていた。」
隠し刀はそう言って、福沢の頭の枯れ葉を手に取り、自分の頭に葉を挿して再現してみせた。
「え!そうだったんですか?…ふふ、なんだか、猫の耳のようですね。いつ見かけたんですか?」
「…覚えてないか?お前も私に気付いていたから知っている筈だ。ちなみに場所は横浜貴賓館の庭だぞ。」
そう聞いて福沢は口元に手を当てて少し考え込む。
昨日の話だとその時私に惚れたと言っていた筈だが、よりによってあの時に惚れられていたとは、なんとも複雑な気分だ。
隠し刀はその時の様子を思い出し、苦い顔をした。
「もしかして…ものすごい土砂降りの日…ですか?」
「ん、そうだ。」
「ああ、覚えてますよ。あの時あなたは花を眺めていましたよね。どうしてあそこに?」
「あの日はな…マーカスに用があって行ったんだが、彼に急な来客があって、すぐに終わるから少し待っていてくれ、と言われたんだ。手持ち無沙汰になってしまって、折角の機会だから散策しようと庭へ出て待っていた。」
そうでしたか、そう相槌を打って、居酒屋で馴れ初めを話した折に見せた、微熱の灯った瞳で隠し刀を見つめる。
「……あの時の姿を見た瞬間から、僕はあなたが好きだったんですよ。」
「…うん、知っていた。すまない。昨日の居酒屋での話、一部始終を聞いていた。でもそのお陰で、お前と初めて会った時を思い出せたよ。」
――言った。正直に話した事によって失望され、関係が崩れてしまうかもしれない不安にかられながらも、昨日聞き耳を立てたことを話す。
すると福沢は一瞬、目を見開いて驚いた表情を浮かべるも、直ぐに穏やかな顔になる。
「では…これで酔って迷惑をかけた事と、あいこにしませんか。」
「怒らないのか。」
「ええ、恥ずかしくはありますが…恋人の秘密というとても興味のそそられる話なんて、あなたと同じ状況にいたら僕も聞き耳を立てていたやもしれません。でも何故、黙っていればわからない事をわざわざ話したんですか?」
「それは…お前が私に会いたかったと心底嬉しそうな顔を見せたり、淋しかったと包み隠さず心の内を話してくれたりと、こんなに私の事を想ってくれていたのに自分はなんて愚かな事をしたのかと、心苦しくなったからだ。」
「ふふ、酔っ払いに真摯に向き合ってくれて、あなたはやはり優しいですね。そういう誠実さやきちんと謝れるところは好ましいです。…して、他に白状する事は無いですか?」
先程の謎の苦い表情を見逃さなかった福沢は、隠し刀に尋ねる。
そう言われるとあるにはあるが、どうするべきかと腕を組んで考え込む。もう隣りの恋人に判断を委ねようと話してみる事にした。
「うーん…これは話すか話さないでおくべきかで言ったら話さない方がお前の幸せを壊さない、という事が一つだけある。……聞くか?」
「え……な、なんでしょうか?」
ごくり、と生唾を飲みこんだ福沢は覚悟を決めて話しを促す。
「花を眺めていた、と言っただろう?その日はやらねばならない事が多くて朝から何も食べず走り回っていたせいか、ものすごく腹が減っていた。マーカスへの用事が終わった後、何か食べようと決めていたから…時間の流れがとても遅く感じたんだ。実はその時、花の香りを嗅ぎながら、この花はどんな蜜の味がするのだろう、とか、そもそも食べられる種類だろうか、とか、頭の中が食への執着でいっぱいだったんだ。だから…切ない表情をしていたと思う。」
その言葉を聞いて、福沢は手で顔を覆う。
幻滅させてしまっただろうかと心配になり、やはり何でもかんでも話したりせず、胸の内にしまっておいた方が良かったかと後悔しかけたのだが、隣りから押し殺した笑い声が聞こえてきた。
「ふっ…な、なんですか、それ…ふ、ふふ、あなた面白すぎませんか…?」
「……食べる事は生きる事だぞ。」
てっきり呆れられるかと思っていた隠し刀は、そこまで彼の笑いのツボに入るとは想像していなく、恥ずかしくなりそれらしい理屈を述べる。
「あなたって本当、一緒に居て飽きませんね。」
それはこっちの台詞だと、拝借癖のある彼に突っ込みたかったがここは抑えておく。
福沢は笑い過ぎて涙が出たのか指で拭う仕草を見せている。
「……これでもまだ、私を好きでいてくれるか?」
「おや、僕はそんなに信用無かったですか?きっかけはああでしたが…付き合っていくうちに、あなたという人間を知って益々好きになったんです。寧ろ、知らない一面が知れて良かった。何となく僕の前で良い人であろうと演じていると感じていましたが、それが壊された気がして嬉しい。僕たちは想い合っているのですから、僕の前でだけでももっと言いたい事を言ってもいいですし、弱い部分をさらけ出して良いんですよ。」
大切な恋人が自分の前から去るのを懸念して、好かれるよう不都合などを隠そうと取り繕ってきた隠し刀にとって、目から鱗が落ちるような言葉だった。
「……お前は眩しいな。」
虚栄心で固められた自分も、ありのままの自分も、全て受け入れてくれる福沢は太陽みたいだと、そう思わずにはいられない。そんな恋人が居るという事がどんなに幸せな事か、今わかった。じん、と五臓六腑に熱が染み渡る。
「そんな大袈裟ですよ。僕が過去にしてきた事に比べたら、可愛いもんです。」
「そうなのか?是非聞きたいな。どんな事をしたんだ?」
「そうですねぇ…何から話しましょうか……」
福沢が昔のやんちゃを話そうとした時、隠し刀の腹の虫が鳴き始めた。そういえば、昨日の昼頃から何も食べていなかったのだ。
「……その前に、何か食べに行きますか。」
「…………そうだな。」
「ふふっ、道中そこら辺の花を食べないでくださいね。」
「…食べそうになったら止めてくれ。」
好きな人と冗談を言って笑いあう今この瞬間が、隠し刀が生きてきた中で一番幸せな瞬間なのは間違いない。
◇◇◇
「…この際だから言わせてもらうが、酒を飲むなとは言わない。しかし、流石にあんなになるまではやめておけ。可愛いお前を見れるのは私だけで良いだろう?」
「……確かに、昨日は飲みすぎました。反省しています。…が、誰彼構わず抱きついていると思われるのは心外です。あんな事…あなたにだけです。」
飯屋に辿り着くまでの間、隠し刀は前から福沢に対して思っていた事を吐露する。
「…あなたを前にして何をしでかすか分からなかったので、酔いすぎないよう気を付けていたのですが…」
「……私との酒で泥酔状態になったら、ああいった事が起こり得ると…そう思ってはいたんだな。」
「……酒は本心を表すと言うじゃないですか。」
「ほう。それほどまでに私の事が好きなのか。」
「…………知っているくせに…何だか意地悪になっていませんか。」
むくれた顔の福沢を見て破顔一笑するが、その問いには答えず、さらに隠し刀は続ける。
「それと、拝借は最終手段にしておく事。私もそれなりに顔が広い。伝でどうにかなるかもしれないから、まずはそこからだ。拝借しかない状況ならば、私も同行する。可愛いお前に何かあっては大変だからな。」
「………あの…さっきから、可愛い可愛いって…思った事を言えとは言いましたが、僕の事そんなに可愛いと思っていたんですか?」
流石に何度も可愛いと言われ、恥ずかしくなってきた福沢は疑問を持ち問いかける。
「ああ、常日頃から思っているが…」
「…そんな風に思うのはあなたくらいでしょうね…」
「それでいいんだ。私以外にいたら困る。」
「はぁ、そうですか…」
呆れ半分、恥ずかしさ半分で小言兼、お褒めの言葉を聞いている。
「それと、労咳の…」
「え…!まだあるんですか…」
羞恥で頬を赤く染める前にその口を閉じてほしくて、近くの店の団子を隠し刀の口に突っ込みたくなる福沢であった。