分杭峠討伐作戦から数日が経過した。
目下、レノは第4部隊管轄の病院に入院中だ。筋断裂や亀裂骨折、左脛骨骨折と満身創痍なので、完治にはそれなりに時間がかかる。
レノは枕元の端末を手に取り、ベッドの背を起こして寄りかかった。時刻は22時29分。病院の就寝時刻は22時なので既に病室は暗い。
そろそろかな。
レノがそう思った瞬間、手の中の端末が震えた。動画による着信だ。
画面に映し出されている発信者の名前は「先輩」。今日も約束通りジャスト22時半だ。約束を守る気はあるらしい。
レノが無意識に唇の両端を上げてボタンをタップすると、手の中の小さな長方形の中に見慣れた顔が映し出された。
『市川、お疲れ! 話しても大丈夫か?』
ガラスの向こうにカフカの笑顔が咲く。笑顔に影はない。今日も元気そうだ。
レノはほっと肩の力を抜いた。
数日前、キコルから「みんなに連絡。日比野カフカ、端末没収されてたんだけど戻ってきた。話せるわよ」というグループメッセージが同期全員に飛んだ。おかげで数カ月ぶりにカフカと連絡をとることができた次第だ。
カフカは立川襲撃事件後、問答無用でりんかい基地へと連行された。キコルの話によれば、連行後は敷地内での行動はある程度許されていたが、外出は許可されていなかったらしい。いわば軟禁状態だ。
そのような状況下で連絡が難しいのはわからなくもない。だが、本気でなんとかしようと思えば、連絡のひとつくらいはとれたはずだ。カフカは妙に諦めがいいところがある。放って置くとその間に何か無茶をしかねない。気になってこっちは訓練どころじゃない。
数日前、レノがカフカにこんこんと言い募ったところ、カフカから「わかった。じゃあ毎日22時半に定期連絡していいか?」という提案があった。
ちなみに、防衛隊のタイムスケジュールはどこの基地もだいたい似たりよったりで、深夜の勤務がなければ22時就寝となっている。
毎日話せるのであれば間違いなく安心だ。レノは一も二もなく承諾した。そんなこんなで今日が3回目の定期連絡になる。
レノの唇の両端が更に上がった。
「お疲れ様です。大丈夫ですよ」
『怪我どうだ? まだ痛え?』
「そうですね…まだちょっとかかるかな。でも、痛み止めきれても割と平気になってきました。先輩の方は今日は何してたんですか」
『今日も副隊長が来てくれてさ、特訓してくれたんだけど…』
「ボコられましたか」
『ぐ…、なんでわかんだよ』
「そんなでかい絆創膏してればわかります。そんなサイズの顔用あったんですね」
『うう…マジで一撃も入んねえんだよな…』
鬼の副隊長による特訓は大変そうだが、マンツーマンというのはなかなか贅沢だ。
ひととおり今日のことを報告し合った後、カフカがふと目を瞬かせた。
『前から思ってたんだけどよ、市川のアイコンのチワワ可愛いな。もしかして犬好き? 犬派?』
カフカとのこの連絡は、いつものメッセージアプリとは別のものを使っているのだが、レノのプロフィールアイコンのことを言っているようだ。
なお、レノは、清掃会社勤務以前からこのアプリにチワワを設定している。
「どっちかというと猫派ですね。でも犬も好きですよ」
『そうなのか? じゃあなんでチワワ…、ん? この画像、なんか手映ってねえ?』
「俺の手です。家で飼ってたチワワなんですよ。家族に撮ってもらったやつです」
レノが生まれたのと同じ位の時期に、祖母の家で飼われ始めた犬だ。両親と兄が怪獣被害で命を落とした後、レノは祖母の家でこのチワワと一緒に過ごした。
「寿命で、もういないんですけど。俺が中学に入るくらいの時だったかな」
『そっか…。チワワってけっこう長寿なんだよな。それからは飼ってなかったのか?』
「そうですね、好きではあるんですけど、飼いませんでした」
『そうなのか? どうして?』
「あいつ以外は飼いたくなかったんです」
チワワが寿命を迎えて肩を落とすレノに、祖母は新しい子をお迎えしようかと言い、ブリーダーのサイトをたくさん見せてくれた。サイトには可愛らしい犬や猫がたくさん顔を並べていたが、レノは断った。
どんなに可愛くても、どんなに似ていても、ずっと一緒に暮らしたあのチワワではない。そう思うと、レノは新しい家族を迎える気にはなれなかった。
レノが当時のことを思い返しながら言うと、カフカが神妙な顔をして頷いた。
『…ちょっとわかる気するよ、それ』
「先輩も飼ってたんですか? 犬ですか?」
『いや、そうじゃねえ。俺は飼ったことねえんだ。そうじゃなくて。……お前、マジで怪我、どうなんだよ。大丈夫なのか』
いきなり話が飛んだ。なんだろう。カフカにしては珍しい。
レノは首を傾げながらも頷いた。
「…? まあ、なんとか。でも、ただの骨折とかですから。こんなのまたあるかもしれないし、そこまで心配しなくても平気ですよ」
『死ぬなよ、市川』
「…。先輩」
小さな長方形の中のカフカの顔は、いつの間にか真剣なものになっている。先程までの、のんびりとした穏やかな笑顔はどこにもない。
資料室のような場所にいるのか、カフカの背後は暗い。夜の闇とあいまって、彼の表情がひどく重苦しく見える。
カフカが目を逸らして俯いた。
『お前が6号の適合者だって聞いて…スーツ着て9号と戦うんだって思ったら、怖くてよ…。9号はとんでもねえから。それは俺が一番よく知ってる』
「…」
『お前が死んだら…死なねえでも二度と戦えなくなったら、相棒いなくなっちまう。俺はお前以外、相棒って呼びたくねえ。…だから、死ぬなよ』
逸らされていたカフカの視線は、いつの間にか正面を向いていた。レノの目をまっすぐにとらえて一ミリも動かない。カフカの瞳は背後の闇と全く同じ漆黒だ。なのに、やけに澄んでいて綺麗に見える。
レノは思わず呼吸を止めた。
「…先輩…」
『っと、重くなっちまったな。悪ぃ悪ぃ! キコルにも、市川だって戦士なんだから馬鹿にすんなって怒られちまった。別に馬鹿にしてるつもりじゃねえんだ。ごめんな』
画面の中のカフカは相変わらずの笑顔だが、目は真剣そのものだ。目が糸のようになるまで細められる笑顔は明るい。だが、これは本心を笑いでとりつくろって無理をしているやつだ。
レノは溜息をつき、正面にいる男を軽く睨んだ。
「それはこっちのセリフです。死ぬなって言いたいのは俺の方ですよ。無謀なことしてるのあんただろ」
『うっ…ま、まあ、確かに…』
市川くん相変わらず厳しい!
カフカはそんなことを言い、軽く仰け反って笑った。
昨日までなかった、右頬の大きな絆創膏。よくよく見れば他にも青あざがある。顔だけじゃない。首などにも擦過傷がある。特訓による傷だから命に別状はない。相手は副隊長。ある意味、これ以上安全な傷はないだろう。
だが、命を保証された傷なんて特例中の特例だ。
キコルによれば、防衛隊の上層部はカフカを兵器として活かす選択肢をとったという。人間扱いしていないということだ。長官はカフカを人間として扱っているらしいが、薄氷を踏むようなこの状況が続く保証はどこにもない。
レノの目から睨む光が消えた。
「……死なないでくださいよ、先輩」
深夜の一人部屋に響いた声は、思いのほか低く重く響いた。
おどけていたカフカの顔から、滑り落ちるように笑顔が消える。
『市川』
「俺も、先輩以外に相棒を作る気ありません。先輩以外、先輩って呼ぶつもりもないので」
『…え…もしかして、今までもいなかったのか? 学校で部活とかあっただろ。そしたら先輩って呼ぶだろ?』
「部活やってなかったんです。だから先輩後輩づきあいってしたことないんですよ」
『お、おお! そうなのか! じゃ俺が最初? なんか嬉しいな、お前にそう言われると』
「……最初で最後がいいです、先輩が」
『市川』
「あいつと…チワワと同じ。二人目はいらない。だから……死なないで」
就寝前に鎮痛剤は投与される。今も点滴から流し込まれているはずだ。なのに、心臓のあたりが痛い。
それでもレノは目の前の男から目を逸らさなかった。
きっとこんな懇願をしても、カフカは飛び出す時は飛び出していく。この通話を切った直後に警報が鳴れば、大型怪獣による襲撃だったとしてもためらうことなく変身し、身を挺して隊員を庇うだろう。むしろこの通話中だってやるかもしれない。
言葉じゃカフカを止められない。阻止するためには自分が強くなるしかない。
もう二度とカフカを1人では戦わせない。もう二度と1人だけ危険な目にはあわせない。
だけど、すぐにはここを出ていけない。まだ全然力が足りていないからだ。もっと力がいる。6号スーツを制御して必ず自分のものにして、今度こそ相棒としてカフカを支えてみせる。
だからそれまでは、無謀なことはしないで欲しい。
レノがそんなことを思いながら布団の上で手を握り締めた時、カフカがふわりと笑った。
『…ありがとな、市川』
「先輩」
『俺もさ、相棒はお前が初めてなんだよ。モンスタースイーパーでもそういうのはいなかったから』
「そうなんですか」
『うん。だから、俺も市川が最初。お前が最初で最後にしてえ』
カフカが再び笑った。目が糸のように細められている。先程と同じ笑顔だ。だが、そこに無理は感じられない。頬の辺りが微かに赤く見える。
これは、本心からの笑顔だ。
「…先輩…」
さっきまで痛かった心臓が、折れた骨が、気づけばしんと落ち着いている。それどころか温かい。
お前が最初で最後。
その言葉がレノの鼓膜を何度も震わせた。同じことをカフカも考えてくれている。そう思うと身体から痛みが消えていく。
その時、カフカの背後がぱっと明るく光った。次いでスピーカーからガンガン! と何かを叩く音が響き、更にガラガラというすさまじいノイズが続いた。
「!」
レノが思わず音量を落としたその時、日比野カフカ! という声がスピーカーから流れ出した。キコルの声だ。声量は抑えているようだが、彼女は声そのものがクリアで良く通る。キコルの声は溜息混じりだ。
『キコル? どうしたんだよ』
『トイレ行ってたのよ。なんか声がするって思ったら、こんなとこで誰のこと口説いてんのよ…って、なんだ。相手、レノじゃない』
『な、なに言ってんだ! 口説いてなんかねえぞ!』
『口説いてるようにしか聞こえないわよ…。お前が最初で最後って、どう聞いてもそうでしょ。気をつけなさいよ。あと、もう戻ったほうがいいわよ。見回り来てる。節電って言われるわよ』
『マジか。わかった。よし、じゃ、また明日な市川!』
「あ、はい。先輩おやすみなさい。また明日」
『…また明日ってあんたたち…まさか毎日電話してるの? 毎日あんな口説いてるの? いったい何を話したらああなるのよ…。ほんと仲良いわよね』
『だから口説いてねえって!』
カフカの悲鳴とともに、ぶつんと通話が切れた。
画面が漆黒に染まり、病室の中からも明かりが消える。同時に、遠くから足音が聴こえてきた。時計の針は23時を回ろうとしている。病院の定期巡回だ。ちょうど良かったかもしれない。
端末の暗闇の中に映るレノの目は点になっている。
「…口説いてるって…」
キコルはカフカだけをからかっていたが、レノも全く同じことを口にした。だったら、レノもカフカを口説いていたということになる。そんなつもりは全くないのだが。
なんだか顔が少し熱い。点滴には発汗作用はないはずなのに。
『俺も市川が最初。お前が最初で最後にしてえ』
先程のカフカの言葉がレノの鼓膜を再び揺さぶった。
「…」
やっぱり少し顔が熱い気がする。
レノがごまかすように端末をタップすると、メッセージアプリのプロフィール写真が現れた。
丸いアイコンの中には、愛していた犬がいる。13歳まで一緒に過ごした家族。今はもういない、でもずっとレノの中にいる、最初で最後のペット。
今も覚えている彼の鳴き声が、レノをからかうように、またはなだめるように、鼓膜を震わせた気がした。