タブラ・ラサ伊春が立ち去っていく。
カフカが頭をがしがしかきながら、机に座り込むレノに頭を軽く下げた。
「ほんっと悪い…ごめん。鍵かけたからってうかつだった」
「それは…俺もですから…」
なんと言って顔を見たらいいのかわからなくて、レノは俯いたまま首を振った。
カフカが小さく笑う。その笑いが悲しげに聞こえた。
「…どうしたら信じてもらえんのかね。前に言ったのは本音だよ。ミ…隊長のことはそういうんじゃねえって」
「…っ」
「まあなあ。変身するなっつってんのにするし、でも俺はやめられねえし、信じてもらえなくてもしょうがねえのかもだけど」
「それとは、別です。…先輩を疑ってるのとも違う。先輩は、悪くないですから。変身のことはともかく」
「どうしてほしい? なんでもするよ。ここで抱く…のはもうちょっとやべえからできねえけど。好きだって100回くらい言えばいいか?」
「してほしいことなんて」
「なんでもいいよ。お前がそんな顔しなくてすむなら。…そうだなあ…日本はまだちょっと無理みてえだけど、結婚する? シビル・パートナーシップ宣言ていうの、まあ養子縁組だけど、実質は結婚みたいなもんらしいぞ」
「…そんなこと、しなくていいです」
「じゃあ、何がいい? なんでもいいよ。なんでもしてやるから」
真摯なその目。もうそれだけでいい気になってくる。こんな風に言ってくれてるんだから。
でも、そういう思考とは裏腹に、ギリギリと心臓のあたりが痛くなる。薄く目が潤んだ。
「…ミナ、って、俺の前で呼ばないでください」
「…うん」
「結婚なんて、ずっとしないで」
「うん。それから」
「俺だけ見ててほしいです、ずっと。誰を助けててもいいです。でも見ないで」
「それから?」
「嘘です。ほんとは誰も助けてほしくない。触らないでください。誰のことも。楽しそうに話さないでくください。俺、いやです。ずっと嫌だった。先輩がみんなと仲がいいのが。そんな風に笑ってほしくないって、ずっと……」
「それから?」
頭を柔らかく撫でる手。
「……そんなの無理だって、わかってる…。あと…みんなが先輩と仲がいいのはいいことだってわかってます。気持ちはわかるし。…だから…本当は俺がそう思ってるってことだけ、わかってて欲しいです」
「わかった。あとは」
「少し……疲れたので…放っといてほしいです」
「…っ」
「してほしいことは、みんな言ったから。でもどうしようもないことばっかりなのはわかってる。だからあとは俺がどうにかするしかないし」
「…。嫌になったってことか」
「…嫌になれたらいいのにとは思います」
「…そっか…」
「……」
沈黙が落ちる。どれくらいそれを聴いただろう。やがてカフカがレノの腕を強く掴んだ。
「…っ駄目だ。最後のは、できそうもねえ」
「…先輩… 」
「嫌だ。それは。…お前、それ、俺がわかったって言ったら、戻って来ねえだろ」
そう言ってカフカは口唇を噛んでいる。その顔を見ていると、こんなに苦しいのに、嬉しいと思う自分がいた。離れたいと言ったら拒否されるくらいには、こんな顔をしてくれるくらいには、好きだと大事だと思ってくれているということだ。
変身のことについては何も解決していない。解放戦力が今のままならカフカの主義は変わらないだろう。彼が譲る気はないし、自分もそれを怖いと思う気持ちは絶対に消えない。きっとこれからもここは平行線のままだろう。
それでも、どうでもいいと思われてるわけではない。ぜんぶ一緒くたにはできない。
カフカには彼の主張があって、自分にも同じようにそういったものがある。だからといって、好きだという気持ちまで好きだと思われている気持ちまで否定はしてはいけないんだろう。実際、嫌いにはなれていない。
それに、さっき自分はけっこうとんでもないことを言った。無茶を言った。でもカフカはそれを否定しようとも嫌がりもしなかった。醜い本音だったのに。なのにカフカは受け入れてくれた。醜さもあっていいのだと肯定してもらえた気がする。主義を変えないからこちらを大事に思っていないわけではないのだ。
全部否定してはいけない。
「…特訓……」
「…え?」
「…特訓…しますか。自主練。戦力上げて、力に頼らなくても仲間を助けられるようにするしかないって思います。俺、つきあいますから。そうしたらこのことで言い争うことないでしょ」
胸の重苦しさは消えない。だけれど、好きだと思う気持ちも消えない。レノは小さく笑うと、ゆっくりとカフカへと近づいた。少しだけ爪先立って彼の顔に触れる。そうして触れるだけの口づけを贈った。
間近でカフカが目を見開くのを見てから、レノはゆっくりと目を閉じた。
やがて腰にカフカの腕が回る。強く引き寄せられる。歯列を舌で押された。顎から力を抜いて口を小さく開き、彼の舌を受け入れる。カフカがやや覆いかぶさり、腕の力を強めた。
「ん…っ」
小さな水音が空間に響く。カフカの息遣いが少し荒くなった気がする。だけど、一昨日のことがある。カフカの胸を少し押し返すと、彼も同じことは思っていたのか、腕の力が緩んだ。
「は…、っ」
互いの舌を透明な糸が結んでほどなくして切れる。口唇を濡らしたそれを舌で舐め取っていると、目の前でカフカが息をついた。
「わかった。やる」
「先輩」
「試験のときは、力使ったらズルだから使わなかった。けど、今はそういうんじゃねえからって、悪いことしてねえから使ってもしょうがねえって、どこかで思ってたのかもしんねえな。けど、あの力は使わねえですむならそれが一番だよな。使わないですむように、やるよ。つきあわせることになるから悪ぃけど」
「…先輩…」
「まあ…1%しかねえから、一体いつになるのかわかんねえけど…でも、やる」
カフカは努力をしたくないから特訓をしたくない、だから力を使うなんていう人間ではない。であれば、夜中に勉強なんてしない。努力ができる男だ。だからきっとやるだろう。
「…ふ…」
レノの口の端に微笑が浮かんだ。同時に目の表面が薄く潤み、目の前の光景の輪郭がやや滲む。カフカがやや慌てたように身じろいだが、こちらの表情を見て浮かんだものは、安堵の笑顔だった。
「笑ったな。やっぱお前はそっちのはいいよ」
「あんたですけどね。笑わせなかったのは。…そろそろ、戻りましょうか。伊春くんがまた心配しそうですから」
わかった、とうなずいたカフカとともに資料室を出た。
外はなんだか今日は冷えているが、不思議と寒くはない。隊舎への道を行きながら、レノは上空を振り仰いだ。暗い空には満月に近い月が浮かんでいる。明るくてどうかすると黄色に光輝いて見えた。
「…先輩」
「ん?」
「さっき、先輩、したいこと言えとか言ってましたけど。あんまり甘やかすと俺わかんないですよ」
「?どういう意味だ?」
「先輩を閉じ込めたい、監禁したいとか言っちゃうかもしれないですよ」
そうしたらきっと何も危険なことなんてない。カフカは自分以外を見ることがないから誰に嫉妬することもない。それはどんなに楽園だろう。
甘く暗い妄想がレノの頭をかすめる。
ひくかな。
レノがカフカをじっと見ながらそんなことを言うと、カフカは目を丸くしたものの、身体をひくようなことはなかった。嫌悪もその顔にはない。数秒固まった後、カフカの顔に浮かんだのは苦笑に近いものだった。そしてどこか嬉しげだった。
「いいよ。お前になら」
「っ」
「お前みたいな奴にそんなの言われたらほんとたまんないね。殺し文句だよ、ほんと。どこで覚えてくんだか」
「ガキ扱いしないでください」
「そんなのしてねえって。どうどう」
「馬扱いもしないでください」
はいはい、とカフカが苦笑して頭を撫でる。温かい。手指がやや耳に触れた瞬間、カフカの今しがたの声が言葉がレノの耳に蘇った。
『いいよ、お前になら』
そっちのが殺し文句だ、と心底から思った。なんて人だろう。
きっと一生、こんな風に思いつづけるんだろう。そんなことを思いながら、隊舎への道を二人で歩き始めた。