星空(オスブラ)湖の上を覆い尽くす厚い氷のように、一点の曇りもない張り詰めた空気が、夜空を静かに覆っている。
吐く息は煙のように白く、ベランダの手すりにふと指先が当たると、いまにも体が凍ってしまいそうだ。
オスカーはわざわざ着込んできたジャケットの首元を握り締めながら、漆黒に近い幕のおりた、ニューミリオンの空を見つめた。
晴天が続いている今夜、星々の瞬きは美しい。
「オスカー」
リビングの窓を控えめに開く音とともに、オスカーを呼ぶ声がした。
振り返ると風呂上がりのブラッドがおり、メガネをかけ、首から下げた白いタオルで濡れた髪を無造作に拭っている。
「ブラッドさま、風呂上がりにこちらへ来たら湯冷めしてしまいます」
慌てて窓を閉めようとするが、「寒がりのお前がそんなところにいるほうが心配だ」と、窓を押さえつけられてしまった。
「星を見ていたのだろう?」
「はい」
「ここ数日、晴天が続いているからな。空気がより一層澄んで星がきれいに見える。……そうだろう?」
ベランダに置いてあるサンダルをつっかけて、ブラッドはオスカーの隣に並びそう尋ねた。覗き込むように見上げられ、美しい瞳が悪戯っぽい形に揺れているのがわかる。
ブラッドが薄着のままだということに気がつき、オスカーが黙って上着を脱ぎかけると、静かに「不要だ」と制され、従った。
「はい、そうなんです。ご存じですか? ちょうどいまこの時期にしか見えない星があるんです」
「いや、聞いたことがないな。星にはうとい。どんな星なんだ?」
「ストリートにいるころはあまり見えなかったんですが、タワーで暮らすようになったらよく見えるようになって」
「なかなか複雑なことを言うんだな。ストリートではあまり見えなくて、タワーではよく見えるとは」
「なにが原因だと思いますか?」
ブラッドを見おろすと、毛先にはまだ雫が溜まっている。これでは風邪を引いてしまう。せめて雫だけはと思い、ブラッドの首からタオルを引き抜き、そっと髪をぬぐってみせた。
艶のある紫色の髪が、なだらかに形のよい頭部を覆っている。こめかみの上あたりから指を入れゆっくりとすいてみると、驚くほど冷たい。
「あの、部屋からストールを取ってきます」
「……断っても聞いてくれそうもないな」
「はい。一緒に星を見たいので、取ってきます」
「わかった。その間に原因を考えておくとしよう」
既に考え始めているといった様子のブラッドにうなずきを落とし、オスカーは足早にストールを手にして戻った。背後からストールをかけると、「ありがとう」という礼の言葉に続けて、「わかったぞ」とブラッドの口角が小さく上がる。
「もうおわかりになったんですか?」
「ああ」
「では、答えを伺いしましょう」
「きっと高さの問題だな」
ブラッドは手のひらを左右に水平に動かしながら、「高さ」ということを示してみせた。
「きっとその星は高度が低いのだろう。地平線近くに上がる星、といったところか。ストリートは平地だからな。街の建物が邪魔をして、高度の低い星を見渡せる場所がない。しかしタワーはこの高さだ。周りに遮るものがなく、更に高度の低い星も上から見ることができる」
どうだ? 合っているか? と、ストールの胸元を押さえながら、オスカーの顔を覗き込んできた。
非の打ち所のない回答だった。ストリートから見えない理由も、タワーから見える理由も全くその通りなのだ。
「正解です! さすがです、ブラッドさま!」
「気がついた理由があるのだが、それも聞いてもらえるだろうか?」
「はい、なんでしょう」
「先ほど俺がお前に声をかける前に、お前が向いていた顔の角度を思い出した」
「顔の角度ですか?」
「ああ。星を見ていたと言うわりに、見上げるのではなくまっすぐ前を向いていただろう」
「……なるほど」
「それに、この夜空を見ていてわかったこともある」
「どんなことですか?」
「あの星だ」
ブラッドがスッと指し示したのは、冬空の中でも一番明るい星とされるシリウスだった。
「おおいぬ座のシリウスですね」
「名前は知らないが、この空の中でひときわ輝いているだろう?」
「はい」
「あの星の下のほうへ視線をやると、次いで明るい赤みがかった星が見えた。ずいぶんと低い場所にあるが、目印になるくらいには明るいと気がついたんだ」
オスカーを見上げてくる瞳が、少々期待に満ちている。正解を待つ子供のように、ワクワクとしているような。
「りゅうこつ座のカノープスと言います」
「カノープスか。聞いたことがある名だな。オスカー、お前が見ていた星はあのカノープスではないか? あの赤みがかった星が、この時期でないと見られない星だ」
「はい。その通りです」
「当たりか」
嬉しそうに笑うブラッドが愛おしくて、オスカーはつい肩を引き寄せた。ストール越しにも体が冷えているのが分かり、添えた手をゆっくりと動かしてさすってみせる。
「当たりです。俺の後ろ姿だけで正解を導き出すなんて、さすがです。ブラッドさま」
「……それだけじっくりと、お前の後ろ姿を見ていたのだと、そういうことだ」
「え?」
「お前が熱心にカノープスを見ていたのと同じくらい、俺もお前を見ていた」
「ブ、ブラッドさま……!」
寒さからだけではない。ブラッドの耳も頬もいっそう赤く染まり、顔をそむけた。
「見るな。言いすぎた」
「いえ、そんな表情をされたら、見たくなります! そんなふうに言われてしまっては!」
「忘れてくれ」
「ベランダを出たら忘れます。ですから、ベランダを出るまで少しだけ、抱きしめさせてください」
「オスカー!」
たまらず力強く抱き寄せ、冷えた体を包み込む。ブラッドの首筋に顔をうずめると、真っ赤な耳がよく見えた。
こんなに恥じらうほどのことを、ブラッドは口にしたのだ。言ってしまってからことの重大さに気づき、このようになっているのだと。絶対に他の人には見せない様子だ。誰も知らない、ブラッドのはずだ。
「ブラッドさま……。好きです……。あなたのことが、大切でたまりません」
ふれた箇所があたたかい。背中に控えめに回されたブラッドの腕に、ちからが込められた。
「ああ、俺もだ。オスカー」
赤みがかった星と同じように、二人は頬を染めている。星の瞬きに見つめられ、冬の夜をあたたかなものに、変えている。
―完―