続とれじぇ 十二月、亜寒帯気候の賢者の島一帯は北からの風で天気が崩れやすく、冷たいにわか雨が度々降るようになった。初雪が近いのだろう、島北部から南部の入江まで山おろしの風が厳しく見舞っていた。NRCでは学生生活に支障を来さないように、結界内は魔法である程度生徒らが住みやすい環境に調整されているが、天候を読み、大自然に身を置いて脅威を忘れず自然界に敬意を払うこともまた、優秀な魔法士となるために肝要という名分から、必要最低限の補整に留められている。雪など見たこともない温暖な地域に住む学生などからは設備費をケチっているだけではないのか、学費を有効に使ってくれと教務に問合せが届くこともあるという。が、伝統の名の下に、また鏡舎を通じて展開された各寮の時空では彼らの生育環境に適した気候条件が完璧に整えられているため、これらの要請は棄却されており、生徒らも各自で適宜工夫するしかなかった。
二度目のお茶会が開かれる前日から賢者の島一円を低気圧がどんよりと覆っていたが、当日の昼頃には北時雨の雨脚が去り、一時の晴れ間が覗いていた。放課後、トレイは教室から正門へと続くメインストリートを通って、運動場へ向かう。日差しは暖かいが、たまに海から吹き込む北風が肌寒かった。しかし、耐えられないほどではない。というのも、制服の下に購買部で買った懐炉を忍ばせていたからである。メインストリートから右へ分岐して運動場奥の古塔へと延びた街路樹の小径に入る。だだっ広い運動場のターフを左手に、なだらかにカーブした散歩道を歩く。道の両側に植樹された銀杏の木は先月紅葉の見頃を迎えていたが、折からの風で所々黄の装飾が禿げ、冬ざれの印象を与えた。トレイは冬枯れた葉の絨毯の上を歩きながら、先日相棒のケイトから貰った忠告を思い出していた。
「トレイくんはまた変化を迫られている」と教室のざわめきに紛れ、ケイトはトレイへ向け指を指す。
「遠慮することないって」とにっこり笑うケイト。そして、忽然と無表情。
「じゃなきゃねトレイくん、死ぬよ」
心臓に悪いなとトレイは一人で苦笑し、その吐息は肺腑に入り込もうとする冷たい空気を揺らした。思い返すと、日頃飄々として本心をどこか隠すケイトにしては珍しく、あの日の彼はトレイの考えなどお見通しと言わんばかりにずいと詰め寄り、トレイの思案を明るみにしてみせた。
トレイは街で人気の洋菓子店に生を受け、忙しい両親に代わり弟妹の面倒をみることも多かった。長男という立場から、身の回りのことは自分でやる習慣ができていたし、日常の一通りのことが出来た。温厚な人柄で頼みにされるのも苦手ではなかったので、学友やハーツラビュルの寮生たちからは慕われていたし、女王の圧政時代は尚更後輩たちが彼やケイトのもとに詰めかけた。このように、トレイは昔から人垣に囲まれる人望のある人物だった。しかし、トレイは少年時代の過ちからどこか人々の熱視線から遠ざかり、一線を引くところがあった。何か察するところがあっても相手が申告しない限り、彼らの抱えた悩みや望みに介入しないのもその一つ。トレイには取り立てて敵対する人物もいなければ、日常的に勉学の相談にも乗り、頼りにならない訳ではない。しかし肝心の急を要する事案には自らが衝突のクッション代わりになって、対立する双方を宥めすかすだけ。それだけでも有難いことだが、副寮長がそれでは下につく者は何も言えないと、リドルが暴走していた頃、規律第一の生活に耐えかねた寮生たちはぼんやりと胸中に抱えた歯切れの悪さを吐露せざるをえなかった。トレイもまた彼らのやるせなさを見抜いてはいたが、リドルを真っ向から糾弾し、革命を起こすのは避けた。謀反が兆したら消火に努めるだけ。無責任と言えるかもしれない。トレイはせめてもとせっせと菓子を焼いて皆を労ろうとした。罪悪感を抱え、美味しい洋菓子にいくら思いを込めても言葉にし、行動に移さなければ、困難の最中にある寮生にもリドルにも届かないと分かっていながら。いつかジェイドの前で口にした、結果さえ手中にあれば、過程はどうでもいいという発言は自嘲でもあった。幾ら思いを込めても結果が伴わなければ意味がない。あの言葉で妙な印象を与えてしまった自覚はある、とトレイは先日の茶会を振り返って思う。あの台詞に限らず、かねてからヴィル・シェーンハイトにアンタの気遣いは人をダメにすると釘を刺されてはいた。しかし、今更どう変われというのだろう。被害者ぶるのはよくないなとため息をついた。リドルを長らく暴君のまま君臨させたのは、彼に諫言する部下がいなかったからだ。衷心がなかったわけでは決してない。だが……、とトレイの思考が北風に押されそうになっていると、前方から落ち葉を軽快に踏んで、走りくる集団の足音が聞こえた。
「クローバー先輩! お疲れ様です!」
元気な声で挨拶し、黒髪を靡かせて爽やかに銀杏並木を駆け抜けるのはデュースだ。彼の所属している陸上部が、体を温めるため基礎トレーニングを行なっているのだろう。近くにはデュースと同部のジャックの姿も見えた。うす、と小さく頭を下げた。頑張ってるな、と手を振って答えると、
「はい!」
とデュースは目元に施されたスペードのスート(化粧)を笑みの形に綻ばせ、走り去っていった。彼も入学当初は寮で決められているとはいえ、アイメイクを描くことに戸惑っている風だったが、今ではトレイが手伝わずとも、筆で綺麗にスペードのマークを描けるようになっていた。