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    瀬名🍭

    書きかけ、未修正の物含めてSS落書きごちゃ混ぜ。

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    瀬名🍭

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    不定期でトとジェがお茶会する♣️🐬SSのまとめ(未完) 捏造多。随時更新。お題:salty lovers

    ##とれじぇい

    Merman’s test garden 魚類は虫歯にならない。歯を蝕む病は人類と砂糖の出会いによって生まれ、海中暮らしで甘味を知らなかった人魚もまた、人と交わることで歯を患うようになったと言われる。太古の昔、人間の王子と結ばれた人魚の姫は、心優しいハンサムではなく実際のところお城の豪華なテーブルに並んだ愛しき者たち――チョコレートケーキにミルクレープ、焼きたてのスコーンにクロテッドクリームとたっぷりのジャムを添えた、華麗なるティータイム――と恋に落ちた、なんて使い古されたジョークがある程だ。
     それまで、栄養補給を主たる眼目に据えた、質実な食卓しか知らぬ人魚たちの心を蕩かしたこれら、危険で甘美な食の嗜好品はsweety loversと名付けられ持て囃された。他方、人間に人魚、獣人、妖精と多様な種族がファースト・コンタクトを済ませたばかりで、種の保存において血筋の混淆を危険視する声も少なくなかった。昼日向に会いたくても会えず、仲を公言することもできない、陸の上の恋人を持つ人魚たちはなかなか口にできぬ希少な砂糖になぞらえ、情人をもまたsweety loversと隠れて呼びならわし、種の垣根を越え、忍んで愛を交わしたと伝えられている。
     その後、人魚姫と王子の恒久的な家庭平和が功を奏し、迫害の手が緩やかに消失した頃、人魚がう蝕と歩んだ歴史、また常日頃獲物を食い破るご自慢の歯を穿ち、強靭な顎まで突き抜けるように痛む病状をからかって、珊瑚の広がる世界で虫歯は恋の風邪とも呼ばれるようになった。
     卑近な話題のため授業で取り上げられることはないが、文系学科を担当する老練な教師トレインは図書室が所蔵する古い文献を読んでは各地の伝承や言い伝えを蒐集しており、生徒らとも稀にこの手の話題で談笑するという。その板金鎧の綻んだ様は普段の隙のなさからは遠く、意外と思われたが、噂によればトレインの亡き妻がかつて文化人類学を専攻しており、彼は今なお中庭で微睡む猫を愛おしげにあやしては膝に広げたハードカバーの埃に染まった面々に羅列する文字を拾い、彼女を懐かしんでいると言うことだった。
    が、真相は定かでなく、あえて尋ね眉間に皺を刻ませる者もいなかった。
     これらは教師からの心証をよくするためとアズールがかき集めた情報の一つだ。因みに、フロイドには知らされていない。直接的には成績向上に結びつかないばかりか、ジェイドの愛すべき兄弟は蜂の巣を好んでつつきたがる愉快な性質を持ち合わせていたため、噂を耳に入れたが早いか、廊下を突っ切って健やかな眠りを阻害された教師の愛猫に威嚇されながら、また訝しげなトレインの視線を気にかけもしないで、事の真偽を躊躇なく確認しただろう。その本を読む行為は弔いなのか、と。
     ジェイドとしては、行動が思考を先駆するフロイドの率直な気質に特上の価値を見出していたし、その素晴らしい特性が不和を招く――即ち、個人の密やかな愛着を暴く行いに、胸の痛みを感じ得ない訳でもなかったが、フロイドと情報を共有しなかった理由はアズールのように彼の他者評価が下がることを心配したのではなくて、兄弟がどうせ花道を駆け抜け、標的へ突進してしまうなら、きちんとお膳立てし、とびきりの晴れ舞台を用意してからにしたいという欲望にただ準じただけなのである。
     オクタヴィネルの寮が掲げる基本理念、慈悲の精神が聞いて呆れるかもしれない。ましてジェイドは副寮長。寮生たちの鑑となり寮長の右腕となって朝な夕なに暗躍し彼らを統べ、他寮生と対峙し、渡りをつける者。が、しかし、この比類なく陽気な、夏の訪れを寿ぐように草花咲き乱れる温室で一人、入れたてのアールグレイを味わいながら、何でもない日に彼は告解する。僕はこのように生まれたのだ、と。
     今日は特異日と同定されていた――つまり統計的、地理学的に賢者の島が位置する当地方の群島に必ず雨が降ると宿命づけられた日。うっとうしい熱を孕んだ風が花屋敷の室内を縦横に走る通りから、植え込みが続く脇道へと架けられた木道、そして木立の間隙を逆巻き、樹冠へと忙しく吹き抜けていった。陸に上がり海底を暫し離れたと言っても、ジェイドは自らの生まれ故郷を忘れたことはなく、南風に揺れる透明なティーポットの水面が北の寒い海流と重なり、たちどころに海となる。飲み干し、底の見えたティーカップに茶を注いで、花柄の砂糖入れから、角砂糖を取り出すとジェイドはスプーンに載せたままそっと沈めた。氷塊のようだった。校舎が背にした溟海では急激に発達した積乱雲が嵐の訪れを予告していたが、束の間の静寂、降り注ぐ光が心なしか弱まったサンルームで、ジェイドは何者にも邪魔されず優雅にお茶会を楽しんでいた。

     かつて、ジェイドはこの場所で、深海に眠る糖類愛者たちsweety loversの逸話を披露したことがある。一学年上の他寮の副寮長、トレイ・クローバーは彼が所属する部活動の要件でこの温室へ出入りしていただけだったが、元来の世話焼きなのだろう、以前兄弟の不始末で借りを作ってしまってからというもの、幾らか警戒の解けた様子でジェイドと接するようになった。ある日密かに温室の片隅でジェイドが茶を愉しんでいると、見咎めるでもなく気さくに声をかけてきた。
    「訳ありで良ければ貰ってくれないか」
     差し出されたそれは、香ばしく焼けたマホガニー色のクッキー。可愛らしく梱包された袋には赤チェックのリボンが尾ひれフィンのように結えられていた。丁重に受け取りながら、ジェイドは向かいの席へ腰掛けるよう促した。
    「訳ありとは、欠陥があるということなのでしょう。素人の僕には判りませんが」
     一見邪気のない笑みを浮かべるトレイの申し出に裏があるのかも彼には分からなかった。が、俺はいいよ、と固辞するトレイを引き留め、温めた客人用のティーカップへ新たに淹れ直した紅茶を注ぎながら、ジェイドは話しかける。フレーバーティーの芳醇な香りが鼻をくすぐる。
    「トレイさんは白薔薇も赤に染めるほど、真紅がお好きと聞き及んでいます」
     ちらりとジェイドは様子を伺ったが、トレイは曖昧な表情でジェイドの手元を見守っている。
    「もしかしたら、これにも毒が塗られているのでしょうか。だとしたら恐ろしいですね。もし僕が倒れたら、せめてもの情けに人を呼んでいただけますか」
    「そんな物騒なことする筈ないだろう」
    「僕らオクタヴィネル寮生じゃあるまいし?」
    とジェイドが目を細めると、トレイは乾いた笑みを浮かべた。
    徒手空拳ステゴロをやりに来たわけじゃないんだ。実はこう言う理由があるんだ」と眼鏡をかけ直し打ち明けた。
    「お前がさっき言ったように俺たちハーツラビュルには不定期で茶会パーティーを開く決まりがあって」
    「はい」
    「新入生たちの中にはお菓子作りなんてしたことないって奴もいるから、初心者向けにまずはクッキー作りの手解きをしてたんだが……」と少し彼は言い淀み、「塗り卵ドリュールってあるだろう?」
    「色艶を出すために菓子の表面に塗りますよね」
    トレイは頷いて、「そのクッキーは俺が見本として作ったもので、塗り卵にインスタントコーヒーを少し加えて焼き色をつけてある」
    トレイは椅子に腰掛け、クッキーを取り分けるジェイドを見守っていたが、客人として扱われるのがどうにも落ち着かない様子だ。
    「だけど、いざ、後輩たちが塗ろうとした時に用意したコーヒーが全部こぼれてしまって」と眉尻を下げる。「買いに行ってもよかったんだが、アイツらも食べ盛りだからすぐに作ろうということになってな。焼き色の違うクッキーが混ざるのもどうかと思って、これは持ち帰ることにしたんだ」
    「それは貴方方のハートの女王の法律に抵触したり?」
     こんがり焼けたクッキーにスコーンを添えた一皿をジェイドが差し出すとトレイは「悪いな」と受け取って、「いや、どちらかというと俺のこだわりかな」と答えた。
    「要するに、こちらの品は異なる色に塗られてしまった薔薇なんですね。女王にはお目にかけられない"訳あり"」
    トレイは苦笑する。椅子を引いて自らも席に座ったジェイドは「美味しそうだ」と思わず微笑んだ。ジェイドに促され、トレイもやっと紅茶に口をつける。ベルガモットに、オレンジ・ピール、レモン・ピールを加えた、柑橘系の爽やかで華々しい味わいがトレイの舌を楽しませた。
    「勿体無いですね。トレイさんのクッキーなら、引く手数多でしょうに」とジェイドは礼儀正しさと健啖さが不思議に同居する手数で、ぱくぱく口に運んでいる。
    「もともと大勢で作ったから、量も多かったし、腹も膨れたんだろう」
    トレイは自分の作った菓子の出来を確認するように咀嚼した。
    「誰に渡すつもりでもなかったんだけどな。ただ単純にジェイドに食べて欲しかったのかもしれない。その紅茶に合いそうだったから」
    トレイの思った通り、サクサクと軽やかな食感のクッキーと九日間の女王レディグレイの取り合わせは品があって、とても口に合った。
    「たまたま通りかかってよかったよ」
     ジェイドはちょうど、半欠けのスコーンに、クロテッドクリームを溢れそうなほどこんもりと乗せ、更にイチゴのジャムをスプーン山盛りに掬って丁寧に塗り付けたものを、大きく開けた口で一齧りする所だった。ジェイドの胸に過ったのはこの人は大して親しくない人物にも一様に屈託なく接するのか、という用心深さから来る警告コーションだった。
     ジェイド自身日頃の慇懃な振る舞いから、内面も品行方正なのだろうと、特に関わりのない有象無象の者たちから評価を受けることがままあった。悪評が知れ渡る以前はアズールとの契約を踏み倒そうとする輩たちから与し易いと判断され、泣きつかれさえした。彼らのうち誰も要求が叶った者はなく、なべて彼の凶暴な笑みの下で膝を折ったのだけれど。
     警戒心が去来する時、ジェイドの相棒なら、ちょっと顎を引いて試すように相手を見据え、歓迎する。うっそりと浮かべた笑みに影を落とし、細めた瞼の合間に嵌った色違いの双眸を光らせて。ジェイドは相手に悟られぬよう一瞬身構えた後、いつものように流麗に、
    「それは僕も幸運ラッキーでした。お気遣いありがとうございます」
    と一笑した。そして、再び口をあんぐりと開けて、惜しみなくスコーンにかぶりつく。
     ジェイドの目の前で同じ卓を囲っている彼の素顔の片鱗を見たのも、この草木生い茂る植物園だった。
     シミひとつない白の実験服を身に纏い、実験用のゴーグルを首から下げ、にっこりと笑って四季なり苺に水をやる男の姿。ガラス張りの天井から燦々と降り注ぐ陽光、照り返しの散った緑の跳ねた髪。いかにも愛情深そうで、熱心な植物愛好家そのものと言ってよかった。けれど、博愛的な振る舞いに反してトレイの肚の中は存外冷めていて、目的が達成されるなら積み重ねた献身にも頓着しない、事勿れ主義者でもあった。
     誰に対しても朗らかだけれど、その面倒見の良さは立場が形成したもので、彼の本意は余所にあるのだろうか、とジェイドは推測する。トレイもまたジェイドのように周囲からこれまで心ばえをよく誤解されてきたのだろうか。常に脚光を浴び、時に火薬庫のように腫れ物扱いされがちな朋友の傍で、レフ板のような顔をして佇んでいる。
    「正直、過程とか愛情とかはどうでもいいと思ってる」
     あの日笑って、手塩にかけて育てた苺と、市販の苺タルトとの取引に応じたトレイの言葉が思わず耳に蘇った。情がない訳では決してないだろう。優先されるのは皆の安寧、これも一つの愛情と言えた。ぶつかり合うことを避け、変わらぬ薔薇園の繁栄を守り続ける騎士シュヴァリエ。たとえ、花園が緩やかに荒廃したとしても。NRC内にて連続して起きているオーバーブロット事件が自然と思い出された。今でこそ一件落着という顔をしているが、お互い自寮の危機的な局面を乗り越えた身だった。
     ジェイドはティーカップを手に取る。器を載せていた、淡い緑を基調にしたティーソーサーの縁を金綾の微細な線が波打つ。豊穣な秋を寿ぐかのように、陶器の表面で薔薇が咲き乱れ、葡萄は深い緑の蔦を伸ばした。
     彼はティーカップに唇をつけ、熱い紅茶を口内に流し込んだ。液面が傾くと、カップの内側にも凝らされた意匠が姿を表す。楚々と描かれたまだ摘まれていない野葡萄の下で、薔薇の花束が落下していく。溢れんばかりに薄いピンクの花弁を開かせたオールド・ローズ、キャトルセゾン。起源の古い薔薇の女王ダマスク・ローズの中でも珍しく秋に返り咲くこの花はオータム・ダマスクとも呼ばれ、描かれた絵と言えども、飲む人の視覚からその名高い芳香を伝えた。
     ジェイドの口の中でジャムの甘酸っぱさと濃厚なクリーム、スコーンの素朴な舌触りがゆるりと解け合う。彼は思わず頬に手を添え、満足げに笑んだ。
     カップ&ソーサーと揃いで葡萄と薔薇の絵柄があしらわれたティーポットの下にはガラス製のティーウォーマーが置かれ、蝋燭の小さな炎がポットの底をほのかに温めている。テーブルを挟んでトレイと目が合うと、彼は釣られたように口元に笑みを浮かべた。
     そもそも、とジェイドは思う。あの日、予想もしなかった彼の一筋縄ではいかない側面に驚いてしまったとは言え、無理を承知で苺を譲るよう頼んだのはジェイド自身である。僕はトレイさんのことを何も知らないのに、極端に一箇所だけ注視して、為人ひととなりあげつらうなどとんだミーハーではないかとジェイドは思い直した。当時トレイに交渉を持ちかけたのは、苺がどこにも見当たらず、万策尽きていたからでもあるが、以前からトレイの菓子作りの腕前を聞きつけ、モストロ・ラウンジのコネクションにどうにか彼を引き込めないかと画策していたアズールから、機会があれば探りを入れるようにと言い添えられていたのもある。
     しかし、彼の意外な一面と曲がりなりにも差し出された彼の優しさに面くらい、今日まで口にする機会もなかった。
     打ち明けると、実理商売的な下心とこの男の内面の歪みにほんの少し興味を惹かれて今日トレイを呼び止めたというのもあるのだが……。ジェイドは手を止め何事かを言いかけたが、彼と比べてあまり口の進んでいないようだった――彼と比すると大体の人物が当てはまってしまうが、トレイに機先を制される。
    お前たちオクタヴィネルのことだから、大丈夫だとは思うんだが」とそれまでジェイドに流されていたように見えたトレイが、あたかも今思い至ったという口調で言った。「ここの使用許可は取ってるよな?」
     ジェイドは目を瞬かせ、何だそんな事かと思った。
     当校の植物園はドーム型の屋根に、学園内の建築物に共通して見られる三角屋根の尖塔が配されてある。教育と研究の目的を兼ね、温室内は植物の生態や生息域によって熱帯域、亜熱帯域といくつかのゾーンに分かれており、寒冷地に咲く植物に対応するため冷室も併設されていた。アーチ状の天井を覆う複層ガラスから、広めに取られたプロムナードへと植物の成長に欠かせない光が惜しげもなく降り注ぐ。有用な魔法植物や生徒の手による花壇が管理され、建物の中央部には学園の創立を記念して植樹されたシンボルツリーと、それを取り巻くように椰子の木温室パームハウスのゾーンが配置されていた。魔法薬学に興味のない者からすれば、静かで退屈な場所ではあったが、昔日の建築様式の面影を残したこの現代的な植物庭園は見る人から見れば十全に心が弾む魅力的な施設である。
     学園内の建物ではあるし、憩いの場としても機能しているため出入りを厳しく禁止されていないが、中には当然希少な植物や有毒な植物もあるため、柵で囲われた箇所もあるし、場を清潔に保つため、飲食が禁止される場合もある。
     トレイの指摘は今更ではあるが、もっともだった。
    「念のためな」
    「その事なんですが」とジェイドは眉を下げ、効き手を口元に遣りながら、
    「実はこれ口止め料なんです。トレイさんはサイエンス部に所属していますし、もし見咎められても貴方が口添えしてくれれば融通が効くでしょう。貴方は共犯者です」などと述べ、徐々に嗜虐的な笑みを浮かべる。
    「おいおい、勘弁してくれよ」
     そう言って、少し唇を引き攣らせたトレイに対し、ふふ、とジェイドはサディスティックな表情を和らげて、
    「冗談ですよ。実はモストロ・ラウンジではケータリング・サービスや出店、移動販売の展開も予定しておりまして」
    「手広いな」
    「ありがとうございます。出店場所を検討している段階なんです。学園長には予め許可を得ています」
     忠告のタイミングに違和感を覚えながらも、都合の良い方向へ話の向きが変わったのでジェイドは「それにしても」と、その機に乗じることにした。「トレイさんもつれない方ですよね」
    「何の話だ」
    「アズールから聞いていますよ。我々モストロ・ラウンジからのお誘い、お断りされてるとか」
    「ああ、あの話な」
    提案プレゼントがお気に召さなかったのかとアズールも気にしていますよ」
    「悪いな」とトレイは言ったがあまり真剣には受け止めていないようだ。
     ジェイドが二の足を踏んでいる間、我らがオクタヴィネルの寮長は既に行動を開始していた。学生たちのライフスタイルは実店舗の運営と日頃の調査でおおよそ把握済み。店舗の拡大に伴い、開業時間の延長、テイクアウトやカフェメニューの強化と、新規顧客を獲得し、商機を掴むため、また顧客のニーズを満たすため、考えるべき点はたくさんあったが、何より確かな職人の目が欲しい。メニュー開発の段階で商品に意見を貰えないか。勿論力を貸して頂ければお礼はするし、必要とあらば、トレイの望む料理用器具を取り揃え、契約を締結している間は提供者スポンサーとして、店舗運営に支障が及ばない限り貸出も自由に認めよう。
     貪欲な商魂が悪目立ちしやすいとはいえ、ビジネスに賭けるアズールの熱意は本物。しかし、トレイはなかなかいい返事をしなかったようだ。手が回り切らないからと。
    「なぜでしょう」とジェイドは問う。
     トレイは頭をかいて、「自分の寮だけで手一杯なんだ」
     彼は納得していなさそうなジェイドの視線を肌で感じたのか続ける。声音が弁解めく。
    「俺たちの寮はまだまだ手のかかる奴が多くて落ち着かない、ご覧の有様だし、俺が思うに、たまたまハーツラビュルで菓子作りを任されてるから認知されてるだけだよ、俺は。アズールが声を掛けてくれたのもな。菓子作りは好きだが、お前たちの熱意に応えられるかはまた別の話だ。アズールならきっとどんな優れたパティシエでも口説き落とせるさ」
     片眉を下げて口のだけで笑った。口舌を弄して、口説き落とせないのが貴方なんですけどね、とジェイドは内心独り言ちる。「学園内で名が知られ、知名度があると言うことは! 商品としてそれだけで強みなんです! 貴方ブランドの(広告塔としての)価値をご存じない!?」とアズールの高らかな熱弁が聞こえてくるようだ。しかし、ジェイドは態度こそ柔らかいがトレイの意思は固いと判断して、
    「そうですか。残念ですが、無理強いするものでもないですしね」
    と残念がる。こういう時ジェイドは彼なりに、仕草にも気持ちを注いでいるつもりだが、その振る舞いを見た仲間にはよく心がこもっていないと評されている。「気が変わられましたら、お願いしますね」
     まだ諦めてないのかとやや呆れ顔のトレイから視線を移し、ジェイドが机上に目を遣ると、茶菓が粗方片付き、陶器の庭に描出された葡萄と薔薇が咲き散るのみとなっていた。木漏れ日で透き通ったチャコールの優しい陰が皿の上で揺れている。額に影の落ちたトレイの眼差しは丁度それに似た光を宿していた。
     解散の気配を察してジェイドは尋ねる。
    「もう一つだけ宜しいですか?」
    「何だ?」
    「植物園の利用に関する先程のご忠告、なぜあのタイミングだったのかと気になりまして」
    「あぁ、深い意味はない。慎重なお前たちのこと、織り込み済みだろうとは踏んでいたし、他寮の了見に干渉するのもと思って言うつもりもなかったんだがな」
     では、翻した理由は。
    「ジェイドの食べっぷりが良かったから」
    「どういうことでしょうか」とジェイドが小首を傾げると、光芒一閃、トレイは二つの黒星に悪戯な色を滲ませた。
    「ジェイドも可愛げがあるなって。弟を思い出してふと心配になった。はは、そんな顔するなよ。冗談だ」
    「……してやられてしまいましたね」
     しかし、あながち出まかせでもなさそうで、トレイは頬を綻ばせて言った。
    「あんなに美味しそうに食べてもらえるなんて作り手冥利に尽きるよ。うちの一年坊にだって、あんなに食べっぷりのいい奴はいないぞ」
    「見苦しい所をお見せしてしまいました」
    「いやいや、褒めてるんだよ。見ていて気持ちいいくらいだった」
     会話を取り交わしながら、ジェイドには既に、ある考えアイデアが浮かんでいた。
    「トレイさん、もし宜しければでいいんですが」
    「何だ?」
    「またお茶会に誘われてくれませんか?」
     トレイを困らせているとはわかっていたが、にこやかな表情を浮かべてしまうのは最早癖だった。
     今のところ商談を持ちかけても付け入る隙はないが、トレイの話を聞く限り身内となるとまた話は別のようだ。接触する機会が増えれば、アズールの意に沿う結果が得られるかもしれない。
    「今回のように“訳あり”の品が生じたり、レシピの試験品が図らずも余った場合で構いません。僕はまた方々へ足を運んで、実地調査へ出かけねばなりませんが、腕の良いパティシエにも未締結振られちゃいましたから、より一層気合を入れなくては」
     他の面子相手なら知ったことかと一蹴されそうな言い分だったが、振られたという言葉を発する際、ジェイドが目を伏せ、形ばかりの悲しみを示すと、トレイは少し気の毒そうな顔をした。
    「トレイさんの気の向いた時お越しいただければ。また口にできたら嬉しいです。貴方のお菓子を。本当に美味でしたから」
     これは心からの賛辞だった。
    「考えておくよ」
     ジェイドとしても、この約束が履行されるとは考えていない。もうこれきりだとしても、定期的に遣り取りを行うきっかけさえ掴めばいいと考えていた。連絡を取る中でハーツラビュルのお茶会の開催日、供されるメニューを知ることができれば、モストロ・ラウンジで、カフェ・メニューの被りを避けることができる。勿論、パティシエに敬意を払い、また信頼を得るためにも、情報を悪用するつもりはないし、許可は得た上で参考にするが。
     トレイが己をどう評価しようが、モストロ・ラウンジにおいては天候よりも客足を左右する強烈な競合者だった。この時、ジェイドはまだ彼との約束をまだ他人事のように捉えていたのである。

     水の伝う音が絶え間なく聞こえていた。水筋がくるくるとめぐって管の中を流れていく。屈折しているのか、ごぼごぼと水泡を発しながら、空気を揺らす水流の音がトレイ・クローバーの意識を静かに覚醒させた。重い瞼をゆっくりと開くと、自分が湿ったうす暗い部屋の一室にいることが了解されたが、ここがどこだか判然としない。蛍光灯が切れかけていて、取り替えねばならないと反射的に思う自分の暢気さにトレイは些か呆れた。一人で苦笑すると頬が引き攣れておかしな動きをした。意識がはっきりするうちに、頬の内側にじんじんとした鈍い痛みを覚えて、手で触って怪我の具合を確認しようとしたが、どうやら両手を後ろ手に拘束されているようで動かすことができない。おまけに両足も鎖で繋がれており部屋から出られないときた。
    「おいおい……」何か己の身にとんでもないことが起きているようだが、トレイは普段から他人との衝突を避けているし、よもや虜囚となるほど人の恨みを買っていたなど、全く身に覚えがない。昨今当学園では事件が多発しているから、今回は運悪く自分が凶手の標的に選ばれてしまったのか。
     トレイはここへ至る前の記憶を思い出そうとする。暗い石の積まれた壁に気分が押しつぶされそうになりながら、せめてもの手がかりをとトレイは息を詰め、耳を澄ませる。雨がさやかに降っているのだろうか。遠く雷鳴が聞こえたような気がした。痛む足を動かすと、うっすらと岩の隙間から水が滲み出しているのか、ズボンの裾が濡れている。トレイは思わず悪態をついた。

     植物園で二人きりの茶会が催されてから数日が経った。十二月に入り、ウィンターホリデーを直前に控え、校内全域に開放的な雰囲気が漂う。NRCの学舎は一際喧騒に包まれていた。お昼休みのこと、食事を食べ終えたトレイが携帯を開くと一件のメッセージが入っていた。ジェイドからだった。曰く、
    「親愛なるトレイさん、先日は興味深い"訳あり"を有難うございました。急な開催ではございましたが、僕の心づくしのおもてなし楽しんで頂けたでしょうか?
     早速次回のお茶会のご予定をお知らせ致します。場所は本校運動場、日時は12月初週の放課後であればいつでも。と言いたいところですが、ホリデー間近でお互い忙殺され、それどころではありませんよね……。
     非常に残念ではありますが、休み明けにまたご一緒できればと思います。良いお返事をお待ちしております。
     尚、我がモストロ・ラウンジではウィンターホリデーを待ちきれない生徒の皆さんに、特別なメニューをご用意しております。
     宜しければ、ご友人とお誘い合わせの上是非いらっしゃって下さい。
    追伸 アズールも最近ますます店舗運営に奮迅しており、上記の日程の段あながち間違いでもありません。というのも、当ラウンジでは冬季も運動部の皆さんの活動を幅広くサポートするため、スポーツドリンク・ホットドリンク等々ケータリングサービスの更なる拡充を目指しており、僕はこの寒空の下、上記の日程で運動場へ出向かねばならないのです……。僕は寒海育ちなのでこの程度の冷えは平気なんですけれど。」
     トレイは文面を一読し、返事を送らずに画面を閉じた。さて、どうしたものか。神妙な顔をしていたのだろう。同席していたケイトが、明るく声をかける。大食堂の一角にぱっと花が咲く。
    「あれ? トレイくん、難しい顔してるね」
    「ちょっとな……」
    「また何か頼まれごとされちゃった感じ? トレイくんって本当優しいよね〜。でも無理そうなら早めに断りなよ」
    「そうだな」
    とトレイは眉尻を下げる。気にかけてくれるが、無闇に立ち入らない。この距離感がトレイには心地よかった。人が増えてきたので、二人とも食器を片付け、早々に食堂を後にした。
     所属しているクラスが異なるので、帰る教室は別なのだが、授業が開始するのにもう暫く間がある。普段より浮き足立ち、騒がしい廊下をホリデーの間何をするか、マジカメでどんな年明けの写真を更新したいかと雑談しながらケイトと二人で悠々と歩いていく。一学年進級すれば、この学舎に籍はおいてもインターンで学外へ出向くことが日常になる。こうして、学生服を着た、騒々たる生徒らに囲まれることもそのうち懐かしく思えるかもしれない、と言うと気が早いだろうか。言外に、二人の胸の内には、来年の今頃どのように過ごしているのだろうという将来への思いがある。
     三年生の教室が並ぶ廊下に差し掛かる。歯磨きを済ませてから、自分の教室へ入りかけたトレイの肩を捕まえて、ケイトはウインクして言った。
    「トレイくん、ちょい待ち。このけーくんに任せなさい!」
    「何の話だ」
    「何ってさっきトレイくん、面倒くさい案件抱えちゃった〜って顔してたよ? 食堂で」
    「そういう訳じゃないんだが……」
    「いいからいいから! オレの十八番オハコの占星術、してあげる。最近やってなかったでしょ?」
     教室へ一旦荷物を置いて、トレイが流されるようにケイトの楽しげな足取りについていったのも、この高校生活は過ぎゆく流れの、景色の一つであると今を惜しむ気持ちが生じていたからかもしれない。
     トレイは占いと言うものをあまり信用していなかったが、ことケイトの占星術に関しては別である。星読みは術者の積み重ねた経験、人々へ向けられる観察眼、そして占われる対象にどのような人生を歩んで欲しいかと発される警句を、要は術者の人柄を信じるか否かに成否が懸かっているが、霊感や第六感、精霊の囁きといった啓示を直感せずとも、または単純に占星術の腕前以前に、ケイトの読みなら信じてもいいとトレイは思っている。だが、口にしたことはなかった。
     ケイトは自分の席に腰掛け、スマホを開きながら唸った。普段はタロットカードや水晶玉を使い、時には魔法で霧まで生じさせて神秘的な雰囲気作りに興じるケイトだったが、あくまで演出の一つと捉えているトレイの前では徐々にこざっぱりとした手順を踏むようになり、最近ではスマートフォン一つで済ますことも珍しくない。「トレイくんってロマンを分かってないよねー」と最初こそ唇を尖らせていたが、トレイの見る限りケイトは大して気にしていないようだ。ケイト曰く実のところもうその手の書籍は電子で揃えているらしい(可愛い占い用品は買うそうだが)。トレイは前の座席を手で引いて座り、しかつめらしく携帯と睨み合うケイトを見守っていた。額にかかったオレンジの髪が若々しく跳ねている。
    「トレイくんのホロスコープは把握してるから、今は星の廻りとの相性がどうかっていうのを見ていくね。今はちょうど水星が逆行しててザ・カオス! って感じなのね。連絡やら通信がてんやわんやだよ〜って。そこにトレイくんがお持ちの蠍座! オーケー、なーるほど。なるほどねぇ」
    「何かわかったか?」
     ケイトの生き生きとした語りに耳を傾けながら、トレイは未来予測が当たるかどうかよりただこの光景が好ましいのかもしれないなと感じていた。
    「控えめに言うとね、トレイくんやばいよ」
    「何だって?」
     癒しを感じ、ほっとしたのも束の間これである。
    「秋頃からこれまでのツケを払わされてるな〜ってムードだったじゃん、よく言えば新風が吹き荒れて息がしやすくなる。覚えあるでしょ? ところがね」
     ケイトはにんまり笑って、手のひらを上に向け、トレイに指を差し言った。「トレイくんはまた変化を迫られている。この冬から春にかけて大事な選択をすることになる」
    「インターンのことかな」
    「うーん、どうでしょう。人の縁って感じがするけどね。それでさっきのお悩みだけど……。そうねえ」
     ケイトは眉間を揉みながら言った。
    「おそらくトレイくんの悩みの本質はその頼み事自体ではないね。というか正直興味のない話。でも、それは今までのトレイくんなら、という話」
     トレイはちょっと瞠目する。
    「少し、相手の思惑とは全然関係なく、トレイくんにも何らかの考えがあって、ただそれを相手に開示していいものかどうか、悩んでいる」
     黙ったままのトレイに向かってケイトは「いいんじゃない」とにっこり言い切った。
    「トレイくんもまだまだ若いんだから」
    「お前もだろ」と突っ込むトレイにあははとケイトは笑いながら続けた。
    「それは置いといて。だから遠慮することないって。じゃなきゃね」
    とケイトは突如表情を消して、
    「トレイくん、死ぬよ」
    「そりゃないだろう……」
     ケイトの占星術が生徒間にも評判なのはこの飴と鞭、甘辛ミックスの緩急がついた、ジェットコースターに乗るようなアドバイスが癖になるからという声もあった。
    「大丈夫! ラッキーアイテムがあれば万事解決……っとリリアちゃん、丁度良いところに」
    「なんじゃ、呼んだか」
     ケイトの視線につられてトレイが後ろを振り返ると、何の気配もなく濡れたような黒い髪にマゼンタのメッシュというビビッドなコントラストが目を引く中性的な美少年が立っていた。トレイは反射的に「うお」と声を上げる。
    「リリアちゃん、トレイくんにね〜、ちょっと死相が見えてんの! 役立つ物とか持ってな〜い?」
    「死相って……」
     そこまでじゃないだろ、そうだよな? とトレイは正常性バイアスを疑い始める。
    「まぁ、時読みは一つの暗示にかかる行為じゃからな。あまり強い言葉を使うのは感心せんが」
    とトレイの顔を覗き込んだリリアは、眉を跳ね上げて、
    「うわ、本当に出ておる!」
    とのけぞった。その仕草が甚く演技がかっていたので、信じていいものかどうか、トレイは自分が玩具になったような気分で、半笑いになる。
    「しかーし、このわし手ずから、不安的中大ピンチなトレイも急死に一生を得、八面六臂の大活躍、強敵を屠ること間違いなしのグッズを授けてしんぜよう。何が出るじゃろな」
    とリリアが乱雑にポケットを漁ると、出てきたのは金属で出来た細い棒だった。
    「何これ……ご、ヘアピン?」うっかりゴミと言いかけるケイト。
    「今朝中庭を歩いておったらな、キラリと光るものを見つけたんじゃ。いや〜、我ながら譲るのは惜しい。しかしトレイの将来がかかっておるからな!」
     はは……とトレイは力なく笑い、しょうがなく受け取る。右手を上に向けるとポトリと小さな棒が落とされ、冷ややかな肌触りが伝わる。
    「よいよい。礼は。これから春まで肌身離さず身につけておくことじゃ」
    「え〜〜、おかしいなー? けーくんの直感がピーンと来てたんだけどね?」
     ケイトは納得いかないと言う風に目を瞑り、首を傾げている。
    「勘なあ……」
    「トレイよ、人の子の直感も馬鹿にはできんぞ? 不可侵の領域は確かにあるよ」
    とリリアは深みのある声音で言う。クラスのざわつきが一瞬地平へ遠のくような気がした。予鈴が鳴り、平生の空気感に戻った教室から、去りゆくトレイの背中にリリアは小さく言った。「愛情とかな」
     不思議そうな様子のケイトを認めて、リリアは愉し気に答える。
    「な〜に。わしの経験談じゃ! そんなことより……」
    とリリアの声音が真剣味を帯びる。
    「占星術は術者と占われる者が共に星に照らされ、作り上げる儀。誰かの人生を映し出す眼は、占い師のものじゃ。術者の人生を媒介する限り、迷える子羊と占星術者の生、二者は切っても切り離せぬ鏡。つまりじゃな、おぬしの方こそ何か気に懸かる事があるのではないか?」
    「心配してくれてありがとう、リリアちゃん。でも、そう言うんじゃなくてさ」
     ケイトは一息置いて、「トレイくんともずっとこうして過ごせる訳じゃないからね。とか言って!」
     言葉尻は軽薄だったが、ケイトの静かな眼差しは学園の熱気を離れ、窓外の遠くへ向かった。
     一方、廊下を往くトレイは肩の荷が降りたような逆に増やしたような謎の安堵感が、校舎に漂う陽気な調子とない混ぜとなっており、それまで漠然とした未来に感じていた寂寥をすっかり忘れてしまっていた。自分の教室へ帰る途中、何気なく中庭を挟んだ向かう側にある、他のクラスの開け放たれた窓に目を遣ると、レオナがのんびりと欠伸をしている姿が見えた。
    「言えることは今のうちに、ね。ま、たまに変なこと口走ったとしてもどうせ皆忘れちゃうからさ、あはは!」
    とおちゃらけて笑うケイトに、
    「そうかもしれん。じゃが、簡単には失われんよ、愛しい記憶というものは」
    と慈愛を込めてリリアは言った。

     ところ変わって、モストロ・ラウンジ営業時間後の某室にて。
    「お前、やりすぎるなよ」
    とアズールは、くったりと力が抜け、浜に打ち捨てられた海藻のようになってしまった他寮の学生と、彼に絞め技を喰らわせているフロイドに声を掛ける。一度膿を出し、意気揚々と新たな航路へ舵を切る我がラウンジの行き先を、腐った富栄養化で増殖した"海藻"が帯となって妨げている。
     この所、各寮の有力者がオーバーブロットを起こすという事件がまるで何かに誘引されたかのように、連鎖的に発生しているが、それを格好の好機と捉え、下克上に挑む者、昔年の恨みを晴らす者の数が増加傾向にあった。
    「僕としてはクリーンな運営に努め、皆さんの信頼に応えたいんですけれどね」
     やれやれとアズールは肩を竦める。
    「ダメだ、アズール。コイツ口割らねーわ」
    「すみませんね、あまりお役に立てなくて」
    とジェイドはしおらしく言うが、血気盛んな他寮生に飛びかかられ、まずその口を黙らせたのはジェイドの膂力であった。
     ぺちぺちとフロイドが気を失った獣人の学生の頰を叩いている。ジェイドのユニーク魔法、かじりとる歯ショック・ザ・ハートは情報戦において強力な封じ手であったが、フロイドに抱かれるようにして、床で寝ている彼には効かない。つまり、過去に一度用いたことがあるので、反抗的な態度に出られればそれに応じるしかない。前より多少アズールも、険のとれた交渉を行うようになったとはいえ、必要とあらば"謀"と"暴"、両方の手駒を使う他なかった。以前より一時的に手段こそ限られてしまっているが、逆境こそアズールの面目躍如。これまでより生き生きとサクセスストーリーを描き、励行するアズールの様が双子は痛快でならない。
     さて、目下アズールには一つ懸念事項があった。アズールの見立てでは、海域を塞ぐ"海藻"たちの反抗は散発的なようでいてその実、彼らは共通して何らかの目的を持つのではないか、と。つまりは裏で手を引く者がいて、モストロ・ラウンジが擁する何らかの情報を求め、遠所からパラパラと礫を投げている。
    「これは仮定の話ですが、万が一にもこの海藻共が、外部のアングラな組織と繋がっているとなると厄介ですね、退学者が出るかもしれません」
     だからどうした? という風に顔を見合わせる双子に向かって、アズールは肩を竦め、かぶりを振った。わかってないですね、と。
    「人が減ると市場が縮小して利益も減りますからね。当学園、編入は受け付けていますが、学生が減ったからと言って、新年度まで補充もありませんし……」
    「アズール、全員が金袋に見えてんの?」
    「何言ってるんですか、ただの金袋じゃありません。辺りを動き回って時にはダイマまでしてくれる素晴らしい金封ですよ」
    「そういう身も蓋もない所好きですよ」
     床に伸びていた悪童が意識を取り戻した。アズールはこの不穏分子を、頭から何の情報も与えられていない、言わば蜥蜴の切られた尾と判断して、"契約"を結び、一度帰らせた。その後、アズールはVIPルームで書類に目を通しながら言った。
    「ともあれ、早々に尻尾を捕まえたいですね。"茶会"の件はどうなっている?」
     豪奢な肘掛け椅子にやや体重を預け、アズールは傍らに立つジェイドを見遣った。後方でフロイドが書架を物色している。
    「フロイド、読んだら元の場所に戻すんですよ」
    「はぁい」
     アズールはフロイドの手にした書籍のタイトルを記憶することにした。ここで言う茶会とは無論ジェイドが偶然トレイの臨席を賜った場。しかし、実際ジェイド一人きりの茶会はあれが初めてではなく、校内にきな臭いムードが漂う昨今、索敵の意味も兼ね前々からひっそりと行われていた。
    「今のところ、これといって成果は挙げていませんね」
     運動場で部活動を行う生徒は俄然身体能力の優れた生徒、或いは体力向上に関心を持つ傾向が高い。そこを買われてずる賢い大人に声を掛けられる人員も、過去にはいた。何かが仄見えるやも。
    「そういえば、次回の視察は引き続きトレイさんもお越しになる手はずになっています」
     アズールはへえと興趣をそそられたような顔をした。ジェイドとしても、トレイの返事に少し意表を突かれていた。誘いは断られるものと。アズールは訝るように顎に手を当てたが、考え直したようにゆったりと肘掛けに腕を置き、言う。
    「彼はあまりこの手の話題には関心がないでしょうし、気取られることもないでしょう」
    「そうですね」
     すると、ジェイドの肩にフロイドが顎を乗せ、拗ねたように一言。
    「オレもウミガメくんの作ったお菓子食いてぇ」
    「おやおや、持ち帰りますよ」
    「ぜってぇ嘘〜〜」
    「お前に偵察は向きませんからね。相手方が何か仕掛けてくるかもわかりません。フロイドは暫く哨戒番人を務めてください」
    「ちぇっ。今度金魚ちゃんからひったくろ〜」
    と口にしたそばからフロイドはそっちの方が面白そうと、ころころ笑っている。部屋中央のローテーブルに、フロイドが積み上げた本の塔を見てアズールは小さく首を振った。
    「もし、お前が証拠をつかめたら、寮長である彼の耳にも入れなければならないでしょうね」
     双子を見据え、アズールは吐息を漏らした。

     伝承によれば、NRC設立の端緒を開いたのはドワーフ鉱山で魔法石が発掘されたことにある。賢者の島の北端に広がる魔の森の山中には所々に鋭い石塔が月を煽るように牙を剥いている。一説では、賢者の島のある辺りは昔火山群だったが、火山が大爆発を起こし、陸地の大部分が海に沈んでしまったという。その理由は自然的なものとも、賢者の地に眠る強大な魔の力を奪い合って、魔法士たちの戦乱の舞台となったが故の人為的なものとも言われる。平らに切り出したような高く聳える死火山となった噴石丘の上にNRCの校舎があった。印象的な黒々とした屋根は溶岩を利用して作られた物だ。学園の敷地である断崖絶壁の後方には海、三方を魔法エネルギーが満ち満ちて鬱蒼とした森に囲まれ、唯一校舎と外部を繋ぐ経路は切り立った急峻な葛折、訪問者を遮断するが如く跳ね橋まで擁している。最早外敵を想定し城攻めに耐えうるように設計された山深くの要塞と言ってよく、古の戦火の名残りを残していた。黒々と聳えるNRC校舎はまるで、島中央部の市街地を挟んで、島南部の湾にぽっかりと浮かぶライバル高RSAを睥睨しているようである。
    「これもまた一つの説に過ぎません」
    と紫の間接照明に照らし出されたモストロ・ラウンジのVIPルームで、アズールは語る。彼は手元の古びた上製本に視線を落としている。アズールが愛用する書斎机の机上には、今彼が手に取っている書籍のタイトルを箔押しした外箱が置いてある。学園の周年事業で学園長が編纂した記念誌。それを片手に持ち、たまに額を掻いている。
    「歴史のある学園とはいえ、創立の由来が今一判然としないというのも不思議な話ですね」
     とジェイドは率直な感想を述べた。
    「学園長が箔をつけるために色々な伝承を熱心に集めているんでしょうね。発行されるごとに創立のあらましに関する項目がどんどん増え、文字も小さくなっている。或いは隠したい事実でもあるのか……」
     少し退屈そうに自らも別の時代の記念誌を手にしていたジェイドだったが、秘匿情報の可能性に目を光らせた。
    「眉唾な情報も含まれているのでしょうがね」とアズール。
    「それは公的な機関誌としてどうなんでしょうか」
    ジェイドのもっともな発言にアズールは肩を竦める。
    「僕も入学するまで学園長があのような……、"お優しい"方だとは思っていませんでしたからね。僕としては好都合ですが。情報の質という点においては玉石混交でしょうが、この島に伝わるフォークロアと見れば一見の価値があるかもしれません。お前からしたらつまらぬ与太話に過ぎないでしょうが、確かにこの学園には不可思議な点が散見される」
    「たとえば?」
    「オンボロ寮の存在。モストロ・ラウンジ二号店の候補に選んだ際は特に気にしてはいませんでしたが、僕も本調子ではなかったのでしょうね。今になってあれがどのような精神の名の下に作られた寮なのか気になり、謂れをあたることにしたんです」
    とアズールは指で記念誌を指し示す。
    「過去にもう一つ確かに実在した寮。しかし、この百年で発行された記念誌のうちどこにも詳細が載っていない」
    「もっと古い時代に廃されたのでしょうか」
    「その可能性はあります。しかし、少なくとも百年ぼろ屋をそのままにしているというのもぞっとしない。敷地が幾ら広大とはいえ、空間が無駄すぎる。そしてこれはオンボロ寮に限った話ではありません。荒屋、今では用途不明の建築物が校内の複数箇所でそのまま打ち捨てられている」
    「大した管理不行き届きですね」
    「そうなんです。これより古い記念誌は保存状態が悪く希少書の扱いとなっており、借りるにしても時間がかかるようですし」
    「それは……。他の古文書でも更に古い年代物が丁寧に管理されているのに、何だか謎めいていますね」
    「お前も少しは興味をそそられましたか」
    とアズールは得意げな調子だが、嬉々として死蔵状態だった学校の周年誌さえ読み込む者は、彼のようにどんな情報も武器にする名うての商人を自負する者か、その手のギークしかいないだろう。
    「土地管理の杜撰さに呆れる一方で嬉しい発見もありました」
     アズールの発言にジェイドがページから視線を上げ小首を傾げると、
    「過去に僕と似たような考えの人がいたんでしょうね。オクタヴィネルの先達かもしれませんが」
    とアズールが椅子を引いて後方を振り返る。金庫の前に学園の地図が掛けられていて、移動販売の出店地としてめぼしい場所に赤でばつ印がつけられていた。そのうちの一箇所をペンの羽で叩く。
    「お前が今度視察する運動場ですが、あの場所で過去、商業的に利益をあげようとした痕跡が見つかりました。どうやら以前カフェスペースがあったようです。これも最早廃れ跡地になっていますが」
    「ずっと昔に放逐され誰にも顧みられない場所なら、視察にも適していそうですね」
    「これぞ先人からの贈り物。二月には全国魔法士養成学校総合文化祭も控えています。出店場所の本命はVDCが開催されるコロシアムですが、その承認を得るためにも候補地をつぶさに調査したという実績は必要ですからね。ジェイド、頼みましたよ」
    「承知しました」
    とジェイドが胸に手を当てて答えると、アズールは一つ頷いて、今度はまた違う書籍を手に取っている。背にはコロシアム設計者の名に、会議報告書という題字が記されている。視線に気づいたアズールが、
    「お前も読みますか?」
    とジェイドに向け、文面を開いてみせた。ジェイドが瞬時に読み取ったところでは、コロシアムがどこかの神殿から移築されたこと、また後続には設計資料や増設の変遷が書かれているらしい。
    「いえ、遠慮しておきます」
    とジェイドが固辞するのもアズールは織り込み済みのようだった。

     十二月、亜寒帯気候の賢者の島一帯は北からの風で天気が崩れやすく、冷たいにわか雨が度々降るようになった。初雪が近いのだろう、島北部から南部の入江まで山おろしの風が厳しく見舞っていた。NRCでは学生生活に支障を来さないように、結界内は魔法である程度生徒らが住みやすい環境に調整されているが、天候を読み、大自然に身を置いて脅威を忘れず自然界に敬意を払うこともまた、優秀な魔法士となるために肝要という名分から、必要最低限の補整に留められている。雪など見たこともない温暖な地域に住む学生などからは設備費をケチっているだけではないのか、学費を有効に使ってくれと教務に問合せが届くこともあるという。が、伝統の名の下に、また鏡舎を通じて展開された各寮の時空では彼らの生育環境に適した気候条件が完璧に整えられているため、これらの要請は棄却されており、生徒らも各自で適宜工夫するしかなかった。
     二度目のお茶会が開かれる前日から賢者の島一円を低気圧がどんよりと覆っていたが、当日の昼頃には北時雨の雨脚が去り、一時の晴れ間が覗いていた。放課後、トレイは教室から正門へと続くメインストリートを通って、運動場へ向かう。日差しは暖かいが、たまに海から吹き込む北風が肌寒かった。しかし、耐えられないほどではない。というのも、制服の下に購買部で買った懐炉を忍ばせていたからである。メインストリートから右へ分岐して運動場奥の古塔へと延びた街路樹の小径に入る。だだっ広い運動場のターフを左手に、なだらかにカーブした散歩道を歩く。道の両側に植樹された銀杏の木は先月紅葉の見頃を迎えていたが、折からの風で所々黄の装飾が禿げ、冬ざれの印象を与えた。トレイは冬枯れた葉の絨毯の上を歩きながら、先日相棒のケイトから貰った忠告を思い出していた。
    「トレイくんはまた変化を迫られている」と教室のざわめきに紛れ、ケイトはトレイへ向け指を指す。
    「遠慮することないって」とにっこり笑うケイト。そして、忽然と無表情。
    「じゃなきゃねトレイくん、死ぬよ」
     心臓に悪いなとトレイは一人で苦笑し、その吐息は肺腑に入り込もうとする冷たい空気を揺らした。思い返すと、日頃飄々として本心をどこか隠すケイトにしては珍しく、あの日の彼はトレイの考えなどお見通しと言わんばかりにずいと詰め寄り、トレイの思案を明るみにしてみせた。
     トレイは街で人気の洋菓子店に生を受け、忙しい両親に代わり弟妹の面倒をみることも多かった。長男という立場から、身の回りのことは自分でやる習慣ができていたし、日常の一通りのことが出来た。温厚な人柄で頼みにされるのも苦手ではなかったので、学友やハーツラビュルの寮生たちからは慕われていたし、女王の圧政時代は尚更後輩たちが彼やケイトのもとに詰めかけた。このように、トレイは昔から人垣に囲まれる人望のある人物だった。しかし、トレイは少年時代の過ちからどこか人々の熱視線から遠ざかり、一線を引くところがあった。何か察するところがあっても相手が申告しない限り、彼らの抱えた悩みや望みに介入しないのもその一つ。トレイには取り立てて敵対する人物もいなければ、日常的に勉学の相談にも乗り、頼りにならない訳ではない。しかし肝心の急を要する事案には自らが衝突のクッション代わりになって、対立する双方を宥めすかすだけ。それだけでも有難いことだが、副寮長がそれでは下につく者は何も言えないと、リドルが暴走していた頃、規律第一の生活に耐えかねた寮生たちはぼんやりと胸中に抱えた歯切れの悪さを吐露せざるをえなかった。トレイもまた彼らのやるせなさを見抜いてはいたが、リドルを真っ向から糾弾し、革命を起こすのは避けた。謀反が兆したら消火に努めるだけ。無責任と言えるかもしれない。トレイはせめてもとせっせと菓子を焼いて皆を労ろうとした。罪悪感を抱え、美味しい洋菓子にいくら思いを込めても言葉にし、行動に移さなければ、困難の最中にある寮生にもリドルにも届かないと分かっていながら。いつかジェイドの前で口にした、結果さえ手中にあれば、過程はどうでもいいという発言は自嘲でもあった。幾ら思いを込めても結果が伴わなければ意味がない。あの言葉で妙な印象を与えてしまった自覚はある、とトレイは先日の茶会を振り返って思う。あの台詞に限らず、かねてからヴィル・シェーンハイトにアンタの気遣いは人をダメにすると釘を刺されてはいた。しかし、今更どう変われというのだろう。被害者ぶるのはよくないなとため息をついた。リドルを長らく暴君のまま君臨させたのは、彼に諫言する部下がいなかったからだ。衷心がなかったわけでは決してない。だが……、とトレイの思考が北風に押されそうになっていると、前方から落ち葉を軽快に踏んで、走りくる集団の足音が聞こえた。
    「クローバー先輩! お疲れ様です!」
     元気な声で挨拶し、黒髪を靡かせて爽やかに銀杏並木を駆け抜けるのはデュースだ。彼の所属している陸上部が、体を温めるため基礎トレーニングを行なっているのだろう。近くにはデュースと同部のジャックの姿も見えた。うす、と小さく頭を下げた。頑張ってるな、と手を振って答えると、
    「はい!」
    とデュートは目元に施されたスペードの化粧スートを笑みの形に綻ばせ、走り去っていった。彼も入学当初は寮で決められているとはいえ、アイメイクを描くことに戸惑っている風だったが、今ではトレイが手伝わずとも、筆で綺麗にスペードのマークを描けるようになっていた。
    「よく言えば新風が吹き荒れて息がしやすくなる。覚えあるでしょ?」
     快活な一年坊たちの背を見送りながら、トレイは悪戯っぽく笑うケイトの囁きが耳元で聞こえたような気がした。彼らの行先には晴れあがって透明な冬空が広がっている。当事者では解決できないぬかるみに新星たちが突破口を見出してくれた。今にして思えば、ケイトもトレイも転機をずっと待ち詫びていたのだ。
    「トレイくんはまた変化を迫られている」
     リーフグリーンの瞳の占星術家から賜ったありがたい言葉にお前もだろ、とトレイは肩を竦める。緩やかな変化でいい。急いては事を仕損ずる。トレイが再び運動場の北に位置する尖塔の方角へ向き直ると、天を衝くように尖った銀杏並木の樹冠の隙間から、黄金に染まった樹影が、足元の湿った落ち葉に降り注いでいた。トレイはマチの広い手提げ袋の持ち手を握り直し、荷の質量を確かめた。

    「ここでいいんだよな……」
     トレイはきょろきょろと首をめぐらして周囲を伺う。運動場の北端に位置するチェスのピースのような高楼の裏手に今は廃園となったパティオがあった。日は傾きかけ、名門校の名に恥じぬ、見事に刈りそろえられたゼブラカットの芝生に、塔の影は色濃く伸びている。
     約束の時間にはまだ早かったが、ジェイドの指定した場所が運動場のはずれで、文化部のトレイは日頃立ち寄らない奥まった場所だったので、時間に余裕をもって訪れていた。パティオと見たのは、崩れ掛けたレンガの壁が四方にあり、床には色鮮やかなマジョリカ焼きのタイルが今は朽ちて砂を被っていたからだ。朽ち果てたパティオと隣り合う庭園の奥に銀木犀が植樹され、その近くに白いテーブルセットが置かれていた。木の根本にはグラウンドカバーとしてタマリュウが配されている。このテーブルセットはジェイドが用意したのだろう、これだけがまだ真新しく、庭の中央のオブジェや、トピアリーを鑑賞できるように置かれている。といっても、廃墟と化したこの庭では、オブジェは半壊し、トピアリーも枝が伸び放題、もともとどんなデザインだったのか判然としない。棺のような台座のオブジェに、7つの木。庭の四方を取り囲む生垣も往時は丁寧に刈り込まれていたのであろうが、イチイやツゲが荒れ放題で、つるバラが煉瓦を覆い尽くしていた。銀木犀の周囲を光が当たったように輝かせているのはシルバーリーフ。白いダイニングテーブルとベンチの後方には森があり、廃園との境目は融解しているが、ヒイラギやイチイの赤い実が宙を区切るように揺れている。
     ダイニングテーブルセットを残して、肝心のジェイドが見当たらない。
     庭を横切ると、中央に据えられた黒い棺は蓋が少しずらされているのが分かった。僅かに開かれていて、その中に雨水が溜まり、枯れ葉と鳥の羽のようなものがぷかぷか漂っている。
     銀木犀の側のテーブルの上にはシックな薄紫のテーブルクロスが敷かれ、あとはトレイを待つだけと言ったふうに、紅茶道具が一式取り揃えられていた。ひらひらと椅子の上に落ち葉が舞い込んでいる。待ち人はどこへ消えてしまったのだろう。「ジェイド?」
     トレイは荷物を置いて、周囲を見渡してみた。森へと続く赤い実に釣られるようにして、藪の中へ足を踏み入れていくと、あの長身を折り曲げてジェイドがしゃがみこんでいる。体調を崩してしまったのだろうか。
    「おい、大丈夫か?」
    と駆け寄ろうとすると、ジェイドは勢いよく振り向いた。何か攻撃を予期しているかのように。一瞬浮かんだ表情は何を考えているかわからない。時折ケイトが見せる表情に似ていた。空が翳る。
     ジェイドは胸ポケットに挿したマジカルペンを咄嗟に引き抜こうとしていたが、心配そうにしているトレイの姿を認めるとさっとレザーの手袋に込めた力を緩めた。
    「ああ、貴方でしたか。どこぞの暴漢、いえ、この廃墟で眠る持ち主ゴーストかと思いました」
    「とんだご挨拶だな。腹でも冷やしたのか?」
    「いえ、これぐらいの気温は僕には心地良いものです。僕が見ていたのは」
    と片膝をついていたジェイドが立ち上がると、足元に毒々しい赤い実の集合体がマイクのように生えていた。
    「これは……マムシグサ?」
    「ご名答。流石ですね」
    「褒めても何も出ないぞ」
    とトレイが朗らかに言うとジェイドの視線が自然、トレイが手にしていたトートバッグに移る。ベンチに置いてきたつもりだったが、うっかり持ってきていたようだ。
    「これはあとで」とトレイは断りつつも本当に甘い物が好きなんだなと内心おかしく感じている。「以前サイエンス部で合宿したことがあって、あれは春だったか、あちこちに咲いてたから覚えてるんだ」
     マムシグサの名の由来となったのは、茎の模様と、仏炎苞ぶつえんほうと呼ばれる特殊な葉の、前へ大きく垂れた様が、鎌首をもたげ、チロチロと舌を覗かせる大蛇を思わせるからだが、それは春から夏にかけての姿で、今はもろこし状の赤い実をつけている。火に炙られたようにとろとろと穂先から真っ赤に熟していく果実。しかし、有毒のため口にすれば消化経路に激痛が走り、重篤な全身症状を誘発し、最悪の場合死に至る。
    「僕もこの花には思い入れがありまして、運命の出会いというべきでしょうか、僕が山をまだ知らなかった頃、綺麗な色だとちょっと齧ってしまいまして。お口の中が大変なことになりました」
     ジェイドの突然の告白にトレイは仰天した。
    「毒があるんだぞ!? 大丈夫だったのか!?」
    「ええ、お陰様で。口にしたのも少量だったので、突き刺すような痛みと引き換えに事なきを得ました」
    「じゃあ、この草はジェイドの天敵というわけだな」
    とトレイは言ったが意を汲み損ねたのか、ジェイドは何故? と疑問符を浮かべている。
    「言うじゃないですか。食べちゃいたいほど好きって。それに、食べ方さえ工夫すればこれも食べられるんですよ」
     前言撤回。ジェイドは甘い物に限らずかなり食い意地が張っているらしい。
    「さて、立ち話もなんですから、早速始めましょうか。更に冷える前に。何でも、ハーツラビュルの副寮長直々に折り入ってのご相談があるとか?」
    とジェイドが口に手を当てて歌うように言う。トレイは彼との会話の応酬で既にどっと疲労感を覚えていたが、気を持ち直して、
    「いや、これは個人的な頼みなんだ」
    となるべく簡潔に答えた。余計な感情を滲ませないように。他方、なぜジェイドがトレイを見て咄嗟に迎撃態勢を取ったのかと、胸中に生じていた違和感などはすっかり忘れてしまった。

    「ジェイドは草花が好きなんだな」
    「好き、と言いますか。愛していますね、山を」
     テーブルをセッティングしながら二人は軽口を叩いている。ジェイドは前回と同様トレイを客人として扱おうとしたが、トレイは進んで手伝いを引き受けた。薄紫のテーブルクロスの布の端に白いタッセルが並んで風に揺れている。その上にアラベスク柄を刺繍したベビーピンクのトップクロスがテーブルの天板に対し菱形になるように掛けられた。薄いピンクの布は端が雑草に埋もれそうなくらいたっぷりとした長さがあった。
     卓の中央にはジェイドがこの荒れ果てた庭園から拝借したらしき花が生けてある。ナプキンや茶器、カトラリーと見慣れた品が並ぶ中で、テーブルフラワーの横に置かれた銀の給茶器がトレイの目を引いた。本体は円錐形で上部には装飾の施された取っ手が二箇所についており、下部にはドリンクサーバーよろしく、これまた草木を象ってめかしこんだ蛇口がついている。コックのついた優勝トロフィーと言えば想像しやすいだろうか。最上部には台座のついた蓋が被せられている。台の上にティーカップを置き、保温する目的がある。この給茶器はサモワールと呼ぶのだとジェイドが教えてくれた。何でも彼は紅茶の文化に惚れ込み、多様な茶器を収集しているのだと言う。それらは普段モストロ・ラウンジの運営に役立てられている。陸に恋した人魚、というと口が過ぎるかなとトレイは胸の内だけに留めた。
    「山を愛する会という同好会を主催しておりまして、トレイさんの料理の腕があれば、まな板の上の山菜も浮かばれること間違いなしです。見学者も随時受け付けておりますので」
    「ははは。考えておくよ」とトレイは優しく、思ってもないことを口にした。
    「是非」
    「そういえば」とトレイは思いついたように言う。今日は出会い頭、霹靂のようにジェイドと山草の剣呑なエピソードを披露され、すっかり意識から吹き飛んでいたのだが、「ジェイドはさっき何をしていたんだ?」
    「何とは? ああ、マムシグサのことですね、再会できた感慨に耽っていた、と言いたいところですが、もしやウラシマソウかなと思いまして」
    トレイはその花の名を聞いたことがなかった。
    「東方の固有種らしいのですが、マムシグサと大変姿形が似ているんです。この学園は各寮と時空を繋げている影響なのか、様々な地方の植物が見受けられますので」
    「人が媒介してるんだろうな」
    「寒風を紛らわす手慰みに、ウラシマソウの名の由来をお話ししても宜しいでしょうか」と自らは多少の寒気など屁でもないジェイドが嘯く。
    「いいぞ」
    とトレイはジェイドの申し出に答える。彼はタッパーから手製のお菓子をタングで取り出し、アフタヌーンティースタンドへ丁寧に並べていた。ジェイドは小さな碗にヴァレニエと呼ばれるジャムに似た、果実を煮詰めた甘物をよそいながら、
    「マムシグサと似た姿でありながら、ウラシマソウは東方に伝わる浦島伝説と紐づけられたのです。それは何故か。仏炎苞の内側から釣り糸のように伸びた付属体が、釣果を待つ釣り人の姿を思わせたのですね」
    「浦島伝説って?」
    「東方に伝わる御伽噺です。浦島という男が亀を助けてやった礼に、海中の宮殿に誘われ、もてなしを受ける。しかし、陸地へ帰り着くと悠久の時が流れていた。既に故郷には見知った人は一人もいない。故にウラシマソウの花言葉は不在の友を思う」
    「残酷な話だな。ジェイドは花言葉も把握しているのか」
    「ええ、一応。このような文化をお好きな方もいますから。何が取っ掛かりになって部員が増えるかわからないですしね」
    とジェイドは尚も勧誘に前向きな意欲を燃やしている。はは、とトレイは少し気圧された様子で「じゃあ」と尋ねる。「その浦島という男は一人きりで余生を送ったのか」
    「それのみならず」とジェイドは皿を並べる手を一瞬止めて付け加えた。
    「浦島は宮殿に住む姫からある贈り物を受け取っていました。決して開けてはならない禁忌の箱。しかし、地上にも海中にも帰るところがどこにもなく、よすがを失った彼は開封してしまう」
    「悪い予感しかしないな」
    「一面にもくもくと煙が漂って、一瞬にして彼は老爺の身に変じていた。なので、ウラシマソウにはこういう花言葉もあります。注意を怠るな、と」
     ジェイドはしっかり蒸らした紅茶を注いで、上部に取っ手のついた蓋をティーカップにかぶせる。
    「お先に開けてみますか?」とトレイは深海の住人にからかわれた。
    「お前と一緒に開けようかな」
     茶会の用意が整い、二人は向かい合って席につく。トレイは網にかけられたように菱形の紋様が連続して描かれたティーカップに手を伸ばしかけ、ちらとジェイドの様子を伺った。ふふとジェイドが笑んでいる。まさかな、とトレイはピンクを基調とした丸い茶器の蓋を開けると、魔法にかけられたようにセイロンティーの優しいふんわりとした湯気がトレイの鼻先をくすぐった。
     トレイは前回の茶会でジェイドがかなりの健啖家だと知ったので、りんごのガレットに小豆を練り込んだスコーン、ファーブルトンと二人分にしては多い量の菓子を用意してきたつもりだった。しかし、ジェイドがすいすいと口に運ぶペースを改めて目にし、早くも足りなかっただろうかと一抹の不安を覚えている。そんなトレイの思いは素知らぬ様子で、ジェイドはキャラメリゼした飴色のりんごを美味しそうに頬張っている。茶色のガレットの上に咲く、紅玉でできた薔薇の花びらを一つずつ楽しげに剥ぎ取りながら。
    「もうたまらないですね。ガレットの香ばしい生地と、林檎にシナモンという蜜月の組み合わせ、更にヨーグルトの爽やかな酸味が加わり、極め付けはナッツの女王ピスタチオ。この味わい深い風味と噛みごたえのある食感。勿論ゲストを目で楽しませ、また寒空の下身体を暖める気遣いも忘れていない。浦島が贈られた玉手箱とはこのような逸品を指すのでしょうね。時を忘れてしまう」
    「褒めすぎだよ」興奮気味のジェイドに照れ臭さを通り越してこんなにお喋りなやつだっけ、とトレイは呆気に取られている。一度目の時はもう少し物静かな印象だったのだが、というトレイの考えが通じたのかは分からないが、ジェイドはこほんと咳払いした。
    「ジェイドの淹れてくれた紅茶も美味しいよ」
     ジェイドが多弁なのは、オクタヴィネルの敵対分子への警戒をトレイに気取られぬためだったが、この男は知る由もない。とはいえ、トレイの拵えたお菓子を食し、思わずジェイドの口をついて出た賛美は嘘偽りない物だ。ジェイドが日常慇懃なベールで包み隠した、好物へ捧ぐ情熱的な偏愛の一端が露出したに過ぎない。
    「ありがとうございます。今回は北方流の茶席と少し趣向を変えてみました。そちらにご用意したヴァレニエも適宜召し上がってください。紅茶の風味が変わりますので」
     これは紅茶に投じるのが正解なのだろうかとトレイが首を捻っていると、
    「お好きなように。私的な席ですし、ここは厄介な、というと語弊がありますね、貴方方が遵守する女王の法律の埒外にある、言わば超法規的な茶会ですので」
    とジェイドが試すように言った。
    「そういう訳にはいかないさ。でも、ありがとう。気にせずやらせてもらうよ」
    トレイは紅茶が冷えないように、スプーンで掬った果実煮を液面へ沈めるのは避け、舐めとった。果皮が残った橙色の砂糖煮を口に含むと、ベリー類の甘味と酸味が過不足なく絶妙に舌に拡がり、清々しい清涼感を与えた。口に残った種のぷちぷちと粒立った食感が楽しい。
    「これはクラウドベリー? 高価な果物じゃなかったか」
    「嬉しいですね。まさに明察秋毫な舌だ。トレイさんのように優れたパティシエを抱えるハーツラビュルの皆さんが羨ましいです」
    「よしてくれ」
    とトレイは顔の前で手を振った。
    「北方の地方では厳冬に備えて、夏に収穫した木の実をジャムにし、冬季の貴重な栄養とするとか。ウインターホリデーともなれば、久しく顔を見せた家族の帰りを出迎えて、温かな家庭の食卓に並んでいるかもしれませんね」
    「ジェイドのホリデーの予定は?」
    「僕らは今回帰省しないんです。海路が凍結してしまうので、寒さの綻んだ春頃に帰ろうかと。トレイさんは?」
    「俺は故郷に帰るけど、実家のケーキ屋が繁忙期だからさ、ゆっくりできそうにないな」
    「お互い良い年越しになりそうですね」
    とくすくす笑いながら、ジェイドはトレイ特製のスコーンを齧る。見かけは冷静だったが、スコーンの軽い生地に練り込まれた小豆の控えめな甘さとキャラウェイシードのさっぱりとした風味に心を奪われていた。
    「ところで、今日ジェイドの招きに応じた理由なんだが」
     茶葉が旬の時期を迎えたディンブラの、セピアに抽出された水色すいしょくを眺めながら、トレイはおずおずと切り出した。は、とジェイドは居住いを正す。
    「伺いましょう」トレイがジェイドやアズールの予想を裏切り、この寒空の下饗応を受けた理由とは。
    「リドルのことなんだ。オーバーブロットした話は聞いていると思うんだが。俺とリドルは付き合いが長くて、あの事件が起きた原因も少なからず分かるんだ」
     言葉を選ぶようにトレイはぽつぽつと話す。今のトレイには高貴な薔薇のように薫るセイロン紅茶の女王ディンブラも意識の外にあるだろう。
    「ジェイドも級友だから知ってるとは思うが、リドルは世情に疎いところがあってな、遊びごとなんかは特に。ホリデーでリドルがどんな休暇を過ごすのか、俺にはわからないけど」
     ジェイドが不思議そうな顔を浮かべると、
    「出禁を食らってるんだ」
    「おやおや」
    「ホリデー前に、モストロ・ラウンジへリドルを連れ出したい。ジェイドにはその協力を頼みたいんだ」
     ケイトの占星術はトレイの抱えた蟠りをずばり言い当てていた。リドルは厳しく管理された生育環境から同世代の少年たちが興じる娯楽とは無縁の人生を歩んできた。リドルの心ばかりの願いを叶えようと手を差し伸べたトレイ少年の優しさはしかし保護者に手厳しく振り払われ、リドルは更に外界から切り離されてしまう。この経験はトレイの強烈なトラウマとなった。周囲から一目置かれた孤高の秀才、しかし誰からも腫れ物のように扱われる一人ぼっちのリドルの姿を見るたび、トレイは胸を痛めた。リドルに限らずトレイにも心のケアが必要だったが、自分よりも苦しい立場に置かれたリドルと引き比べ、自分が援助を受けるなど念頭に上らなかった。家族にさえ打ち明けられず、また相談するという考えさえ、思い浮かばなかったのだ。年端も行かぬ少年には、幼馴染がひどい仕打ちを受ける、その引き金になってしまったという十字架を背負うには重すぎた。
     しかし、オーバーブロットの事件が解決を見て、トレイは自分もリドルもあの頃のままの子供ではないと自覚した。今からでも取り戻せるものはあると。リドルには年相応にもっとのびのびと過ごしてほしい。いつか抱いたトレイの望みは今でも変わっていない。そんな折、ジェイドとの偶然の接触。そして彼から届いたモストロ・ラウンジの宣伝を含むメールはトレイに閃きを与えた。十中八九リドルはモストロ・ラウンジのような同年代に持て囃されそうな料理店に入店したこともないだろう。また、リドルが実家の鳥籠に戻らねばならぬその前に、変わろうと決意しているリドルを励ますために、何かしてやりたかった。入学したてのリドルなら計画の段階で突っぱねただろうが、今ならば肩肘張らず見聞を広める名目で同行してくれるのではないだろうか。実は今日ここへ来る前に、ケイトにもホリデー前にリドルをモストロ・ラウンジへ連れていきたいという話を通してある。いらぬお節介ではないか、という気もしていたが、ケイトは笑って肩を押してくれた。しかし、ここに一つ懸念事項がある。
    「僕の兄弟、フロイドですね」
    「フロイドを悪く言うつもりは毛頭ないんだが、この間もリドルが顔を紅潮させて怒ってたんだ。なんでも俺の用意した菓子を奪われたと。作り直して事なきを得たのだが」
    「それはご迷惑をおかけしました」と初めて耳にしたという態度で眉を下げ、ジェイドは詫びるが、この男その一部始終を傍観していた。「では、リドルさんがモストロ・ラウンジを訪問される間、フロイドには出て行ってもらいましょうか?」
    「いや」とトレイは逡巡する。リドルがのびのびと学生生活を送るというのは、石を除外し、いらぬ衝突を避けること。この過保護な方針はどこか間違っていると気づいてはいたが、リドルや皆を更に縛るだけと秋の事件で思い知らされた。ぶつかり合うことも時には楽しい。せめてリドルにはその喜びを謳歌してほしい。トレイ自身には未だ難しくても。「フロイドはいてくれて構わない。ただ、迷惑をかけるかもしれないから、先に詫びておこうと思ってな。具体的には店舗の破壊とか」
    「恐ろしいですね」とどこかジェイドは怖がる素振りを見せるが、これはもう単純に面白がっている。
    「ない話じゃないだろ? 勿論、これで弁償が効くとは思っていない。俺たち側でも最大限の努力はするが、お前たちも最悪の結末を迎えないよう、協力して欲しいと思ってな。これはそのための口添え。ジェイドだけじゃなくアズールたちにも用意してある。この鞄はそのまま持ち帰ってくれていいから」
    とトレイの傍に置いたトートバッグを指し示した。
    「僕でよろしければ最大限のお力添えを致しますよ。アズールにも伝えておきます。それにしても」とジェイドは感慨深そうな口ぶりで「そんなにも、寮長のことを大事に思われているのですね。ハーツラビュルは安泰だ」
    「お前たちだってそうだろう?」と意趣返しと言わんばかりに切り返したトレイに、ジェイドは、
    「どうでしょうね」
    と答える。彼の双眸は暮れかかった太陽が放つ斜光の加減で万態な色を見せた。愉快そうに煌めく。
    「それにしても、こんな場所があるなんて知らなかったな」とトレイはテーブルの横に植わったペンステモンの銅葉に見入っている。テーブルの中央に置かれた丸い壺型の花瓶と磨き上げられた銀のサモワール。その表面に花器に挿された暗紅色のシンビジウムが映り込んでいる。
    ジェイドはその向こうにあるトレイの横顔を眺めて言った。
    「アズールが見つけたんです。ここは元来塔の裏庭でしたが、数十年前にパティオが増築された。好景気の煽りを受けたのか、誰かの思いつきだったのか。計画では森林の部分を切り開いて庭園を拡張し、生垣の迷路メイズを作る予定だったとアズールの手に入れた資料には書かれていたそうです。しかし、それも果たして日の目を見たのか。いずれにせよ、今日ではパティオの壁は崩れ、庭園の一部となり、庭もまた森に侵食され、迷路は見る影もなく、廃園の当主は歴史の闇に飲まれた、顔のない幽霊。なかなかに素敵な場所でしょう」
     トレイは外気ばかりでない少しばかりの冷気を感じて言った。「前から思ってはいたが、この学園の七不思議は七つでは足りないな。ところで、これは俺が聞いていい情報だったのか?」
    「ええ、情報元は誰でも手に取れる読み物ですから。でも、そうですね、ご忠告感謝します。リドルさんのことですが」
    とジェイドが言いかけるとトレイは庭を鑑賞するのをやめ、徐にジェイドへ顔を向けた。「何か込み入ったご事情があるのだとお見受けしますが、お尋ねしても?」
     トレイは唇を少し引き結ぶ。端から満足な回答が得られると期待していなかったジェイドは軽い調子で言った。「不躾な質問でしたね。言い辛いことでしたら答えなくて構いませんよ」
     食卓を沈黙が満たす間、ジェイドはもっちりとしたファーブルトンを食む。溢れんばかりに内包されたプルーンは、海育ちのジェイドからすれば、モクヨクカイメンにびっしりと埋まったホウオウガイを思い起こさせた。シンプルなデザインながらここに見事な共生関係が成立している。咀嚼しながら、人魚姫の心を射止めたのは王子様ではなく、砂糖をふんだんに使ったおいしいお菓子というジョークもあながち的外れではないかもしれないと、ふとジェイドは人魚の世界に伝わる糖類愛者たちsweety loversの逸話を思い出していた。
    「いつか話すよ」
     マスタード色の揺れる瞳を静かに見据えて、そのいつかは来ないのだろうなとジェイドはぼんやり思った。
    「いつでもお待ちしています。ところで、トレイさんは珊瑚の海に眠る裏話をご存じですか。砂糖菓子と恋に落ちた人魚姫の話を」
    「いや」とトレイが唐突な話題転換に怪訝そうに答えると、
    「また別の機会にお話ししますね」
    とジェイドは事もなげに今後もトレイが茶会へ同席するよう促した。お菓子を全てたいらげ、スプーンに僅かに残ったジャムをひもじそうに舐めるジェイドの姿に、トレイは餌付けするってこんな気持ちなのだろうかと心ひそかに思うのだった。夕闇に閉ざされた廃墟をあとにする。トレイは足元に転がった煉瓦に躓きかけた。崩れ落ち、泥に塗れたパイン色の煉瓦は古ぼけて角が取れ、風雨に痛み、自然との同化を願っているようだった。

     給仕係はすらりと伸びた細身の脚でフロアを静かに歩行する。灯りが幾らか落とされ、深海をモチーフにしたラウンジをすいすいと往く優美な物腰は珊瑚礁を舞う熱帯魚。客を案内するたび悩ましげに皺の寄る白の手袋。サイドベンツの切間から覗く引き締まった腰つき。斜めに被った中折れ帽子の陰から、切り揃えられたターコイズの髪が垂れ、黒のメッシュが視線を誘引する。ジェイドとフロイド、二人で一対となるセルリアンブルーのピアスが耳元で艶かしく揺れる。天井を飾る隆々とした蛸足にぶら提がったクラゲのシャンデリアから、乳白色の光が漏れていて、そのスモーキーな採光をジェイドの左耳を彩る鱗のピアスがきらきらと跳ね返す。「お客様」と朗々と響くテノールの丁寧な案内。客を導く指先まで意識され、時に威圧感を与えぬよう黒服に包んだ長身を屈めて中腰になり、当意即妙にサーブする。巨大な水槽アクアリウムを銀幕の背景のようにして、ジェイドは流麗として客の注文オーダーに答え、ラウンジの洒脱なムードに飲まれたゲストを更に水底深くへと誘っていく。
     ウィンター・ホリデー前の総仕上げとモストロ・ラウンジでは本日趣向を凝らした企画を用意した。特別なゲストをお招きするために。ただでさえ休暇が差し迫り、浮き足立っていた客のボルテージも最高潮へ向け高まっていく。スペースを確保するためボックスシートを撤去しビュッフェ形式にして、特設されたステージには音楽機材が置かれている。しかし、ステージ上にまだ人影はない。店内にはいつものようにジャジーなBGMが流れ、サキソフォンが独奏ソロパートを晴々しく披露し、装飾音で会場を煽っていたが、イベントを待ちきれない客たちはざわざわと興奮気味の会話を交わし合い、てんでかき消されそうになっている。ジェイドは人熱れを掻き分け、オーダーを受けた飲み物を手配し、使用済みの皿を回収しながら、料理の残りを確認していた。そこへ両手に皿を持ち、ジェイドの道筋とは反対の方角からくるくるとターンする人影が飛び込んでくる。群衆の間隙を抜け出して、スポットライトを浴びたように偶然ぽっかりと開いた人波の最中でジェイドが出会ったのは、まるで鏡面に映った彼のただ一人の分身。決して打ち合わせてはいない。二人のウェイターは華麗に背中合わせで落ち合った。
    「ジェイド〜、オレもうへとへとー」
    「お楽しみはこれからじゃないですか」
     ホールの真ん中で双子は雑踏の中に取り残されたように二人きり。しかし、その邂逅は一瞬のもので息継ぎのような一言を交わすと、人魚たちはそれぞれの持ち場へさっと戻っていった。ケイトやリドルといったハーツラビュルの面々と料理が山盛りに乗ったテーブルのそばに立ち、和やかに談笑しながらトレイはダンスの振り付けのような二人のウェイターの一幕に見とれていた。
    「見事なものだな」
     どちらかといえば厨房の主人だと自認しているトレイは料理が美しく運ばれ、より値打ちが付加される様に感心していた。距離は離れていたにも関わらずジェイドはトレイの視線に気づき、始まりますよと言うふうにチャーミングに片目をつぶり、ウインクする。ジェイドはフォーマルなジャケットの内側にカマーバンドとサスペンダーを着込んでおり、もともとしなやかな印象を与える彼のウエストは絞られ、業務に追われてもズボンは高い腰の位置で留まったまま乱れる事なく、人間離れした長い手足がドレッシーに強調されている。その整ったシルエットが人の波間に消えていくのを見届けながら、トレイには周囲のさざめきが少しの間潮騒のように聞こえていた。

     案ずるより産むが易しとは言うが、他寮を巻き込んでホリデー前にリドルをモストロへ連れて行きたいというトレイの"個人的"な手回しをよそに、すんなりと事は運んだ。と、トレイ自身には感じられたが、しかしそれは彼が逡巡を巡らす中で決心し、慎重な準備をしたからこその賜物といえた。
    「ボクがオクタヴィネルのモストロ・ラウンジに?」
     波乱の期末試験を終え、冬学期が始まったかと思えばすぐにウィンター・ホリデーが控えている。リドルとトレイ、ケイトの三人は、寮生たちが羽目を外しすぎないよう、ハーツラビュル流の法的事項エスプリを織り交ぜながら、休暇中の過ごし方に関する諸注意をまとめ終えところだった。赤を基調にした華やかな寮の談話室で、リドルは柳眉をひそめる。
     背もたれにハートの女王のアイコンを用いた、総本革のウィングバックチェア。この真紅の玉座にちょこんとリドルが腰掛けている。リドルは足を組んだ膝の上に、行儀よく両手を乗せていた。彼は小柄で相貌にあどけなさを残していたが、涼やかなまなざしに、凛として玲瓏たる声、洗練された物腰と十七歳とは思えない堂々とした風格を備えており、談話室に置かれた最高級の調度品を愛用するのに、この学園の誰よりふさわしい。間違いなく主の座は彼のものだった。
     リドルの座っているシングルソファとL字型になるように二人掛けのソファが置かれており、トレイが腰を下ろしている。ケイトはトレイとリドルの間に立ち、二人の顔を振り返って言った。
    「じゃーん! 見てこれ、クラスの子に貰ったチラシ! 特別ステージやったりホリデイ限定のメニューもあるみたい」
     ケイトがニヘーと八重歯を覗かせて、右腕に抱えていたクリアファイルから宣伝びらを取り出すと、センターテーブルの上に広げた。広告によれば、ホリデイ・コンサートと銘打たれた催しが執り行われるらしい。料理の宣材写真で食欲をそそり、エレガントな飾り文字で書かれた妖しげな惹句が踊っている。忘れられない体験を貴方に……。
    「アズールも随分精を出しているようだね。悪いけど、寮生たちもどこか落ち着かないし、休暇前だからと言って寮長たる僕がはしゃいでいたら話にならない。確認しておきたい用件もまだ二、三あるしね」
     卓の中心では女王の権勢を慶ぶように赤い薔薇が咲き誇っている。迅速に結論を出しそうなリドルをケイトが引き止める。
    「まあまあ、そこはオレ達もフォローするから。リドルくんってモストロ・ラウンジに行ったことなかったでしょ? 楽しめるんじゃないかなあ。学園生活を存分にエンジョイするのも寮長の役目だよ」
    「そんな役目聞いたことが……」
    「ね、トレイくんもモストロ・ラウンジのスイーツを、何でもない日のパーティー・メニューの参考にしたいって言ってたよね」
     ケイトがやや強引に話を進めながら、トレイに目配せする。事前の段取りではここでトレイがケイトの論調を援護する手筈なのだが。
    「確かに。これなんて、焼きたてでとても美味しそうだ」
    とトレイは、海鮮を使ったメイン料理や遊び心のあるドリンクメニューと並んで、雪化粧をしたように白いふわふわのスフレの写真を指差す。
    「味も何種かあるようだし、飾り付けも他の皿と統一されてて凝ってる。モストロ・ラウンジのようにコンセプトのある料理店のカフェメニューは、とても刺激になると思うよ」とトレイ。
    「そうでしょー? しかも、朗報。オレ、特設ステージの観覧券も多めに貰っちゃったんだよねー。リドルくん、トレイくん、オレらでハーツラビュルのお疲れ様会しない?」
    とケイトはウキウキした様子で片腕を上げ、目元でピースサインを披露した。
    「確かに、ハートの女王の法律に、休暇前に遊ぶなという条文はないし、残務もキミたちの手を借りたら問題なく終わるとは思うけど」
     リドルはまだ迷っていたが、今いち気の進まない様子だ。ここで、トレイが反旗を翻す。
    「話を持ってきてくれたケイトには悪いけど、リドルが気乗りしないならやめておくか?」
    と笑顔でトレイはあっけらかんと言い放つ。
    「えっ、そんなあ!」
    トレイくん、打ち合わせとちが〜う! とケイトはペースを乱される。オレが話を持ってきたも何もこれ、そもそもの提案者はトレイくんでしょー!? と内心で叫び、焦りを見せたケイトを横目にリドルが言う。
    「いいのかい? トレイ、デザートに心惹かれている様子だったけど。ボクのことは気にしないで、二人でお行きよ」
    「そりゃあ、興味はあるけど、リドルが行かないんじゃなあ。喜びも半分ってやつさ」
     などと素知らぬ顔でキザなことを言ってのけ、「オレとしては寮長が実際口にして、メニューを気に入るかどうかもいい判断材料になるしな」
    「キミ、喜び云々よりそっちが本音だろう」
    「そんなことはない。滞りなくなんでもない日のパーティーを行えるなら、それ以上の喜びはないさ」
     トレイの軽口にふんと鼻を鳴らしたリドルからトレイは視線を外し、ケイトへすまなさそうにアイコンタクトを送ってくる。ああ、そういうこと……でも味方への騙し討ちやめてよねー!? ケイトはハーツラビュルで苦楽を共にしたから知っているが、トレイはしばしばこういう意地悪をするし、人の良さそうな顔で恐らく楽しんでいる。
    「オレ振られまくり〜。悲しい」
     ケイトはしょげたように肩を落としてみせる。すると、リドルは観念したようにため息をついて言った。
    「いいよ。乗ってあげる」
     去る十月、永続的にハロウィンが続くと思われた事件が起こり、リドルがハロウィン終わらせ隊として事件解決に奔走した際、彼は娯楽も教養の一つだと思い知った。以来、レクリエーションへのリドルの態度は幾らか柔和になっていた。だから、恐らくこの提案はリドルに了承されるだろうとトレイも考えてはいたのだが。
    「それに、何か考えがおありなんだろう? キミたちもここのところ根を詰めてたようだからね」
    とリドルはトレイの手回しを知ってか知らずか釘をさす。ケイトとトレイは思わず目を見合わせた。リドルはやれやれと言った様子で、
    「もしかして、彼らオクタヴィネルも一枚噛んでいるね?」
    「な、何のことかなー」
    「隠さなくていいよ。実はボクもこれ、アズールに貰ったんだ。日頃の感謝だと言って。そのかわりに誰か相手を誘えと」
     リドルが懐から取り出したのは綺麗に折り畳まれたチラシ。それは今テーブルの上に置かれ、三人で検分した物と全く同一だった。それから、ステージの観覧券が複数枚。
    「ボクがモストロ・ラウンジに理由なく足を運ばないとアズールは分かっているだろうに、無理に押し付ける理由がその時はわからなかった。でも、今日やっと分かったよ」
    「あ、あれー?」トレイくーん? とケイトがトレイを見遣ると彼も困ったようにぽりぽりと頬を掻いている。
    「アズールもいい性格をしてるから、こうなることを予想して、ボクらを揶揄ったのかもしれないね」
    「報連相にちょーっと問題があったかなあ?」と白状するケイト。
    「リドルはやっぱりやめておくか?」とトレイが念押しすると、
    「いや、それなら尚のこと受けて立たないと。笑われたままでは、たまらないからね」
     はははとトレイは苦笑しているが、願った通りの結果になったので、彼はアズールの行動を取り立てて気にしていなかった。しかし、これにて一見落着とならないのがここハーツラビュル寮。
    「先輩たちお揃いで何やってるんすか? 打ち合わせ?」
    「先輩方! お疲れ様です!」
     授業が終わったのか、下級生の集団が談話室へ流れ込んでくる。リドルたちに声をかけてきたのは、エースとデュース。一年生きってのトラブルメイカーもとい、ハーツラビュル寮期待のホープ達である。二人の影からひょこりと姿を表したのは何かと話題に事欠かない、オンボロ寮の監督生、そして相棒の魔獣グリム。トレイたちにとっては恩人のようなメンバーが揃った。
    「お邪魔してます」
    「あ、そのチラシのごちそう! とっても美味しそうなんだゾ!」
     挨拶もそこそこにグリムが早速モストロ・ラウンジのビラに食いついている。
    「こら、グリム。失礼だろ」とデュース。「もしかして、皆さんで行かれるんですか?」
    「そうなんだよー。ねー」とトレイとリドルをケイトが笑顔で振り返ると、エースが驚いた様子で、
    「えっ、寮長が!? 珍し。あそこにはフロイド先輩もいるのに」
     リドルはハアとため息をついている。
    「うん、ボクも行く日が来るとは思わなかったよ」
    「よかったら、お前達も一緒に行かないか?」とトレイが四人を誘う。
    「いいんですか?」と恐縮するデュースの隣でグリムが誰よりもはしゃいでいる。
    「にゃっはー!!」
    「いいねえ、ショーの鑑賞券もちょうど余ってたとこだし!」とケイトがチケットをひらひらさせる。しかしエースは、何か面倒事を察知した様子で、肩を竦める。
    「いや、絶対やばいでしょ。このメンバー。トラブルが起きる気しかしねーわ」
    「何をお言いだい。ボクが同行するからには、お前達には完璧な招待客を務めてもらうよ」
    と語勢を強めたリドルに、ほらねとエースは口に出さず、両手を挙げる。トレイは論地をずらすように言った。
    「それなら、これはどうだ? 飯を奢ってやる」
     すると、後輩達は一斉に歓喜の声を上げた。
    「本当ですか!? でも、クローバー先輩も知ってるでしょう? グリムの食欲」と心配そうなデュースの横で、グリムが「タダ飯! タダ飯!」と騒いでいる。
    「眼鏡もたまにはやるんだゾ!」と飛び回るグリムを監督生が嗜めている。
    「本当にいいんすか!? 払えないからやっぱやーめたってのは無しでお願いしますよ」と悪戯っぽく笑うエースに、
    「幸いこのイベント当日は食べ放題だし、破格の値段だしな」
    「トレイくん太っ腹〜!」とケイトがトレイの脇を小突くと、トレイは何を言ってるんだ?と言う顔でのたまう。
    「ケイトと折半だろ?」
    「え」
    と固まるケイトをよそに、四人は二人へ向けて次々にお礼を言った。「ごちになりまーす!」「ごちそうさまです!」「ありがとうございます!」「今からめちゃくちゃ楽しみなんだゾ!」
     騒ぎすぎないように、とリドルは一言注意する。「ま、仕方ないか」と早くも受け入れているケイトの肩に「悪いな」とトレイは手に置いた。リドルは二人へ向けて言う。
    「ボクも払うよ」
     ケイトとトレイは互いの顔を見て、「折角の申し出だけど」とケイトが続けて断りの文句を口にする前に、トレイがそれを引き継いで言った。「これは俺たちからの、ホリデイのプレゼントだよ、リドル」
     かくして、モストロ・ラウンジのイベントへ七人で出向くことが決まった。トレイは暖炉のそばで後輩達に囲まれながら、楽しそうに歓談している。そこから少し離れてリドルは窓辺に立ち、彼らを眺めていると、ケイトが近寄ってくる。開口一番、リドルが言った。
    「主犯はトレイだろう?」この計画の主犯は。
    「あー……、わかっちゃった?」
     首に手をやりながらケイトは種明かしをした。
    「トレイはどこか考えすぎるきらいがあるからね、ボクのことだって……。いつか策士策に溺れないといいけど」
     そう言って、リドルは炉辺を見遣った。彼は表情を柔らかくし、過去を愛おしむように微笑む。その横顔には昔日の無邪気な面影が残っていた。誰の目にも疑いようもなく。

     エース達と別れ、オンボロ寮へ帰る道すがら、監督生はグリムとホリデイ前の楽しい予定について話し合った。オンボロ寮は豪奢でアバンギャルドな造りのハーツラビュル寮とは打って変わって、いつ崩壊してもおかしくないような建て付けだ。夜の室内は暗くうっそりとしてたまに隙間風が吹く。しかし、これでもこの仮宿に住み始めた頃よりは大分設備も修繕されたのだ。自寮に帰り着いた監督生は、備え付けの照明では心もとないため、机に置かれた蝋燭に火を灯した。談話室の大きな明かり取りの窓の外は暗く、高やかなカーテンが引かれてある。長年ぞんざいな扱いを受け、埃を被っていため、往時は真白だったろうカーテンはすっかり薄汚れている。日に焼けて傷んではいるが、所々に刺繍が施されており、もともとは値が張る代物なのだろう。縮れたレースが、どこかから忍び込んでくる風に揺れている。監督生はその少々寒々しい景色を素通りして、暖炉のそばに置かれたシンプルな造りの安楽椅子に腰掛けた。暖炉に薪を焼べる。乾いた楢の燃える音を聞きながら、ケイトから譲ってもらったモストロ・ラウンジの広告を広げると、思わず涎が出そうな鮭の香草焼きや大皿に載ったバカリャウなんかが目に飛び込んでくる。
     お腹をグゥ〜と鳴らして「ふなーっ! 目に毒なんだゾ!」と喚きながら言葉とは裏腹にチラシへと見入っているグリムの隣で、監督生は椅子を軋ませ、マッチ売りの少女の童話を思い出していた。
    「今のうちにイメトレしねぇとな!」とお腹をぽんと叩くグリムと笑い合う。監督生が広告を読み返すと、下に「※一部別料金のメニューがあります。」と注意書きが書かれていた。これは……と監督生は悪い予感を覚える。後できちんとトレイ達に確認しないといけないだろう。チラシから顔を上げると、濃緑の壁にかけられた肖像画が目に入る。壁照明ブラケットライトに下からぼんやりと照らし出された高貴なる婦人と目が合う。

     約束の日、リドルたちは鏡舎で落ち合い、オクタヴィネル寮へ渡った。
     オクタヴィネル寮は偉大なる海の魔女アースラの居城を模して造られた。辺り一面が海に包まれた同舎は海底に眠る遺跡のよう。寮舎と水底を繋ぐのはシードラゴンの遺骨だ。獲物に齧り付かんとあんぐりと口を開け、鋭い牙を見せつける在りし日の勇姿そのままに、背にした本殿を守らんと外界を威嚇する。ガーゴイルや東方の神使狛犬のように建築物として再現された今となっては魔除けの意図も込められているかもしれない。しかし、真なる祖グレートセブンの御代にあってはただ彼女の威光を彩る蒼樹として機能した。
     シードラゴンが気閘室エアロックの役割を果たし、巨大なテーブルサンゴが美しい段丘となって、最奥のパレスへと接続している。本宮の丸屋根には背びれの骨を思わせる、ほぼ垂直な棒状の彫像があった。緩やかに捩れた彫物はもとは人物を象っていたのかもしれないが、悠遠の合間に食まれて今や人の形をしていない。像の先端からは薄いベールがたなびく。リボンに似た薄膜はそのシンプルな彫刻スカルプチュアを中心にして下方へ発条ばね状に渦巻いていき、風向計の役を果たした。波間に旋風つむじを起こしている。その半透明の被膜が途中で切り離されて、オクタヴィネル寮の舎屋にくるくるとまとわりつき、日が落ちると青白く発光した。
     鏡を潜り抜けたトレイたちは本宮の手前、即ち、建物最下部のシードラゴンから宮殿までを橋渡しするテーブルサンゴの屋根の上に降り立った。フラットな珊瑚礁は石灰華段丘のようになびやかに奥の御舎へ通じている。
     空中で気泡が立ち上っては日光の揺らめく海面へ消えてゆく。青く煙る水中の彼方から日差しが燦々と降り注ぎ、遙か上方で光を眩く乱反射させているのは小魚の群れ。滑らかな魚群が見せる銀の腹だ。耳には空瓶を水にくぐらせたような陽気な泡の音が聞こえてくる。熟達した奏者が軽快にぼんぼわんとウドゥドラムを叩いているかの如くだ。このように幽玄な異境で陸上生物が呼吸を行えているのが不思議な程で、初めて訪れた他寮生は誰しも息を飲む。人魚たちの棲まう世界。目を閉じ、空気の弾ける音に聞き入ると、波に身を委ねてどこか遠くへ連れ去られてしまいそう。ケイトはその誘いを振り払うかのように、軽やかにシャッターを押した。
    「みんな、並んで並んでー! はい、ポーズ!」
     このメンバーでオクタヴィネル寮へゆったりと遊びにくることもなかなかないからと、段丘の中腹で殿舎を背にして記念撮影を行う。
     寮の本殿に列する尖塔は巻き貝の冠を戴き、佳麗な螺旋構造に棹さすように棘が生えている。並の甲殻類が宿を借りるには過大なホネガイの屋根は、灰白色と紫を基調とした寮舎と調和し品格があった。
     その左脇に一際立派な螺旋の斜塔があった。
    オクタヴィネル寮のシンボルを縫い付けた旗が、塔に絡みついた雄々しい蛸足の先に提げられている。海の魔女が愛用したオウムガイのペンダントトップを飾り枠に封じ、枠外に彼女を象徴する優美な凧の足を刺繍され、彼女の膚の色で染め抜かれた寮旗をケイトはフレームに収めた。
    「ハーツラビュル寮もオシャレだけどー」ケイトはマジカメに早速写真を投稿している。一行はぞろぞろと目的地へ向け歩き出した。「オクタヴィネル寮は海中の神秘! って感じがイイよね〜」
     はしゃぐケイトをよそに未だアズールらにこき使われた記憶が蘇るのか、エースたち三人は今やもう痛まぬ頭頂部を手で抑えている。トレイは思わずははっと声を上げて笑い、リドルもつられてやれやれと気を緩めた。
    「けーくんチェック的には貝殻の屋根もかわいいし、物々しいスケルトンもホラーチックで映えるから推せるんだけど」
     げっそりした様子の下級生三人の胸中を知ってか知らずか、楽しげに方々へ指を差しながらケイトは続ける。「さて、ここでクイズ! オレのイチオシはなんでしょうか? はい、監督生ちゃん!」
    「えっ」
     監督生が目を瞬かせると、ケイトの傍らにいたトレイと目が合う。悪いが付き合ってやってくれというトレイの声が監督生には聞こえた気がした。うーんと辺りを観察して監督生は答える。「海草ですか?」
     段丘の両脇には渦潮を固めた形の列柱ポルチコが、エントランスへ向かって並び立ち、寮の権威を示している。しかし、監督生の目に留まったのは建築ではなく自然の緑だった。
     オクタヴィネル寮舎は構造物の所々に藻場がある。長さ数十メートルに及ぶ海藻が海上へ向かってまっすぐに伸び、辺りを緑の光で満たしている。陸上で言うところの庭木だった。人魚の庭で水流に身を任せ、ダンスしている。詩的な表現が監督生の口をついて出た。いつ訪ねても新鮮にこの景観に飲まれてしまうからだろうが、何言ってんだ? と同級生たちにからかわれる。
     対してケイトは彼の感性をいじらず、むしろ嬉しそうにした。「着眼点ナイスー!」
    「料理に使えるかもしれないな」とトレイがのほほんと続ける。彼は愛の狩人を友としていたので、ポエティックな表現は日常的に浴びていた。リドルが少し驚いたような顔をする。
    「へえ、この藻草も食材になるのかい?」
    「ああ、添え物とかな。地域によっては……」
    とトレイが解説する横でケイトが先程喜んだ理由をこっそり打ち明けた。
    「前にリリアちゃんとカリムくんとモストロ・ラウンジに行ったことがあってさ、カリムくんもおんなじこと言ったんだ。「見ろ二人とも、草が踊ってるぞ!」そしたら、リリアちゃんが「ならば、さしずめ、巻き貝の屋根は竪琴じゃのう」って」ケイトは友人二人の物真似をした。リリアは巻き貝の螺旋に生えた棘を琴の弦に見立てたのだろう。
     他方、二人の背後ではトレイの言葉を真にうけたグリムが、「食えるのか?」と海藻のもとへ飛んで行こうとするのをデュースが止めている。「放っときゃいいじゃん」とエースが頭の後ろで手を組み見ているが、監督生はケイトの話しぶりに聞き入っていたため、気づいていない。
     監督生はケイトの話を聞くだけで軽音部三人の興奮が伝わってくるような心地になり、ここまでは何とか話についていけたのだが。
    「じゃあ、ノリノリの波は変拍子、差し込む日光は一筋の祈り、小休止。小魚の緊張はシンバルレガート、未知の海洋生物の鳴き声はギロで表現しようとか話してたら一曲出来るんじゃないか!? ってハイになっちゃってさ〜」
     突発的な海産の合奏曲アンサンブル。「入店早々いろいろやらかしてしばらく出入り禁止のお咎め受けちゃった」
    「一体何を……」
    「それ聞いちゃうー? リリアちゃんがデスボイスでメロディー歌って、カンパーイ! って杯を掲げたあと床に叩きつけて割ってさ。なんでもリリアちゃんが過去滞在した国ではそれが紳士のマナーだったんだって。そうなんだー! って三人で仲良くコップを割っちゃった」
     てへへと笑うケイトを眺めながら、監督生は思う。入店のお許しは本当に再び出ているのだろうか……。
    「ほら、モストロ・ラウンジって紳士の社交場っていうじゃん? 紳士ならいっかー! って。完全にどうかしてたよね。グラスは魔法で直したけど、ついてきてくれたジャミルくんにも悪いことしちゃったな。そうだ、けーくんクイズの答えだけど」
     監督生は愉快な思い出話が落居したまさかの着地点に衝撃を受けていたが、なんとか気を取り直して頷いた。
    「残念、ハズレ〜。答えはあのヒラヒラ!」
     歓談しているうちに寮の屋内へ続く拱門が眼前に迫っていた。アーチの上部にある半円の窓は白の小さな三角形に縁取られている。ぽっかり開いた口腔から覗くギザギザの歯を思わせた。トレイはそれを興味深そうに見上げている。ケイトが言うヒラヒラとは、今入ろうとしている寮舎の、丸屋根の上にある無名の柱頭キャピタルから、周囲の尖塔、列柱に至るまで羽衣のように巻き付いた薄い膜のことだ。
    「夜になるとネオンみたいで、珊瑚の階段もあちこちラインストーンみたいに光るし、最高にアガるデザインだよね〜!」
    「宇宙卵だろうね」監督生が丸屋根に澱のように絡みつく薄膜を眺めていると、リドルが端的に言った。
    「宇宙卵? ってなんだ。食えるのか、ソレ」とグリム。
    「グリちゃん……」
    「錬金術の授業で習わなかったかい?」と呆れながらも、リドルはきょとんとした顔のグリムに概略を説明してくれる。「宇宙卵、或いは世界卵とも言うけど、古代の人々は卵を宇宙の原初的な状態と捉えた。卵から世界や宇宙が生まれたと言う、まあ所謂卵生神話だね。一つの卵が全たる生命の起源を孕んだ。現代に伝わる錬金術はその伝統的な見解を礎としているんだ。錬金術の歴史において、球形のフラスコを哲学の卵と呼んで好んで用いたのも、宇宙卵に準えたためさ。まさに錬金術は世界を創生する秘術だった。そして、賢者の石が生み出され、初期の錬金術は医術、科学と様々に分岐し、謎大き原始の魔法を体系化し、神秘の幾らかを解明した」
     ここまではいいね? とリドルが目配せするが、下級生のうち勉強が不得手なメンバーは既に頭の中がこんがらがっている。
    「先が思いやられるね、一般人には馴染みのない話でも魔法士にとっては初歩中の初歩だよ」と口を尖らせるリドルをまあまあ、そう言ってやるなよとケイトとトレイが宥めている。リドルはこほんと咳払いし、
    「僕が言いたかったのは、この建物の屋根と帯の装飾がそれを示しているんじゃないかと言うこと。卵に巻き付く蛇は、永遠たる生命の根源を示唆する図象だから。そして、丸屋根から突き出た柱はおそらく新たな命の……」
    「小難しくてよくわからねーんだゾ。屋根は屋根、それで十分じゃねぇのか? 腹の足しにもならねーし」
    とグリムは一足先に匙を投げ、リドルの高説を遮った。
    こういう時のグリム、一周回って尊敬するわ……とエースとデュースが後ろでヒソヒソ話している。リドルはじろりと二人を一瞥したが、特段気を損ねた様子もない。さっぱりとした口調で返した。
    「キミはハーツラビュルの寮生ではないし、ボクも深くは干渉しないけど、一つ忠告しておく。たとえばこんな話がある。格闘家が相手の構えをひと目見て力量を悟るように、読書家が言葉を交わすだけで互いの蔵書を知るように、優れた魔法士もまた魔法を撃ち合わずして相手の手の内を知ることができるという」
     何か言いたそうな顔のグリムの先を制してリドルは続ける。「魔法士の秘中、ユニーク魔法も例外ではないよ。一にも二にもまず観察。一つの卵に宇宙を、一粒の砂に世界を見ることは決して無駄ではない。宇宙卵は魔法士のそういう精神性をも象徴している。だから、授業でいの一番に取り上げられるんだ」
     リドルはそっと息をついて続けた。「いいかい、キミも大魔法士を目指すなら覚えておくといい。知識は戦略的な装飾品だよ。マイルストーンにもドレスコードにもなる。まあ、実践あるのみという点においては同意するけどね。ハンプティ・ダンプティのように、いくら蓄えても落として終いじゃどうしようもない」
     説法のようだったが、グリムのためを思った真摯なアドバイスというのは気の早い彼にも伝わったのだろう。
    「リドルがそこまで言うなら覚えておいてやるんだぞ、オレ様はいずれ大魔法士になる男だからな!」
    となぜか得意げである。
    「困ったものだね」と言葉とは裏腹に頬を緩めるリドルの隣でトレイが「その意気だ」と励ましの言葉をかける。
    「オレ様、ちょっと蘊蓄を聞くのが楽しくなってきたんだゾ。他には? 何かないのか?」
     グリムが早速リドルに強請っている。
    「そうだね……」とリドルが続けようとすると、
    「えー、オレもうお腹いっぱいなんだけど」とエース。「僕もちょっと」と疲弊した顔のデュースも続け様に口を開いた。
    「キミたち」とリドルは頬を膨らませ、腕を組む。「キミたちの意見はよくわかった。では、モストロ・ラウンジへ着くまで、教養の簡易テストを実施するとしよう」
     うげ〜とエースとデュースが天を仰いだ。
    「お、リドルくんクイズだ! オレたちもやる?」
    とケイトがトレイを振り返ると、トレイは一見微笑のような、微笑にしては眉根を寄せた何とも言えない散文的な笑みを浮かべていた。ケイトは見慣れたそれに心中だけでため息をついて、トレイが何か返事をする前に背中を叩いた。
    「ほらほら! いくよ。トレイくん」
     第一問目、オクタヴィネル寮のテーマカラーに関する問いを出題したリドルのもとに、
    「はいはーい! それトレイくんが答えたいってー!」
    とケイトは景気よく送り出した。オクタヴィネル寮の廊下の窓から貝紫色の旗が水中に高々と掲げられている様が見える。古代、ホネガイの分泌液から紫が作られ、貝はパープルの語源にもなったのだと、ハーツラビュル寮の先輩らの口から語られる頃には、夕暮れの刻が近づき、オクタヴィネル寮は半色はしたいろの帳に包まれた。
     さて、リドルたちが一問一答を繰り広げながら、寮の本殿を右へと通り抜け、なだらかにカーブした水中の通路を進むと、前方にシードラゴン――こちらは骨格標本ではなく生きたままの姿を模した――が現れた。前門の骨竜、後門の海竜。怪物の名を冠した牙城ラウンジの前に人影が見える。オクタヴィネルの寮服を身に纏った人魚の姿が。
    「ようこそおいでくださいました」
     リドル一行がモストロ・ラウンジへ辿り着くと、店先に立っていたジェイドが恭しく出迎えた。「生憎、アズールはステージの準備で忙しくしておりまして。アテンドは僕が代わりに」
     軒先にはイベントの開催を祝うフラワースタンドが何台か置かれていて、豪勢な花束が風船やリボンで飾りつけられ、空間を華やかに印象づけていた。その中に髑髏のマスコットをあしらった奇抜なデザインの花輪があり、とりわけ目を引く。送り主はMr.Sとある。すると、グリムが軒先の片隅で声を上げた。「これ宇宙卵じゃねえのか?」
     グリムが実験用具のような丸底の瓶の周りをくるりと飛んだ。瓶の中には植物や土が丁寧に詰められている。「早速見つけたんだゾ!」
    とグリムは誇らしそうに胸を張った。
    「やったね! グリちゃん!」と囃すケイトの傍らで思わず笑みを漏らすリドル。そして、何だこれ? と首を捻る下級生たちを後方から見守りながら、トレイは水を差さぬよう自分にしか聞こえない音量で呟いた。「テラリウムだな」
    「はい」
     しかし、それを聞き漏らさなかった者がこの場に一人いた。ジェイドだ。彼はどこかばつの悪そうなトレイを面白そうに眺めながら、
    「恥ずかしながら、あれは僕の作った作品なのですが、あんな風に喜んでもらえるとは。察するに、あれの正体を明かさない方が宜しいのでしょう?」
     からかうようなジェイドの口ぶりに、ははとトレイは苦笑いをした。「今はそうしてもらえると助かる」
    「承知しました。構いませんよ、大切なお客様からのお願いですし、それに宇宙卵という解釈もあながち間違いではないですから」
    「どういう意味だ?」
    「仰ってもお分かりになるかどうか……」とジェイドは挑発的に言葉を区切り、「いえ、極めて個人的な感覚ですから」
     これは話したいのに勿体ぶっているのだなと、トレイは察した。
    「僕はあの容器の中に言わば宇宙を作りたいんです。僕の手を離れて自走する、蔓、苔、草、そして石。瓶の中で、彼らの環世界がどこまでも展開していく、閉じた生態系クローズド・エコシステムを僕の手で作り上げたいのです」
     それはまるで書きつけた呪文の断片が一人でに魔法となるような。ほら分からないでしょう? とジェイドはさも言いたげだった。
    「どのくらいの期間の話だ?」
    「それはもちろん、永久に」
    「無謀じゃないか?」
    「そうでしょうか。瓶詰めの連鎖が数十年成功した先例は既にあるのですよ。砂粒に世界を、野花に天を、掌に無限を、そして刹那に永劫を」
    とジェイドが口にしたのは先程リドルも引用した詩。
    「まさか。ここに来てからの会話がずっと」聴こえてたのかと驚くトレイに、
    「おや、一体何の話でしょうか?」
    と口元に手を当てて、ジェイドは微笑する。「確かに水中で音は陸上の何倍も早く届きますが、建物周辺は空気で満ちていますし、そんなはしたない真似しませんよ。ただの偶然でしょう」
     ジェイドが盗聴行為を本当にはしたないと感じているのかはともかくとして、それ以外の事項は一応真実なのだろうが、いかんせんトレイは人魚の生態や能力に詳しくなかったし、それ以上にジェイド自身のことについてよく知らなかった。よく食べ、好奇心旺盛で山を愛する風変わりな人魚。しかし、肚の内は……?
    「完成するのが楽しみです」
     なおも自身を訝しむトレイに興味を失ったのか、ジェイドは自慢のテラリウムを愛おしげに眺め、ぽつりと期待の言葉を寄せた。

    「さあ、皆さん、こちらへ」
     案内係のジェイドが掌を差し向け、店内へ誘う。白手袋を手首のボタンで留め、盛り上がった指球が丸く露出している。
     リドルたち七人は促されるままに海棲生物の牙を踏み越えた。彼らの前に怪物はおどろおどろしいダークピンクの口内を開いた。壁は潮が掘り抜いたかのような海底洞窟の拵えで貝やフジツボが張り付き、照明の具合で怪物の脈打つ胎内にも思える。冷気を感じるのは怪物の歯茎にあたる通路の両端に水路が形成されているためだ。意表を突くインテリアは客の興趣を喚起した。水に親しみ深いオクタヴィネル流のもてなしと言えた。
     へえと感心した様子で門口の大きな歯列にトレイは見惚れている。
    「悪戯心があるでしょう?」とジェイド。「これで皆さんはシードラゴンのお腹の中ですね」
    「先ほども見かけたんだが、オクタヴィネル寮は歯のデザインをよく取り入れているよな」
    「ええ」ジェイドは口角に人差し指をつと添え、円錐状の歯を覗かせた。「もともと海底にはナイフもフォークもなく、陸との外交によって齎されたものです。このような文化圏ですから、殊更獲物を捕獲し、肉を削り取る歯は珍重されてきました」
    「なるほどな。確かに俺たちとも形が全然違う」と感嘆したきり口をつぐむトレイ。心なしかジェイドには、トレイの目が炯々と光って見える。それどころか、彼は人魚ジェイドの歯牙に興味津々のようでジェイドの口元に熱視線を送ってくる。なぜトレイがうずうずしているのか、ジェイドにはさっぱりわからなかったが、「予想外の反応ですね、案内役ガイドとして掴みは上々といったところでしょうか」と彼は心の中でアズールに報告した。傍目にはジェイドがややトレイに気圧されているように見えたが、「トレイくん、また悪癖が出ちゃってるなー」とケイトは二人に介入せず密かに笑うに留めた。
    「いくらリドル寮長が初入店って言ったって、わざわざジェイド先輩がアテンドとか。裏がありそうで怖えーんだけど……」と三人から少し離れ、デュースらと話していたエースが小声で至極もっともなことを言った。
    「アズールの奴、とんだ守銭奴だからな」とグリムがひそひそ声で同意する。彼らはジェイドが話し込んでいるので自分達の会話が聞こえていないと踏んだのだろう。ちょうどトレイが我に返り、まじまじとジェイドの歯を眺めていた己に気づいて、悪いと一言謝罪したところだった。
    「僕の方こそ驚いてしまってすみません。あまり注目されることに慣れていないもので」
    とジェイドはトレイに断ってから、この場の誰より目を輝かせ、静かに息を呑んでいるリドルへ近寄る。その際、ジェイドは後ろを振り向いて自分の動向を気にしている一年生たちににこやかに微笑みかけた。対価は既に頂いていますよ。足りない分はこれから……。おっと、これはまだ彼にも話していませんでしたね、と心の中で語りかけながら。
     リドルは背骨の形をした梁が渡してある天井に目が奪われていた。梁の下のフロアには商品を載せたワゴンが並び、微塵も商機を逃すまいとショップが展開している。更にリドルの目前にはシードラゴンを輪切りにしたように、壁と床を走るLEDの照明が埋め込まれてあり、そこを境に内装が、海底洞窟からホテル・ラウンジへ、モダンで落ち着きのある空間へと転じていた。
     トレイはリドルの興奮気味な顔を見て、「気に入ったか?」と声をかける。なぜかからかうような調子になるが、それはトレイもまた喜んでいるからだ、とケイトは考える。
    「そんなこと……」とリドルは言いかけ、ジェイドを見てやめる。嘘泣きでもされたらたまらない。咳払いを一つ。「この建物は独創性があってなかなか見所があるね。どのような歴史があるのだろう」
     ジェイドは建物の外の広々とした深海を映す窓を背にして、リドルに対VIP用の口上を述べた。
    「モストロ・ラウンジは、もとは歌劇場オペラハウスだったんです。残念なことに、これほどの収容量を誇りながら、」とジェイドは一行に流し目を送る。「長く使用されておらず、全くの宝の持ち腐れでした」
     建築家の遊び心が光るホワイエには至る所に海産物のデザインが施されてあり、ステージイベントの開催にはまだ間があったが、ざわざわと人が往来し賑わっていた。
    「そこにアズールが目をつけて学園長の"ご厚意"で、こちらの地所を僕らが預かることになりまして。リノベーションをし、手を入れてはいますが、努めて元の間取りを生かしているんですよ」
    「古民家カフェみたいな?」とケイトが写真撮影に欠かせぬ神器、スマートフォンを片手に相槌を打つ。
    「民家というイメージからは程遠いけどな」とトレイが一言添えた。実のところ、トレイもモストロ・ラウンジへ訪れたのは初めてではない。学内に美味しいお菓子を出すカフェが出来たという噂を聞きつけて、足を運んだことがある。だが、当時の記憶ともやや内装の印象が異なるので、開業してからも改装を行なっているのかもしれないとトレイは推測した。
    「あくまで学園の伝統に準じ、キミたちなりの方法で遺産を守っているという訳だね」とリドル。
    「その通りです」とジェイドは自分の胸に片手を添える。オクタヴィネル寮服の剣襟がジェイドの胸板をより立体的に見せ、ウイングカラーに合わせた無地ソリッドセミバタフライが胸元で白く光る。ホワイトの蝶ネクタイとサテンの剣襟がジェイドの纏うダークスーツにラグジュアリーな印象を添えていた。
    「ここまで歴史的な建物に大規模な改修を加えるとなると、必要な資金も膨大だったはずだ」とリドルは顎に手を当て、「店を運転して軌道に乗ってからはともかく、初期費用はどこから出ているんだい?」
     海底洞窟シードラゴン腹中ロビーを皆とゆっくり歩きながら、にこりと不敵に笑むジェイドの横顔が、岩壁に据え付けられた鏡台に映し出された。
    「教えて差し上げても宜しいのですが」とあくまでジェイドはにこやかに言った。「秘密があった方が楽しめるでしょう?」
     ジェイドの口ぶりは慇懃だが掴みどころがなく、下級生は落ち着かない様子だった。
    「野暮なことを聞いたね。ただ、あまり彼らを怖がらせないでくれると助かる」
    「おや? そういうつもりではなかったのですが、お客様を萎縮させてしまうなんて僕もまだまだ至らぬ身ですね」ジェイドは懐中時計を確認して言った。「せめてものお詫びに」
     ジェイドがぱちんと指を鳴らすと、天井照明シーリングライトの輝度が上がり、一行は明るい温白色に包まれた。店内が夜間照明に切り替わったのだろう。タイミングを心得ていたジェイドの気障な演出だったが、監督生達にはジェイドが一瞬魔法を操ったように見えた。エースが口笛を吹き、ケイトがやるねえと褒めている。恐縮ですとジェイドは帽子を手に取り軽く右足を引き、軽くお辞儀をした。今日日、映像作品でしか観ない古典的な礼儀作法ボウアンドスクレープだったが、とても様になっていた。少し呆けた顔の監督生にジェイドは謙遜して言った。「訓練所で習ったのですが、今のトレンドではないようですね。いつもそのような表情をされるんです」
     エントランス・ホールを半ばまで進むと、受付があった。「クローク・ルームはあちらです」とジェイドは指し示して、もし不要な手荷物などがあれば預けるようにと勧めた。入り口部分のユニークな雰囲気とは打って変わって、受付の奥には雅やかなサーキュラー階段が建物の両脇にあり、緩やかに弧を描いて二階へと繋がっていた。その下にはメインホール、即ちモストロ・ラウンジの一階席がある。建物の外からここまで歩いてくる間、既に賑わいは感じられたが、開け放たれた扉の奥から学生達が思い思いに語らう声や、食器の当たる音、洒落たビッグバンド風のBGMがロビーまで漏れ聞こえていた。
    「初めてのお客様やお久しぶりのお客様もいらっしゃいますので、当店をご利用いただくための諸注意のご説明を」とエース達の準備が整うまでの間、ジェイドはお決まりの説明を口にした。「モストロ・ラウンジは紳士の社交場ですので、他寮との揉め事はご法度です。ここでは、どの寮に所属する方も我がオクタヴィネルのルールに従って頂きます。ルールを守り楽しくラウンジをご利用くださいね」
    「思っていたよりもきちんとしているのだね。キミたちのルールが無手勝流でなければ」とリドルは素直な感想を口にした。
    「リドルさんからお褒めに預かるなんて光栄です」とジェイドはリドルの二言目を華麗に受け流した。「きっとご満足頂けると思いますよ」
     さて、いよいよ一行はジェイドに案内されながら、扉を開いて深海の箱モストロ・ラウンジの中へ足を踏み入れた。
    「これは僕らの陸生生物の行動追跡研究バイオロギングが成果を上げたと言ったところでしょうか」
     フフフとジェイドは口元に手を当てて笑う。
    ジェイドの言うように会場は満員御礼で、ゆうに数百人はいるだろうか。この間イソギンチャク頭の生徒達が集められた時よりも多いぞ、と監督生は目を丸くした。
     モストロ・ラウンジの特徴は何と言っても巨大なアクアリウムにある。そもそもが海の中にある寮だが、巨大水槽を擁する食事処など高級レストランでない限り珍しい。手すりのある緩やかな階段を上った店の奥に、洒脱なバーカウンターと共に設置されて、アクアマリンの彩光をフロアに投げかけている。珊瑚礁を見事に再現した静かな海を背景に、陸の生物達がビュッフェの皿を片手に、フロアで思い思いに羽を伸ばしていた。紫の壁には巨大生物の骨を思わせる付け柱が埋め込まれている。客達は自分が怪物モストロに丸呑みにされたことにも気づかず、美食に舌鼓を打ち胃袋を膨らませているのだ。
     天井には蛸足に吊るされた海月のシャンデリアが星月夜の海面のように白く輝き、壁沿いに設置されたビュッフェテーブルには、オクタヴィネル寮自慢の海鮮料理が並んでいる。グリム達が歓声を上げた。机に据えられた紫の卓上照明が妖しく手元を照らしていた。瑞々しい人魚の皮膚が滑らかに映え、ジェイドの寒色の髪、涼しげな瞳が光を弾いて煌めいている。照明の補光がジェイドの端正な細面を際立たせていた。陽光に溢れた植物園とは異なった艶のある表情。ジェイドはトレイの向ける視線に気付き、「何なりと仰って下さい」と如才なく言った。
    「少し確認したいことがある」と思い出したようにトレイが言う。「広告にあった別料金のメニューというのは」
    「ああ、それはですね、本日当店はビュッフェ形式なので、ウォーターサーバーも用意しているのですが、その他のドリンクは別オーダーとなっております。また、本日だけのスペシャルなメニューもございますので、そちらを注文されますと追加料金がかかるというわけですね」
     ジェイドの目元には、寮服に合わせて紫のアイラインが引かれている。店内を満たす音楽が心地よく体に響く。
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    瀬名🍭

    PROGRESS不定期でトとジェがお茶会する♣️🐬SSのまとめ(未完) 捏造多。随時更新。お題:salty lovers
    Merman’s test garden 魚類は虫歯にならない。歯を蝕む病は人類と砂糖の出会いによって生まれ、海中暮らしで甘味を知らなかった人魚もまた、人と交わることで歯を患うようになったと言われる。太古の昔、人間の王子と結ばれた人魚の姫は、心優しいハンサムではなく実際のところお城の豪華なテーブルに並んだ愛しき者たち――チョコレートケーキにミルクレープ、焼きたてのスコーンにクロテッドクリームとたっぷりのジャムを添えた、華麗なるティータイム――と恋に落ちた、なんて使い古されたジョークがある程だ。
     それまで、栄養補給を主たる眼目に据えた、質実な食卓しか知らぬ人魚たちの心を蕩かしたこれら、危険で甘美な食の嗜好品はsweety loversと名付けられ持て囃された。他方、人間に人魚、獣人、妖精と多様な種族がファースト・コンタクトを済ませたばかりで、種の保存において血筋の混淆を危険視する声も少なくなかった。昼日向に会いたくても会えず、仲を公言することもできない、陸の上の恋人を持つ人魚たちはなかなか口にできぬ希少な砂糖になぞらえ、情人をもまたsweety loversと隠れて呼びならわし、種の垣根を越え、忍んで愛を交わしたと伝えられている。
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