死に至る病(オメガバース)第一部 前編死に至る病
〝人間は精神である。精神とはなんであるか?〟
『あんたは、俺のもんだ』
「言うはずない。あいつが、そんなこと」
〝精神とは自己である。自己とはなんであるか?〟
診察が終わり、検査結果が出るまで長椅子にかけて待つように指示がある。中待合室は白々しい程に明るかった。真新しい包帯の巻かれた右手を見る。痛みより、じんじんと疼きのような感覚が脈打つように感じて、震える。
血液と一緒に、心臓まで上がってくるみたいだ。
「こわい」
あいつの「本気の顔」を見たのは二度目だった。
体育館で何度殴られても、こんな風に思わなかったのに。
心が、身体と一緒に変わっていくような気がして、怖かった。
「検査の結果なんて意味がない」
結果なんてわかっている。
「すべてが、終わったあとなんだから」
瑕に触れるのが怖くて、代わりに鞄の中の文庫本をなぞった。
午後の陽光が、広く取られた窓から容赦なく入ってきて、目に染みる。
開口部が大きく、開放感があるのはメンタルケアのためだろう。日光を浴びるのは精神的に良いらしい。
でも、窓が填め殺しなのは己の、第二性のためなんだろうと思う。
「うっぅ……っ」
涙もろいと言われる、自分の性質が嫌でたまらない。
今、中待合には自分しかいない。この病棟には、ベータかオメガしかいないそうだ。
痺れたような右手で、首筋をなぞる。
『あんたは、俺のもんだ』
いつもの屋上のはずが、空の色もチカチカとネオンのように光って見えた。
水戸の声が耳元ではじけるように聞こえて、ぴりぴりと脳を焼く。
目の前がふわふわして、視界が狭まっていった。力を振り絞って、右手を頚に当てた。瞬間感じる痛み。水戸に与えられたものだと思うと、それすら甘く感じた。途端に頭痛が増す。脳は『何をしているんだ』『噛んでもらえ』という。
「う、うぅッ……」
泣きたいのは、あいつだろう。
〝たとえば、人間が霊なりとせられる場合、〟
『三井さん、右手の傷を見て下さい。上の歯、犬歯と前歯の部分だけ深く傷がついているのに、それ以外は殆ど怪我になっていなくて、下の歯の部分は全く傷がついていない。どういうことかわかりますか?』
医師は、俺を慰めるつもりだったんだと思う。
『きっと噛んだ瞬間、駄目だと思って辞めたんだね。初めてのヒートで、理性がなくなるアルファが多いのに。十六歳っていう若さで、偉いと思う。彼とは友人関係だったんだよね? よっぽど大切だったんじゃないかな。三井さんのことが』
〝霊と肉との関係は、そのような関係である〟
右手の下、首筋の皮膚に熱を感じて、涙がまた零れた。
『友人関係だったんだよね』
「俺たちは、友人だったこともない」
肉欲では俺を噛みたかったけれど、心はそうではなかった。
(これが、証明)
「……っ」
痺れるように痛む右手の傷を、庇うように左手で握った。
死に至る病
『水戸洋平さん。検査結果です』
俺はたった今、アルファになった。
きっかけは、明白だった。
「あのさ。お前、鉄男知らねぇ?」
今思えば、あの時から俺はアルファで三井さんはオメガだった。
「――会いたいんだ?」
真面目にバスケやってると思ってたのに、不良とまだ付き合いがあるのかと思ってムカついた。
三井さんに近寄ると、何となくいい匂いがする。ずっと嗅いでいたくなるような、不思議な香りだった。
確かめたくなって、引き寄せられるように近づいた。
――この時に、気が付いていればよかった。
「訪ねて行っても、家にずっといなくて……。借りてたもん返したいんだけど……。お前なら、風の噂でも何でも、知ってるかなって」
「近寄るなって、言われなかったの」
鉄男なら言いそうだ。「もうこっちに戻ってくるな」と。
三井さんは、傷ついたような顔をした。
(なんだよ)
「――……言われた」
斜め下から見上げる貌は、繊細なつくりをしている。
伏せられた睫毛が震えた。
「それでも会いたい?」
バスケ部でもない俺が、こんな風に近くでこの人を見るのは「あの日」以来だ。
「会いたい」
今が授業中で
ここが屋上なのがいけなかった。
気付く奴が誰もいなかった。
「バスケ取って、捨てた男に未練でもあるの」
「何……? 変な言い方」
三井さんは意味が解らない、というように少し首を傾げて「お前らしくない」と言った。
日に焼けない質なのか、夏の盛りを過ぎたと言ってもまだきつい日差しに、肌が白く光って見えた。
薄い茶色の瞳が揺れる。
陽光にふちが緑色に光って、綺麗だと思った。
(そう、この瞳が好きだった。ずっと)
三井さんの匂いを感じているうちに、脳が痺れてくるような感覚があって、おかしいな、と頭の片隅で考える。
(これは、俺のだろう)
ゾワゾワとした悪寒のようなものが、背筋を這いあがる感覚があった。
「俺、あいつの大事な本借りたまんまで……返したいってだけ」
視線を反らした三井さんを、妻の不貞を疑う夫のような目で見つめた。そのおかしさに、気が付く冷静さはその時にはもう既になかった。
『独占欲』
瞬間、沸き上がる何かがあった。
頭を焼くような快感。
「返したいのは、本当にそれだけ……?」
俺の返答に、いつも利かん気そうに上がった眉を下げている三井さんを見ていると、いい気分になってくる。
(もっと、俺を見ろよ)
ねめつけるようにして、強引に視線を合わせた。
急に目が泳ぎだした三井さんが逃げ出すのを警戒して、夏服から覗く二の腕を掴む。
すべすべとした肌は少し汗ばんでいて、しっとりと吸い付くようで気持ちがいい。こんな肌をしていたなんて、知らなかった。
(なんだこれ? よくわからない。やったことがないけれど、クスリでもキメているみたいだ)
「い……っ、痛い。どうした? 怒ったのか?」
「俺にはいつも、こんな風にびくついて見せるくせに。あいつならいいんだ」
「何言って……、なんかおかしいぞお前。手、熱い。熱でもあるんじゃないのか?」
「おかしいのは、あんただよ」
自分が側に寄ると、この人が怯えるのは解っていた。その度に、仕方がない、と諦めていたのに。
「こんなイイ匂いさせて、誰探してるって……?」
「!」
無理やり抱き寄せた耳元で囁くと、意外にほっそりとした首筋が粟立つのが分かった。
「俺をおかしくしたいのか?」
「ちがう……っ! 水戸っ、離れろ」
名前を呼ばれると、それだけで脳が快感を覚える。
三井さんの頬はのぼせたように紅くなっていた。
太陽のせいではなく頭が熱くて、ぼうっとする。二人とも息が荒い。額から、汗が伝うのが分かった。
(三井さんに触れているだけで、イッちまいそうに気持ちいい)
手の力は緩めず、もう一方の手で腰を抱いた。
「ほせー腰。ホントに運動部?」
悔しそうに眇められた瞳を見て、三井さんだ、と思う。
ブランクがあり、体が出来ていないことを指摘されて傷つくことが分かっていたのに、止まらなかった。
「あっ……ぅ」
「すげー、いい匂い」
甘い香りがどんどん強くなる。俺の酩酊感も。
(思い通りにできる。この人を)
かくん、と三井さんの足が折れた。
「触って欲しかったんだろ? 俺に」
引用:キルケゴール著 死に至る病 (岩波文庫)