扉を開けた籠で待つ「…………ここ、どこだ?」
そっと開いた視界に自室とは趣の違う調度品が映って、カリムの口から疑問が零れる。ひとりごとになるはずのそれに、静かな声が返った。腹の奥に甘く響くような、知らない声が。
「ここは休憩用に用意してある部屋のひとつだ。廊下のど真ん中で倒れていたから連れてきたんだよ」
「ええ!? 全っ然覚えてない……」
「急病かと思って意識を確認したらぐーすか寝息を立てていたぞ。目に入ったからにはそのまま置いておくわけにもいかないだろう」
「そうなのか? とりあえず助かったぜ、ありあとう!」
今日はこの国の次代を担う若者を一同に集めたパーティだった。特権階級から新進気鋭の商人・芸術家まで、様々な男女が縁を繋ぐためという名目で開かれていたが、足をすくう機会を狙ってくる者も多い。下手を姿を晒すわけにはいかなかった。
人目に触れないよう運んでくれたらしい相手に、心の底から感謝を伝える。そこで初めて、カリムは部屋の隅で読書中だった男へ目を向けた。モノトーンストライプのスーツを見事に着こなす、艶やかな長髪と切れ長の瞳が印象的な、一度見たら忘れられないような容姿だった。間違いなく、知り合いではない。
「ところで、お前誰だ? オレはカリム・アルアジーム」
「……うすうす感じてはいたが、君は危機感が足りなすぎじゃないか?」
「そうか?」
「目覚めたら知らない相手とふたりきりなんて、明らかに警戒すべき状況だろう……。躊躇なく信じるなよ」
「オレ、人を見る目はある方なんだ。嫌な感じしなかったからさ」
歯を見せて笑いかけたカリムに呆れたようなため息をひとつついて、立ち上がった男が口を開く。効果のなさそうな小言は飲み込んだらしい。
「まぁ、いい。俺はジャミルだ、少々医学の心得があってな。何かの縁だと思って様子を見させてもらった」
「ジャミルか、よろしくな!」
ベッドへ近づいてきたジャミルへと、カリムは元気よく手を差し出した。求めにしぶしぶながら応えた大きな手は、骨ばっていてひんやりしている。その冷たさが心地いい。
「随分深く眠り込んでいたが他に異常はなさそうだったよ。気持ち悪いところや違和感はないか?」
「特には……あ!」
「なんだ、どこがおかしい?」
「オレ、ジャケット着てたはずなんだけど知らないか!?」
見落としがあったのかと眉をひそめたジャミルは、その直後に飛び出したカリムの科白に一気に脱力した。
「…………それなら、寝苦しくないように脱がせて掛けてある」
「ホントか、助かった~。新素材の宣伝にって着せられたのに失くしたら怒られるとこだったぜ」
「気にするところはそこなのか? お前、強めに揺さぶっても起きないくらいだったんだぞ」
「悪いわるい。つい気になっちまって。ていうか、オレどれくらい寝てたんだ?」
「ざっと二時間ってところだな。……あんなところで寝るとは、何か薬でも盛られたか?」
あっけらかんとしたカリムの態度に、ジャミルは軽く頭痛を覚えた。このペースに飲まれるのは良くないと判断して、軌道修正を図る。
「んー? オレ、薬物への耐性強いからよっぽどじゃなきゃ効かないはずだぜ。直前になにか口にした記憶もないし……」
「薬物じゃないなら、病気」
「三か月に一度医者の診察受けてるから、大丈夫だと思う」
「……まさかとは思うが、お前普段からどこでも寝るのか? そして一度寝たら起きない」
「さすがにそれはねーよ、こう見えても人前での振る舞いには気を付けてるんだぜ」
考えられる可能性をすべて上げても心当たりはないという。薬でも病気でもないとすれば、昔から陰で実しやかに囁かれるモノの存在くらいしか残っていない。どこか躊躇いが混じる声で、ジャミルがぽつりと呟いた。
「となると、呪いの類……」
「え!?」
悪魔や魔女、怪物の伝説が残るこの国では、魔術や呪術の存在もうっすらと信じられていた。話題に上がるほとんどはイカサマだが、ごく稀にホンモノが混ざっていると言われている。そして、ホンモノに当たってしまった場合、そのほとんどは解決できない。恐ろしい可能性を突きつけられて、カリムの大きな目が零れそうになる。
「実は……、そっちも多少の知識がある。嫌じゃないなら詳しく診てもいいか?」
「本当か!? 頼む! 毒や暗殺はウチで何とかできても呪いは専門外なんだ」
「……毒や暗殺には対応できるというのもどうかと思うが。ま、アジーム家ならありえるか」
「え! ウチのこと知ってたのか?」
「知らない方が珍しいと思うんだが」
「名乗ったとき反応しなかったから、さ。そっか、ウチのこと知ってたんだ……」
国で一番の大金持ち。何故か本家の階級は低いが親戚に王侯がごろごろいるアジーム家。出自が判った途端に態度を変えられるのが当たり前。知っていて反応せず接してくれたジャミルに、思わず顔が熱くなる。
「おい、どうした?」
「なんでもない。呪いかどうか調べてくれるんだろ、ありがとうな」
「まぁ、そうだが……。本当にいいんだな?」
「もちろんだぜ! むしろこっちがお願いしなきゃいけない立場だろ」
「こういうことには関わりたくないと言って、調べることすら嫌がるヤツも多いんだ。その所為で手遅れになった人間を何度見たことか」
「そうなのか? 解決できる可能性があるなら何でもやっておくべきだろう?」
親切で申し出たのに嫌な思いをしたことがあるのか、ジャミルが眉を顰めた。助けようと差し伸べられた手を跳ねのけるなんて信じられなくて、カリムが本気で首を捻る。その姿に、ジャミルは小さく笑った。
「君の、その前向きに捉えられるところは良いな」
「普通のことだと思うんだけどなー」
「まぁ、いい。それで、今すぐに診るか? それとも一度家族に相談してからにするか?」
「すぐで頼む。こういうのは早い方が良いに決まってるからな」
「はは、本当に思い切りが良いな。見ていて気持ちがいいよ」
ジャミルが声を上げて笑った後、灰の目が一瞬だけ怪しく光ったように見えた。
「あれ?」
「どうかしたか?」
「いや、なんでもないぜ! きっと気のせいだ」
「まぁ、君が良いなら構わないが。それじゃあ、早速始めよう」
目を瞬いたカリムの様子を見返してきたジャミルは、間違いなく穏やかな紳士の佇まいをしている。反射か何かで照明のオレンジ色が映り込んだだけだったんだろう。
「俺は何をすればいいんだ?」
「リラックスして、俺の瞳を見てくれ」
「わかった! …………ぁ、れ?」
言われて素直に見つめ返したジャミルの瞳。落ち着いた色合いに吸い込まれそうだ、なんて考えていられたのは一瞬だけだった。急激に自分と相手の境目があいまいになっていく。そうして、カリムの顔から表情が抜けた。
「さぁ、すべてを俺に委ねて」
「………はい」
焦点の合わない目で静かに頷く姿に、ジャミルが目を細める。端の上がった唇から、ヒトにはありえない鋭い歯がのぞいた。
「そうだな。まずは、お前に唾をつけようとした不届き者の痕跡を消そうか」
「ん……ぅあ、はッ」
ずっと不快だった別の何かが残した匂い。それを上書きするために隠していた力を華奢な首筋に立てた牙から注ぎ込む。同時に溢れた赤を啜って極上の甘さを舌で転がした。
「思った以上だな。……なるほど、これは教会が最上級の守りを身に着けさせるわけだ」
急激に錆びついて崩れ落ちた十字架の彫られたプレートを鼻で笑う。着けている本人は気付いていなそうだったが、滅多にお目にかかれないほどの高度な魔除け。
「まさかこんなに早く効果が切れるとは思っていなかったんだろうな、間抜けどもめ」
度重なる襲撃を跳ね避けて来ただろうそれは、ジャミルと会う前からほぼ力を残していなかった。だから、雑魚に目をつけられた。
ジャミルがカリムを見つけたのは偶然だ。鼻に付いた同胞とは呼びたくない下位の放つ悪臭と、その奥底に隠れるような酷く芳しい甘い香り。気になって滑り込んだ先、今まさに食われそうな相手を咄嗟に奪い、知性の欠片もない小物を消し去って空き部屋へと連れんだ。
目を瞑っていてもわかるほど整った顔をした男は、術をかけられて意識がない。そのまま一口いただいて去ろうと思ったのに、いざ咬みつこうとした段階で隠された瞳が無性に気になってしまった。
そうして、目覚めるまで待ったジャミルに向けられたのは、射るような光を放つガーネット。
少しの会話から中身は自分をいらだたせること間違いないと解っても、どうしても手放す気にならなかった。何故か、意思のない人形にする気にも。
だから、ジャミルは彼との縁を繋ぐことにした。
「最初の信頼は手に入れた。後は、じっくり堕としていくとしよう。ーーーーつまみ食いはさせてもらうがな」
◇◆◇
「…………んん」
「目が覚めたか?」
「えーっと、……ジャミル?」
「あぁ。呪いの痕跡を診ようと力を使ったんだが、どうやらそれに充てられてしまったらしい。あっという間に気を失ったんだ」
どう見ても申し訳なさそうに眉を下げて、ジャミルが熱を測るかのようにカリムの額に掌を当てる。何も知らないカリムが、低い体温に心地よさそうに目を細めた。その首筋は何事もなかったように滑らかだ。
「そう……なのか? なんかぼーっとして思い出せないんだよな、あったかくてすっげー気持ち良かったような気はするんだけど」
「……どうやら俺の力とよほど相性がいいらしい。合わないと吐き気を催したりするんだが、安心したよ」
「どういうことだ?」
「それについては長くなるからまた今度説明するよ。残念ながら、深いところに巣食っているものが見つかったしな」
「うぇぇ!?」
出来れば違って欲しかった結果を告げられて、直前の疑問もなにもかも吹き飛んだ。大きく目を見開いて、カリムが飛び起きる。安心させるように、しっかりと目を合わせてからジャミルが柔らかく笑んだ。
「大丈夫だ。すぐには無理だが何度か繰り返せば取り除ける」
「本当か!? ちゃんと報酬は払うからお願いしたい!!」
「もちろんだよ。それじゃ、今後のことを決めようか。出来るなら消し去るまでなるべく近くで過ごしたほうが良いんだ。可能ならウチに来て欲しいんだが……さすがに難しいよな?」
「大丈夫だぜ、事情を話せばみんなわかってくれるって!」
あっさり話を信じたカリムに内心ほくそ笑みながら、ジャミルは自分に都合の良い方向へと話を持っていく。そして、驚くほど簡単に了承が得られた。
「そうか、なら明日の夜迎えに行く。いくつかの着替えだけ準備しててくれ」
「わかった。……なんか友達みたいでちょっと楽しそうだな。オレ、ちゃんとした友達っていたことなくてさ、ジャミルとそうなれたら嬉しいぜ!」
「友達、ね」
「これからよろしくな、ジャミル!」
「あぁ。こちらこそ、末永くよろしくカリム」
初めて出来るかもしれない友人への期待に目を輝かせるカリムは気付かない。皮肉を込めて繰り返された言葉にも、同じようでちょっと違ったニュアンスで返された科白にも。
ジャミルの思惑通りに進むのか、カリムの願望が叶うのか、それとも全く違う何かになるのか。交わらないはずだったふたりの関係が、動き出した。