冷房の効いた飲食店を出ると、レイシオは湿度の高いぬるい外気に包まれて思わず眉を寄せた。すぐ隣からも「暑いね」と笑う声が聞こえ、眉間に皺が寄っていることを指摘される。
「せっかく整ってる顔が台無しだよ、レイシオ」
「そんなことを言うのは君ぐらいだがな」
それは君が石膏で隠しちゃうからだろ?とくすくす笑いながら歩く姿は、普段の彼がいる苛烈なポジションを感じさせない程度には朗らかで隙のあるものだった。
「うーん、暑いのは苦手かい?」
「暑さというよりは湿度だな。本も髪も具合が悪くなる」
「あはは、確かに毛先は踊ってるけど」
かわいいと思うけどなぁ、と目尻を下げながら見上げてくる姿に、まるで口説かれているような気持ちになる。ただのビジネスパートナーに感じ取るものではないのかもしれないが、もしかすると彼の氏族特有の美しさがそうさせるのかもしれない。
「可愛くはない。面倒なだけだ」
「そうかい? チャームポイントにしても良いくらいだけど」
アベンチュリンが歌うようにそう言うと、跳ねた毛先を指先で摘んで笑いかける。何がそんなに楽しいのかは知らないが、特に指摘することもせず好きに遊ばせていた。
しばらく経つとそれにも飽きたようで、彼が毛先を解放した後は再び二人で並んで夜道を歩いていく。一度黙ると妙に静けさが重く伸し掛かってくる夜の中で、二人分の足音だけが大きく響いていた。
そうして歩いていると、不意に互いの手の甲同士がぶつかった。それ自体はどうということもないが、二回目も同じようにぶつかった際には意図的なものを感じて彼の目を見る。
すると、彼はレイシオとぱちんと視線を合わせた後に、何か言い淀むようにして視線を下げて泳がせた。
「ねぇ、レイシオ。一個だけお願いがあるんだけど」
するりと握り込まれた手は、少しだけ汗ばんでいるように感じた。
「……キスしてもいいかい?」
一回だけ、と呟く唇を眺めながら、本当に口説かれていたらしいと理解したのは彼の言葉から五秒ほど経ってからだった。人より優秀らしい脳だとしても、驚いた時くらいは思考回路が止まる時もある。
「何の賭けだ」
「やだなぁ、これはギャンブルじゃないし誰も関わっちゃいない。強いて言うなら、まぁ……思い出作りってとこかな」
さっきまでは程よい満腹感と酔いで気づいていなかったけれど、人通りの無い路地は思っているよりも自分の声が跳ね返ってくる。
「思い出?」
「ーーそう、思い出。僕が自分の心に一区切りするためのね」
へらりと何かを誤魔化すように笑ったのを見て、彼の心の闇を覗き込んでしまったような気がした。息をするように嘘を吐けることは知っているけれど、おそらくこれはその手の類の嘘ではない。
さっきまで楽しそうだった目元からは急に感情が読み取れず、彼に何を質問したところで用意された回答が返ってくるだけということは直感で分かっていた。
相手からの拒絶、同情、何もかもをシュミレートした上で行われているアベンチュリンの駆け引きからは、どう転んでもレイシオが得られる情報はない。全てが彼の掌の上で、彼の中で完結してしまう。
例えそれが、レイシオから向けるアベンチュリンへの好意だったとしても、だ。
「それだけで良いのか」
「……え?」
「好きにするといい。……どうせ、君は何も答えない」
その言葉に、アベンチュリンは呆れたように笑う。
「本当に、よく僕を理解してるんだね」
そう言いながらも、その先の言葉を紡ごうとしない。やはり自分の本心は何を言われようとも語る気がないようだった。これ以上言葉のやり取りが意味を持たないのであれば、レイシオとしては別のアプローチで対話するしかない。
「うわ、」
勝手に繋がれた手を引いて、そのまま自分の腕の中に彼を閉じ込めた。彼から香水のラストノートがふわりと香って、いつかのタイムラインに載っていたその商品名を頭の中に思い浮かべていた。
「っはは、いきなりハグされたらびっくりするって。まぁ、僕の方がおかしな事は言ってるけど……僕はね、君のその優しさが他人に付け込まれないことをずっと祈ってるんだ」
「今、僕が付け込まれてるんじゃないのか」
「そう。だから……僕以外の誰か、かな」
そう言うとアベンチュリンは少しだけレイシオから体を離して、恐る恐る瞼を下ろす。
街灯に照らされたその顔はいつ見ても美しいもので、整った顔は君もだろう、と喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
そうして、レイシオはその唇の上にそっと自身の唇を重ねたのだった。
***
あんな事があってから気軽に連絡を取れるほど神経は図太くなく、とはいえそのうち仕事で顔を見合わせるだろうと想像していたレイシオは、トパーズから聞かされたスケジュールに目を剥くこととなった。
「ああ、ちょうど今日からですね。ーー星系の案件のために二ヶ月ほどピアポイントを離れる予定で……あまり通信状況も良くないので、実質二ヶ月音信不通、という感じです。もし伝言があれば定期連絡の際に伝えておきますが……」
「いや、いい。大した用ではないし、もし何かあればお願いするとする」
わかりました!と快活なトパーズに背を向けた後、レイシオの口元から漏れたのは盛大なため息だった。