フィーチャーif🚀の話 冒頭月には海が無かった。
羽衣をひらめかせながら、跳ねるように、泳ぐように、黒い大地を踏み締める。眼下に延々と広がるそれは、かつて人間が「海」と名付けたものだった。
月面では、どれだけ遠くに行こうと、映る景色はそう変わらない。僕は自分の居場所を見失ってしまう前に、前へと進む足を止めた。天上には青く煌々と輝き続けている地球が見える。月から見えるそれの位置は時間が経っても変わらないから、それを目印にすれば自分の方角が把握できた。
此処の「海」には、地球のそれとは違って、命の煌めきが存在しない。
陽射しを受けてきらきらと青く波打つ海原も、白くさざめく砂浜も。水を掻き分け優雅に泳ぎゆく魚も、海底を鮮やかに彩る珊瑚も、それらすべて月には無いものだった。
──僕は今、幸せなのだろうか。
ふと、そう思うことがある。
月に降り立って、僕はようやく父との再会を果たした。僕の血筋は月ではそれなりに高い地位のようで、生活に困ることもない。僕はそれなりに幸せな日々を送れているはずだった。
それなのに、どうして何処かが欠けているような気がするのだろうか。心の奥底にあった何かがすっと消えていってしまったような、確かに存在していたものが掴めなくなってしまったような、そんな違和感が僕の中にあった。
月の世界はモノクロだ。天上を見上げたとて、月の空は青くない。月には大気がないのだから当然だった。
「そういえば、ヘルメットを地球に置いてきてしまった」
あの草原で星空に祈った幼日。今でも鮮明に思い出せる満天の星々と、容赦のない現実。あの日、母さんが僕にヘルメットを託してくれた。あれから如何なる時も肌身離さず装着していたというのに、僕が月で目覚めたときには既にあれが手元になかった。忘れてきてしまったのだろうか、それとも自分の意思で置いてきたのだったか。地球での最後の記憶は靄が掛かったかのように朧げで、僕は明瞭に思い出すことが出来なかった。
そもそも、どうして僕はあれだけヘルメットに執着していたのか、その理由すらも。宇宙に行くため──きっと、それだけでは無かった気がするのだが。
だが、どちらにしろ、ヘルメットは僕にはもう必要ないものだった。呼吸をしなくたって心臓はどくどくと脈打っているし、昼夜の二八〇度の気温差に晒されても生きていける。その時点で、僕はとっくに地球の人間ではなくなっていたのだった。
此処では身体がずっと軽い。まるで羽でも生えたかのように、簡単に宙を舞えてしまうんだ。
ぐっと脚に力を篭めて、兎のようにぴょーんと跳ねてみる。すると、身体は僕の身長をゆうに越して、ぐんぐんと地面から遠ざかっていく。
肩を目一杯に上げて、天上の青い星に手を伸ばしてみた。しかし、それに届くはずもないまま、手のひらは空を掴んで、身体はゆっくりと降下していく。慌てて着地の体勢を整えると、足首にじんわりとした痛みだけが残った。音も匂いもないふわふわとした空間で、痛みだけが確かに僕の存在を知らしめていた。
月の海の奥深く、地下都市で暮らす僕はまるで魚だ。泳ぐように軽々と歩けるのに、水面からは飛び出せない。月の地球に比べればほんのわずかな、でも確かに存在する重力から逃れる術はなかった。
此処での僕の重さは、地球での重さの六分の一。では、僕の残りの部分は、あの天上の青い星に置き去りになってしまったのだろうか? 身体の見かけは殆ど変わっていないけれど、そうではなくて、もっと大切な。僕の内側にあったはずの大きな何かを、青かった日々を、あそこに置いてきてしまったような気がするんだ。
「思い出さなくては、だめだ」
ぐっと拳を握る。
このままではいけない。根拠はないが、この違和感を手放すべきではないと、そう確信があった。
僕の地球での記憶には、所々穴が空いている箇所がある。目を閉じれば映像のように流れてくる記憶。その中で、黒く塗り潰されたかのように、とある誰かの顔が思い出せないままでいた。ずっと幼い頃、物心つく前から知っていたはずの、誰かの表情が。
僕は自分がどうやって月まで辿り着いたのかすらも憶えていなかった。ただ、あの夜、僕は何処かの場所で、何かをしていた。満天の星空。月のように丸い真っ赤な光。夜空を劈くような誰かの叫び声と、伸ばされた手。視界を焼き尽くす真っ白な光。そうして、気付いたら此処にいた。僕が憶えているのはそれだけだった。
あの手は、一体誰のものだったか。その正体を思い出さなければいけないと思った。
しかし、為す術も見当たらず、一先ず僕はコロニーへと帰還することにした。入り口で護衛が仰々しく出迎える。さっと手を挙げて、地下へと続くエレベーターに乗り込んだ。
月は最新の研究施設だ。ロケットよりも遥かに効率のよい宇宙船──いわゆる、UFOというものを所持しているくらいには、技術が地球に比べて圧倒的に進んでいる。僕の父もその開発に携わっていた。
月の目指す果てが何なのかは僕も知らない。かつての破天荒な友人が言っていたような宇宙侵略を企んでいるのかもしれないが、僕は大して関心がなかった。
ポン、と軽やかな電子音を鳴らしてエレベーターの扉が開く。そこには真っ白で無機質な空間が広がっていた。月にこんな場所があったのかと最初こそ驚いたものだが、今は慣れたもので、迷いのない足取りで自分の部屋の方へと向かった。
生体認証をクリアすると、機械音を立てながらドアが開かれる。布団に倒れるように潜り込むと、皺一つなかったシーツがぐしゃりと歪んだ。行儀の悪い行為だとは思うが、いつからかこれが癖になってしまったのは、一体何の影響だったろうか。
僕の部屋は物が少ない。父さんが置いていった通信機などの機械がいくつか机上にあるくらいで、壁も天井も無機質な白に覆われていた。
地球で僕は何をして生きていたのだろう。此処に来てからは、すっかり自分のやりたいことが分からなくなってしまった。何に対しても興味が沸かず、ただ時折、なんとなく地上に出たい衝動に駆られては、意味もなく地球をぼうっと眺めるだけの日々。月では太陽が宙を一周するのにおよそ一ヶ月かかるから、尚更、時間の経過が随分と遅く感じた。
ふと、机の一番手前側に置いてある無線機が無性に気になって、思わず触れてしまった。薄く埃が被っているのをさっと払って黒い筐体を撫でる。表面には細かい傷がいくつか残っていて随分年季が入っている様子だが、ダイヤルの回りは良く、父さんに大切にされてきたであろう形跡があった。
かつて自力で宇宙に行くと豪語していた父さんは、昔から機械に強く、僕に無線機の使い方やモールス信号の読み方を教えてくれた師でもあった。
ほぼ無意識のうちに僕の指先は無線機のアンテナへと伸びていた。カチカチとそれを長く伸ばして、無心になってダイヤルを回す。何の迷いもなく出来るほどに、僕の身体にすっかり染み付いた動作だった。
無線機は一般的に周波数を下げるほど音質も低下してしまうが、その代わりに通信できる範囲が広くなる。何か拾ってくれないだろうかと淡い期待を賭けて、スピーカーに耳を近づけた。
ザザッ──と流れるノイズ音に交じって、誰かの問いかけが聞こえないかと、心を無にして耳を傾ける。こうしているとどこか落ち着くような、懐かしい気持ちになった。
しかし、スピーカーから流れてくる音は相変わらずで、無線機が期待に答えてくれることはなかった。そう上手くは行くはずもないか。僕はそのことを身を持って知っていたし、今は無線機に執着する理由も無かったから、潔く顔を遠ざけた──そのときだった。
「──こちら…う─……ち──…より。──む─ちゃ…………──聞こえてる?」