入学式で見かけてからずっと気になっていた。
色素の薄い髪に白い肌、長い睫毛をまとった愛らしい瞳に泣きぼくろ。漫画の登場人物みたいに整った顔をした詰め襟姿のその男は声変わり途中の凛とした声で「俺の夢は甲子園出場です」と自己紹介をした。
中1 らしからぬスマートな振る舞いに教師は感嘆し、優しい笑みを称える彼に女子の視線が集中したことを覚えている。
その男…要圭の第一印象はいけ好かないやつだった。
要と同じ小学校だったやつから話を聞くと学校の部活には入らず、隣のクラスの幼馴染と一緒に硬式野球の強豪チームに所属するらしい。
ただ華奢なのにポジションがキャッチャーだと聞いた時には驚いた。あれは山田太郎みたいな名前のデブの仕事ではないのだろうか。
そんな俺の偏見は更衣室で塗り替えられた。
俺なんかよりもずっと筋肉質な肉体が要の制服の下から現れたからだ。
ただ艶かしい白い肌の至る所に痛々しい鬱血痕が見える。横にいた俺の不躾な視線に気付いた要は「ボールが当たるとこうなるんだ、気にしないでくれ」と何でもないように笑うとさっさと体操服に着替えてグラウンドへ駆けていった。
それから季節が過ぎ、人当たりは良いのにどこか他人を寄せ付けない要と「ほどよい距離感のクラスメイト」となった俺は、少しずつ色んな話をするようになった。
今の流行りの曲やドラマ、好きなアイドルについて。
要はあまりテレビやネットを観ないようだけれど、俺の話に耳を傾けては相槌をうっていた。
しかし昼休みになると決まって隣のクラスの幼馴染である清峰と弁当片手にどこかへと消えていった。
清峰はまさに美形といった容貌で要と共に女子の人気を掻っ攫っていたのだが、表情の変化に乏しい変なヤツだった。
そんな変なヤツが教室に来るたび、要をとられるような気持ちになっていた夏。
塾の帰りに河川敷を歩いていると野球の試合をしているのが目に入った。
よくよく見ると清峰がマウンドに立っていたので、その球を受けていたのは要だろう。
試合は終盤を迎えていて清峰が三球三振の山を築いて、要が打って。試合は要のチームの勝利で終わった。
土手で試合を眺めていただけの俺が手を叩いて勝利を喜んでいたのに、当の要は暗い表情をしていて。
ベンチに戻った要は防具を外すことすらなく、直立不動で監督らしき大人の怒号を一身に浴びていた。
俺なら泣き出してしまいそうな言葉の圧にもめげず、「はい」「すみません」と返事をする要が監督よりも大人に見えた。
「お前のリードが悪いから清峰の制球が乱れた」なんて八つ当たりのようなセリフも飛び出して、ソレは清峰に言うべきではないのか。と無関係な俺が腹を立てたけれど、要は涼しい顔で「すべて俺の責任です。次は気をつけます」と言って頭を下げた。
理不尽に怒られる要が格好良く見えた半面、近くにいるくせに助け舟すら出さない清峰に腹が立った。
だから翌日教室で2人きりになった時につい口にしてしまったのだ。「昨日、たまたま試合してるとこ見たよ」と。
要は書きかけの日誌から視線を上げて驚いたように目を見開いた後に柔く微笑んだ。
「要、格好よかった!俺、野球には詳しくないけど…」
「そうか。ありがとう」
いつもより要の声が明るくなったのがうれしくなった俺は、さらに言葉を続けた。
「めちゃ速い球受けてたけど、球硬いんだろ?当たったら痛そうだな。アレ」
「そうだな。痛いけど慣れたよ」
「チンコに当たったら地獄じゃね?」
品のない言葉を口にしてしまった俺だけど、要は「ふふっ」と可笑しそうに吹き出すと「…確かに、痛すぎて死にそうになる」と言ってまた笑った。
下ネタに反応してくれるなんて思わなかった俺は、嬉しくなって野球の話題をたくさん振った。
要は笑うとすごく可愛くて、思っていたよりもノリがいいし頭がいいから会話も楽しくて。
もっと話したい、と更なる話題をひねり出そうとした時に教室の扉が開いた。
「圭、まだか」
そこに立っていたのは要の幼馴染である清峰だった。中1にして170センチを超えた長身から発せられた低い声にはどこか咎めるような色が乗っている。
「待たせて悪かったな、葉流火。すぐ行く」
急いで身支度を整えた要は、俺に「また明日」と声をかけてから足早に教室から出ていった。
夕焼け色に染まる教室に1人残された俺は、またあの笑顔が見たいと思ってしまっていた。
■
それから要と二人きりになるタイミングはなく。
何度か塾の行き帰りに要のチームの練習や試合を観ることもあったのだが、泥だらけで汗にまみれて球を一身に受け止める姿だったり、声を張り上げてチームを鼓舞する要の姿は本当に美しくて。見とれるあまり、塾に遅刻した日もあったほどだ。
この頃には清峰がすごいピッチャーであるということ、そして俺の近くで試合を見ていた大人が強豪高校のスカウトだということも耳にしていた。
俺はそのすごい球を捕って試合を支配している要のほうがすごいのにと思っていたけれど、要は相変わらず硬い表情で監督から1人叱責されていた。
相方の清峰といえば、要にべったりのくせに甘えて世話を焼いてもらっているだけのガキに見えて、俺は好きになれないと思った。
秋と冬を越えて春になり、もうすぐクラス替えという3月下旬。久々に要と2人きりになれた。また要が日直で日誌を書いている時だった。
「今日も野球か?」
そう声を掛けると「あぁ」と返事が返ってきた。
あちらも俺が練習を見に行っていることに気づいていたらしく「昨日もいたな」と言われて思わず頬に熱がこもる。
「じ、塾の通り道でさ。なんか知ってるやつが頑張ってる姿見たら応援したくて…迷惑だったか?」
「いや…その、ありがとな」
照れたように微笑んだ要の頬が赤いのは夕日だけのせいではないだろう。
蕾が開きかけた百合のような可憐な笑みをもっと見たくなった俺だけれど、要は壁掛け時計に目をやると日誌を書く手を早めて「悪い、そろそろ行くな」と言って立ち上がった。
きっと外ではあの仏頂面の幼なじみが待っているのだろう。
要を引き留めたくてたまらない俺は、要の背中に向かって声をかけた。
「要!その、野球…辞めたくないか?」
咄嗟に俺の頭に浮かんだのはベンチで叱責された時の要の暗い顔だった。
俺の言葉に要の足が止まるも、振り返りはしない。
「暑い中も寒い中もあんな泥だらけになって、痛い思いして、一人だけ監督にも怒られて…いいことねぇじゃんって思って…」
教室に静寂が訪れる。
何も知らない部外者が口出しできることではないのは理解していたが、つい声に出してしまっていた。
後悔が喉元まで押し寄せているが、誤魔化せるような雰囲気ではなくなっている。
胃のじくじくするような痛みと重苦しい空気を払拭する言葉を探していると、要がゆっくりと振り返ってこちらを見た。
「…野球を辞めたくなったことか。何度もあるな」
「っ!!!」
やはりそうか。
要も辛かったんだ。
自分の言葉を肯定された気になった俺が軽い足取りで要に近づく。
「じゃ、じゃあ!あの清峰のお守りなんてやめて楽しんだらいいじゃん!アイツから離れて俺と…」
そう言って要の肩に手を伸ばしたのだが、そんな俺の手を要は強く跳ね除けた。
「…俺にとって野球は楽しいとか楽しくないとかじゃないし、葉流火と離れたいとだけは考えたことがないんだ」
「っかなめ…」
凛として芯のある要の声が震えている。
泣いているのだろうか。
伏せた横顔に夕闇の影が重なって表情が読めない。
「葉流火を待たせてるから…またな」
そう言って俺を振り切った要は教室をあとにした。
我に返った俺は一言謝りたくて要の後を追う。
誰もいない夕方の昇降口。
背の高い下駄箱の陰に見慣れた薄茶の髪を見つけた俺が声を掛ける前に、黒くて大きな影が要の体を包んだ。
その影の正体が清峰であることはすぐにわかった。
要の細い腰に腕を回しながら、5メートル以上離れている俺をその美しい切れ長の瞳で睨みつけていたからだ。
清峰は今にも俺を射殺さんばかりの殺気を放っていたけれど、要に何か囁かれてすぐに体を離し、二人並んで校門へと歩いていった。
そこで俺は初めて自覚した。
あの黒い獣が大切にしている気高く美しい花に自分が懸想していたことを。
そしてその花もまた妖艶な香りで獣を虜にしていて、あの二人の間には何者も入り込める余地など最初からなかったこと。
さらに、優しくて甘やかな声で相槌を打ってくれていた要の瞳が俺を映したことなど一度もなかったことに。
「愚者の失恋」