揺籠 桜遥は眠るのが不得手である。
いつからそうだったか、覚えていないほどには長い間そうだった。
目を閉じれば耳の奥から聞こえてくる数々の罵声や嘲笑。耳を塞いでも、心の中でやめろと叫んでも、それが消えることは無かった。
当然そんな状態では眠ることなど出来ず、度々目を覚ましては自らに流れる冷たい汗に苦虫を噛み潰したような顔をする毎日。アイツが隣に居れば、なんて考えが頭をよぎる。いつからこんなに弱くなったのだろう。鏡の向こうに見える自分が酷く歪んだように見えた。
◇◇◇◇◇
「桜さん?大丈夫ですか……?顔色悪いですよ?」
たんぽぽのようなあたたかい色の髪をふわふわと揺らし、楡井が桜に声を掛ける。
今日の見回りは休みだ。かといって帰って何かやることがあるのかと言われればそうでもないのでこうして教室で皆と穏やかな時間を過ごしていた。ただ一人、桜を除いて。
いつもより青白い顔色に、眉間に刻まれた深い皺。俯きがちで先程から皆の話を静かに聞いているだけだった桜が口を開く。
「……別に、平気だ。なんて事ない」
明らかな嘘。その場にいる全員が気付くくらいの。
嘘を突き通せるとでも思っているのか、桜はふいっとそっぽを向く。
それを見かねた蘇枋隼飛が桜の肩に手を置いた。
「桜くん、体調が悪いなら保健室に行こう?」
桜は一人で何もかも背負おうとする癖がある。それを知っているので尚更放ってはおけなかったし、何よりあの部屋に戻りまた一人で耐える桜の姿を想像したくなかった。
「……………………いい。オレ先帰る」
椅子から立ち上がる桜。突然、視界がぐにゃりと歪む。「桜さん!」「桜くん!」遠くで名前を叫ぶ声が聞こえた。ああクソ、だから嫌なんだ。僅かに残る意識の中でぼやいた。
桜は時々、電源が切れるようにぷつりと意識を失うことがあった。度重なる不眠、ストレスによるものだろう。医者に頼るべきことなのであろうが、生憎桜は頼ることも助けを求めることも知らずにただ耐えることだけを覚えて今までやり過ごしてきた。
(あー、これ頭打ったらマズイな……)
そうは思うも体は動かない。次第に視界が狭まってゆくのを感じる。
「桜さん!」
楡井が手を伸ばすが、その手は空を切った。
桜が倒れ、鈍い音が響く……ことは無く、あたりに響いたのは ぽすん という優しい音。
いつの間にか傍にいた杉下京太郎が倒れ込む桜をその体で受け止めていた。
「……………………………………」
無言で桜を見つめる杉下。
このまま桜さんを投げ飛ばしたりでもしたら……楡井は最悪の事態を考え、真っ青な顔で叫ぶ。
「す、杉下さん!桜さん体調悪いみたいなんです!今すぐ保健室……に……あれ……?」
桜を抱えスタスタと横を通り過ぎる杉下。そのまま自分の席に座り、桜を自分の膝に乗せて抱きかかえていた。
何が起こっているんだ?全員がそう思うが声を掛けられない。目の前の情報を処理するので手一杯である。
「……………………………………」
その間も杉下は何を喋るわけでもなく、ただ桜の頭を支えて空いた方の手で背を撫でていた。 それはもう、普段の彼からは想像出来ないくらいに優しく。まるで壊れ物を扱うように。
だが、桜が体調不良なのは変わらない。早く保健室へ連れていかなくては。思い切って楡井は声をかけようとした。
「あ、あのっ!杉下さ」
「にれ君、待って」
肩をトントンと叩かれ、振り向く。静かに、と人差し指を口元に置いた蘇枋がその指を桜へと向けた。
「ね、きっとあのままがいいよ」
指を指した先の桜を見る。そこには先程の険しさが嘘だったかのような安らかな顔。すぅすぅと寝息を零すその姿はなんとも愛らしく、陽の光に包まれながら眠る様子はまるで赤ん坊のようだった。
「杉下くん、桜くんを頼めるかい?」
蘇枋の言葉にちらりと目をやる杉下。こくりと頷き、またその視線を桜に落とす。その目はいつもの鋭さはなく、柔らかく愛しいものを見る目。
あぁ、もしかしてこの二人は……いや、やめよう。二人が自分たちの言葉で教えてくれるのを待とう。楡井は出かけていた言葉をぐっと飲み、「桜さんをお願いします」とただ一言だけ声をかけた。
◇◇◇◇◇
目を覚ますと辺りは薄暗くなり、教室は静まり返っていた。
顔をあげるとそこには窓の外を眺める長髪の男。
「………………………………杉下」
ぽそり、名前を呼ぶ。杉下は窓の外にやっていた視線を桜に合わせると「おはよう」と柔らかく返事をした。
もうあの酷い眩暈はない。
「杉下、ありがとう」
「………………………………ん」
もう平気なのか、そう目で訴えてくる杉下。桜はそれに 大丈夫だよ という思いを乗せ、ゆっくりと瞬きをした。
不意に杉下の指が桜の髪を撫で、眦、頬と伝い唇に触れた。ふにふにと唇を指で挟んで弄ぶ。
「………………んぁ」
桜は口を薄く開け、その指を迎え入れた。軽く歯を立て、ちゅうと甘く吸うと目の前の愛しい人は「………………ふっ」と柔らかく笑う。
目が合い、どちらからともなく唇を合わせた。
触れたところからじわじわと熱が拡がり、境界線が曖昧になる感覚。桜はそれが好きだった。
「…………ん、ぁ」
甘い声が漏れる。それを聞いた杉下は満足そうに鼻を鳴らした。
「……………………ん、そろそろ帰るぞ」
「……うん」
もう少しだけこうして触れ合っていたい、とは言えず。桜が立ち上がろうとすると腰に手を添え支えられた。
こういうところが……と思いながら、赤く火照った顔をパタパタと手で仰ぐ。この誤魔化しきれない熱が早く引くように、と。
その後は特に会話も無く帰路に就いた。
少しだけ、ほんの少しだけ寂しさはあるものの、唇に残るアイツの体温を感じながら 今日はまともな眠りにつけるだろうな と伸びをした。