拝啓、深海の貴方へ。 青い空が灰色の雲に覆われ酷く薄暗い。今にも雨が降り出しそうだ。
夏ももうすぐ終わるのだろうか、気温は高いものの肌を撫でる風は冷たい。
そんな中、杉下京太郎は一人海へ来ていた。
生憎の天気だからだろうか、辺りを見渡しても誰一人見当たらない。ただ静かにザァー、ザザァーン、と波の音だけが響いていた。
一歩、一歩とその足を進める。ザッ、ザッと砂を踏み締める音。ふとしゃがみこみ、足元の砂を握り締め胸元まで持っていき……緩める。指の隙間からサラサラと砂が零れ落ち、風に乗って消えた。
とさり、とその場へ腰掛ける。砂の感触は案外悪くないものだ。
伝えたいことはここに来るまでに頭の中でまとめた。まとめたはずなのに、声に出ない。
静かに目の前の青を見つめる。ただただ穏やかな青。急かさず待っていてくれているのだろうか。
「………………分かってるよ」
すうっ、と息を吸い意を決して口を開く。
「…………オレさ、あの日もアンタに会えるんだって思いながらいつもの場所に行ったの。そう、クラブ。
どこ探してもアンタ居なくてさ……ハズレかなって思ったけど妙に胸騒ぎがして。手当り次第にアンタの知り合いっぽい人に どこ居る? って聞いたの。でも何回聞いてもはぐらかされるばっかでさ。挙句の果てには余所者にやる情報なんかないって追い出されちゃった。
その時のあの人達の態度と表情で確信したよ。もう居ないんだって。探したって会えないんだって。オレ、嫌に勘が鋭いからさ……分かんの。そういうの。そんでアンタが……まぁその、墓すら建ててもらえない人なんだろうなってのも何となく。
だからさ、オレ考えて考えて……ここ来たの。〝そういう人〟が眠る場所は海かなって。何しに来たんだって?そりゃ文句言いに…………ってのは冗談。
オレさ、アンタに謝んなきゃなって思った。オレに酷く当たった日あったでしょ?ほら、背中にすっごい傷つけた日。あれ今も残ってるよ。ぐっちゃぐちゃに裂けてさぁ……あれ、痛かったなぁ」
背中に手を当て、指先でつうっと傷が残っているであろう場所をなぞった。
あの日の光景は目を閉じれば鮮明に呼び起こされる。
痛かった、怖かった。
身体には傷がついた。それはそれは惨たらしい傷が。
でも、心に深い傷ができたわけではなかった。
多分……嬉しかったのだと思う。『お前は間違っている』と真正面から突きつけられたのは初めてだったから。
人として叱ってもらえたのが初めてだったから。
目を閉じて過去に思いを馳せた数十秒。また想いを乗せるため目を開き言葉を紡ぐ。
「最初は何でオレがこんな目に遭ってんだ、イカレ野郎がって思ったよ。それこそ殺意すらあった。
でもさ、よくよく考えたらオレがアンタの脆い部分踏み荒らしたんだなって。じゃなきゃあそこまでしないでしょ。そんで…………あれ、アンタ自身がされてきたことだったのかなって。あれと同じくらい……いやもっと、酷くされてきたのかなって。そう考えたら居ても立ってもいられなくなっちゃってさぁ。
オレ、アンタに教えて教えてばっかで……肝心のアンタのことはなーんも知ろうともせずに、それこそ名前すら知ろうともせずに。それなのに、嫌な顔一つしないでその愛?ってやつを一から十まで教えようとしてくれて…………ありがとね。そんであの時はごめんね。って言いたかった。言いたかった、のにさぁ…………なぁんで居なくなっちゃうかなぁ」
声が震える。まだ、まだ伝えたいのに。
数回深呼吸をして溢れ出そうになる感情を抑える。
「…………あとさ、アンタに教えてもらったこと、桜……あー、オレが今壊したくないなって思ってる人ね。そいつに今実践してんの。
アイツもさ、多分ああいう触れ方されてこなかったんだろうね。最初すっごい嫌がられてさぁ。ははっ、今思い出しても笑える。汚物でも見るような顔してんの!お前の為に覚えてきたっつーのに失礼しちゃうよな。
いつだったか……テメェの牙抜いたの誰だ、教えろって凄まれた日もあった。あれ間違いなく教えてたらアンタのとこ行って殺り合う気だっただろうね……ってそういう話じゃなくて。
えっとさ、ほら、唇の先で少しだけ触れるやり方教えてくれたでしょ?ちょんって。アレしたらさ、アイツ……少しだけ安心?したような顔してくれるようになってくれたの。まだ肩強ばってガッチガチになる時もあるし、女相手にするみてぇにすんなって引っ掻かれることもある。
でもさ、ちゃんと……ちゃんと、アンタに教えてもらった通りにしてるよ。全部覚えてる。忘れてない。上手くできない日もあるけどさ、オレ、アンタ居なくても…………ちゃんと出来るから。だから」
だから、大丈夫だよ
そう言いたいのに言葉が出ない。
大丈夫なんて、言いたくないのだ本当は。
大丈夫なんかじゃない、またもう一度教えて欲しい、戻ってきて欲しい。
今すぐにでも泣き喚いてしまいたい、またその手で優しく撫でられたい、「仕方ないな」と笑って欲しい。
もう一度だけ、もう一度だけでいいから。
一度溢れてしまった感情は止められない。堰を切ったように我儘で身勝手な願いばかりが溢れ出る。
でも。
それでももう、アンタは居ないから。
「…………………………頑張るよ」
そう一言、海へ投げた。
瞳から流れ出そうになる涙を必死に堪えて上を向く。早く雨が降ってしまえばいいのに、そうしたら大声を上げて泣けたのに。
恨めしそうに鉛色の空を睨みつけ、細く、細く息を吐いた。
伝えたいことは伝えられた。
届いたかどうかなんて関係ない。これはオレ自身を満足させる為だけの行為だ。
さて、と立ち上がり洋服についた砂をパッパッと払う。
もう一度ここへ来る時は、桜も一緒に連れてこよう。デート、なんて言ったらこの世の終わりかのような顔をするんだろうか。
想像しただけで頬が緩む。先程の胸を裂くような寂しさは少しだけ薄れた。
「…………じゃ、また来るね」
くるりと海に背を向ける。
スッと足を一歩前へ進めた時だった。
がんばれ
バッと後ろを振り向く。当然そこには誰もいない。あるのは広い広い、青だけ。
それでも確かに聞こえた。もう一度、と何度も望んだあの声が。
波の狭間から、確かに聞こえたのだ。
くしゃりと顔が歪むのを感じる。
でもきっと、アンタはこの顔見たら みっともねぇ って笑うだろうな。それは癪だから、
「………………ん!」
とびっきりの笑顔を咲かせてやる。アンタへ手向ける花だ、感謝しろ!
フンッ!と鼻を鳴らしながらもう一度空を見上げる。雲の隙間から光が差し込んだ。きっと今から晴れるだろう。
どうか深海まで、アンタの元までこのあたたかい光が届きますように。