春スズ 今思えば、初めから春水さんはおかしかった。ことある事に僕の頭を撫でたり、顎に手を添えてきたり。触れられるのは恋人同士だから当たり前なのかもしれないけれど、それでも彼のスキンシップは少し特殊だった。
今なら分かる。僕はその違和感の正体にもっと早く気付くべきだった。気付いて、すぐに離れるべきだった。meiさんや瀬川さん、綾斗に言われた時点で別れを告げるべきだった。
あの時の僕は愚かで、盲目で。だから、まんまと暗澹たる地獄の底に引き摺りこまれてしまったのだ。糸ひとつ垂れていない地獄の底へ。
映画を見ましょう、と誘われて僕は春水さんの家を訪れていた。モノトーンで統一され整頓されたリビングの中央、百インチはあるであろう大きなスクリーンに激しく血飛沫が舞った。次の瞬間にはゾンビに追いかけられた人間たちが右往左往しており、鼓膜を震わす大きな音で銃声が鳴り響く。
「……し、春水さん、見ないんですか?」
右側からの視線を感じて、僕は二人掛けのソファの隣に座る彼に顔を向ける。瞬間、ぱちりと目が合った。
「見ていますよ」
春水さんは目を細めていつものように微笑む。
本当だろうか。僕が見た瞬間、すぐに目が合ったような気がしたけど……。でも、映画を提案したのは春水さんだし、彼がそう言うのなら違うのかもしれない。
「そうですか……」
仕方なく僕はもう一度スクリーンに目を移す。そこにはやはり目を覆いたくなるほどの惨状が広がっていた。ばたん、と音がして襲われた人が倒れる。そこにゾンビが群がって女性の甲高い悲鳴があがった。震えながらも半目でスクリーンを見ていると、また右から視線を感じた。ちらりと春水さんを見れば、彼は緩んだ口元を手のひらで押えて僕を見ていた。
「な、なんで笑ってるんですか?」
「ふふ……スズヤくんが面白い反応をしているので、つい」
その言葉で頬が熱くなる。ちょっとビクッとしただけだけど、それも気付かれていたみたいだ。見られていたと思うとやっぱり恥ずかしくて、僕は気持ちを落ち着かせるつもりで春水さんが出してくれたアイスティーに口付けた。
「ふふ、ポップコーンも食べますか?」
春水さんは傍にあった袋の中からポップコーンを取り出しながら尋ねる。
「え……あ、ありがとうございます」
グラスをソーサーの上に置き直し、僕はポップコーンに目を向ける。春水さんはにこやかに微笑むと、ゆっくりと箱を開けた。たちまちキャラメルの甘い匂いが漂ってくる。
先日、映画と言えばポップコーンですよね、と僕が言ったら、春水さんは頷きながらも普段一人で映画を見る時は食べないと教えてくれた。その時はそれで話は終わったのだが、もしかすると今回は僕に合わせて
買ってきてくれたのかもしれない。そうだとしたら凄く嬉しい。そう思っているうちに、春水さんはポップコーンの欠片を三つほど取り出して手のひらに置いた。
「はい、どうぞ」
そう告げてニコリと微笑んだ春水さんは、手のひらをゆっくりと僕の口元に近づける。そっと顎まで寄せられて、僕は固まった。え……っと、これはどういうことだろう。このまま食べろということだろうか。いや、でも流石に……。
「あ、ありがとうございます……」
僕は戸惑いながらもお礼を言い、春水さんの手のひらからポップコーンを取ろうとする。しかし、春水さんはそれを拒むようにさらに手を僕の口元へと近づけた。唇の端に蕩けた甘いキャラメルがくっつく。
「えっと……じ、自分で食べれますよ?」
「そうですか」
指摘すると、春水さんは悲しそうに眉を下げる。やはりこの状態で食べて欲しいという意味だったらしい。
でも流石に無理があるだろう。普通は食べさせるとすればポップコーンを指で摘んで「あーん」と口元に近づけるイメージだ。手に載せた状態で食べるなんて抵抗があるしなによりどう食べればいいかわからない。
「スズヤくんに食べてもらうのを楽しみにしていたのですが……」
春水さんは声のトーンを落とし、寂しげに呟く。食べてもらうのを、楽しみにしていた……そう言われると、なんだか申し訳なくなってくる。確かにこのポップコーンはコンビニなんかで売ってる袋のものではなく、オシャレな箱に入っていて高そうだ。本当に楽しみにしてくれていたのかもしれない。そうだとしたら凄く申し訳ない。食べ方は行儀が悪い気がするし、ちょっと恥ずかしいけど、品行方正な春水さんが言ってるんだし……。
「えっと……こ、この状態で食べるんですか?」
ちょっと独特だけど春水さんが言うなら……と、僕は口元を近づける。
「ええ。一度に食べれて良いでしょう」
「そう……ですね。い、いただきます」
三個を一度に食べるのがいいことかは分からないけど、そっちの方が美味しく食べれるのだろうか。
僕はおずおずと近づき、間近にある春水さんの手のひら─────その上に乗せられたポップコーンにそっと唇を添えた。それから乾いたポップコーンを唇で挟もうとしたけれど、欠片が春水さんの手のひらを滑ってしまい、上手く食べられない。
「舌を出して、掬って食べてください」
春水さんが、優しい声で僕に告げる。舌……と言われて、僕は言われるままに唇の間から舌を覗かせる。なんか、恥ずかしいな……。そう思いながらも、僕は春水さんの手に舌先がつかないよう、そっとポップコーンを掬いあげた。そして、ようやく舌上に乗ったそれを咀嚼する。軽い食感と共にキャラメルの甘さが広がった。
「おいしいですか?」
「……はい」
視線をあげると、春水さんがにこやかな笑みで告げる。本当に美味しかったので頷けば、彼は細く長い指先でそっと僕の頭を撫でた。
「偉いですね、スズヤくん」
僕よりも少し大きい掌が優しく僕の髪に触れる。ゆっくりと頭部の形を確かめるみたいに僕の頭を撫でて、春水さんは満足そうに口元を緩めた。
春水さんの手ずからポップコーンを食べただけなのに、なんで褒められているんだろう。よく分からないけど、撫でられているその手は確かに心地がよかった。
完……?