薄暗い洞窟の中。人気も無い広い空間に、コツ、コツと足音が響く。太陽の光も届かない洞窟の岩場には、色とりどりの結晶が所々で群生しており、僅かだが道を照らしていた。かつては鉱山として使われていたであろう洞窟には、探鉱者達の“置き土産”が未だ放置されている。作りかけの線路に、整地されていない道。突き刺さったままのピッケルにいくつもの空洞。掘り進める予定だった場所には、ばつ印の看板が立っていた。
何百年と誰も足を踏み入れなくなったその場所に、懐中電灯を片手に我が物顔で歩き出す者が一人。履きなれたブーツで忍ぶこともなく、何かを探すように彷徨いていた。
「・・・・・・」
真っ黒い服装に身を包んだ人物は、探鉱者たちの置き土産を素通りして、その辺に群生している結晶にたどり着く。胸元のポーチから何かを取り出しては、結晶を軽く小刻みに叩いた。男が取り出したのは、小さなノミとハンマーだった。
結晶が生えている箇所に、ノミの切先を押し当て角度を調整し、ノミの後ろ─かつらの部分をハンマーで何度も小突く。結晶が生えている岩壁が、ノミから伝わる力に少しずつ、少しずつ亀裂が走り隙間を作った。男は焦ることなくカン、カンカンと何度もハンマーを叩いた。数分後、結晶が岩壁からポロリと剥がれ落ちる。だが、落ちた結晶には目もくれず、男が待ち望んでいたものは結晶が取れた岩壁の中にあるものだった。
「・・・・・・・・・っ」
岩壁の中から取り出したものを見て、男は思わず“音のない”感嘆の声を漏らす。手に入れたものをすぐさま腰ベルトに付けたウエストバッグへと大事に仕舞い、剥がれ落ちた結晶を先程の岩壁へと器用に戻した。懐中電灯もノミもハンマーも全てを回収し、元来た道へとすぐさま踵を返す。何の迷いもなく、凸凹とした岩の道に足を取られることなく男はさっさとその場を後にした。
そこに残されたのは、男が来るまでの以前と変わらぬ置き土産たちの墓場だった。
◇◇◇
「へ?休み?」
「そ」
両手に抱えたホットココアを飲みながら、少年が素っ頓狂な声を上げる。彼の疑問に特に説明もなく右隣に座り、デザートにと客人用へケーキが乗った皿を三つ、ことりとテーブルに置く“青年”。ゼニスブルーの特徴的な前髪を持つ青年ことベネデットは、自分と隣の少年と手前の席にいる少女へフォークを手渡す。彼が用意したのは、ココアティラミスだった。
ココアティラミスを一口味わいながら、パウダーブルーの髪を持ちバンダナ巻いた少年─バロンが再び口を開く。
「や、休みなのに地下行くのか?なんで?」
驚きでどもる声と苦笑いに、ベネデットはあっけからんと答えた。
「多分、作りたいものあるからだろ。地下は元々、発明とか自作するために作ったって言ってたし」
「へ?発明?え、どゆこと?」
初耳と言わんばかりに繰り出される質問責めに、ベネデットはあからさまに眉を顰めて鬱陶しそうにする。ぐいぐいと来るバロンの相変わらずな様子にため息を吐いた。
バロンが噂しているのは、ベネデットの恋人である人物で名はパルミロという。バロンの中でのパルミロという人物は、仕事に明け暮れる変わった人と印象だった。
とある世界で旅をしていた頃もこちらの世界でも、彼は“仕事”をしており、それ以外のことをしているのをバロンは見たことがない。しかも、いつも連れ歩いている人物と違い、あまり絡むことも少なかった為に余計にそう思うようになっていた。
パルミロは仕事の時、自宅にある地下の作業部屋に篭ることが多い。それも丸一日ぶっ通しで篭りっぱな事もあり、仕事内容によっては徹夜することもしばしば。あまりの多忙な姿に、見るに見かねた彼の育ての親は、一度に取れる仕事の分量を制限し、また仕事を一切しない完全なオフの日をいくつか設けた。この時のパルミロは、言い渡された条件にひどく頭を悩まされていたとのこと。
「えー!オレだったら絶対喜んでるのに!」
「そりゃ年中お祭り男なお前は嬉しいだろ・・・ピコからしたら生きがいの一つ取られるようなもんだし」
まあ、俺は嬉しいけど、とベネデットは紅茶を啜りながら小さく零す。どうやら、恋人と長く一緒にいられるのが嬉しいらしい。言葉を零すその顔は、どこか上機嫌だった。
「あら、じゃあここしばらくはゆっくりできたの?」
「って思うじゃん?それがそうでもなくって・・・」
正面、対面しているココアブラウンの長い髪を持った少女─グレンダの声に、ベネデットは違うと首を振る。どうにもとある一件以来、一部の権力者たちから“戦闘面”で目を付けられたらしく、時折エネミー討伐やら厄介ごとを持ち運ばれることがあるそうだ。
バロン達が来る数日前も、彼の元に届いた依頼はかなり厄介なものだったらしい。とある権力者が、何処かから入手したエネミー─ライオンの体に蛇の頭部の尻尾を持ったモンスターを、ペットとして家に迎え入れたそうだ。しかしある日、散歩中にそのペットが街中に逃げ込んでしまったとのこと。依頼は、そのエネミーを“無傷”で取り戻してきてほしいという内容だった。
状況確認のため依頼主の話を聞いていくうちに、その認識の甘さと無責任さにパルミロはだんだんと機嫌が悪くなったらしい。依頼主が目の前にいるにも関わらず、“母国語”で依頼主の管理の甘さや幼稚な言い分を煽っていたそうだ。依頼主は彼の言語を知らなかった為に首を傾げていたそうだが、一部の者は理解できていた為に聞いていて耳がとても痛かったのだそう。
そこまで聞いていたバロンとグレンダは、揃って「うわぁ」と同情に近い声を上げる。用意された飲み物やデザートをつける手が止まるほどに、今の話はなかなかに興味深かった。
「それで、その依頼蹴ったの?」
「いや受けたぜ。エネミーはもう脱走しちゃってるし、万が一のこと考えて街の人たちの避難もやった。エネミーも無事捕獲した」
「なんだよ、全然大したことないじゃん」
恐る恐る尋ねるグレンダにベネデットは淡々と事実を告げる。再びティラミスを頬張りながらそう口にするバロンに、ベネデットは頭を抱えてそうじゃないと重々しい声で呻いた。
「さっき俺言ったろ?依頼主は考えなしに獰猛なエネミーをペットにする上、世話ができないタイプの人間だって・・・」
「ああ、つまり、エサを与えるだけ与えて管理をきちんとしない人なのね・・・」
「え・・・てことは躾とかは・・・?」
「する訳ないだろ」
だんだんと依頼主の全容が顕になるにつれ、バロンとグレンダからは乾いた笑い声しか上がらなくなる。そして、ここまでベネデットが詳しく説明できることから、彼も一緒にいたことが窺えた。尚、パルミロは、依頼を聞いてから仕事を受けると言い出すまでは早かったらしいのだが、終始目が据わった状態だったらしい。だんだんと雑になり始め、行動が大胆になるパルミロを落ち着かせるのに、ベネデットは要らぬ大役を任されたのだった。
仕事が片付いたその後、家に帰ってからパルミロがベネデットに散々謝ったらしい。謝った内容は、自分を抑えてくれたこととみっともないところを見せたことに対してだ。まさかの謝罪にベネデットはポカンとしてしまい、正気に戻ってから気にしてないと謝るパルミロを抱き締める。ベネデットとしては、いつも落ち着いている恋人の珍しい様子が見られて嬉しく思っていたのだが。
と、ここまで話して惚気に入りかけたのを、グレンダがご馳走様と零すことで一旦この話は終わる。
「あ、てか、忘れてた!発明は?そこ聞いてない!」
「せっかく逸らすつもりだったのにこういうのは覚えてやがるこいつ」
「いいじゃん減るもんでもねーし!さっさと教えろっての!」
頬杖を付きながら、回避できたと思ったベネデットの眉間に皺が寄る。あーだこーだと隣で喚き散らかされてはたまったもんじゃない。あーもー分かったから、と付きまとうバロンに、ベネデットは観念したかのように大声を上げた。
「ピコが普段使ってる銃とか、iPadっていうデバイス型のアイテムボックスとか、空中モニター、あとネックレスとか俺が使ってるピアス型の無線機とか全部ピコが作ったやつ」
「え?お前のピアスとあのタッチパネルみたいなやつも?」
バロンは、パルミロが使っている道具のいくつかをジェスチャーで表す。ベネデットはそれを見てこくりと頷いた。
「そう。昔から何かしら作るの好きだって言ってたし、こっちには魔力を込めた鉱石とかあるし・・・ここじゃ買うより作ってる方が安いし」
「あ・・・」
「なんならお前らみたいに異世界から漂流物とか落ちてくるし、それ加工して色々作ってんの!」
「何の話?」
渋々といった体で話すベネデットを遮るようにグレンダが、口元を抑えて声を漏らす。しかし、ベネデットはそれに気付くことなく続け、しつこかったバロンに対して語気を強めた。その時、真横にいたバロンに顔を向けていたが、映っているのはバロンではなくちょうど話題にしていた恋人だった。バロンに話しかけているつもりだったベネデットの顔から、ぼしゅっと煙が上がる。いきなり目の前に現れたパルミロに、ベネデットは照れてしまっていた。
「ぴ、ピピピピピピコ!?」
「顔真っ赤、かわい・・・何?楽しそうなこと話してた?」
どもりまくるベネデットの様子がおかしくてクスクスとパルミロが笑う。目を細めながら椅子に座る彼の背後に回り、そのままぎゅっと抱きしめた。揶揄うような笑みと喉元に着けている首輪から出る[[rb: 音> こえ]]は、照れるベネデットが可愛くて仕方がないといった様子だ。そのまま固まってしまったベネデットの顎に、指先でくすぐるように触れ、両手で顔を固定し頭を近付けた辺りでグレンダからストップがかかる。
「居るんですけど」
「・・・見るくせに」
言葉で持って制するグレンダに対し、パルミロは気にしていない様子だ。右手でベネデットの頭を撫でながらニヤニヤと笑みを浮かべてグレンダを見つめる。
「見せ付けられるこっちの身にもなって欲しいの!・・・て、あら?」
全くこの人ったら、と文句を言いかけたグレンダの目にあるものが止まった。視線の先は、後ろからベネデットを抱き締めるパルミロの左手の薬指。以前、会った時にはないものがある。それはパルミロだけでなく、よくよく見ればベネデットにも付けられていた。
二人の左手の薬指に嵌められたシンプルな銀色の輪っか状の金属。一方は青の、一方は緑の小さな宝石をあしらった指輪だった。気になって仕方がないグレンダは立ち上がり、パルミロ元まで移動すると左手を持ってじっくりと眺め始める。二人が嵌めている指輪のデザインは似通っており、宝石の色こそ違えどペアルックのようになっていた。察しの早いグレンダは、それだけでこれがもう何なのか分かり、大はしゃぎし始める。
「ねえ、これ・・・これって!」
「さすが、相変わらず察し早いね」
特に明確な言葉がないにも関わらず、グレンダがキラキラとした目でパルミロを見る。何が言いたいのかその様子と表情だけで分かるパルミロは、彼女に好きにさせていた。一方、何のことか分からずまた置いてけぼりを食らったと気付いたバロンが「オレにも教えろって」と立ち上がる。
そんな彼にグレンダはパルミロの左手をずいと見せた。が、鈍く察しも悪いバロンはそれだけでは何のことかさっぱりで首を傾げる。焦ったくなったグレンダは、「これよ!」とパルミロの左手の薬指に嵌められた指輪を指差しした。
「ん?何これ、指輪?え、これが何?」
「何って、人間の世界じゃカップル同士が左手の薬指にするのって結婚指輪以外考えられないじゃない!」
「ぐっ」
グレンダのとんでも発言にダメージを負ったのはベネデットの方だった。余計に顔を赤くしてしまい、手で顔を覆ってしまう。そんなベネデットに可愛さが溢れてしまったパルミロは、思わず可愛いと零していた。
「け、っこん・・・?へー、けっこん、けっこんかぁ・・・・・・・・・って、え!?結婚!?!?!?」
「けっこん」というキーワードを何度も復唱していたバロンは、頭に浮かぶはてなと何度か戦いながらその言葉を吟味する。しばらく考え込むよう上を見て、頭の中でそれがどんなものかについてたどり着くと、椅子から立ち上がりながら盛大に叫んだ。ただでさえ声量があるバロンのデカい声が近くで響けば、そりゃあ耳が痛いだろう。近くにいたベネデット、パルミロ、グレンダは三人揃って耳を手で塞いていた。
当のバロンはというと、まず初めにパルミロの左手を、そしてベネデットの左手の薬指に嵌められた指輪とを交互に見ている。結婚というキーワードとその指輪で、ようやっと彼の中で何かが結び付いた。かと思えば、喜びたいのか引いているのか微妙な顔つきになり始めた。
「お前、本当に騒がしい奴だな。何年人間やってんだよ」
「うるせー!オレだってこんな感情初めてだっつの!!」
うがーと両手を上げて唸るバロンに、ベネデットは肩肘をついて咎める。尚も文句を言いそうになるバロンだったが、それ以上にこの二人が結婚したという事実に衝撃を受け一度席に座った。
色恋沙汰には、もう一人の連れも含めて全くなバロンには雲の上を掴むような話であり、理解しきれずに頭がパンクしかける。見かねたベネデットが「大丈夫か」と声をかけ、それに自信無さそうに大丈夫とか細い声を上げた。
「え、えーっとぉ?結婚って結婚だよな・・・・・・・・・え、いつ?」
「だいぶ前から」
「だからいつだよそれ!!」
「君達に会う前から。とは言っても形だけだけどね?正式に挙げたのは戦いが終わってから一年後だよ」
ベネデットのはっきりとしない物言いに癇癪を起こしかけたバロンの横から、パルミロが淡々と衝撃なことを告げる。パルミロの発言には、さすがのグレンダもピシリと固まってしまった。口元を手で覆い「嘘、気付けなかった」と妙にショックを受けている。
「もう!ジンジャーちゃんどうして何も言ってくれなかったのよ!教えてくれたらお祝いしに行ってたのに!」
「言ってなかったのかよGF!」
「え、嘘、言ってないの・・・?」
悔しそうにテーブルを軽く叩く彼女に、パルミロとベネデットは目を見開いて信じられないような声音で呟いた。
ジンジャーとは、パルミロの幼馴染であり、グレンダにとっては異世界でできた初めての友人だ。現在は両親と旅行中のため、この文句は先送りになるだろう。
たまにだが、彼女はこういった大事なことを言い忘れていることがある。それがきっかけで情報共有が遅れていることもあるのだが。
「あ、そういえばピコ・・・なんか丸一日全然連絡付かなかった時あったな」
「まあ、来てたしね式場に」
「Beeeeeeeeeeeep!!!」
またまた衝撃な事実にバロンが大声を上げる。再び繰り出された大声に三人はまた耳を塞ぐこととなった。
バロンの言うピコというのは、パルミロのことではなく一時間前に出かけた彼の仲間であるフィニアスのことである。買い物に出ると言ったパルミロの育ての親に、珍しく彼の方から手伝うと言ってついて行ったのだ。
その珍しい行動は、普段連んでいるバロンやグレンダだけではなく、ベネデットですら目を丸くしてしまうほど。出て行った後は、珍しいこともあるもんだとしばし話題にされていた。
「なんっっっでいっつも言ってくんないのかなあピコはああああ!」
「そういや、珍しく来てるなぁって思ったらピコが教えてたな」
「Beep!知ってるならオレたちにも言えっつの!!」
「・・・・・・悪い」
ヒートアップしそうなバロンの背後でバツが悪そうな声がかかる。ふと見やれば、ちょうど話題にしていたフィニアスと、買い物袋を手にしたパルミロの育ての親─ライモンドの姿があった。
ライモンドのスタンドライトのような頭部には彼らのように分かりやすい“顔”というものはない。それでも、自宅で留守にしていた彼らが花を咲かせている様子に満足そうにしていた。
「連絡、しようとは思ってたんだが・・・電話を掛けるタイミングで式が始まって・・・掛ける気が失せた」
「あ、それはフィニアスが悪い」
荷物を分けながらそう説明、というより弁明し始めるフィニアスに、ベネデットはあっさりと言う。ぐうの音も出ないフィニアスは俯き、プライドと葛藤し眉間に皺を寄せながらすまなかったと謝った。出会った頃に比べ、遠慮なくフィニアスに言えるようになったベネデットにパルミロは目を細めて嬉しそうに笑う。そしてついとフィニアスに視線を移すと、意を決したかのようにベネデットから離れ、フィニアスに近付き彼の右肩を軽くポンと叩いた。
「なんだ?」
「後でバルコニーに来て。渡したいものがあるから」
「渡したいもの?」
フィニアスにだけしか聞こえない声量で呟かれた言葉。続きを聞こうとしたフィニアスは、パルミロの方へと振り向いたがすでに姿はない。周りを見れば、帰って買い物袋の中身を冷蔵庫へと入れているライモンドの手伝いをしていた。邪魔するのも悪いだろうとフィニアスは別の荷物を分けている。
式場に何故呼んでくれなかったのかと、至極当然なバロンとグレンダ二人の文句をBGMにしながら。
◆◆◆
食事を終え食器も片付け終えた後、フィニアスはパルミロの誘いを受けて、二階のバルコニーへと足を運ぶ。時刻はちょうど夜八時を迎えており、ちらほらと小さな星々が輝いていた。
パルミロはフィニアスよりも先に来ており、バルコニーの柵へともたれて夜風に当たっている。数年前と旅をしていた時ではあまり見られなかった、黒のタートルネックに紺色のスキニーデニムを履いた格好は、完全なオフの時でしか見られない珍しい姿だ。
パルミロがいるすぐそばにはソファが二席と小さなテーブルがあり、そのテーブルの上に二人分のワイングラスが置かれている。
「・・・・・・来たぞ」
「・・・来ないかと思った」
「誘っておいてそれか」
「ごめんってば・・・座って」
冗談混じりに繰り出される会話。フィニアスにとっては、お馴染みとなってしまったパルミロとのやりとりだ。時間をかけるでもなく、フィニアスはさっさと要件を済ませたいと言わんばかりにぶっきらぼうに応える。彼の言葉に目を細めて笑うパルミロは、フィニアスをソファに案内した。
「で、渡したいものってのはなんだ」
「せっかち。そんなに嫌?僕といるの」
「お前と二人きりの時は大体碌なことにならない」
過去を思い起こしながらフィニアスがそう零す。思い起こされるのは、年上の親友に揶揄われ続けた日々。もちろん、思い出といえばそれだけではないのだが、今のフィニアスの頭の中では揶揄われた時の印象の方が強い。今日も今日とて、何かよからぬことでもされるんだろうかと妙に警戒したままで来たのだ。
一方パルミロは、フィニアスの言葉に心当たりがありすぎるのか、少し申し訳なさそうに目を閉じて咳込む。相変わらずムードもへったくれもない彼の様子に、仕方がないとウエストバッグからあるものを取り出した。
パルミロは取り出したものを手にしたまま、フィニアスの左手の手袋をサッと外す。そして、彼の手首を自身の左手で支えたまま、薬指にスッと何かを嵌めさせた。一連の動作があまりにも自然だったため、フィニアスは瞬きも忘れて見入ってしまう。遅れてやってきた衝撃の光景に、フィニアスの顔に朱が差した。
「は・・・え、お前、これ・・・」
「これなら君にも伝わりやすいだろうと思ってね。うん、サイズ合ってたみたい。よかった」
指の付け根にまで届いた指輪に、パルミロは満足げに呟いては指輪を嵌めたままの指 にキスを落とす。伏せられた目は、フィニアスから見ても分かるほどに愛おしいという気持ちが篭っていた。自分と違い、隠すことなく愛情を向けるパルミロにフィニアスは言葉が出なくなる。
(どうして、いつもいつもこいつは・・・!)
伝わるも何も、無条件で愛情を注がれていたのは俺の方だ、とフィニアスは叫びたくなった。込み上げる嬉しい気持ちに胸が締め付けられ、思わず胸元をきつく握りしめる。自分は彼のように素直ではない上、こうやって愛情を表現することも苦手だ。
何か言いたいのに、口がわなわなと震えて声が出ない。衝撃を受け止めるのに精一杯で、どうしたらいいのかどう示すのがいいか頭が回らない。フィニアスにとって、ここまで分かりやすく愛情を向けられることは、人生で初めての出来事だった。
「フィニアス?」
「・・・なんだ」
「なんだ、って君、どうして泣いてるの・・・?」
「は?」
驚きで静かに告げられたパルミロの言葉に、フィニアスが信じられない様子で声を上げる。言われるがまま自らの頬に右手で触れれば、手袋越しでも分かる湿った感触に狼狽えた。何故涙を流しているのか、それすらも今のフィニアスには理解できていない。
いや、正しくは、理解しているのに自分の気持ちが追いついていないのだ。“好きな相手”からの最上級のサプライズに。
「・・・泣くほど嫌だった?」
「違う!」
控えめに出された言葉に、そうじゃないと食い気味に断言する。嫌だから泣いていることはない。むしろその逆で、許容範囲を超えた喜びにフィニアスは手も頭も回らない状態だった。彼の理解も気持ちも追いついてないまま、肉体が先に反応を示している。こんなことは初めてで、それがかえってフィニアスを盛大に混乱の渦へと叩き落としていた。
「違うんだ。嫌だから泣いてるとかじゃ、ない、それは、多分違う、ちょっと待ってくれ、整理・・・させてくれ・・・あーくそ悪いどう、言えば・・・」
「時間がいる?僕、席を外そうか?」
「・・・・・・・・・・・・い、や・・・居てくれ。頼む」
自らの混乱を全て吐き出す勢いで捲し立てられた言葉に、パルミロから助け舟が入る。混乱の原因が自分だと察するとすぐさま手を引き、時間も必要だと判断するのはさすがだとフィニアスはいつも思う。いつもならそうさせているのだが、今回に限ってはむしろ居てくれる方が助かるように思った。ぎこちなく震える声で懇願するフィニアスに、パルミロはその手をぎゅっと握り返して「うん」と小さく零す。
しばらくして、パルミロに手を握りしめられたフィニアスが徐に口を開いた。
「・・・・・・なあ、お前、これがどういう意味を持ってるのか知ってるよな?さっき俺が戻ってくる前にその話をしただろ」
「疑ってる?」
フィニアスのゆっくりとした声がパルミロに問う。パルミロはフィニアスの言いたいことが分かるようで、その先の返答を促すように答えていた。
フィニアスが指摘しているのは、夕方ごろにバロンたちがしていた“結婚”についての話題だ。フィニアスはベネデット達の結婚式に同席しているため、指輪も嵌める手と指の位置も意味も全て知っている。
「疑っては、ない。ただ、その・・・俺が受け取っていいのか、こんな・・・これを俺が・・・」
「受け取るのに相応しくないって?やめてよ。そんな風に言われたら、作った上に渡したこっちが馬鹿みたいじゃないか」
「は?作った?」
驚きのまま、己の左手の薬指に嵌められた指輪をじっくりと見つめる。銀色のシンプルな指輪に、埋め込まれた白い羽毛のような模様が入った灰色の宝石。
一度取り外し、180度回転させて観察したリングの内側には、フィニアスのフルネームが彫られていた。その出来栄えから、フィニアスはてっきりそういう専門店で売られたものだと思っていた。まさかそれが手渡した相手の手作りと知って、余計に情緒が乱されてしまう。
「・・・・・・え、あ」
「・・・君もバロンくん並に忙しいね。泣いてたかと思ったら今度は顔赤いし」
「誰の所為だよ!!!」
夜中だというのに構わず叫ぶフィニアスに、パルミロは声を抑えるようジェスチャーを送る。それに眉間に皺を寄せ、そうさせてるのはお前だと言わんばかりに盛大にため息を吐きながらどかっとソファにもたれかかった。指輪はしっかりと握りしめていた為、落とすという最悪なシナリオは免れる。
フィニアスは天を仰ぎながら、手にした指輪をかざすようにしてみせた。隻眼で見るその指輪と内側に彫られた自身の名に、フィニアスはようやっと噛み締める。
こんなもの、世界の何処に行っても手に入らない。フィニアスのためだけに作られた、親友の、好きな人からの最高のプレゼントだ。込み上げる喜びは形となり、いつの間にかソファの肘置きへと座るパルミロへと向けられる。彼の手首を掴んでは引き寄せ、フィニアスはたまらずという風に抱きしめた。
「ありがとう、ノーヴィス・・・俺は、いつもお前に助けて貰ってばかりだな・・・」
「何言ってるの。助けて貰ってるのは僕も一緒。君に死なれたら色々後悔しそうだ」
フィニアスの言葉を受けたパルミロがそう零しながら抱きしめ返す。ふはと笑うその声と表情は、フィニアスの中にあった蟠りや不安、様々な悪い思考を払拭するには充分すぎた。
ソファに座り直したフィニアスの膝の上にパルミロが正面を向くよう座る。彼は、涙で少し赤く腫れたフィニアスの左目の目元を解すように撫でた。そして、眼球が潰れて開かなくなった右目の瞼へとキスを落とす。
「・・・よく、ベネデットが許したな。式まで挙げて、なんなら揃いの指輪もあるだろ」
「あ、それBがデザインしたのを僕が作ったから」
──ベネデットに申し訳ないと思った俺の気持ちを今すぐ返してくれ。
サラッと言われた事実にフィニアスは別の意味でまた頭を抱えたくなった。フィニアスの脳内で、「お、指輪受け取ったんだなおめでとう」とにぱっとした笑顔でそう言葉にするベネデットが浮かぶ。想像の中でも悲しげでもなく怒るでもなく素直に祝福を示すその寛大さとズレた感覚に、フィニアスはある意味助かったと心の中で感謝した。
妙に疲れてため息を零すフィニアスに、パルミロは彼から指輪をサッと取り、再びフィニアスの左手の薬指に嵌める。
「Amo la tua personalità da coltello, il modo in cui ti opponi alla paura di perderlo, il modo in cui lotti, la tua gentilezza casuale, l'espressione dolce che a volte mostri, i tuoi capelli abituali, la tua voce... Amo tutto di te, il modo in cui prendi sul serio ciò che ricevi. Ti amo, Phineas.」
指輪を嵌めた手の甲にそっと口付けて後に続く言葉。その耳慣れない言語は、パルミロの自国のものだろう。向けられる眼差しも首輪を通して聞こえてくる声音も、いつもの穏やかなものではなく真剣な重みを孕んでいた。
耳慣れないセリフの意味を全て理解できたわけではない。それでも、パルミロから囁かれる一つ一つのフレーズが、全て自分に向けられているものだとフィニアスは“気付けた”。
「〜〜〜〜ッ!ノ、ノー、ヴィス・・・!」
みるみる顔が朱に染まり耳まで赤くなるその様子に、自身の想いが伝わったと確信したパルミロがフィニアスを抱きしめる。
「結構分かりやすくしてるつもりだったんだけど・・・君のとこの言語でもう一度同じこと言おうか?」
「や、めろっ、持たない、今ので充分ッ!」
真っ赤なトマトのまま抱きつくパルミロを引き剥がそうとフィニアスは必死だ。今のでさえ充分な破壊力だというのに、こちらが分かる言語で言われたらどうなるか分からない。いつもの調子がすっかりと崩れたフィニアスは、悪態をつく暇もなく指輪をしていない方の腕で顔を隠そうとする。だが、パルミロはフィニアスの腕をどかそうと、顎をくすぐったりして気を紛らわせてきた。
「えー、照れなくてもいいじゃん。君のことだから忘れたふりでもされそうだしやっぱそっちの言語で・・・」
「いい!頼むやめろ!お、おかしくなる、なりそうだからやめてくれ潰れる!!」
許容を超えた愛にたまらずみっともなくフィニアスは叫んだ。指輪を嵌めた方の手で胸元を握りしめ縮こまる姿に、パルミロはおかしくて盛大に笑う。腹を抱え涙が出るほどに笑い転ける親友に、フィニアスは隙を突いて体を回転させソファにパルミロを抑え付けた。グッと両肩を掴み、羞恥と悔しさから睨みつけるフィニアスの鋭い顔つきに、パルミロは内心ほくそ笑む。
肩で息をするフィニアスに腕を伸ばして抱き寄せては、機嫌を取るようにパルミロは軽く啄むキスをした。