「ようこそミツキ、お待ちしていましたよ」
優雅な礼で迎えられた玄関には、いつだかの劇場版放映の際限定数で販売された原作者書き下ろしのここなのポスターが飾られていた。ボーイフレンド役の声優を務めていた三月も出演した作品で、もらってきてやろうかと聞いたら鬼の形相で悩んでいたナギを思い出す。
「よ! 一日だけど世話になるぜ、ナギ」
過去に幾度か訪れたことはあるが、相変わらずこの家は広い。家主に先導されてむかったリビングは寮のそれと同じくらいの広さがあった。メンバー全員が一人暮らしを始めて以降、何か集まる用事があるとナギの家が選ばれるのもこういう訳だ。三人掛けのソファと大きなシアターの置かれたリビングを抜け、客間として使用しているらしい部屋へ通される。
「ここが本日のミツキのベッドルームです」
「おー、ありがとな……」
礼を言う声がやや下がってしまったのも無理はない。約六畳のその部屋は、コレクションルームと見紛うほどにここなグッズで溢れかえっている。おそらく高級であろうふかふかのベッドも、シーツから掛け布団カバーまでコラボグッズの徹底ぶりだ。
「お前、いつもこんな部屋に人泊めてんの?」
「イエス! 八乙女氏はおもしろいと喜んでくださいましたよ」
「まじか。八乙女すげーなぁ……」
まあ布団に入ってしまえばそこまで違和感もないかと思い直し、バッグを置くとナギとともにリビングへ戻った。一泊なので仕事用の鞄に下着と寝巻を詰め込んできたが、正解だったようだ。部屋着を貸してくれなどと言ったが最後、コスプレ大会になりかねない。さすがに四十を手前にして美少女キャラの衣装は心にくるものがある。
本日の仕事はレギュラーバラエティの収録のみだったため、時刻はまだ十八時前。夕飯にも些か早いとナギが自ら紅茶を振る舞ってくれることになった。慣れた手つきでティーカップや茶葉を用意し丁寧に紅茶を淹れる様は相変わらずとても絵になる。香りのよいお茶に可愛らしいジャムクッキーを添えて、少し遅いティータイムが始まった。
「ヤマトとの生活はいかがですか、ミツキ?」
なんでもない世間話をしばらく続けた後、不意にナギが真剣な面持ちで切り出す。美人が凄むと迫力がすごいと内心感想を抱きつつ、紅茶を一口飲んだ三月は答えた。
「別に、特別何もないよ。寮にいた頃みたいで懐かしいけどさ」
半ば強制的に始まった同居生活には、懐かしいという言葉がよく似合った。家に帰って誰かがいるのも、帰ってくる誰かを待って出迎えるのも久しぶりだ。食事が必要かどうか、今日は何時に帰るかなどの何気ない連絡さえふとした時にひどく愛おしく感じてしまう。自分はこんなにも人との生活が恋しかったのかと驚いてしまうほどだ。
「Hm……そうですか」
照れくささがありながらも語った三月に、ナギは何やら複雑そうな表情を浮かべる。嬉しいような、困ったような。ひょっとしてユニットのうちの二人が仲良くしていることにやきもちを焼いているのか。
「そうだ、今度大和さんも一緒に来ようか。ライブ終わってからだけど、久々にオフ合わせて遊ぶのもいいよな」
泊まりなら広さ的にナギか自身の家で、そう付け加える三月にナギは先ほどと同じような顔で返す。
「喜んで、と言いたいところですが今はお断りしておきます」
にこりと微笑んだナギに三月は訳を問うが、答える気はないようだ。代わりに彼はひとつの問いを投げかけてきた。
「ヤマトはなぜ、そこまでミツキを気にかけるのか。分かりますか?」
「え……?」
メンバーだから、リーダーだから。そんな当たり前の答えはすぐに浮かんだのに、なぜか口に出すのは憚られた。そんな三月の内心を見透かしたようにナギは続ける。
「例えばワタシやソウゴ、リクが同じようになった時、彼は自宅に招いてまでそれを解決しようとするでしょうか?」
「……する、んじゃないか……?」
訝し気な様子の三月にナギは肩をすくめ、沈痛な面持ちで首を横に振る。
「報われませんね、あの男は……」
混乱を深める三月の顔をその蒼い瞳でじっと見つめたナギは、静かに告げた。
「ヤマトが特別必死になるのはいつも、ミツキのことだけですよ」
「そんなこと……」
ない、と言ってしまいたいのに、脳裏を過ぎった光景がそれをさせない。
十五年前、二人きりの中庭で彼が見せたいつになく真剣な眼差し。好きだと言われ、真っすぐな言葉に浮足立たなかったと言えば嘘になる。三月も同じ気持ちを持っていたから。けれど、同時に怖くなった。アイドルでいることに精一杯な自分は、きっと大和を一番にはできない。他の誰かとならば得られた幸せも、今ここで三月が頷いてしまえば手に入らないだろう。そのままの三月でいいと一番欲しかった言葉をくれた大和の幸せを奪うことはしたくなかった。例えその場で彼を傷つけたとしても。
零れてしまった『いつか』は咄嗟に考えてしまった有り得ない未来を思ってだ。大和の告白を受け入れて互いに衒いなく愛し合える存在になったらどれだけ幸せだろう。もしそんなことが出来るとすればそれは、三月が大和を一番に想えるようになった時。本当に訪れるのかも分からない『いつか』だ。期待するように一瞬閃いた大和の瞳にハッとして、その先は飲み込めた。さすがにしばらくは微妙な気まずさもあったが半年も経つ頃にはすっかり元通りになっていて、大和もきっと、あの夜のことはなかったことにしたのだろうと思っていたのに。
「すみませんミツキ。そのような顔をあなたにさせたいわけではなかった」
静かな謝罪に三月は首を振る。一体自分は今、どんな顔をしているのだろう。
「ワタシはただ、幸せになって欲しいのです。ミツキにも、ヤマトにも」
ゆるりと解けた蒼眼は慈しむという表現がよく似合う、優しい色をしている。普段ならば頷ける温かな願いを含んだ言葉に三月は力無く目を伏せた。
ナギの観察眼は鋭い。彼の言ったことは真実だろう。大和が特別必死になるのは、三月のことだけ。その理由を三月だけが知っている。告白されて断った。それだけで終わったと思っていたが、きっとそれは三月の望みを察した大和がそう振る舞っていただけだ。じわりとカップを持つ指先が冷えていく。自身の何気ない一言が、途方もない時間大和を縛ってしまったのではないかという恐怖が胸に押し寄せる。変わらずに注がれていた優しさをどうして当たり前に受け取っていられたのだろう。氷を詰め込まれたように冷えた心臓に自然と呼吸が浅くなる。ごくり、と喉にせり上がった塊を飲み下した時、不意に目の前で白い指が揺れた。
「ハァイ、ミツキ。ワタシはここにいますよ」
数度瞬いて鮮明になった視界に映るのはたおやかに微笑む美しい顔。それに笑い返すことは出来ないけれど、少しだけ心が救われたような心地だった。
「ワタシ、わがままです。ワタシもワタシの友人たちも、幸福でないのは許せません。この意味が、分かりますか?」
唐突な宣言に凍り付いた心と頭はついていかない。辛うじて緩く首を振ると、ナギは歌うように続けた。
「今日までずっと、ヤマトもミツキも幸せそうでした」
「そう、かな」
縋りつきたくなるような優しい言葉。けれどそれは単なる優しさではなく、ナギからみた真実だ。この十五年が大和にとって不幸なものではないのなら、それに越したことはない。けれど気づいた以上この状況をそのままにしているのは三月の性分ではなかった。
「ありがとう、ナギ。ちゃんと考えてみるよ。オレと、大和さんのこと」
決意を表すように握られた拳を見つめ、ナギはにこりと微笑んだ。