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    羂髙 / 幼なじみ学パロ時空 / 付き合って早々🪶に避けられるようになった🧠のおはなし

    ※前回の話(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=22051736)の数ヶ月後
    ※紆余曲折あってくっついた後の話です
    ※おおよそ全編にわたり🧠がじたばたしてます

    「史彦に避けられてる……」
     ノックもなしに双子の弟である傑の部屋に入ると、羂索はベッドに腰かけながらそう言った。両膝に肘をつき、手の甲で額を支えるその顔は苦渋に満ちている。纏う空気は暗く、まるで明日世界が滅ぶとでも言われたような様子だった。見る人──ほぼピンポイントで髙羽のことである──が見たら憐れみを誘いそうな姿だったが、部屋の主である傑は羂索が部屋に入ってきたときから姿勢を変えぬまま、一切振り返ることもせず机に向かいノートにペンを走らせていた。夏の夜の静かな部屋にかりかりと文字が刻まれる音と、テキストがめくられる音がしばし響く。
    「史彦に避けられてる……」
     何の応えもない傑に向けて、羂索はまたぽつりと声を落とした。その声に反応したかのように一旦、ペンの音が止まる。なにかを思案するような沈黙が三秒ほど部屋を満たした。ことり、とペンが静かに置かれる。
     そして、今度は消しゴムがノートを擦る音が部屋に響いた。
    「ねえ、史彦に避けられてるんだけど……!!」
    「そんなに大きな声出さなくても聞こえてるよ」
     顔を上げて声を荒げる羂索にようやく傑が言葉を返した。だが、相変わらず視線の向かう先はノートのままである。
    「聞こえてるならこっち向いて「どうしたの?」って訊くくらいはしてもいいんじゃないの……!?」
    「聞こえてても聞こえなかったことにしたいから、こうして黙々と課題に向かってるんだよ」
     そう言うあいだも、傑はノートの空白を埋めている。情のなさすぎる弟の姿に羂索は悲痛な声を上げた。
    「鬼! 悪魔! 妖怪ひとたらし! 五条たちに向けるやさしさをちょっとは兄に向けようとは思わないのか!?」
     この場に傑以外の人間がいたら、お前に人非人あつかいされる謂れはこの世の誰にもないだろ、と突っ込みが入ったことだろうが幸か不幸かこの場には突っ込みを放棄した傑しかいなかった。まあ言われたところで、羂索が言動を改める可能性は一ミリもないのでその突っ込みは完璧な無駄にしか終わらないのだが。そもそもそんな突っ込みをされたところで、そんなものにかかずらっている余裕は今の羂索にはなかった。
     どれだけ自分が声を上げようと、未だ振り向きすらしない傑に羂索はわなわなと両手を震わせた。
    「最愛の恋人に避けられて悲しみに暮れる兄より課題が大事だなんて……! いったいいつから君はそんな冷たい子になってしまったんだい……!!」
    「割と前からだったとは思うけどね。私だって別に毎回君の話を無視してるわけじゃないだろ。聞くべきときはちゃんと聞いてる。今回はどうやっても面倒くさい気配しかしないから関わりたくないだけで」
     大仰なほどに嘆く羂索に傑はつとめて冷静な声で答えた。平素だったら羂索もそれに同意する。羂索だって自分たちがそんなに仲睦まじい兄弟だとは思ってはいないし、実際、兄弟仲は特別良くもなく悪くもなくと言ったところなので、傑の言が正しい。だが、そんなもの羂索のいまの悩みの前では些事だった。
     今回ばかりは何が何でも話を聞いてもらわないといけないのだ。ここ十数日、羂索の胸を重く沈めていた問題は羂索がどれだけ頭を働かせたところで解決しなかった。それどころか解決の兆しすらなかった。羂索だってひとりで解決できるならそうする。だけどもう無理なのだ。ここまで状況が煮詰まったら誰かほかの人間に話を聞いてもらうしか手はない。問題解決という意味でも、羂索のメンタル的な意味でも。羂索がこの問題に直面し、悩み、もがいて、はや二週間。そろそろ哀しみと苦しみで窒息死してもおかしくはない。面倒くさかろうがなんだろうが、羂索は話を聞いてもらえるまで梃子でもここを動かない覚悟だった。
     そんな羂索の覚悟が伝わったのか、一向に出ていく気配がないその様子に傑は大きくため息をつくと、ようやく椅子を回してこちらを振り向いた。
    「……明日、十時過ぎには悟のところに行くから今日はそんなに遅くならないうちに寝ようと思ってたんだけどね」
    「君が迅速に私の悩みを解決してくれれば早く寝られるよ」
     つまり、逆に言うならば自分の悩みを解決するまで寝かせる気はない、ということである。言外に告げられたそれに傑はもう一度大きなため息をついた。ぎしりと音を立てながら、傑が背もたれに身体を預ける。気持ちの面ではどうであれ、ようやく羂索の話を聞く気になったらしい。肘掛けに腕を乗せて頬杖をつき、いかにも大儀そうな空気を出しているのはせめてもの抵抗だろう。
    「──それで?」
    「史彦に避けられてる……」
    「それはもう聞いたよ。具体的には?」
    「……前まではホームルームが終わったあとは一緒に帰るために教室で私を待ってくれていたのに、クラスの子に伝言を残して先に帰ってしまうようになった。休み時間も教室にいない。もちろん昼休みもだ。休みの日に家に行っても、体調が悪いとか出かけてるとかで、おばさん伝手に断られる。これがもう二週間も続いてる。でも、これだけならどれだけ伝言が嘘くさくてもまだ良かった。まだ自分の勘違いかもと思い込めた、堪えられた」
     そこまで話すと、羂索は一旦息を詰めた。羂索の顔色がさらに翳る。
     この先のことは出来れば思い出したくないし、言葉にもしたくないが、しないと傑のところに来た意味がない。鉛を飲み込むような思いで羂索は話を続けた。
    「……一昨日の終業式の日に廊下で史彦の姿を見かけてね。実に十二日ぶりの史彦の姿に、私も冷静ではいられなくて……史彦が私を避けてたかもしれないこととか、そういうのぜんぶ頭から抜けて思わず呼び止めたんだけど──」
     史彦! と、数メートル離れた先から喜色を滲ませて名前を呼んだ羂索の方を髙羽は確かに向いた。振り返ったその視線の先には確実に自分がいた。だって、絶対に目があった。だが、いつもだったら羂索を前にすると花が咲いたような笑みをこぼす髙羽の姿はそこにはなかった。羂索と目があった瞬間、身体を固まらせると、堪えきれないとばかりに俯き、そのまま羂索がいる方とは反対の方向へ走り去ってしまったのだ。
     羂索が待って、と声をかける暇もなかった。そもそもそんな暇があったところで羂索はきっと止められなかっただろう。
     髙羽と出会って以来、初めて明確に髙羽に避けられたショックで羂索はその場から動くことすらできなかったのだから。
    「──で、そのまま夏休みに突入して現在に至る、と?」
    「……そう」
     終業式の日のこと思い出すだけで、羂索の胸は痛みに張り裂けそうだった。
     髙羽との付き合いはもう十年以上にも及ぶ。それだけ長く一緒にいれば、どれだけ仲が良かったとしてもケンカくらいはするものだ。だけど、今までどんなに大きなケンカをしたとしても、たとえ非が一方的に羂索にあったとしても、逃げられたり避けられたりしたことは一度もなかった。
     人生始まって以来の未曾有の事態に、羂索は途方に暮れたように話を続けた。
    「……私だってさ、史彦に避けられる理由が分かれば君のところに来やしないよ。だけど、今回は本当に理由が分からない。別になにかをした覚えもないし、避けられるようになる前の日まで史彦とは普通に話してたし、一緒にも帰った。嫌われるようなことも怒らせるようなこともしてないと思う。なのになんで史彦に避けられなきゃいけないの? そもそも私たち付き合ってまだ三週間だよ。避けられはじめて二週間ってことは、付き合って一週間で避けられてるんだよ? 一週間で避けられるってどういうこと? 恋人になってからのイベントがアップテンポすぎない? 順番で言ったらデートしたり、キスしたり、そういう甘いイベントがあってから負のイベントって起きるものじゃないの? メロドラマだって事件が起きるまでもう少し猶予があるだろうが……!」
     話しているうちに哀しみだけではなく行き場のない怒りも湧いてきて、羂索は思わず声を荒げた。
     そうなのだ。例えば、これが付き合ってしばらく経ったカップルだったらこういうこともあるのかもしれない。気持ちが他の人にうつってしまい、もう前のような態度を取れないため避けたりとか、重ねた年月ゆえに関係がぬるま湯となり恋人という座に甘えて努力を怠った結果、愛想を尽かされ、顔も見たくないと避けられたりとか。
     もちろん、どれもこれも羂索はする気もないし、させる気もない。そんな可能性が一ミリも生まれないよう、髙羽と一緒の墓に入るまで羂索はこれからずっと努力と愛を積み重ねていく所存である。だが、そんな問題以前にこちらはまだ付き合ってひと月も経っていない出来たてほやほやの新米カップルなのだ。自分で言うのもなんだが、二週間前までは愛の女神だって赤面しながら裸足で逃げ出すようなオーラを二人で出していた自信がある。いったい、何が原因で自分は髙羽に避けられるようにしまったのか。
     髙羽に好きな人が出来たという噂が突如現れてから数ヶ月。いくつものすれ違いを経て、お互いの気持ちを正しく理解した羂索たちは学校全体を巻き込んだ告白劇の末に、ようやく恋人同士となった。羂索に関して言えば実に十年以上も続いた初恋が実った瞬間だった。そのときの喜びは、三週間のときを経たいまでも冷静に言い表せないくらいである。
     気づけば噂が出始めた頃とは学年も変わり、クラスも変わった。髙羽の心に自分以外の誰かがいる(もちろん、そんなものは自分の勘違いだったのだが)と知ったときから、初恋が実ったあの日までは思い返してみればあっという間だったような気がする。
     今年からはクラスが分かれてしまったから、前のように学校内で四六時中いっしょにいることは出来なくなってしまったけれど、髙羽の恋人の地位を得た羂索からしたらそんなことは些細な問題だった。クラスが分かれてしまったからこそ出来ることもある。昼休みに、いっしょにどこかで昼食を食べるためにする待ち合わせだったり、担任の話が長いため、帰りのホームルームが長引きがちな羂索を待っていてくれる髙羽を教室に迎えに行くことだったり。もちろん、これらはクラスが分かれてから二人が恋人になるまでの間もしていたことだったけれど、髙羽の気持ちが分かるまでは二人でいても羂索の心の隅にはどうしても髙羽が好きな誰かの影があったから、無邪気に髙羽との時間を楽しむことはできなかった。
     でも誤解が解け、名実ともに髙羽の恋人になってからは違う。髙羽の心には自分しかいないのだと分かった今となっては、髙羽との時間を邪魔するものなど何ひとつなかった。
     恋人になってからの髙羽は前よりももっと羂索に好きを伝えてくれるようになった。言葉が得意じゃない髙羽が時に声で、表情で、態度で伝えてくるそれはあまりにも愛らしく、しばしば羂索の言葉を奪った。愛おしすぎて、声も出ないということが人生には往々にしてあるのだ。
     羂索を呼ぶ跳ねるような声や、じわりと赤くなった眦。ぎこちなく触れた肩に、融けるように細められた目。自覚はなくともひたむきに伝えられる髙羽からの好きに、羂索から髙羽への気持ちも日々強くなる。もうこれ以上ないと思っていた髙羽への想いに果てはなく、教室へ迎えにきた羂索を見て浮かべる嬉しそうな笑みは前よりももっともっと可愛く見えた。
     髙羽の恋人となってから、髙羽への好きと髙羽からの好きに彩られた日々を過ごしながら羂索は、我が世の春ってきっとこういうことを言うのだろうなと思った。季節は夏だけれど、羂索の胸には毎日甘く爽やかな春の風が吹いていた。
     だが、季節はうつろう。始まりがあれば終わりがあるように、何ごとにも永遠はない。諸行無常。盛者必衰。歴史の上でも何度も繰り返されてきたことだ。それは、もちろん分かる。羂索だって知っている。
     しかし、それにしたって春が短すぎやしないか。驕れるものは久しからず、というのならせめて驕る時間くらいは与えて欲しい。
     自分が何かをしでかして避けられているのならまだいい。だが、今回ばかりは何もしていない自信がある。だってこちとらまだ髙羽とキスすらしていないのだ。
     恋人らしい接触といえば、いっしょに手を繋いで帰ったくらいである。思えば、それが髙羽との最後の甘いイベントとなってしまった。今日び、幼稚園児だってほっぺにちゅーくらいはしているというのに。自分は髙羽とキスすらできず終わるのか。いや、終わらせるつもりはないけれど。ないからこそ、こうして傑のところに来ているのだけれど。
     二週間前までのあのきらきらと甘く輝かしかった日々を思い出す。
     季節は夏、いわゆる成長の季節だ。だから、夏休みのあいだに髙羽といっしょに恋人同士のあれやこれやを重ね、ゆっくりと──だが、髙羽の反応によっては二段飛ばしくらいで──二人の関係を育んでいこうと胸を踊らせていたのに、今やそんな予定も希望も露と消えた。あるのはどうやったら髙羽に会えるのか、どうやったら顔を見てちゃんと話せるのか、というただの友人であった時ですら持ったことのない悩みである。どう考えても以前より関係性が退化している。
     男は生涯で三度しか泣いてはいけないと言うが、その内の一回はまさしく今なんじゃないかと羂索は心の底から思った。決して羂索の想定通りのところにいないのが髙羽で、羂索も髙羽のそんなところが好きなのだけれど流石に行動が想定外すぎる。髙羽と出会ってからかれこれ十年と余年。紆余曲折の末にやっと初恋が成就したというのに、それから僅か一週間で避けられるようになったら流石に羂索も泣く。実際、終業式の日の夜、羂索はちょっとだけ泣いた。
     羂索は今の状況を切々と傑に語った。出来るだけ分かりやすく、どんなに細かなことも、問題解決の助けになればとつぶさに。しかしながら、話しているうちに羂索はだんだん不安にもなってきた。頼るとしたら自分と髙羽の関係を一番知っていて、髙羽との付き合いも長い傑に頼るのがベストだと判断してこうして傑の部屋に押しかけたのだけれど、羂索があれだけ考えて考えて考え尽くしても解決できない問題を傑が一夜のうちに解決できることなんてあるのだろうか。改めて時系列や状況を整理しながら傑に説明してみたものの、髙羽に避けられている理由はどうやっても思いつかない。自分の人生始まって以来のこの重大な問題を、傑が解決してくれるなんてやはり無理な話なのかもしれない、と羂索は思った。羂索の心に墨のように影が広がる。
     傑に話すまではおぼろげながらも見えていた光明が闇に消えてしまい、もはや今のこの時間に意味はないものと思われた。だが、ここまで来たのだからと、羂索は気力を奮わせてなんとか最後まで話した。
     静謐な時間が部屋を満たす。漏れそうになるため息を押し殺しながら応えを待っていると、本日三回目の大きなため息が傑から聞こえた。
    「……あのさぁ、そんなに何回もため息つかなくてもよくない? ため息をつきたいのはこっちの方なんだけど」
    「ため息くらい自由につかせてほしいよ。どう考えても私が入るべき問題じゃないのに、問答無用で部屋に押し入られて、夏休みの貴重な時間も減らされて、なおかつ押し入って来た相手は面倒くささのかたまりみたいな君で──これで喜べる人間がいたら教えてほしいくらいだ」
    「史彦なら喜んでくれる」
    「二週間も避けられてるのに?」
     氷のナイフでひと突きにされたような痛みが胸に走り、羂索は言葉に詰まった。
     髙羽に避けられている、その言葉を耳にするだけで、改めて認識するだけでどれだけ羂索の心に痛みが走るのか傑は分かっているのだろうか。だが、改めて突きつけられた現実に反論できる術はひとつもない。反射で答えてしまったが、確かにそれは二週間前までの話で今は違う。今の髙羽は喜んでくれない。羂索の胸にどれほどの痛みが走ろうと、どれだけの傷がつこうと今避けられているのは事実だ。
     傑の残酷な指摘に羂索が言葉もなく胸の痛みに堪えていると、本日四回目かつ一番大きなため息が聞こえた。
    「あのね、」
    「……なんだよ」
     関わりたくないを体現したため息と、先ほどまでのやさしさの欠片もない言葉にどうしても声の温度は低くなった。不貞腐れたような顔で傑を見返す。
    「髙羽さん、かっこよすぎて君の顔が見れないんだって」
    「…………………………は?」
     まったく予想もしてなかった傑の言葉に、羂索の時間が止まった。
     傑が話しているのは日本語の筈なのに、確かに知っている筈の言語が羂索の頭を上滑りしていく。
     平素の倍以上の時間をかけ、その言葉を咀嚼し、与えられた情報を繋ぎ合わせ、そして──。
    「……ちょっと待って」
    「なに?」
    「どうして傑がそんなこと知ってるの……?」
    「この前、髙羽さんから直接相談受けたから」
    「なんっっっっで恋人の私を差し置いてただの幼馴染の君が普通に会ってるんだよ……!」
     問う前に頭に浮かび上がった恐ろしい予測は残念ながら現実であり、あまりに不条理な状況に羂索はひときわ大きく声を上げた。
    「その理由なら傑だって史彦から避けられなきゃおかしいだろうが……!!」
     怒り、悲しみ、妬み、嫉み、一言で言い表せない様々な感情がこもった声が部屋に響く。
     しかし、羂索のそんな痛切な叫びを聞いた傑はその叫びに同意することも、羂索を慰めることもなく、何やら難しい顔で額に手を当てていた。
    「…………なに、その顔」
    「いや、恋は盲目ってこういう場合も言うのかなと思って……」
    「はあ?」
     誰をつかまえて傑は盲目などと言っているのだろう。髙羽のことなら自分はちゃんと見ている。誰よりも理解している。理解していて尚、避けられている理由が分からないからこうして傑のところに来ているというのに何という言い草だろうか。
     確かに、髙羽に好きな人がいると知ったときは、その顔も知らない人物の影に長いあいだ振り回されたが、あれだって別に羂索が間違っていたというわけではない。その相手が自分だったとはいえ、髙羽に想い人がいたのは事実だったのだから。髙羽の表情や様子などを見て、髙羽に好きな人がいるということを確信した自分の観察眼は全くもって正しいと言えよう。傑に盲目などと言われる筋合いは毛ほどもないはずだ。
     そんな思いを込めて傑をじとりと見返すと、傑は温かいような生ぬるいような表情を浮かべた。ついでに、出てくる声の温度も同じようなものだった。
    「ねえ、私、君の相談に対してもうほぼ答えを言ってるに等しいと思うんだけど、まだ君に付き合わなきゃだめなのかな?」
    「はあ!? どこが……!? 分かんないことが増えただけなんだけど……!?」
     羂索が理解できないことが理解できない、とでもいうような傑の言い方に羂索は憤慨した。
     かっこいいから顔が見たい、かっこいいから会いたい、というのなら羂索だって分かる。だが、かっこいいから顔が見たくない、かっこいいから会いたくない、なんていうのは羂索にはさっぱり理解できない。その相手が恋人なら尚更だろう。言動が一致してなくないか。行動心理学の権威ならそういった矛盾した言動の意味も分かるのかもしれないが、いくら知識や知能が平均より秀でているとしても羂索は一介の高校生である。分かるわけがない。
     と、羂索は思うのだが何故だか傑にはその理由が分かるらしい。もしかして、傑は高校卒業後はそういった道に進むために羂索も知らないあいだに勉学を重ねていたのだろうか。であれば納得はできる。まあ、傑がその道を目指そうが目指さなかろうが、今はそんなことどうでもいいのだが。
     持って回ったような言い方に、いらつきを感じながら羂索があれこれと考えていると「羂索、君ほんとうにわからないの?」と、呆れまじりに傑が言った。
    「まったくもって微塵も」
    「かっこよくて顔が見れないって理由なのに、同じ顔の私が避けられなくて君が避けられる理由なんてひとつしかないと思うんだけど」
    「どう考えてもひとつもなくない?」
     もしかして、傑はなぞなぞか何かでも出しているのだろうか。だとしたら不誠実すぎる。こちらは真剣に話しているというのに。ちゃんと真摯に向き合ってほしい。だが、なぞなぞにせよ何にせよ、傑の示唆するものが正直に言ってまったく分からん。なぜもっと分かりやすく直裁に言わないのだ。
     そんなことを思いながら羂索が難しい顔をしていると、もはや本日何度目か分からないため息が、傑の口から吐き出された。ため息選手権一位でも狙っているのか、と思われる深さと長さだった。
    「私が直接答えてもあんまり意味がないというか、こういうのって二人でちゃんと話すなり、乗り越えるなりしなきゃいけないことだと思うんだよね。第三者が介入しない方が絶対にいい。私にとっても君たちにとっても。だから私からは直接的なことは何も言わないよ。とりあえず、私から言えることは髙羽さんは君のことを嫌ってなんかないってこと」
     結局、ここまで時間をかけても何ひとつ明確な助言を口にしない傑に羂索は無言で不満を訴えた。だが、生まれたときからの付き合いの傑が羂索のその訴えに動じるはずもない。
    「とにかく、なんで同じ顔でも私は平気で君はだめなのか一晩よく考えてみて。それでも分からなかったら、明日また髙羽さんの家にでも行ってみなよ」
    「……だから、避けられてるって言っただろ」
    「何回か避けられたくらいで諦める君じゃないだろ。何年、髙羽さんに妄念だか執念だかに近い愛情を向けてきたんだよ」
     双子の弟からの冷静な指摘は素直に頷きがたいものだったが、確かに正論ではあった。
     結局、その日はそれ以上の話はできず、夏の夜のお悩み相談室は幕を閉じた。

         ◯

     翌朝、羂索は夏の日差しのなかを歩いていた。
     時刻は十時前。からりと晴れた真夏の空は青々として、仰ぐものの心をどこまでも透き通らせるようだった。
     だが、羂索の心はあいにくの曇り模様である。
     傑に昨夜、髙羽が自分を避ける理由を多少なりとも聞けたことで羂索の胸に吹き荒れていた嵐はなんとか過ぎ去ったが、それでも快晴とはほど遠い。嫌われていないのが分かったのはもちろん救いではあるが、しかし問題はいまだ何ひとつ解決していなかった。
     昨日の傑の話で、髙羽が自分の顔をかっこいいと思っていることは分かった。分かったが、だから何だというのだ。
     そもそも髙羽が自分の顔をかっこいいと思っていることなど、自分の顔を気に入っていることなど今さら言われるまでもない。自慢ではないが、そんなこと髙羽の恋人になる前から知っている。幼少期から、髙羽に対してこの顔を有効活用してきたし、その恩恵にも何度もあずかってきた。顔の美醜なんて羂索は興味がないが、少なくとも髙羽の好みに当てはまっている自分のこの顔のことは羂索も気に入っていたし、この顔で生んでくれた親に感謝もしていた。
     しかし、まさかこの顔が原因で髙羽に避けられる日が来るなんて思ってもみなかった。
     昨日、傑に話して明確に分かったのは、髙羽が自分の顔をかっこいいと思っていること。だから、自分を避けている、ということだ。
     傑にその理由を一晩よく考えてみて、と言われたものの、やはり羂索には自分だけが避けられる理由など分からなかった。額の傷という差異はあれ、一卵性双生児の羂索と傑の顔に造作の違いなどほぼない。表情の違いなどはあれど、顔のつくりといった点ではほぼ同一と言っていいだろう。だから、やはりその理由で羂索が避けられるなら、傑も避けられなければおかしいのだ。
     なのに、髙羽は傑には普通に会って、普通に話をしているらしい。不条理すぎる。おかしい。道理はどこにいった。髙羽の恋人は他の誰でもない、自分のはずなのに。
     だがまあ、昨日傑に言われた通り、こんなことで諦める自分ではない。避けられたことがショックで、確かに自分は己を見失っていた。石橋を渡る前に叩いてみることも、熟慮に熟慮を重ねることも、もちろん悪いことではないが、考え過ぎはよくない。考え込んで、部屋でひとり陰々滅々と落ち込んでいるなど自分らしくないにもほどがある。
     とはいえ、だからといって無策で髙羽の家に行くわけにもいかなかった。羂索だって何度も髙羽に避けられたいわけではないので、出来る限りの対策はとっておきたい。
     というわけで、羂索は髙羽の家に向かう前に、まず別の場所へ向かっていた。
     そこは自宅から歩いて五分、髙羽の家からも歩いて五分と、ちょうど二人の家の中間くらいにある、ケーキやゼリーなどが評判の洋菓子店だった。
     この曜日のこの時間であれば、髙羽の家には髙羽の母もいるはずだ。髙羽の母はここのケーキが好きなので、これで少しでも取り計らってもらえればという腹づもりである。つまり端的に言えば賄賂の購入だ。
     髙羽の家に行ったところで、以前のように髙羽に会う前に帰されたのでは意味がない。髙羽の母には好かれている自信があるので、こんなことをしなくても事情を切々と語れば、髙羽には会わせてもらえるだろうとは思うが、念の為である。それにここで手土産を買うのは験担ぎ的な意味もあった。
     ──幼き日の懐かしく、甘い思い出。初めての恋を自覚したあの日のことを、羂索はこの店に行くたびに思い出す。
     それは、小学校に上がる前のことだった。髙羽が羂索の家に遊びに来たとき、おやつとして母がこの店のショートケーキを出した。髙羽が家に遊びに来たことはそれまでも何度もあったし、家でおやつを出したことももちろん同じ回数だけあったが、ケーキが出たのはその時が初めてだったと思う。貰いものか何かのついでに買ってきたのかは分からないけれど、いつもは市販のクッキーやスナック菓子だったので、髙羽が目をきらきらさせて喜んでいたのをよく覚えている。
     子どもにとってケーキはごちそうだ。幼き日の髙羽にとっても例外ではない。うれしいね、おいしいね、と言葉と表情で語る髙羽はいま考えても可愛さのかたまりだったと思う。もちろん、当時の自分もそう思った。しあわせいっぱいのその顔も、大切そうにちょっとずつ上に乗った苺を食べるその仕草も、ぜんぶぜんぶ可愛くて、胸がすごくふわふわした。だから、そんな髙羽がもっと見たくて自分は言ったのだ。「ふみひこ、わたしのイチゴも食べる?」、と。
    「えっ、いいよ、けんちゃんのイチゴだもん」
    「わたしそこまでイチゴ好きじゃないから、ふみひこにあげる」
     髙羽は子どもらしくなく、いいよいいよけんちゃんが食べなよ、としばらく遠慮していたが、羂索が「ふみひこに食べてほしいの!」と言うとやっと羂索のフォークから苺を受け取った。お皿にころんと乗った苺と羂索に向かって「そ、それじゃあ、いただきます」と、かしこまっていた髙羽はとても可愛かったし、かしこまっていたくせに苺を口にした途端ふにゃりと表情をとかすのもまた可愛かった。
     自分があげた苺をしあわせそうに食べる髙羽を見て、自分が大きくなったら毎日髙羽にショートケーキを買ってあげよう、とそんなことをその時の羂索は思った。毎日、ショートケーキの苺が食べられて髙羽も嬉しいし、毎日かわいい髙羽が見られて自分も嬉しい。こんなにしあわせな未来はないと思った。
     そんな拙い未来計画を立てていると自分の服をちょんちょんと、と髙羽がちいさく引っぱった。
    「けんちゃん、けんちゃん」
    「なに?」
    「あのね──」
     ふわり、と髙羽が笑った。
     羂索が初めて見る、羂索が今まで見たどれよりも可愛い顔で。
    「ありがとう。けんちゃん、だいすき」
     思えば、羂索と出会うまで友だちがいなかった髙羽は誰かからああやって何かを貰うことがなかったのだろう。あの時の髙羽は苺が食べられたのももちろん嬉しかったのだろうけれど、何よりも羂索がショートケーキの上のたったひとつしかない苺をくれたのが嬉しかったのだ。
     まあ、そんなことを冷静に考えられたのは、もっとずっと後になってからだったけれど。
     その時の羂索はといえば、髙羽から初めてもらった「だいすき」と見たことのない笑顔にやられて、今までにない心臓のざわめきに軽くパニックに陥っていたのだ。その日は一日、髙羽の笑顔を見るだけで心臓にびりびりと電流が走ったのを覚えている。
     一晩経って、二晩経って、幼いながらに羂索はようやくあれが恋というものなのだと理解した。髙羽の隣に自分以外の誰かがいたら嫌な気持ちになるのも、その誰かに向かって髙羽は自分のだと言いたくなるのも、髙羽が嬉しかったら自分が嬉しいのも、髙羽の可愛い顔がずっと見たいのも髙羽のことが好きだからだ。
     自覚した瞬間、髙羽がどんな風に自分にとって特別なのかが分かった興奮と喜びで、羂索は勢いのまま傑のところに駆け込んだ。そして、ようやく理解した自分の思いを一番に傑に告げて「今さらなにを言ってるんだこいつ……?」という顔をされることになったのだが、まあ今となってはそれもいい思い出である。
     というわけで、この店のショートケーキは二人にとっても思い出の品なのだ。流石に幼き日に思ったように毎日買うようなことはなかったが、なにか特別なことがあったときにはこの店のショートケーキを食べるのが通例になっていた。もちろん、三週間ほど前にも食べた。恋人になったその日はお互いにそれどころじゃなかったけど、後日ふたりで食べたお祝いのケーキは今まで食べたどのケーキよりも美味しかった。
     二週間前までは確かにあった甘い日々。これからももっともっとそんな思い出を二人で重ねていくはずだったのに──。
     やはり、このままずっと避け続けられるなんて絶対に嫌だ、と羂索は改めて思った。恋人として髙羽にしたいこと、してほしいことが沢山ある。
     だからこそ、何がなんでも今日は髙羽に会わねばならない。この問題を解決せねばならない。髙羽から何故かっこいいからという理由で自分を避けるのかをきちんと聞かなければならない。
     今日自分がしなければいけないのは、髙羽に会うことと、冷静に髙羽の話を聞くことだ。別に責めたいわけでもないし、怒っているわけでもない。きちんと避ける理由を理解して、自分に改善点があるなら直したいだけなのだ。今後もずっと髙羽の恋人でいるために。
     二週間続いた問題が今日無事に解決できるよう、羂索はもう一度頭のなかで今日の流れを整理した。
     これから洋菓子店に行く。髙羽の母の心象をすこしでも良くするよう手土産を用意する。髙羽の家に行って手土産を渡す。切々と事情を話し、髙羽に会えるよう便宜を図ってもらう。もし髙羽がいなかったら、少しの間だったら待たせてもらって、もし帰宅が遅くなるようだったら帰ってきた時点で本人に気づかれないよう連絡を入れてもらうようにする。そして、髙羽に会って冷静に話を聞く、以上だ。
     と、そんなことを考えながら歩いていたせいだろうか──。
    「うわっ!」
     十字路を曲がったところでどすん、と人とぶつかった。すこしよろめいたが、体幹も体格もしっかりしている羂索が転ぶようなことはなく、それは相手も同じだった。前方不注意はお互いさまだったが、相手から慌てたような声が上がる。
    「す、すいませんっ! 大丈──、」
     羂索と目が合った瞬間、すこし上ずったその声が不自然に途切れた。
     この二週間、羂索の頭を悩ませていた相手。羂索がだれよりも会いたかった相手。羂索がずっとずっと渇望していた相手。
     いま自分の目の前にいるのが誰なのか、頭より先に身体が理解した。逃げようとするその人物の手首を咄嗟に掴む。
    「け、羂ちゃん……っ」
     それは二週間ものあいだ羂索を避けつづけていた──髙羽史彦、その人だった。

         ◯

     ばたんっ、と後ろで玄関の扉が締まる。
     羂索は雑に靴を脱ぎ捨てて、髙羽の手を引きながら家に上がった。
     十字路で髙羽を掴まえた羂索は、そのまま手を引くようにして足早に来た道を戻った。こうして自宅に戻るまでの道中、髙羽は「ま、待って羂ちゃん……っ」とか「あ、あの、俺っ……」とかこの二週間の謝罪なのか言い訳なのかを言おうとしていたが、ひたすら黙って足を進める羂索に何を言っても無駄だと悟ったのか、そのうち口を開くのを止めた。
     引っ張られながらも、なんとか靴を脱ぎ捨てた髙羽が羂索の手に引かれるまま家に上がる。
     正直なところ、羂索も冷静に何かを考えて自宅に戻ったわけではなかった。とにかく、髙羽と二人きりになりたくて、頭に浮かんだのがここだっただけだ。玄関に入った際、傑の靴がまだ残っていたのが視界の端に見えたが、昨日の話ぶりだとそれ程せずに家を出ていくだろう。それでも少しも邪魔されたくなくて、羂索はリビングではなく二階の自室に向かった。
     階段を上がって、廊下の突き当たりにある自室のドアノブをひねる。がちゃり、というドアの開く音がやけに響いた。
    「史彦、そこ座って」
     掴んでいた手をようやく離し、羂索はローテーブルとベッドの間のスペースを指した。ローテーブルの上に置いてあったエアコンのスイッチを押すと、ピッという電子音のあとに冷たい風が吹く音が流れる。
    「あ、あのね、羂ちゃ……」
     羂索は無言で髙羽の隣に座った。申し訳ないという気持ちからなのか、それとも未だに羂索の顔を視界にいれたくないのか、俯きながら髙羽が口を開く。その言葉を遮るようにして、「──史彦」と羂索は髙羽の名を呼んだ。
     羂索のかたい声に髙羽が息を詰まらせる。何かをこらえるようにぎゅっと握られた髙羽の手に自分の手を重ねて羂索は言った。
    「抱きしめていい?」
    「……へ?」
     うかがうような形は取っていても、それはあくまで形だけだった。髙羽が是とも否とも言う前に手を伸ばす。そして、引き寄せるように羂索は髙羽を抱きしめた。
    「──っ」
     腕の中で髙羽が身体をかたくしたのが分かったが、それでも羂索は離してやることができなかった。そのまま髙羽の肩に顔を埋めるようにして目をつぶる。
     髙羽の温度、におい、声、かたち。ずっと足りなかったものをようやく手に入れて、羂索は深く息をついた。
     髙羽に会うまでは今日は絶対に冷静に話そうと思った。冷静に話せると思った。落ち着いて二人で話して、問題を解決しようと。なのにそんなのは無理だと、髙羽に会った瞬間、身体が訴えた。
     髙羽に避けられていたショックと問題を解決したい気持ちでいっぱいで自分でも気づいていなかったが、二週間もまともに会えなかったせいで、自分は飢餓とも言えるほどに髙羽が欠乏していた。そんな状態で、冷静に話すなんてそもそも無理な話に決まっていたのだ。
     やっと会えた。やっと掴まえた。噛み締めるようによろこびに身を浸す。
     身体の奥の奥まで髙羽で満たすために羂索は深く呼吸をした。エアコンが稼働する音と、こちこちという時計の秒針の音。自分の呼吸音に紛れるようにして、静かにそれらが響く。
     幾度かの深呼吸のあとに名残惜しみながら大きく息を吐いて、羂索はようやく髙羽から離れた。完璧に満たされたとは言えないけれど、ずっとこのままでいるわけにもいかない。身体を離して、羂索はゆっくりと髙羽の肩から顔を上げた。
    「ふみひ、」
     こ、と名前を呼び終わる前にぱちん、と自分の顔から音が弾けた。
    「…………おい」
     軽くたたいたような音が出た理由は髙羽が自分の顔を手のひらで咄嗟に押さえたからだ。遮るように、遠ざけるように、自分の顔を覆い隠す髙羽の手に羂索の喉から低い声が出る。
     確かにまだ髙羽に会えただけで問題はなにも解決していないけれど、流石にこれはひどくないか。
     昨日、傑から話を聞いておいて本当に良かった。髙羽が自分のことを嫌っているわけではない、という担保がなければ、確実に自分は再起不能になっていた。恥も外聞もなく髙羽の前で泣いていてもおかしくはない。少なくとも、髙羽の前で醜態を晒すようなことにならなかっただけでも、昨日傑と話をしたのは無駄ではなかったと言える。嫌われていないというその情報が、こうして助けになったのだから。まあ、だからと言ってこの仕打ちに納得しているわけではないが。
    「え、いや、あの、け、羂ちゃん……こ、これは、その……っ」
    「はぁぁああああ……いいよ、分かってる、傑から聞いた」
     髙羽としても考えてしたわけではなく、勝手に身体が動いてしまったのだろう。声には戸惑いと焦りが含まれていた。ともすれば泣きそうにも聞こえる声に、羂索は言いたいことのすべてをため息で押し殺した。髙羽を泣かせたいわけではないのだから、無意識の行動を責めても仕方がない。
     とりあえず、ある程度の事情は聞いていることを伝えるため傑の名を出すと「へ、傑くん?」と、髙羽が気の抜けた声を上げた。
    「君、傑に私がかっこよすぎて顔が見れないって相談しただろ」
     そう言いながら、羂索は未だ貼りついたままの髙羽の手をどかした。視界が明るくなってようやく髙羽の顔が見える。だけどそれも一瞬のことで、目が合った瞬間に髙羽はまたすぐさま逃げるように俯いてしまった。
    「う、うん。……した」
    「だから、君の事情は私も知ってる。でも知ってるだけだ。なんでかっこいいって理由で避けるのかはちっとも分からなかった。ねえ、なんで私それで君に避けられなきゃいけないの? 普通かっこいいと思うならもっと見たくなるものじゃないの? 少なくとも、私は史彦のかわいい顔を毎日見たいと思ってるし、まともに君の顔が見れなかったこの二週間は本当に生きてる心地がしなかった。というか一番理解できないのはなんで私のことは避けるのに傑には普通に会って普通に話ができてるのかってこと。その理由なら傑も避けられてなきゃおかしいでしょ、顔の造作なんてほぼ一緒なんだから、私たち」
    「うっ……だ、だって、その……っ」
    「だって、なに?」
     責めたいわけではなかったが、どうしても声に問い詰めるような響きは滲んでしまった。
     怒りではなく、これはたぶん嫉妬からだ。恋人の自分は会えなかったのに、その間に傑は髙羽と会っていたのかと思うとやっぱりいい気はしない。なんで傑は良くて、自分はだめなのだ。納得できる正当な理由が欲しい。
     ちゃんと答えて欲しくてしばらく辛抱強く羂索は待っていたが、髙羽は俯いたままずっと「えっと、……その……、」とか言いながらまごついている。ちっとも答える気配がない。
    「史彦」
     いつまで経っても出てこない答えにいい加減しびれを切らして、羂索は先を促すように髙羽の名を呼んだ。
     髙羽の耳がじわじわと赤くなる。う゛~~と唸るようなちいさな声も聞こえてくる。にわかに変わった髙羽のその様子を羂索が疑問に思う前に、覚悟を決めたように髙羽が口を開いた。
    「──だ、だって、羂ちゃんのこと好きなんだもん、俺……っ」
     辛抱強く待ったわりには、目新しい真実も驚きの事実もなく、返ってきたそれは羂索も重々承知しているものだった。髙羽からの好きは何度だって欲しいし、何度もらっても嬉しいものだが、答えがこれで納得できるか、と訊かれると羂索も是とは言いづらい。そもそも今さらそんなに覚悟を決めて言うことだろうか、これ。なんて返せばいいのか分からなくて、こちらも当たり前の言葉しか出てこなかった。
    「ええっと、……その、知ってるけど?」
    「ちっげーの! 前よりもっと好きになっちゃったの! だから前よりもっとかっこよく見えるの! だからどきどきしすぎて顔が見れねぇの……!!」
     顔を上げた髙羽が今まで溜まっていたものを吐き出すかのように声を荒げた。顔は真っ赤で、緊張なのか恥ずかしさなのか目は今にも涙がこぼれそうなくらい潤んでいる。声の響きだけをとれば怒っているようにも聞こえるが、言っていることとその表情は見事なくらいそれとは真逆であった。
     羂索は言葉が出てこなかった。先ほどとはまったく別の理由で。髙羽の告白にちゃんとなにかを返さねばとは頭の片隅で思うのだが、そんなことよりもっと別のことで頭がいっぱいだった。
     ──なんだこれ、かわいすぎる。
     羂索は髙羽の可愛さを前に、言葉をなくしていた。
     髙羽と恋人になってから、感情が振り切れて言葉がなくなることが度々あったが、これはその中でも一番ではないだろうか。前よりもっと好きになってしまっただなんて。だから、どきどきしすぎて顔が見れないだなんて。傑には普通に話せて、自分はダメだった理由を羂索はやっと理解した。避けたのは何故かという問いに、まさかそんな答えが返ってくるとは。そんなかわいい理由が世の中に存在していいのか。
     ストレートな表情とストレートな言葉が羂索を打ちのめす。嘘がつけない髙羽の真っ直ぐな感情表現は髙羽の長所だとは思うけれど、二週間ぶりに浴びるそれはあまりにも威力がすごかった。
     驚きと感動とかわいさと愛しさに羂索が静かにうち震えていると、声を荒げたあとの沈黙がいたたまれなかったのか、それとも性根の真面目さ故にちゃんと最後まで説明せねばならないと思ったのか、まだ顔を赤らめながらも落ち着いた声で髙羽が話を続けた。
    「あ、あのさ……羂ちゃんと初めて手つないで帰ったときあったじゃん」
    「……ああ。──って、そういえば君に避けられるようになったのってあの日のあとからか」
    「……う、うん。……で、あの日、羂ちゃんほうから手にぎってくれて……その、俺、外で羂ちゃんと恋人っぽいするのすごい恥ずかしくて、でもそれよりももっと嬉しくて緊張してて、それで何もないところで転びそうになっただろ……? そしたら、羂ちゃん咄嗟に俺のこと支えてくれてさ」
     ──大丈夫、史彦?
     こちらを見るやさしさに満ちた羂索の顔を見て、そしたらもうダメだったのだ、と髙羽は言う。
    「羂ちゃんすっげえやさしい顔してるし、そういう風にスマートに俺のこと助けてくれたのもかっこよかったし、それに声と顔から俺のこと好きなのがめちゃめちゃ出てんだもん。いや、ほら、ちゃんとそういう意味で羂ちゃんが俺のこと好きだっていうのはもちろん告白してくれたときに言ってくれたから知ってたよ。でも、改めてあの時そうなんだって実感して……そしたら家に帰ってからもその時の羂ちゃんのことばっかり浮かんでくるし、その時のこと思い出せば思い出すほど、うわーって心臓ばくばくしちゃうし、前よりもっともっと羂ちゃんのことかっこよく見えて……それで、気づいたら羂ちゃんの顔見れなくなってた」
     そう言うと、髙羽は悲しみに暮れたように視線を落とした。
     髙羽だってしたくしているわけではないし、このままでいいとも思っていないのだろう。声や表情からその思いは痛いほど伝わってきた。それは羂索だって同じだ。織姫と彦星でもロミオとジュリエットでもないのに、好きなのに会えないなんてそんな馬鹿らしい話はない。
     自分でもどうしたらいいのか分からない髙羽の姿は、改めて見なくても痛ましかった。どうにかしてあげたくて、状況を確認するためにも羂索は髙羽に問いかけた。
    「……ねえ、今もどきどきしてるの?」
    「……めちゃくちゃしてる」
    「今はちゃんと話せてるけど、やっぱりむずかしい?」
    「だって俺いますっげえ頑張ってるもん。俺だってやりたいわけじゃないけど、また明日とかになって羂ちゃんと会ったら咄嗟に逃げちゃうかもしんない……」
     くしゃり、と泣きそうに顔を歪める髙羽に、やはりこのままではいけないと、羂索は思った。だって現状、髙羽も自分も誰も得をしていないのだ。髙羽のためにも、自分のためにも、この問題はいますぐ解決しなければいけない。そのためにできることはなんだろう。問題を解決するために自分ができること。二人ができること。
     羂索はそれを考えて、考えて、考えて、考え抜いて──そして、ひとつの結論にたどり着いた。
    「──わかった」
     不意に落ちた羂索の声に、髙羽が視線を上げる。雨に濡れた子犬のようなそれを安心させるように、羂索は真っ直ぐ見つめた。
    「ショック療法でいこう」
    「しょっくりょうほう?」
    「私が好きだからどきどきして顔が見れないんだろ。ならもっとどきどきすることをすればいい。それで慣れて、私の顔を見ても必要以上にどきどきしないようにする」
    「う、うん……?」
    「ってことでキスしよう、史彦」
    「きす……? きす……キス……き、ってぅぇええええええ!? な、なんで……!? むりむりむりむり……!!」
     思ってもみなかった解決策に髙羽が大きな声を上げる。
     突然そんなことを言われた髙羽の気持ちも分からなくはないけれど、今はそれよりもっと大切なことがあった。羂索はそんな髙羽を諭すように話を続けた。
    「だって史彦はこのままでいいの? せっかく恋人になったのにまともに顔も見れないし、会えないし、ここ二週間、話すらちゃんと出来てない。私はいやだ。恋人としてもっと史彦と一緒にいたい。色んなところに行きたい。色んなことをしたい。恋人として史彦の色んな顔をもっともっと見たいのに。恋人になる前のほうが距離が近かったなんて、そんなの笑い話にもならないよ」
     床に落ちている髙羽の手に羂索はもういちど己のそれを重ねた。触れた温度に、髙羽の指がびくりと震える。ひたすらに髙羽を見つめる羂索の視線に、髙羽が惑うように瞳を揺らした。揺れた瞳が彷徨って一秒、二秒。視線を羂索から逸らしたところで何も解決するはずはなく、しばしの間の後に髙羽は視線を羂索に戻して喉を震わせながら口を開いた。
    「わ、わかった。する……っ」
    「……ありがとう、史彦」
     ありがとう、と返すのもおかしかったけれど髙羽が決死の覚悟で頷いてくれたのは分かる。けなげな決意に羂索がふっと表情を緩ませると髙羽が「~~~~っ」と声にならない声を上げた。意図したわけではなかったけれど、今の羂索の顔がクリーンヒットしたらしい。もたもたしているとキスをする前に髙羽が倒れてしまいそうで、羂索は緩みそうになる表情をなんとか抑えながら、髙羽の頬にそっと触れた。
     潤んだ瞳が羂索を見つめる。赤い顔も、涙が滲んだ瞳もすごくかわいくて、出来ればこのままずっと見ていたかったけれど、残念ながらそうもいかない。マナーとしてはお互いに目をつぶった方がいいだろう。
    「史彦、目とじて」
     羂索のその言葉に、声もなく髙羽がぎゅっと目をつぶる。すり、と頬に触れた親指を滑らせると、ぴくりとまつ毛が震えた。
     とっとっとっ、といつになく早い自分の鼓動の音が聞こえる。髙羽には余裕そうに見えているのかもしれないけれど、羂索だって緊張していた。だって、髙羽との初めてのキスだ。緊張しないわけがない。無様なものにはしたくないし、それこそスマートにして、髙羽にあの時の羂ちゃんかっこよかったな、と思い返してもらえるものにしたい。
     怖がらせないようにゆっくりと近づく。顔を寄せて、目を閉じる。五感のひとつが閉ざされたことで、手に触れた髙羽の体温をもっと強く感じた。うるさいくらいの心臓の音。口唇より先に呼吸が触れて、そして──、
    「ねえ羂索、英語のテキスト持ってる? 持ってたら貸してくれないかな。悟に貸したままみたいで課題が進まなく、て……さ…………」
     がちゃり、と全てをぶち壊すように部屋のドアが開かれた。
     口唇まであと数センチというところでぴしりと羂索は固まった。ついでに空気も固まった。静かな時間が空間を支配する。
     羂索はぎぎぎ、と顔をドアの方に向けた。傑は傑で声もなくこちらを見ながら硬直している。
     沈黙。痛いほどの沈黙。身じろぎの音すら聞こえないそれは世界が凍りついたようにも感じられた。
     永遠にも思えた時間の後、その沈黙を打ち破ったのは一番ショックが少ないであろう傑だった。
    「あー、その……ごめん……。玄関のドアが開いた音が聞こえたから、君が帰ってきたんだなと思ったんだけど、まさか髙羽さんもいるとは……」
     たぶん今までの人生でいちばん気まずい瞬間に出くわした傑が、珍しく言葉をつかえさせながら弁明する。傑の言葉に何とか硬直を解いた羂索が、あって当然の疑問を投げかけた。
    「君、五条のところに行くんじゃなかったの……?」
    「なんか、急遽家の用事ができたとかで午後からになって……」
    「へえ……そう……」
     そして、また痛いほどの沈黙。
     沈黙は金、と言うがこれほど望まれていない金もないだろう。誰も彼も何かを言いたくても何も言えず、ただただ居た堪れない空気が流れる。ドアから冷気が逃げたせいで、エアコンがごうごうと元気良く稼働しはじめる音がむなしく響いた。
     その音ではっと我に返ったのか、ようやく傑が静かにドアを引きはじめた。一番ショックが少なそうに見えても、やはり傑も頭が働いていなかったらしい。ドアを閉めながら、気まずさと申し訳なさを滲ませて言う。
    「えっと、なんていうか、……悪気はなかったとはいえ、本当に、ごめん……私は図書館にでも行くから、その……、うん、ごゆっくり」
     そう言って傑はぱたん、とドアを閉めた。
     三度目の沈黙。
     傑の出ていったドアを羂索はしばらく見つめた。油の切れた機械のようなぎこちなさで、何とかそこから顔を離すと、羂索は力尽きたように髙羽の肩に顔を埋めた。
     羂索は声も出なかった。肝心なところで邪魔をされて、雰囲気をぶち壊されて、かっこ悪すぎて声の出ようはずもない。なにが、ごゆっくりだ。この状況でどうしたらごゆっくり出来ると言うのだ。誰か分かる者がいたら教えて欲しい。
     名目は自分の顔に慣れさせるため、とは言っても今しようとしたのは紛れもないファーストキスだった。無駄にかっこつけるつもりはなかったけれど、かといってかっこ悪くていいというものでもない。情けない。みじめだ。ダサすぎる。髙羽との初めてのキスはもっときらきらと眩しいものになるはずだったのに。理由はどうであれ付き合った途端に避けられて避けられて、やっと掴まえて、ようやく初めてのキスを迎えるところだったのに、なんでこうなるんだ。自分がいったい何をした。
     髙羽の顔が見れない以上に、情けなさの極地の顔を見られたくなくて、羂索は肩に顔を埋めたまま言葉もなく煩悶していた。すると、不意にその身体がちいさく揺れはじめた。
    「っふ、……くく……っ」
    「……史彦」
     明らかに笑われているのが分かって、羂索の気分はもうこれ以上ないほど底辺に達した。もちろん、怒ってはない。というか情けなさが極まりすぎて、怒る気力すらない。きっと「情けない」を辞書で引いたら今の自分が出てくるのだと思う。情けない、という言葉の意味を知りたいなら今の自分を見ればいいとすら思った。実際に見に来ようとする奴がいたら、その後の命の保証はしないが。
    「ごめ、……羂ちゃんが、とかじゃなくてなんか気が抜けた」
     いまだ笑いは滲んでいたけれど、それ以上に髙羽の声はやわらかな響きに満ちていた。笑ってはいるが、確かにそこに羂索が思ったような意味は感じ取れない。
     おずおずと顔を上げると、表情をゆるませた髙羽がこちらを見ていた。さっきまであんなに緊張していたのに。今の髙羽は羂索がよく知るいつものものだった。やわらかな瞳や表情から羂索のことが好きだという気持ちが染み入るように滲んでいる。
     顔も見れないような状態を脱したのは嬉しいけれど、先ほどまでの流れを考えると素直にそうも言えない。かっこ悪かったのは紛れもない事実だ。こんなこと何でもないことですが? と平静を装いたかったが、ここまで来たらどう足掻いても無理だ。繕う気力もなくて、羂索は心情そのままにやさぐれた声を出した。
    「君の笑顔が見れて私も嬉しいよ。でもね、恋人のまえで醜態を晒した私の気持ちもすこしは慮ってくれてもいいんじゃないかな?」
    「かっこ悪い羂ちゃんも好きだよ、俺」
    「それはどーも」
     フォローになっているようでなっていない。やっぱりかっこ悪いとは思ってるんじゃないか。
     この二週間悩みに悩んで、ようやく問題が解決する兆しが見えて、恋人としても先に進めそうだったのに、このオチはあんまりだ。だって、さっきまでの砂糖菓子のように甘くて繊細な空気などもうどこにもなくなってしまった。このままキスなんてどうやったって出来るはずがない。というか、これから先だって出来るのだろうか。あまりのままならなさに、らしくなくマイナス思考になる。
     ファーストキス──未満ではあるが──の思い出がこれでは、これから先キスしようとしても絶対この出来事が頭をよぎる。自分はなんとかその思い出が無視できたとしても、髙羽はきっとこの時のかっこ悪い自分のことを思い出してしまうだろう。そのとき、果たしてキスするような雰囲気を維持できるのか。またこんな風に気が抜けたように笑われてしまうのではないか。羂索は髙羽とキスがしたいし、ゆくゆくはその先のことだってしたい。なのに、そんな未来がもう二度と来ない気がして、どうやったって気分は落ち込んだ。
     どうしたら先ほどの失態の挽回を出来るのだろうか、そもそもそんなものはあるのか──と、そんなことをぐるぐると考えていると、不意に髙羽が羂索の名を呼んだ。
    「羂ちゃん」
    「……なに?」
    「しよっか、キス」
     気落ち故に自然と俯いていた顔を、羂索はがばりと上げた。
     髙羽は気恥ずかしさを滲ませながらも、真っ直ぐにこちらを見ていた。冗談でもふざけているわけでもなく、ちゃんと本心から言っていると分かる顔で。
    「だって、どきどきに慣れるためにするって話だったじゃん。俺、まだ羂ちゃんにどきどきしてるもん」
     ──ぜんぜん恋人の羂ちゃんに慣れてない。だからさ、しよう、キス。
     と、髙羽は照れくさそうに笑みながら、顔を赤らめながら言う。
     髙羽はこんなこと直截に言うタイプの人間じゃない。言葉より態度や表情で語るタイプの人間だ。慣れないことをしている。髙羽らしくない。では何故そんなことをしているのか、なんてわざわざ言うまでもなく明らかだ。
     落ち込んでいる羂索を慰めたくて、かっこ悪くても好きだということをちゃんと伝えたくて、そして、髙羽も羂索とキスをしたいと思ってくれているからだ。
     なにを言う前に自然と身体が動いた。言いたいことはいっぱいあるはずなのに、なにひとつとしてまともな言葉にはならない。色々な言葉が羂索のなかを回ったけれど、結局言えたのは目の前の恋人の名前だけだった。
    「──史彦」
     万感の思いをひとつの名に込めて、もう一度頬に触れる。羂索のその手を合図とするかのように、髙羽が目を閉じた。
     さっきと同じようにゆっくりと顔を寄せる。うやうやしく。まるで神聖な儀式のように。
     鼻先が触れて、羂索は目を閉じた。そうして僅かな距離を時間をかけて詰めて、ようやく口唇が重なった。
     熱い。最初に感じたのはそれだった。触れた頬よりももっと熱くて、もっと生々しくて、身体の奥がじんと痺れるような心地がした。
     髙羽とのキスを想像したことは何度もあったけれど、想像なんてただの想像でしかないのだ、と羂索は思った。想像したどれよりも実際の髙羽とのキスはやわらかくて、熱くて、気持ちがいい。
     こんな小さな面積が触れているだけなのに、なんでこんなに満たされるんだろう。なんで、とも思うし、当たり前だ、とも思う。だってそれは髙羽の口唇だ。羂索が世界で唯一誰にも渡したくなくて、世界で一番大切に思っている人。これ以上に愛しい存在なんてない。もっともっと触れたくて、羂索は角度を変えてもう一度口づけた。
     ふ、と髙羽の息がもれる。吐息すら逃したくない気持ちが頭より先に身体を動かして、呼吸ごと食むように触れた。髙羽の身体が、びくりと震える。羂索は舌で触れたくなった衝動を何とか抑えた。
     これ以上しているとただのキスでは済まなくなりそうで、羂索は今にもなくなりそうな自制心を総動員して、髙羽からそっと離れた。
     口づけを解いた髙羽から、はふ、と籠もった息が聞こえる。ただのキスしかしていないのに、まぶたを開いた先にいた髙羽は熱に浮かされたような表情をしていた。
     自分がこの顔をさせているのだと思うと、羂索はたまらくなった。まだキスの余韻から抜け出せていない髙羽を引き寄せて抱きしめる。愛おしくて、かわいくて、どうしようもない。溢れる感情で窒息しそうになっている羂索の服の裾を、髙羽がお返しのように握った。いじらしいそれが、また羂索の気持ちに拍車をかける。黙っているとさっき頑張って働かせた自制心が無駄になりそうで、羂索は平静を装いながら髙羽に問いかけた。
    「……どうだった?」
     平静なんてあくまで上部だけで、余裕のなさから思わず言葉足らずになってしまったが、訊きたかったのはどきどきに慣れそうか、ということだ。さっきの傑の件で有耶無耶になってしまったし、なんなら気が抜けたことで少し既に改善されていたような気もするが、それでも当初の目的はそれだったのだ。ないとは思うけれど、悪化してたら意味がない。
    「……えっと、な、なんか、羂ちゃんの顔見れなかった時とは比べものにならないくらいどきどきしてるんだけど、」
     しかし、髙羽はそれをキスの感想を訊かれたのだと思ったらしく、想定していたこととは別の答えが返ってきた。不意に止まったそれはまだ続きがありそうで「……けど?」と先をうながすと、髙羽が羂索の服をぎゅっと握った。
    「……も、もっとしたいなあ……なんて」
     消え入りそうな声で、気恥ずかしさを滲ませながら言う髙羽に羂索の心臓が痛いほど軋んだ。もうどうしたらいいのか分からなくて、羂索はうなだれるように髙羽の肩に顔を埋めた。
    「勘弁して……」
    「え、ご、ごめん俺ばっかり舞いあがっちゃっ、」
    「違う。嫌だとかしたくないとかじゃなくて君がかわいすぎるから勘弁してってこと」
     慌てながらまるきり見当違いなことを言う髙羽を遮って、羂索はのろのろと顔を上げた。
     さっきよりは少し落ち着いたものの、髙羽はまだ赤い顔をしている。大胆なことをいうくせに恥じらいを滲ませた表情は相変わらず馬鹿みたいに可愛かった。
     こつん、と髙羽の額に自分のそれを当てる。
    「ねえ、もっとってどれくらいしていいの?」
    「お、俺の心臓が爆発しないくらいまで……?」
    「なにそれ」
     ふっと笑って答えると髙羽もつられるように笑った。ひとしきり小さく笑いあい不意に止まったそれに、髙羽がそっと目を閉じる。そして、羂索は誘われるようにそのまま口唇を重ねた。

     今日のこの日を絶対に自分は忘れないだろうと、羂索は思った。
     触れた唇のやわらかさ、あたたかさ、うるさいくらいの心臓の音、叫び出しそうなよろこびを。
     きっと死ぬまで何度も何度も今日のことを思い出す、と。



     後日、「私の史彦がかわいすぎる……」と、阿呆極まりないことを宣いながら羂索が傑の部屋を押しかけるのは、また別の話である。
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    😭🙏🙏🙏🙏🙏💞💞💞💘💞
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