打ち上げの場というのはとかく賑やかで喧しくて秩序もくそもなにもないものである。それが開始から三時間も経っていれば尚更だ。
だから、それなりに離れた場にいたにも関わらずトイレから帰ってきた羂索にその声が聞こえたのは、ひとえにその声が髙羽のものだったからであるし、なによりも聞き捨てならないたぐいの話だったからである。
「おまえもなあそろそろいい年だし、いい子とかいないのか?」
「あー、……そっすね、ええっと」
髙羽の隣にいたのは先日結婚したばかりの先輩芸人だった。下積み時代から支えてくれた姉さん女房。どれだけ彼女に苦労させてどれだけ彼女に支えられたか。苦労ばかりさせたにも関わらずプロポーズにはいと言ってくれた彼女。いまの自分がいるのは彼女がいるからで、そんな彼女と結婚できた自分が如何に幸せ者か。
その先輩芸人は羂索が席を立つまでそんな惚気話を延々としていた。そこまで性質の悪い酔い方をする人ではないのだが、それでも酔っ払いは酔っ払いだ。話の時系列はぐちゃぐちゃだし、途中から同じ話題がループし始めるしで、正直なところ羂索としては相槌を打つのも面倒くさかった。人の惚気話ほど聞くに堪えないものはない。況や酔っ払いの話をや、である。
ただ、羂索はともかく隣にいた髙羽はそれなりに真面目に聞いてやっていた。以前より恩のある先輩だったというのもあるし、こういう場での酔っ払いとの付き合い方をいつまで経っても学習していないせいでもある。だから、愚にもつかない惚気話にも延々付き合わされるし、お前も早く結婚したほうがいいぞなどという超特大のお節介をやかれるのだ。
しんどい時にひとりは辛いぞ、そういう時にそばにいてくれる人がいたらどんなにしあわせか、特におまえみたいなやつは絶対誰かがいたほうがいい、だからおまえも早く結婚しろ、そういう話いっさい聞かないけど付き合ってる子とか好きな子とかいないのか、もしよかったら俺が紹介するぞ。
すさまじく大きなお世話である。髙羽のそばに誰かがいた方がいいという意見には羂索も同意できるが、それ以外はお前には関係ないだろの一言だった。その誰かのポジションはすでに羂索が埋めている。現時点では相方として、ではあるが他の誰にも髙羽のそばを譲る予定はない。
だというのに、そんな羂索の心情など知らない髙羽は未だ上手く躱せないまま、ひたすらまごまごとしている。すっと答えればいっそ話も変わるかもしれないのに、上手い返しが出来ないから余計に追求の手が止まらない。へらと笑ってはいるが、羂索じゃなくても分かるくらいあからさまに困っていた。分からないのは髙羽の隣を含めた酔っ払いだけである。
こういった場での躱し方を学ばせるために席には戻らず部屋の入口の方でひとまず静観していたのだが、いい加減助け出したほうがいいかもしれない。そう思って席に戻ろうとしたところ、聞こえてきた会話に羂索の動きはぴたりと止まった。
「好きな子がいないとしても、好きなタイプくらいはあるだろ。年下がいいとか、髪が長いのがいいとか」
「えっと、その……髪は、短いほうがいい、かなぁ?」
「お、なんだ、やっぱりお前にもちゃんとそういうのあるんじゃないか。他には? もっとなんかないのか?」
「……美人よりはかわいい系?」
「ってことは背もちっこい方がいいのか?」
「そうっすね、俺よりは小さい子の方がいいっすね」
おまえより大きな女なんてそうそういないだろ! と、なにが面白いのか笑いながらばんばんと髙羽の背中を叩く先輩の姿にようやく羂索の硬直が解けた。
「髙羽」
「あ、羂索!」
席に戻ってきた羂索に分かりやすく髙羽が安堵の表情を浮かべる。そんな髙羽の腕を取って立たせると羂索は先輩に向かって嫌味なほどに柔らかい笑みをつくった。
「すみません、私たち明日朝から収録なのでそろそろ失礼しますね」
「……っお、おう、もうそんな時間か」
おまえらも最近いそがしくなってきたもんな、そうかそうかよかったな大変だろうけど明日の収録がんばれよ。羂索の笑顔の裏にあるそこはかとない威圧感に気づいた先輩が早口にそう続ける。
蚊帳の外となった会話の内容に疑問符を浮かべている髙羽を敢えて無視すると、羂索は掴んだ腕を引いて足早に部屋を抜け出した。髙羽の言いたいことは分かるが、分かるからこそ余計なことを言われる前に帰りたい。三時間もいたのだから付き合いとしては充分だろう。するべき挨拶はもうとっくに済ませているし、あの部屋の状態では誰が抜けようが入ろうがもう細かく覚えている人間はきっといない。
「なあ、俺たち明日の収録夕方からじゃなかったっけ……?」
「ああでも言わないと、いつまでもずるずる居続けることになるでしょ。義理は果たしたんだからもう充分だよ」
案の定、疑問符の理由は明日の収録時間についてだった。この男はいつまで経っても嘘も方便という言葉を覚えはしない。
「あとさぁ、いい加減ああいう相手のあしらい方覚えなよね。酔っ払いの話なんていつまでも馬鹿みたいに付き合わなくていいんだから」
「いや、まあそれはそうなんだけど、世話になった先輩だし……あと俺にしては今回ちょっとは頑張ったほう、」
「あれで?」
羂索の言葉に、ぴゃっと髙羽の肩が跳ねる。
居酒屋の近くに停まっていたタクシーをつかまえて乗り込んだら、あとはもうお決まりのコースだ。打ち上げの話から今日の収録。尽きることのないダメ出しはどちらかがタクシーを降りるまで終わらなかった。
いつもと言えばいつもの光景。
いつもではなかったのは、羂索の胸の内だけだった。
隠すことでもないし特別隠している気もないが、羂索は髙羽史彦が好きである。
それは相方として、などという仕事仲間や友愛の情ではなくしっかりと色恋が絡むものだった。
羂索はあまり物や人に執着したことがない。人生の規範は面白いものが見たい、という一点で、人や物が生み出す面白いものを求めることはあっても、人や物自体を欲することはほとんどなかった。
その初めての例外が髙羽だ。
つまらない、と思っていたものが面白いに変わったあの一瞬の煌めき。巻き込んで巻き込まれて、いつの間にか一緒にいること自体が面白いに変わっていた。その感情が面白い、だけじゃないことに気づいたのはもうどのくらい前のことだろう。
髙羽が自分じゃない誰かと笑っているといらいらする。笑っているだけではなく、他の誰かに泣かされていてもいらいらする。特に不当な理由で泣かされていた場合はひどかった。例え髙羽が泣き止んでもいらいらが収まらない。だからそんな時はしっかり相手に報復して、それでも足りない分は髙羽を構い倒して気を休めていた。
逆に髙羽が自分の隣で笑っているとひどく安心する。たのしい。うれしい。ふわふわする。元々の顔に愛嬌があるせいか髙羽の笑顔はまるで子どもみたいで、その子どもみたいな笑顔が今まで見たどんな面白いより羂索に充足感を与えてくれた。なのに、その笑顔を見るたび何故だか頬をぎゅーっとつねってみたくもなる。
ちなみに、羂索が自分の気持ちを自覚したのがその何故を解明するために実際に髙羽をつねってみたときだった。理由の分からない突然の羂索の行動と、遠慮なくつねられた頬の痛みで涙目になった髙羽を前に出てきた羂索の感情は「かわいい」だ。
かわいい。
間違ってももう少しでアラフォーになるかという自分と身長が大して変わらない成人男性に出てくる言葉ではない。そこでやっと羂索は自分の気持ちに気づいた。
そうか、これがキュートアグレッションというやつか。今まで何かをかわいいと思ったことがなかったせいでまったく気づかなかった。自分の隣で髙羽が笑っていると心が満たされるのも、髙羽の隣に自分以外の誰かがいると不快なのも、笑顔も泣き顔もぜんぶ自分のものじゃないと気に食わないのも、その理由は髙羽が好きだからだ。
人を好きになることなんか今までなかったため自分の気持ちに気づくのがだいぶ遅れてしまった。だが、気づいてしまえば羂索の行動は早かった。
羂索は欲しいものは何がなんでも手に入れる性質だ。それを手に入れるハードルがどれだけ高くても、解決しなければならない問題がどんなに多くても、それに対する努力は厭わない。実際、今まではそうして自分の望みを叶えてきた。
しかし、今回ばかりは話が別だ。羂索が欲しいのは髙羽が生み出す何かではなくて、髙羽史彦そのものである。
今まで欲しいと思ってこなかったもの。今までの羂索の経験で手に入れたことがないもの。
これまで培ってきたノウハウはほとんど通じない。人心掌握にはそれなりに自信があるが、別に髙羽を自分の思い通りにしたいわけではない。傀儡では意味がないのだ。髙羽自身から生まれた気持ちで羂索をそういった意味で好きになって欲しい。何をどうしたらいいか、正直なところ羂索も手探りだった。
とりあえず、何事も最初は観察からだ。敵を知り己を知れば百戦殆うからず。まずは改めて髙羽自身を知ることからはじめ、それと同時進行でなるべく最短ルートでいけるように外堀だけは埋めていくようにした。
その結果分かったことは、とにかく髙羽がにぶい、ということだった。
観察する前から薄々分かってはいたが、髙羽はまったくモテないわけではない。じゃないほう芸人扱いされることはそれなりに多いし、羂索と長く付き合える時点で髙羽もネジがぶっ飛んではいるが、根はお人好しのたぐいだ。髙羽自身が人といることが好きなタイプでもあるから、付き合いが長くなれば長くなるほど人から好かれる人種でもある。
現に、羂索が観察していた間でも芸人仲間二人、スタッフの女の子一人からは明らかにそういった感情を向けられていた。前者の二人は髙羽が気づく前に羂索が牽制してことなきを得たのだが、スタッフの子のほうは年齢がまだ二十歳そこそこで、すぐさま何か行動にうつすようにも見えなかったため牽制の優先順位を一番下に置いていた。ほかの二人の方が危険度が高かったのは事実だし、その優先度を間違っていたとは思わない。
だが、かと言って髙羽から一瞬でも目を離していいものでもなかった。
ある日のことだ。自販機でコーヒー買ってくる、と楽屋を出ていった髙羽がいつまで経っても帰ってこない。いつもだったらもうとっくに帰ってきていいはずなのに。
迷うような場所ではないが何かに巻き込まれている可能性もゼロではない。いい加減、探しに行ったほうがいいだろうかと羂索が思い始めた頃、いつもの倍以上の時間をかけてやっと髙羽が帰ってきた。
「やけに遅かったけど、どこの自販機まで行ってたの?」
「いや、自販機は突き当たりのいつものとこだけど、そこでちょうどスタッフの子に会ってさー、付き合って欲しいって言われて」
「……は?」
「いや、ほらあのいつも笑顔で元気に挨拶してくれる子。二十歳くらいの」
「…………付き合ってって、どういうこと?」
「それなんだよなあ。俺も分かんなかったからどこに? って聞いたんだけど、そしたら何か固まっちゃって。そうこうしてるうちに別のスタッフさんがその子呼びに来たから、そのままうやむやになっちゃってさ。なんか運んで欲しいものとか一緒に行って欲しいところがあったんだと思うんだけど」
なんだったんだろ、と首をかしげる髙羽に羂索は声を出して笑った。
相変わらず予想の斜め上をいく。そんな使い古されたコントでも見ないようなことをする人間が未だにいるのかという驚きと安堵。
だが、ひとしきり笑ったあと羂索はそのスタッフの子に自分の姿を見て恐ろしくもなった。羂索が告白してその子の二の舞いにならないとどうして言える。彼女の年齢が髙羽とはひと回り以上離れていたせいもあるのかもしれないが、まったく告白をされたのだと気づいていない。
羂索と彼女はもちろん違う人間だ。年齢も違うし、性別も違うし、髙羽との関係性も違う。なにか一つでも違ければ結果は変わってくる。それに羂索は彼女ほど無謀ではない。髙羽を手に入れるために誰よりも手を尽くしている自信はあるが、だからといって勝算も無しに行動を起こす気もなかった。せめて勝算が九割を越えないと。
だが、ここで羂索の胸に暗い影が落ちる。
──でも、勝算が九割を超えるのって一体いつの話なんだ?
こんなに髙羽がにぶくて、九割を超える日なんて果たして本当に来るのだろうか。
今までは望んだものを手に入れるまでに失敗したとしても、次の手いこう、次々! と、すぐに切り替えて別の策を講じてきたが、今回ばかりはそうはいかない。正直、絶対に失敗したくない。もし失敗したら今までのように次々! なんてメンタルになれるとは到底思えなかった。
おかげで外堀ばかりが埋まっていく。この件で少しでも目を離すと危ないということがよく分かったので、それからは以前にも増して周りへの牽制は厳しくなった。周囲の人間はもういい加減気づいている。気づいてないのは髙羽だけだ。
最近では何かにつけ髙羽という名前の前に「私の」という枕詞をつけているのに、髙羽だけがまったく気にも留めていない。
「私の髙羽に何か用ですか?」
「私の髙羽なら今は楽屋にいますが」
「ええ、私の髙羽ですから」
私の、と呼ばれるたび嬉しそうな顔はしているが、髙羽は羂索と出会うまで相方に恵まれてこなかったせいで如何せん相方という存在自体に夢を見ているところがある。
「私の髙羽」を「私の相方」くらいの意味合いで受け取っている可能性が非常に高い。下手をすると、相方の正当な距離感をこれだと思っている可能性すらある。阿呆か。そんなわけあるか。
非常に頭が痛い。羂索の一番の敵は、自分たちの周囲よりも髙羽のこのにぶさだった。
これだけ羂索がまわりに牽制をかけても何も気づかない髙羽をにぶいの一言で片づけていいのだろうか。一歩間違えれば、馬鹿の域だ。それに振り回されている自分も馬鹿だと、若干腐りかけていた頃そういえば、と一つだけ思い出したことがあった。
だいぶ前になるが、髙羽がこんなことをこぼしたことがある。小さいときの自分は他人に厳しい嫌な子どもでクラスメイトからはいっぱい嫌われていた、と。
やたら孤独を嫌うのはこのせいか、と聞いた当時は思ったのだが、きっとこの件が髙羽に残したのはそれだけではなかったのだろう。
おそらく髙羽はにぶい、というより自分が誰かの特別な好意の対象になるという意識があまりないのだ。
いっぱい、というのが感情の度合いなのか人数なのかは判断が分かれるところだが、とにかく髙羽が小さい頃に人から好かれなかったのは事実なのだろう。そういった幼少期の経験が刷り込まれてきっと今の髙羽ができている。そう思えば、髙羽のこのにぶさにも多少なりとも納得ができた。
まあ、納得したところで羂索が外堀しか埋められていないことに変わりはないのだが。
いつまで経っても九割を超えない勝算に、羂索もどうするのが正解なのか最早よく分からなくなってきている。根本的な解決方法としては、小さいときの髙羽に会って人からの好意に関する感受性を育てるのが一番だが、流石の羂索も時は渡れない。そうなるとやはり現状でやれることをやるしかない。すると結局話は元に戻ってしまう。
告白するなら今だ、という気もするし、今じゃないという気もする。そんなこんなで勝算九割が見えないまま、ずるずると外堀ばかり埋めて、気づけば本丸を落とすタイミングを見逃しまくっていた。
そんなときに訪れたのが、先の打ち上げでの髙羽の発言である。
恋人云々以前に、髙羽の口から好きな子や好きなタイプの話が出たことなど今まで一度たりともなかった。何らかの場でそういった話になったとしても「いいの! 俺の恋人はお笑いなの!」と笑って言うばかりだったのだ。
だから、たとえ打ち上げの席で先輩のお節介に話を合わすためだったとしても、あんな話を髙羽から聞いたのは初めてだった。
──髪が短くて、美人よりはかわいい系で、髙羽よりも身長が小さい子。
見事に自分とは正反対だ。髪は一般的に見ても長髪の部類だし、ファンや髙羽からの顔面評価が塩顔イケメンというからには可愛いよりは美人に寄るだろう。身長だって髙羽より少し大きいくらいだ。
別になにかを期待していたわけではないけれど、全くもって掠ってもいない。なんなら見事に自分とは正反対だ。
しかし、だからこそ好機ではないかと羂索は考えた。
現状は明らかに煮詰まっている。何かしらの大きな変化がないと、このままずるずると外堀ばかり埋めることになるのは明らかだ。というかそろそろ埋める外堀もなくなりそうなのだ。
ならば、髙羽の好みに合わせて髪を切ってみるのもいいのではなかろうか。
そもそも特になにか理由があって伸ばしていたわけではない。ほぼほぼ惰性だ。切る理由がいままでなかったから伸びるに任せていただけ。
ずっと長いままだった髪を短くするとなるとイメージ云々、ファン云々という影響が人によってはあるかもしれないが、羂索はそこに重きをおいていない。俳優でもなければ演技畑で仕事をしているわけでもないのだから、そんなのは羂索にとって塵芥にも等しい瑣末事だった。
羂索にとってなによりも優先すべきは髙羽である。
髪を切ることで砂粒ひとつ程度でも髙羽に関することでメリットが生じるならそれをしない理由はなかった。
何かしらいい反応が出ればそれで良し。もしなかったとしても、それはそれで別のアプローチが出来るかもしれない。いま羂索が一番欲しいのはこの煮詰まった状況に対する変化だった。
○
うなじにあたる風を久方ぶりに感じながら、羂索は楽屋に向かって廊下を歩いていた。
いつもならば背に流れる黒髪はすっかり長さを変えて、耳のあたりで毛先がさらさらと揺れている。
昨夜の打ち上げでの話を好機として受け止めた羂索は、先ほどヘアーサロンでばっさりと髪を切ってきた。それなりの長さだったので切る前に、本当にいいんですか? と担当した美容師に確認をされたが、いざ切ってみれば反応は上々だった。
終わった後の担当美容師からの、元がいいからなんでも似合いますね、から始まり、テレビ局に到着してからすれ違うスタッフや番組関係者の人たちの反応も好意的なものばかりだ。
別に髙羽以外からの反応なんてどうでもいいが、髙羽の審美眼はそこまで一般的なものと外れていない。他からの評判が良ければ髙羽の反応もそれほど悪くはないだろう。
もちろん、これひとつで髙羽が手に入るなんてそんな単純なことは思っていない。いくら髙羽だってそこまで単純じゃないし、そもそもそこまで単純だったら羂索はこんなに苦労をしていない。それでも髙羽の好みに一歩近づいたことは事実だ。少なくとも悪い結果になることはないだろう。
毎日面倒だと思っていた髪を乾かす時間もこれからは減るし、いちいち髪をしばる手間もない。髙羽のことを抜かしてももっと早く切っておけばよかったな、と羂索は思った。今のところメリットしか感じない。
はやく髙羽に会いたい。果たしてどんな反応が返ってくるだろう。髪が短い、の短さの度合いが分からなかったのでとりあえず耳にかかるくらいまで切ってみたが、少しでも髙羽の好みに合えばいい。
今までどれだけ頑張っても開かなかったドアの鍵を見つけたような心地に自然と羂索の足取りは軽くなった。この鍵で合っているかは分からないけれど、鍵を見つけられただけ少しは前に進めている。今までは鍵すら見つからなかったのだ。
我ながら浮かれているな、と羂索は苦笑した。
終わりの見えない膠着状態は思っていたよりも自分を疲弊させていたらしい。髙羽の反応が楽しみでしょうがない。
ようやくたどり着いた楽屋の前。なるべくいつも通りを心がけたけれど、自然と浮かぶ笑みは如何ともし難かった。わざわざ仏頂面で入る理由もないのだから、まあこれくらいは許容の範囲内だろう。
付き合いの浅い者が見たらいつもより雰囲気が明るい程度、だが見る人が見れば明らかに上機嫌な空気をまとって羂索は楽屋のドアを開けた。
「おはよう、髙羽」
「おー、羂索おは、よ……」
座布団に座ってテーブルに台本を広げながら今日の収録内容を再確認していた髙羽が振り返る。いつもと同じ挨拶を返した髙羽は、いつもと違う羂索を見て錆びついたロボットみたいに固まった。思っていたよりも大きな反応に手応えを感じて、羂索は心の中でちいさく笑う。
「え、え、羂索……!?」
「ちょっと、なにそんなに驚いてるの」
硬直から回復した髙羽が慌てたように羂索の方に近寄ってくる。
「驚いてるのって……だ、だって、か、髪……」
「ああ、これか。さっきここに来る途中で切ってきたんだ。どうだろう、似合わないかい?」
「えっ、いや、もちろん今のもいいけど……でも、」
──あんなに似合ってたのに、と惜しむように続ける髙羽にふわふわと浮ついていた羂索の気持ちがぴたりと止まった。
「似合ってたし、きれいな髪だったからちょっと勿体ないなって……あ、もちろん今のもすっげえかっこいいからな! ほら、羂索と会ったときからずっとあの髪型だったからなんか寂しいっていうかなんていうか……」
羂索相手にお世辞なんていう人間じゃないから、かっこいいというのは本心なのだろう。
だけど、なんだか思っていた反応と違う。
喜ぶとまではいかなくても、好意的に受け止められると思っていた。
こんなフォローを入れるような言い方ではなく、似合うだのかっこいいだのの言葉がもっとすんなり髙羽の口から出てくると思ったのに──。
おかしいな、と思ったらもうだめだった。
羂索の胸にぽつりと真っ黒い影が落ちる。
なんだか馬鹿みたいだ。
これで少しは状況が変わるかもなんて、一縷の望みをかけるようならしくないことをして。
望んだ結果にならなかったから、と勝手に裏切られたような気持ちになって。
言葉は選んでくれているが、結局髙羽が言っているのは前の髪の方が好きだったということだ。どことなく残念そうな表情をしている髙羽に羂索の心は余計にささくれ立つ。
なんだ私が髪を切ってはいけないのか? 君の好みに合わせる資格すら私にはないのか?
髙羽は決してそんなつもりで言っているわけではないのだろうけど、自分の髙羽への気持ちまで否定されているようで胸に落ちた影はどこまでも羂索の中を広がっていく。
あんなに似合ってたのに。
あんなにきれいな髪だったのに。
直接口には出してはいないが、その後に続く言葉はきっと「なんで」だろう。嘘がつけない髙羽はときおり口よりも表情の方がよほど雄弁になる。
あんなに似合ってたのになんで、あんなにきれいな髪だったのになんで。
ぎしぎし、と身体の中で何かが軋む音がする。
髙羽の「なんで」に対する答えなんてひとつしかない。髙羽に少しでも恋愛対象として好かれたいから髪を切った。少しでも意識してもらいたくて髪を切った。ほんの少しでもいいから今の状況に変化が欲しかった。そもそも自分は髙羽の恋愛対象すら知らない。わざわざ確かめる機会もなかったし、たとえ違ったところで諦める気はなかったから知る必要性もなかった。でも、もしヘテロだったらそもそも恋愛対象にすら入っていないのだ。多数に属するからこそマジョリティと言う。だから確率としてはそちらの方が高い。なのにこんな無駄な行為をしてしまった。無駄と思ってもやらずにはいられなかった。ぜんぶぜんぶ髙羽が好きだからだ。
なんでここまでして伝わらないんだろう。
なぜ自分ばかりが髙羽に振り回されなければならないんだろう。
──不意に、もういいかと思った。
諦めるつもりはないけれど、一度くらい玉砕してみるのもいいかもしれない。気持ちが伝わらないくらい何だって言うんだ。別に振られるわけじゃない。ただ意識されていないことを再確認するだけだ。
次の手を考えよう、なんて前を向けるまでにどれくらい時間がかかるか分からないけれど、こんな馬鹿みたいな状況がいつまでも続くよりはよっぽどマシだ。
「……あのさ、髙羽。髪切った理由知りたい?」
「え、うん……突然だったから、気になるっちゃ気になるけど」
ずっと告げずにいた気持ちは、口にしてみればなんとも呆気なかった。
「君が髪が短い子が好きだって言ったから」
「……へ?」
「昨日、君そう言ってただろ。だから切ってきた。君が好きだから。理由はそれだけ」
……あーあ。とうとう言ってしまった。覚悟をして言ったとはいえ、だからといって楽しいものではない。
告白ってこういうものだっけ。自分は経験したことはないけれど、もっと不安と期待に揺れ動くものなんじゃないのか。こんなに諦めムード一色の告白でいいのか。自分だって出来るなら少しは期待を持って告白したかった。
分かりきった答えを正面から受け止める気持ちになれなくて、どうしても視線が髙羽から外れる。
結果なんて言われる前から分かっている。なんといっても「私の髙羽」を「私の相方」として受け取るような男だ。君が好きだから髪を切ったと言ったところで、それすら仲の良い相方の距離感として取られるに決まっている。「俺もおまえのことは好きだけど?」とか「俺も相方の好みに合わせて髪型変えたほうがいい?」とか的はずれなことを言うに違いないのだ。
慣れないことまでして髙羽のにぶさの前に惨敗して、果たして立ち直るまでの時間はどのくらいか。本当はしたくないけれど、せめて数日は髙羽とも距離を置きたい。だって、羂索の繊細微妙な男心などまったく知らない能天気な髙羽を前にしたらぜったい傷口をえぐられる。気晴らしに一週間ほど旅行に行くくらいは許されるだろうか。正直なところ一週間程度でどうにかなる話じゃないだろうけど、出来ればそれくらいでどうにかしたい。羂索だって好き好んで髙羽から離れたいわけじゃないのだ。でもやっぱり一週間で立ち直るのは流石に難しい気がする、と気持ちを荒ませながらそんなことをつらつらと考えていたのだが、待てど暮らせど返事が返ってこない。
どうせ答えは分かっているんだから、早く言えばいいのに、と視線を前に戻して羂索は息を呑んだ。
「……え」
羂索が想像していたような髙羽はそこにはいなかった。
羂索の告白を相方として当たり前のように受け止める髙羽も、羂索の言葉の意味を理解できなくて不思議そうな顔をする髙羽も、そんなものはどこにもいない。
赤い。
真っ赤だ。
目の前の髙羽は顔を赤くしながら、羂索の告白に驚いたように固まっていた。
「髙羽……?」
「……っ」
羂索の声に我に返った髙羽がさっと顔を逸らす。
赤くなっていた顔が見たくて羂索がその先を覗うと、今度は別の方向に逸らされる。追って逸らされて、また追って。そんなことを何回か繰り返したらとうとう髙羽はしゃがみ込んでしまった。膝に顔を埋めてるせいでもう何処からも顔が見えなくなってしまっている。
ほんの少しでもいいから見えないだろうか、と髙羽の前に座り込むと離れてくれとでも言うように片手で遮られた。
「わ、わるい……っ、でもごめんっ、いまちょっとこっち見ないで」
難しいことを言う。隠されたその先が見たいのに。
目の前にあるその手を取ってみると、掴んだ手ごとびくりと震えた。咄嗟に髙羽はその手を引っ込めようとしたようだが、羂索はそれを許さなかった。
逃げることを諦めた手がじわじわと熱をもつ。
思ってもみなかった反応に羂索はそわりと胸が浮き立つのを感じた。
「……羂索」
「なに?」
「手、いつまで握ってんの……?」
「んー、君が顔見せてくれるまで?」
髙羽から困ったようにちいさく唸る声がする。
もしかして、もしかするのだろうか。
さっきの赤い顔の理由を自分の都合のいい方に受け止めてもいいのだろうか。期待してもいいのだろうか。
だって、あんなに顔を赤くして期待をするなっていう方が無理だ。というかなんで隠すんだ。あんなにかわいかったのに。もっと見たいのに。
どうしたら顔を上げてくれるのだろう、どうしたらさっきの顔をもう一度見せてくれるのだろう、最短で見られるまでの最適解はなんだ、そんなことを羂索が考えていると膝に顔を埋めたままの髙羽からちいさな声がした。
「あ、あのさ……」
「うん、なに?」
「い、一応確認なんだけど、好きってそれ……どういうタイプの好き……?」
「うーん、……君の粘膜の熱さが知りたいタイプの好き?」
「い、言い方ぁ……っ」
羂索の答えに髙羽の顔がもっと膝に埋まってしまった。顔どころか、とうとう耳まで赤くなった髙羽はこの体勢にもうあまり意味がないことに気づいていない。
思っていた以上の反応に羂索の顔から思わず笑みがこぼれる。なんで私の告白はちゃんと受け止めるんだよ、君。
さきほどの直截な言い方はともかく、髙羽は羂索からの「好き」をちゃんと正しい意味で受け取っていた。今までは誰の好意にも気づかなかったのに。羂索からの好きにだけ反応した。
つまりそういうことだ。都合よく受け取っている、と言われてもどうやったって他に考えようがない。
いつからだろう。いつから髙羽は自分のことが好きだったんだろう。一度たりとも失敗したくない気持ちが大きくて、きっと羂索は髙羽のことが見えているようで見えていなかった。
「私の髙羽」という言葉に浮かべていたあの嬉しそうな表情はきっとそういう意味だったのに。なんて無駄な時間を過ごしてしまったのだろう。なんて勿体ないことをしてしまったのだろう。きっと見逃してしまったものが沢山ある。
今まで無駄にしてしまった時間を思うと目の前の顔が見たい気持ちがより強くなった。もう一秒でも無駄にしたくない。
「君さぁ、髪が短くて美人よりかわいい系で君より背が低い子が好きなんじゃなかったの?」
「……う゛」
「かわいいとか背が低いとかはひとまず置いておくとしても、髪が短い子が好きなら今の私の方がよっぽど君の好みに近いと思うんだけど、さっきの言い方だと君は前の私の方がいいんだよね? 髪が長い私の方が好きなんだよね、ねー?」
正攻法よりは絡め手でいった方が良さそうに思えたのと、今まで振り回された意趣返しも含めて少々意地悪く言ってみる。髙羽の気持ちが分かった今となってはそれほど傷ついてはいない。だけど、何故という疑問は残る。
罪悪感に訴えて答えを待っていると、案の定おずおずと髙羽は膝から顔を上げた。といっても見えたのは顔の上半分にも満たないし、俯きがちなせいで少し影になってる。だけど、ぜんぶ隠されるよりはずっといい。
「別にそんなこと言って、……いや、ごめん。あの言い方だとそういう風に聞こえたよな……なんか、俺の知ってる羂索がどっか行っちゃったみたいでちょっとびっくりしただけ。だから、その髪のお前が嫌なんじゃないよ。かっこいいっていうのも嘘じゃない」
「いいよ、言うほど気にしてないから。そもそも私が勝手に切っただけだし。でもなんであんなこと言ったのかなって」
羂索とはまったく反対の髙羽の好きなタイプ。髙羽が自分を好きだというのなら、どうしたって出てくることのない要素ばかりだ。
「いや、それは、その……」
すぐに返ってくるかと思った答えはいつまで経っても返ってこなかった。髙羽は困ったようにあーとかうーとかひたすら呻いている。髙羽にも理由が分からないというのならしょうがないが、この反応だとそういうわけにも見えなかった。分からないことを分からないままにしておくのは羂索の信条として気持ちが悪い。髙羽のことなら尚更だ。
「ねえ、髙羽」
教えてよ、と埒が開かない髙羽を促すように名前を呼ぶ。
すると、散々時間をかけた後に視線をうろ、と彷徨わせると髙羽はようやくその理由を答えた。
「だ、だって、好きな子とか好きなタイプって言われてもおまえの顔しか浮かばねえんだもん……っ、だから、ぜんぶおまえと反対のこと言ったんだよ」
震えた声でそう言うと、髙羽は耐えきれなくなったようにもう一度顔を膝に埋めてしまった。
ぶわっと羂索の身体が熱くなる。くらり、と思わず目眩がした。
髪が短くて、美人よりかわいい系で、髙羽より身長が小さい子。
髙羽が言った好みの正反対が羂索なんじゃなくて、羂索の正反対がそれなのだ。
出鱈目を並べようにもそれが出来なかったから。好きな子と言われても羂索の他に思い浮かばなかったから。
なんだこのかわいい生き物。なんだこのかわいい生き物。なんだこのかわいい生き物。
いいのか、こんなかわいい生き物が存在して。いいのか、こんなかわいい生き物が私のことを好きでいて。
愛しいという気持ちが溢れ出して止まらない。幸福感で窒息しそうだ。羂索の身体を満たすそれが混ざり合って、触れたいという衝動に変わる。
「髙羽」
「……なに」
「キスしたい」
「……っや、やだ!」
「なんで? 顔あげてよ。ほら、こっち向いて」
「~~~~っやだ! 絶対やだ! 俺いまめちゃくちゃ変な顔してる!」
「その変な顔にキスしたいんだよ。ねえ、髙羽お願いだから顔見せて、絶対かわいい」
「三十五のおっさんの顔がかわいいことあるか!」
ますます閉じこもる髙羽にやっぱりダメかと、と羂索は思ったがある意味この反応は予想通りでもあった。
それならそれでこちらにも考えがある。これから言うことをきちんと分からせるように、掴んだままだった手に軽く力を入れた。
「いいのかい、髙羽。いま君の手の生殺与奪は私が握っているんだ。君にキスするかわりに、君の手にキスしたり舐めたり噛んだりその他地上波では流せないような色々なことをしたっていいんだよ。もちろん君の意志を尊重するけど、君はどっちがいいのかな?」
「……お、俺の意志尊重する気ぜんぜんねえじゃん」
しぶしぶといった感じでようやく顔を上げた髙羽はまるで子どもみたいに拗ねた表情をしていた。拗ねたというか、おそらくどういう顔をすればいいのか分からないのだろう。
熱でじわじわと瞳を潤ませて、林檎みたいに真っ赤な顔をして、視線はそっぽを向いている。
やっと見せてくれた髙羽の顔は想像通りでもあったし、想像以上でもあった。
「うん、やっぱりかわいい」
「……おまえの目ぜったいおかしい」
「おかしくてもいいよ。君にだけだから」
赤くなっている頬にそっと触れる。触れた羂索の手に髙羽は一瞬びくりと固まると、覚悟を決めたようにぎゅっと目をつむった。あまりに子どもっぽい反応に心の中でちいさく笑う。
──今まで散々振り回してくれたのだから、本当は舌くらい入れてやろうかと思ったんだけどなあ。
羂索の心とは裏腹に勝手に欲がまろくなる。自分の望み以上に大切にしたいものが出来るなんて、とちょっと感動しながら羂索は触れるだけのキスをした。
たった数秒のキス。知りたかった粘膜の熱さも分からないキス。なのにこんなに満たされるのはなんでだろう。
ふ、と離れるとさっきよりも瞳を潤ませた髙羽がそこにいた。ともすれば泣きそうも見えるが、たぶんこれは単純に恥ずかしさで死にそうになってるだけだ。
きっと髙羽の恋愛経験値的にもう色々と限界なのだろう。でもただ口づけただけでこんな状態になってしまって、これから大丈夫なのかと少し心配になる。こっちは肉欲込みで好きなのだから、今後は色々なことをさせてもらうつもりでいるのに。その段階までいったら髙羽は一体どうなってしまうのだろう。そう思うと、正直なところ心配よりも楽しみが勝った。
これからしたいこと、してもらいたいことは沢山ある。だけどとりあえず今は、まだ直接はもらえていない言葉がいちばん聞きたかった。
「で、髙羽。改めて訊きたいんだけどさ」
もっといつもの自分らしく表情をつくろいたかったけど、どうしたって顔はゆるんだ。
だってずっと欲しかったもの、初めて心から欲しいと望んだものが目の前にある。
「君の好きなタイプって?」
「~~~~っ俺より身長デカくて髪の短い塩顔のイケメンだよ……!!」
顔を赤くしながらヤケになったように叫ぶ髙羽の腕を引いてそのまま抱き締める。
かわいくて愛しい羂索だけの生き物。
溢れる気持ちのままに、やっと手に入ったそれの名前をもう一度呼ぶ。
「ねえ、髙羽」
好きだよ、と告げると腕の中から「俺も……っ」とちいさな声が確かに聞こえた。