未定ザアザアと、冷たい水が降り注いでいた。
12月も半ばとなったこの時期に、尚哉は服も脱がずに風呂場で座り込んでいた。
冷水が頭の先から足の先まで、ぐっしょりと重たく濡らしている。
本来なら温かな湯気で満たされているはずの場所が、今は冷たい空気で満たされ、俯いて顕になった細く頼りない首筋に、いく筋もの水滴が流れては落ちていった。
顔色はとうに無く、唇は紫色に染まって小刻みに震えている。体は氷の様に冷たくなり、悴んだ体は寒いのを通り越して痛いほどだった。
─── 消えろ……
尚哉は耐える様にギュっと硬く目を閉じて、きつく体を抱き締めた。
─── 流れてしまえ……
強く噛み締めた唇からプツリと音がして、僅かに鉄の味がした。
「──────っ」
(嫌だ……嫌だ…嫌だ嫌だ嫌だ!!)
叫びそうになるのを、手を噛んで抑える。
たまらなく嫌だった。
この、黄泉の匂いが染み付いた体が。
異界を捉えてしまう自分が、怖くてたまらなかった。
冷水を浴びたのは、ほとんど無意識だった。
体に染み付いたこの匂いが、そんなことで消えるわけが無いことは理解っていても、少しでも流れ去ってくれるんじゃ無いかという期待が捨てきれなかった。
ずるりと体が滑って床に打ちつけられる。
もう碌に感覚はなく、自力では動けそうになかった。
(あぁ、情けないな…)
今更だと思っていたのに。
たとえ普通から外れてもそれが高槻の為になるならばと良いと、利用できるものはなんでも利用してやると、そう思っていたはずなのに。
気づいてしまった非日常は、いとも簡単に尚哉の心を苛んだ。
頭上から降ってくる水が頬を濡らし、床を流れて排水溝に吸い込まれていくのを横目で眺めながら、尚哉はそっと目を閉じた。
◇◇◇
………ん!…ドンッ、ドン……ドンッ!!
──ピンポーンピンポンピンポンピンポーン
どんっという何かを叩く様な音とけたたましい呼鈴の音で薄らと意識が戻ってくる。
(……………?)
…ドンッ!!
……かま…くんっ!!深町くん!!
ハッとする。
高槻の声だった。
今日は高槻の所に行く予定だったのだ。連休だからと泊まる約束をしていて、尚哉は高槻のマンションに向かっている途中で引き返してきたことを思い出した。あの後、すぐに風呂場へ直行したので連絡も入れていない。
時間を過ぎてもやって来ず、連絡すらも無いことできっと心配させたのだろう。
聞こえる声は切羽詰まっているし、叩かれているドアの音も尋常じゃない。
「……っ……!」
高槻の声に応えたくとも、冷え切った体では声を上げることも難しかった。
── バキィッ!!
(…えっ?)
今、何かが壊れる様な音がした気がする。
嫌な予感に尚哉は、寒さとは別の意味で顔色を悪くしながら、ドアの修理代に思いを馳せた。
「深町くん!!」
「返事しろ!深町!」
バタバタと家に駆け込んでくる足音と共に聞こえた声に驚いた。高槻1人ではなかったらしい。佐々倉まで巻き込まれてるとは思わなかった。
忙しいはずの捜査一課の刑事を、ほいほい私情で呼び出すのはやめた方がいい気がする。
(さっきのドアは佐々倉さんかな…)
「っおい彰良!風呂場だ、シャワーの音がするぞ!」
「っ!…深町くん!」
バンッと音を立てて扉が開かれた。
ザアザアと冷水を浴びながら床に倒れ込んでいる尚哉を見て、咄嗟に動けなかったらしい。目を見開いて立ち尽くしている高槻が見えた。
「彰良!おい、どうし……っ!?」
遅れて風呂場に入ってきた佐々倉がこの惨状を見て顔色を変えた。自身が濡れるのも構わず近寄ってきて、すぐにシャワーが止められ抱き起こされた。
「彰良、こいつの家には前にもきたことあるんだよな?」
「え……、あっうん…」
「だったら呆けてないで、お前の家に運ぶ準備をしろ!鍵やスマホの場所はわかるな?一応着替えも用意しとけよ!」
「──っわかった!」
2人のやり取りを佐々倉の腕の中で聞いていた。
「深町、悪いが脱がせるぞ」
「……?」
有無を言わさず、濡れて重たくなった服を剥ぎ取られた。尚哉を抱えたまま器用に脱衣所に移動すると、バスタオルで包まれて下着も脱がされる。
「……!」
「あ?仕方ねぇだろ。あんなに濡れてんの履かせとくわけにもな…」
声が出せなくとも、意識はだいぶはっきりしてきたので抗議の目を向けておく。
けれど、佐々倉がいてくれて助かったのは事実だ。あのままだと確実に体を壊していたので、感謝しているのは嘘では無い。
だが、いくら返事がないとはいえ現職の刑事が人の家のドアを破壊するのは、ちょっと…どうなんだろう。
悶々としているうちに高槻が声をかけてきた。
「健司、準備できたよ」
「わかった。じゃ、深町を頼むぞ」
「わかってるよ」
佐々倉から高槻へと受け渡された。
途端にぎゅぅっと力強く抱きしめられて、鈍い体にも朧げに体温が感じられた。思わず、ほぅっと息を吐いて擦り寄ると、高槻はくしゃりと泣きそうに顔を歪めて、体に回された腕にますます力が篭った。痛いくらいの抱擁に何故だか胸が苦しくなって、ぎゅっと目を閉じる。
「おい、彰良!早くしろ」
「あ、うん。ごめん、健ちゃん」
慌ただしく部屋を出て、佐々倉の車に乗せられた。尚哉は相変わらず、バスタオル一枚で包まれた格好で、後部座席に座る高槻に抱き抱えられている。
ふるり、と体を震わす。忘れていた寒さが戻ったようで、鳥肌が立っていた。体の芯から凍えていて、カタカタと震えるのが止まらない。
気づいた高槻が気遣わしげにこちらを見て、コートやマフラーを追加で巻き付けられる。運転席にいる佐々倉が暖房を強くしてくれたのか、暖かい風が微かに感じられた。
じわじわと温まる体につられて、眠気が襲って来る。カクンと首が落ちて、いよいよ目を開けていられない。
「深町くん?───いいよ、寝てなさい。もう、大丈夫だからね…」
遠くから響く高槻の声を聞きながら、尚哉は心地よい微睡へと体を委ねていった。
◇◇◇
連休初日、彰良は朝から忙しなく動き回っていた。部屋中に掃除機をかけ、シーツも洗濯した。更に冷蔵庫をチェックして足りないものを近所のスーパーに買いに行ったところで、約束の時間に迫っていた。
今日は深町が泊まりに来てくれる。
本当は、昨日から泊まれば良いと言ったのだが、仕上げたいレポートがあると言われれば、教職につく身としては、流石に引き下がるしかなかった。
けれど、自分があまりにもガッカリした顔をしていたのか、深町の方から月曜日も泊まると言ってくれたのだ。
『あの、火曜日は3限からなんで、月曜も泊まって此処から行ってもいいですか…?』
おずおずと切り出されたその言葉に嬉しくなって、その場で彼を抱きしめてくるくる回ってしまったのは仕方ないと思う。深町には叱られてしまったけれど、彰良はそんなこと全然気にならないくらいに上機嫌で、最終的には2人でくすくすと笑っていた。
「深町くん、遅いなぁ…」
約束した時間は11時半。もう15分ほど過ぎている。メールを送っても、何の返信もない。
いつも約束の時間の5分前には着いているし、遅れるにしても律儀に毎回連絡をくれるあの子にしては珍しい事だった。
何かあったのでは無いかと不安になる。
昨日はレポートを仕上げていたはずだから、ただの寝坊の可能性だってあるけれど、どうにも嫌な予感がするのだ。
(あと10分たっても連絡が来なかったら、深町くんの家に行こう)
もしかしたら、また体調を崩して倒れているかもしれない。ふと、今日は健司が非番だったことを思い出した。
(そうだ!車出してもらおうっと)
普段は憎まれ口を叩いてはいるが、健司だって深町のことを心配しているのだ。2人で会うときなんか、いつも無理強いしていないかとか、ちゃんと食べさせているのか、とか色々口煩い。
何事もなかったら、健司も誘って3人でご飯を食べよう。2人で過ごしたい気持ちも当然あるが、みんなで食べるご飯もきっと楽しい。
深町だって、嬉しいはずだ。
3人でご飯を食べるときは、いつもより食べる量が増えていることに気付いて、自分と健司が微笑ましく思っているのを、きっと彼は知らないだろう。
それから、彰良は10分経っても連絡が来ないのを確認して、呼び出した健司の車で深町のマンションへと急いで向かった。
「おい、なんかあったのか?」
「いや、昨日も特に何か変わった様子はなかったよ。でも、何度電話してもでないし、メールも返ってこないんだよね…」
「ったく、あいつは──。これで何も無かったらシメるからな。邪魔すんなよ、彰良」
「あはは…、あんまり酷いことはしちゃダメだよ?」
軽口を叩けたのはこの時までだった。
不安ではあったけれど、心のどこかできっと寝坊しただけだと、呼び鈴を押したら慌ててドアを開ける彼の姿を想像していたから。
◇◇◇
さして時間もかからずに彼のマンションに到着して、呼鈴を押した。車の中でも電話やメールを送り続けたが、結局返事はなく、ますます不安が募ってきて、ドア越しに何度も呼びかける。
最初は心配しすぎだと笑っていた健司ですら、流石におかしいと思い始めた様で、さっきから全く遠慮せずにドアを叩いていた。
「彰良、ここの合鍵貰ってないのか?お前はこの間渡してたよな?」
「そうだけど…。僕は貰ってないよ。予備はご実家に預けてあるんだって」
「くそっ!」
ドアを叩く音は、絶対に室内にも聞こえているはずだ。これだけしても何の反応もないことを考えると、ただの寝坊ではないだろう。やはり、体調を崩して倒れてしまっているのかもしれない。
「健ちゃん、どうしよう。電話もメールもやっぱり反応ないよ」
「………壊すか」
「えっ?」
「こんだけやってダメなら、もう非常事態だろ。不可抗力だ。深町にはお前から言え」
「えっ、ちょっ、健ちゃん?!」
止める間も無く、バキィッと音を立てて扉がこじ開けられた。
人の家のドアを壊すのは流石にマズいとは思うが、助かったのも事実。健司の言う通り、非常事態なのだと心の中で言い訳しながら、2人で部屋に駆け込んだ。
結果的に、自分の嫌な予感は正しかったし、健司のドアを壊した判断も正解だった。
◇◇◇
「…健ちゃん、ありがとう」
僅かに赤みの差してきた頬を、そっと撫でながらポツリと呟く。
彰良の寝室に寝かされた深町は、先程までの様子が嘘のように、すぅすぅ、と静かに寝息を立てていた。
「気にすんな」
自分と同じように、顔を覗き込んでいた健司はひどく疲れた顔をしていた。
まぁ、非番の日に急に呼び出されたと思ったら、知り合いの、しかも気にかけている子供が、ぐったりと倒れている場面に居合わせることになったのだから当然だろう。
あの時、目に飛び込んできた光景に、彰良は思わず体が固まってしまった。
目を閉じて、ザアザアと流れる水に体を浸しながら、手と口に血を滲ませた彼を見つけた時は、心の底からゾッとした。
メガネには幾筋もの水滴が流れ、着ているパーカーや、いつもはサラサラと指通りの良い髪が、ぐっしょりと濡れて、重たそうに顔に張り付いていた。
情けないことに、健司が来てくれなければ自分はあのまま動けなかっただろう。
「彰良、悪い。呼び出しだ」
職場からの電話だと、廊下に出ていた健司が苦り切った表情で戻ってきた。彼が非番の日でも呼び出されるのは良くあることなので、電話が鳴った時から予想はついていたことだ。
「そっか…。今日はありがとう。本当に助かったよ。僕だけじゃ、きっと動けなくなってた…」
「気にすんな。仕事で慣れてるってだけだ。それよりも、深町のことちゃんと見といてやれよ」
「うん。わかってるよ」
「そいつが起きたら、一応連絡入れといてくれ。メールを見るくらいならできるからな」
「分かった。必ずするよ」
「おう。じゃあな」
深町の頭をするりと一撫でして、健司は現場へと向かっていった。