未定ピピッと軽快になる電子音とは裏腹に、表示された数字は38.6℃、とかなりの高熱を表していた。
「はぁ……」
朝は37°Cまで下がっていたのに、結局また上がってしまった。熱が少しでも下がると、つい動いてしまうのも良くないのかもしれない。けれど、一人暮らしである以上ずっと安静にしていることもできなかった。
咳も鼻水も出ないから、多分これはストレス性の発熱なのだと思う。
…原因にも、一応心当たりがある。
こんなに体調を崩したのは、何年振りかわからない。前に中耳炎を起こした時でさえ、ここまで酷くはなかった筈だ。高熱で頭痛はするし、ぼうっとしてしまって考え事もままならない。体は寝ている時間が多いからか固まってしまって、鈍い痛みを伝えていた。
けれど、心因性の発熱に解熱剤は効果が無い。
風邪とは違うから、飲んだところでこの熱が下がるわけもなかった。
(頼っても良いのかな……)
頭の痛みに耐えかねて目を閉じると、まだ付き合ってもいない時に、高槻が強引に押しかけてきて看病してもらった記憶が蘇る。
『頼ることを覚えなさい』
とあの人は言ったけれど、どうしても迷惑なんじゃないかと、連絡をすることに二の足を踏んでししまっていた。
いくら高熱とはいえ、これがもう4日も続いていれば、嫌でも体は慣れてくる。
大学は休むしかなかったが、今まで真面目に出席していたし、難波がいるので休んだ分のノートの当ても確保できている。
午前中は37℃くらいに下がってくれて、全く動けないということも無い。日々の家事やご飯だって、熱があっても1人で何とかなっているのだ。
だから、わざわざあの人を呼びつける必要も無いと思ってしまうけれど、ここまで長引いているとなると、隠し通すのもそろそろ難しいかもしれない。
だんだんと眠れなくなってきていた。
寝てばかりだが、高熱が続いて体は疲弊しているはずなのに、すぐに起きてしまうのだ。
ようやく長く眠れたと思っても、その度に悪夢を見ていて、全く眠れた気がしなかった。
瞼の裏に、あの青い提灯の光がちらついて、耳の奥で異界の太鼓の音が鳴り響く。
お面を被った死者の群れが『カエッテキタ』と呟きながら、こちらに無数の手を伸ばして逃げ惑う自分を捉えようとしてきて、下り坂を転げ落ちる。毎回その浮遊感で目が覚めるのだ。
紛れもない悪夢だった。
鏡を見ると目の下には隈が浮いて、高熱でやつれた自分の顔が映っていた。とても人に見せられる様な顔じゃ無いな、と苦笑してしまう程には酷い顔だった。
幸か不幸か高槻の出張も重なって、ここ1週間ほど顔を合わせていない。大学にも来ていない筈だから、きっと自分が休んでいることも知らないだろう。声くらいは聞きたいと、スマホで高槻の連絡先をもう何度も表示しているのに、今の自分を知られたく無くて結局今日まで連絡する勇気が出なかった。
実は昨日、高槻からバイトの連絡が来ていたのだ。もし予定が空いているなら、日曜の調査に同行して欲しいと。それから、一緒にご飯を食べようとも書いてあった。
今日は木曜日。高槻が出張に向かったのは月曜日で、確か明日帰ってくる予定だった筈だ。
調査が終わったら、きっとあの人は夕飯を食べた後、家に泊まらせようとしてくるだろう。
これも、恋人となってからの変化だった。
以前なら調査の後は、一緒にご飯を食べるだけで済ませていたが、恋人となってからは、高槻の方から、なるべく一緒にいられる時間を作ってくれるのだ。
2人の時間が増えるのは自分としても嬉しいが、まだこの体が治る兆しは一向に見られないし、たとえ熱が下がったとしても、日曜日までにこのやつれた顔が、あの鋭い恋人の目を誤魔化せるほどに快復するとは思えなかった。
「なんて断れば良いんだ…?あんまり変なこと書くと心配して押しかけられるかもしれないし…」
熱で思考が散漫とする中、悩みながらも何とかメールを打っていく。
『すみません。金曜の講義が終わった後からちょっと実家に帰らないといけなくて、バイトはできそうにありません。もし、急ぎのものなら今回は他の人とお願いします。』
これは別にまるっきり嘘という訳でもない。実際、先週に実家に帰るように連絡があった。滅多に無いが、いつもは母親からのメールが殆どだったのに、何故か今回は父が電話をよこしたのだ。
……その電話こそ、この発熱の原因だった。
刻々と帰らなければいけない日が近づいているというのもストレスだが、一番の原因は最後に父親に言われた言葉だ。
『────"母さんも寂しがってるぞ?"一回、帰って来なさい。困ったことがあったら、すぐに言うんだぞ。"家族なんだから…"………』
最後の言葉が歪んだ瞬間、頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲って、ぐらりと足下が揺らいだような気がした。まだ何か言っている父親の言葉が耳を素通りしていくのに、声の歪みだけは律儀に感じ取るこの耳が、心底疎ましかった。
頭の芯が痺れたように、思考がうまく回らない。どれだけ尚哉があの家にとって厄介者であっても、最後には頼ることのできる場所だと、お互いに距離はあっても、家族ではあると、そう思っていたのに。
──違ったのだ。
少なくとも、父親は自分のことを家族だと思っていなかった。
目の前が本当に真っ暗になって、いつ電話を切っていたのかすらも覚えていない。その歪みは、尚哉の心の一等柔らかい部分を深く抉って、だらだらと血が流れていないのが不思議な程の痛みを齎した。目が熱くなり、ぼろぼろと涙が溢れて袖口や床を濡らしていた。
気がついたらベッドに寝ていて、体がひどく熱かったのを覚えている。泣き過ぎたのか、頭は鈍く痛むし、目は腫れぼったくなっていた。
前の教訓から準備してあった体温計に表示された温度に、慌てて解熱剤を飲んでも効果は無く、最初の1日はとにかく寝て過ごしていた。スマホで調べて、おそらく心因性の発熱だと分かったものの、自分ではどうにもできず今日に至る。
「う゛っ……ぇ…きもちわる…」
何とか当たり障りのない文章を絞り出し、高槻にメールを送った後、途端に吐き気が襲ってきた。
ふとした瞬間に、父の言葉が脳内で繰り返し再生され、心が疲弊していく。その度に胃が冷たくなるような不快感が襲ってきて、トイレに直行する日々が続いていた。
怠い体に鞭を打って、バタバタと急いでトイレに駆け込むと、先刻飲んだはずの水と少量の固形物が、びしゃりと音を立てて吐き出されていった。
「っげほ、…ぉえ…っ…、は…っ…」
発熱してからというもの、食欲も落ちてしまっているから、吐くのは水が殆どだった。日中は微熱に近くなるとはいえ、体は怠いままなので少しのお粥やおじや、うどんを口に運ぶだけで精一杯なのだ。おそらく碌に栄養も取れていないことは理解っているけれど、自分ではどうにも出来ない。
はぁ…はぁ…、と息を荒くしながら、落ち着かない胃を撫でさすって、これ以上の吐き気をどうにかやり過ごす。
「…っ…は…、ぅう゛……ふぅ」
喉元に迫り上がったものを無理やり飲み込んで、力の入らない体をぐったりとトイレの壁に預けた。中々治らない吐き気が苦しくて、涙が滲んでくるのを腿に爪を立てて、必死で堪える。
もとより傷ついた心に体まで疲弊して、独りでいるのが心細くてならない。今、誰かの体温を感じることができれば、と騒ぐ心を必死に宥めながらも、閉じた瞼の裏にあの優しい恋人の面影がちらついた。
それでも、自分で高槻に頼らないと決めたのだ。自分以上に家族のことで傷を負っているはずのあの人に、こんな自分を見せて良いとは思えなかったから。
ぽたりと溢れた涙を拭うこともせず、尚哉はおぼつかない足取りで、よろよろと一人でベッドに戻っていった。
◇◇◇
耳元で響く着信音に、ハッと悪夢から引き戻された。目尻から涙がこぼれ、顳顬をつたっていく感触が、ここが夢では無く現実なのだと教えてくれる。
(───大丈夫、俺はここにいる…)
目に映るのは、見慣れた部屋の天井だ。
(大丈夫。ここは自分の部屋だ。あれは夢で、俺はあの祭りに迷い込んだりなんかしてない……!)
胸元に添えた手をきつく握りしめて、そう心の中で言い聞かせる。
深く息を吐いて乱れた呼吸を整えながら、重たい腕で、着信音が鳴り続けるスマホを手に取った。思わず、あっと声が出る。そこには、高槻の名前が表示されていた。きっと、送ったメールを見て連絡をくれたのだろう。
今回の出張は、かなりハードなスケジュールで組んだと言っていたから、連絡自体が久しぶりだ。時間を見つけて電話をくれたことを思うと、冷え切った心が僅かに温まるような気がした。
「……先生…」
声を聞きたい。けれど、今電話に出てしまえば自身の不調を隠し通せるとも思えなかった。
切ることも電話に出ることもできないまま、やがてプツリと音が途切れてしまって、真っ暗になった画面に、自分の情けない顔が映り込む。
鳴り止んだスマホを未練がましく見つめながら、尚哉は再び眠りの淵へと落ちていった。
◇◇◇
──ああ、まただ。
逃げなければ。
青い提灯と太鼓の音が響く空間に、尚哉は1人で立っていた。
もう何度も見ているから、これが夢だとは分かっているけれど、恐怖が無くなる訳でも無い。
どれだけ足音を殺しても無駄なのだ。
青い提灯の下、踊っていた死者達が尚哉を目指してやって来る。
『カエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタカエッテキタ』
血の通わぬ青白い手が伸ばされて、波の様にゆらゆらと不気味に揺れている。
走っても走っても、この空間からは逃げられない。いつの間にか、提灯の青い灯りも消えて、真っ暗な道をひたすら下っていた。もう後ろに死者の群れがいる気配は無いのに、走るのを止められない。息が切れて、脚がもつれる。
「あっ!」
ガクンッと力が抜けて、暗闇に身体が放り出された。ふわりと浮いた身体にザッと血の気が引いて咄嗟に体を丸めて衝撃に備えるも、いつまで経っても何も感じない。
───あぁ、落ちてるのか……
内臓が持ち上がるような浮遊感が不快だった。
底の見えない暗闇に投げ出された身体は、このまま永遠の落ち続けていくのでは無いかという恐怖を掻き立てる。上も下も分からず、手を伸ばしても何も掴めない。この落ち続ける空間の中で、確かに尚哉は孤独だった。
「誰か…」
「いやだ…、やだ……もう…」
「………たすけて………先生…」