妖精國パロ 【6話】6.
ソファーに座っていたヴォーティガーンは両腕を組むと「ふむ」と息をつき、肘掛けにもたれかかった。
「洋服を買いたい、ねぇ」
「うん。だから、お金を貸してくれないかな……後でちゃんと働いてその分は返すから! あと、できたら買い物にも付き合って欲しいというか」
「それはなんで」
「どんな服が流行りだとか、その場に相応しい服装は何かとか、私には分からないから……」
ヴォーティガーンは静かに目を瞬いた。
実は、立香が今までしてきた家事や事務整理の仕事を金銭に置き換えても、その金額で洋服を数着一揃えするにはちと足りない。
だがまあそこは心配ない。ドレスの目利きも彼ならできる。ヴォーティガーンは見てくれをあまり重視しないが、確かに立香は地味な服ばかり着ているなとは思っていた。
問題は、何故それを適任のオベロンではなくヴォーティガーンに頼むのか、だ。
蟲の王は足を組み直した。
「なに突然。どうしてそんな色気づいた事を言い始めたワケ〜?」
「色気づいたって、……言い方ァ」
立香はむくれて、それからモジモジと視線を下にやった。
「……、別に、深い意味があるわけじゃないんだけど」
「うんうん」
「くだらない、理由なんだけど」
「はいはい」
「なんだそれ似合わないって、笑ってくれていいから」
「分かった。爆笑してやるから安心して」
ヴォーティガーンの薄っぺらい笑顔を見返して、立香は視線を下げた。
「綺麗に……なりたくて」
そんな少女の告白を、笑う事ができるはずもなかった。
両手を握りしめた立香が不安そうに、上目遣いでこちらを見上げて来る。
「ヴォーティガーン、協力、してくれる……?」
ヴォーティガーンは深く息をついた。そして両手で顔を覆い、ソファーに突っ伏した。特攻が入ったのだった。
□■□
オベロンは、この世界に迷い込んで右も左も分からず、モースに襲われた立香を助け、初めて手を差し伸べてくれたヒトだった。立香にとってそれがどんなに大きな出来事だったのかを、きっと彼は知らない。
その後無理やり身体を暴かれ、その行為は今も続いているけれど、立香は彼を赦した。オベロンが彼女のために用意した居場所は心地良いものであったし、元の世界に帰るための手助けをしてくれるのも有り難かった。
それが立香を懐柔させるためのオベロンの策略であったとしても。今も立香が元気でいられるのは間違いなくオベロンのお陰なのだ。
そんな、真意がなかなか見えないミステリアスで美しい男の子に立香が恋をするのは道理だった。
それなのにオベロンは最近、立香のために花を持ち帰らなくなった。それは近頃オベロンが館を留守にする理由は森の見回りではなく、オーロラやムリアンといった外部の者たちから立香を守るために暗躍していたからだったし、オベロンが送る花を、立香が心の拠り所にしていると彼自身が思わなかったからだ。
そして立香も、オベロンは秘密主義であったからその献身を知らなかったし、自分の存在などオベロンにとって「活力を得るための道具」でしかないと思い込んでいた。さらに先日「きみは閨では素直だけど、普段は強情で可愛くなくなった」と言われてしまったのだ。
それが酷く悲しくて、立香は綺麗になりたいと思った。綺麗になって、少しで良いからオベロンに振り向いて欲しかった。ノリッジへ行って「小刀(=日本の手がかり)」を探すよりも。立香はそちらを優先したのだ。
□■□
ヴォーティガーンは立香をソールズベリーの服飾店へ連れて行った。店棚に洋服が置かれているところを立香は想像したのだが、店内にあるのは布だけだった。
「あれとあれ。それから手前のものを二つ」と指示を出して店員に四本の反物を持ってこさせ、ヴォーティガーンは「立香、おいで」と言って彼女を鏡の前に立たせた。
その肩にパサリと布を当ててやる。
「フォーマルなものとして、白と黒のドレスは必ず用意しようか。君の髪色が映えるように、黄色や鮮やかな青色もいいかもしれないな。秋の森に所属する者として茶の服も欠かせない」
言いながらヴォーティガーンは、また別の布を用意する。
「この國では、冬の女王や妖精騎士が着ているもので流行が左右される。今は胸元や肩ぐりが広く開いたものが好まれてるね。スカート丈の長さは割と自由だけど、足先まで隠れるものは幾つか持っていた方がいい」
立香は、自身の常識がここのものとズレていることに気がついた。
「ゔぉ、ゔぉーてぃがーん……。あの……ドレスを選ぶんじゃ、ないの?」
「今選んでるだろ」
「これ、布……」
「あぁ、布だ。布からドレスを作らずして、何から作るっていうんだ? 糸から用意しろって?」
と、言うわりにヴォーティガーンはニヤニヤしていた。彼女が面食らっているのを察して面白がっているようだ。
「いい事を教えてあげよう。基本的に、金がない中小貴族妖精以外は布から服を作るんだよ。手間がかかって面倒だろう。けれどこれも人間社会を模した結果だ」
「……オベロンとヴォーティガーンはお金がない貴族妖精だよね?」
「フッ……『王様』は上級妖精だ。知らないの?」
つまり彼らに並んで立つということは、立香もそれなりの身なりをしなければならないのだ。
気が遠くなりかけた立香にヴォーティガーンは楽しそうに笑いかけた。
「まだ思考を放棄するな。ドレスだけを用意すればいいと思った? ざーんねん、それは違う。ドレスを新調するなら、下着、コルセット、手袋、靴下、靴も必要だし、化粧品やアクセサリーも格が合ったものを用意すべきだね。さらには小物も入り用だ。鞄にはハンカチと化粧ポーチ。それぐらいは淑女の嗜みとして持っていて欲しいもんだ」
立香はぐるぐると目が回った。
「それってお金がすごく……かかるよね?」
「だから俺にお金を貸して欲しいって言ったんじゃないのー?」
「こ、ここまで入り用になるとは思わなかった!」
「最終的に俺への借金はいくらになるかな☆」
「お金がない王様に借金するの、怖い!」
「よーし、今決めた。完済までしっかり取り立ててやる」
「ふぇええ……」
顔色を悪くする立香を見つめて、ヴォーティガーンがふと優しい目をした。腕を組んで壁にもたれかかり「怖いならやめておく?」と、緩やかに首を傾げる。
「無理に綺麗になる必要なんて、ないんじゃない?」
立香は宵闇に溶けていきそうな美しい男を見つめ返す。そしてこの時、この瞬間が、彼女が初めて妖精國で生きていく「未来」を意識した瞬間であった。
「……ううん、ヴォーティガーン。私、綺麗になりたい」
オベロンとヴォーティガーンと共に立っても気後れをしない自分になりたい。自分でも不思議なほどに強く、彼女はそう思ったのだった。
実際にどのような形のドレスにするかは、店員から変身魔法をかけて貰うことで決めていく。ヴォーティガーンは立香の雰囲気から、少女らしく愛らしいデザインを選ぼうとしたが、立香は「綺麗めのドレスも欲しいな」と言った。
オベロンと踊った女妖精が着ていたようなドレスが良い。もしかしたら立香には似合わないかもしれないけれど。オベロンには「妖精の女王」のような美しい人が似合うだろうから。
急ぎでないドレスは仕立て屋の妖精・ハベトロットに任せて、数着はそのまま魔法で仕立ててもらった。下着や靴下や靴も揃えた頃には夕方になっていたけど立香はちっとも疲れていなかった。頭のてっぺんから足の先まで整え、整備された石段を歩いたとき「ようやくこの世界の住人になれた」と彼女は思ったのだった。オベロンに見出され、ヴォーティガーンに手を引かれて立香は、やっと『今この時』を一夜の夢ではなく現実のものとして受け止めることができた。
ヴォーティガーンと共に秋の森に帰り、少し高台になった丘から妖精國を見下ろす。
「ヴォーティガーン、今日はすっごく助かったよ!」
「あっそう」
「ありがとう」
「良かったねー」
「本当に私、日本でも経験したことがないくらい楽しかった。ドキドキした。……こんな気持ちになれるなんて、思わなかった」
「……」
「ヴォーティガーンのお陰だよ」
そう言って微笑む立香の顔が眩しくて、ヴォーティガーンは目を細める。
「あのね、ヴォーティガーン。ここは……この國は、とても素敵で美しいところだね」
遠くの方にキャメロットの王城が見える。地平まで続く、夕日に照らされた妖精國を共に見た。あぁ……、とヴォーティガーンは嘆息する。
「君のその言葉を聞けば、冬の女王も救われるだろう」
□■□
翌日。足先まで隠れた、黒いシックなドレスに身を包んだ立香をオベロンは二度見した。珍しく表情を取り繕えていなかった。
……今日の彼女はドレスを着ているだけでなく、鮮やかなオレンジの髪がいつもより艶めいている。それに薄く白粉を塗って、唇に紅を差していた。
「どうしたの、それ?」
と、体面を保つことも忘れたぶしつけな質問に立香は少し顔を赤らめた。
「昨日、ヴォーティガーンとソールズベリーに買い物に行ったんだ」
「へぇ……。ヴォーティガーンと」
「そう、それで一緒に選んでもらったの」
「あいつが街へ出るのは珍しいな。ふーん……、そうなんだ」
そう呟いたオベロンは青い靴を鳴らして面白くなさそうに視線を逸らしかけたが、立香がトテトテと不器用に歩き始めたから、呆れたように顔を上げた。
「生まれたての子鹿なのかい? 立香、ドレスの捌き方はやや前方に裾を蹴り上げるようにして進むんだ」
「……蹴るの?」
「一歩分を確保する程度にね。そして俯かない。目線を上げて。首は長く、肩は下ろして。そう、背筋は丸めないで。はい、姿勢を正してグルッとその場で回ってみる!」
「え、えぇ!」
立香はオベロンに言われるまま、そこで一周して見せた。オベロンの指示通り綺麗な姿勢を保つことに必死だったから、彼が立香のドレス姿に見入っていたことには気づかなかった。
作法を簡単に教えてやったあと、オベロンが問うた。
「さて……。で、今日僕らはどこに行こうか。グロスターにも目星のある情報はなかった訳だけど。近々オークションがあるらしいから、漂流物か何かが出品されるのかもしれないね」
立香が「あっ」と声をあげる。
「私、ノリッジに行きたいな」
「ノリッジ? うーん」
「……だめ?」
「あそこは煤の街だ。新調したての服が汚れてしまわないか心配だね」
立香は自分を恥じた。オベロンには、日本に帰るための方法を探す手伝いをさせている。それなのにそれと関係ないことにまで気を遣わせてしまうなんて。
それに……と、立香はドレスを撫でる。なんとなくオベロンは、立香のこのドレスを気に入ってないように感じる。
「……いつもの服に着替えてくる」
「待ちなさい。せっかく綺麗にしているんだからそのままでいたら? ノリッジはまた今度にすれば良いじゃないか。だから、そうだね……、今日はキャメロットへ行くのはどうだろう。あそこは人や物の出入りも多いし、何か情報が手に入るかもしれない」
オベロンのその言葉で、今日の行先は決まった。
□
罪都キャメロット。
昨日ヴォーティガーンと遠くから眺めた王城は、近くで見ると圧倒されるほどに美しい都市であった。隔壁と街並みが多重に広がる様は壮厳で、外敵を阻むために入り組んだ道もその隅々まで手入れが行き届いている。
オベロンが、立香を今日ここへ連れて来た理由もすぐに理解できた。キャメロットにいる妖精や人間は今の立香のように、身なりをきちんと整えている者ばかりなのだ。
オベロンが向かった先は商人ギルドの集会場だった。妖精國全土を練り歩く彼らは話のネタが豊富で、最近流れ着いた漂流物のことや、『異世界』に関する出来事など(情報の精度は別にして)さまざまなが報せが手に入る。話の上手いオベロンはさっそく妖精たちに囲まれた。
この前の飯屋の時と同じような状況だ。
立香はオベロンから少し離れたテーブル席に座り、クスクスと妖精たちと笑い合っている彼を見つめてから自分のドレスへ視線を戻した。皺をそっと伸ばし、隣に置いた花冠を手に取る。
この花冠は、先程オベロンの顔見知りだという花屋の妖精から貰ったものだ。加護や祈りといった特別な魔法がかけられているから大切にしなさいと、少しソワソワしたオベロンが教えてくれた。
立香は、まるで己を慰めるように花冠の花弁のひとひらひとひらを撫でた。そして顔を上げる。
商人ギルドの集会場はとても賑やかだ。妖精や、彼らが連れる人間が数え切れないほどいっぱいいて活発に言葉を交わしている。……だけど立香は孤独を感じた。不思議だった、昨日ヴォーティガーンと訪れたソールズベリーにも妖精や人間は沢山いたけど、あの時は確かに「私もこの世界の住人だ」と思えたのに。
立香は小さくため息をついた。そしてふと、窓の外から聞こえてくる泣き声に気がついた。
彼女がいる窓際の席は集会場の裏手になっている。どうしてそんなところから声がするのかしら、と思った立香は「泣き声が止まないか」としばらく待った。
けれど不安を押し殺そうとする哀しげな声は続いていたし、それは子供のもののようであったし、寂しげな様子と今の自分を重ねてしまって、放って置けなくなった立香は席を立った。
オベロンはまだ妖精たちと話しているところだったが立香が動くとすぐにこちらに視線を寄越してくる。
「あの、オベロン。少し出てきていいかな? すぐ戻るから」
「……気をつけて」
「うん」
背を向けて集会場を出ていこうとする立香を見つめて、オベロンは右の手の平を天に向けた。魔力を込めた掌がぽぅ、と光って、その光は美しいアゲハ蝶になった。
翅をはためかせた蝶が立香を追う。
「人間風情に力を使うなんて。心配性ね?」
オベロンを囲む妖精たちがクスクスと笑う。
「まぁね」と、オベロンも薄く微笑んだ。「……それで、改めて教えてくれるかい? 近状の王都の様子はどんなものかな」
□
集会場の裏で泣いていたのはやっぱり子供だった。そして、頭がロバだった。
立香は久しぶりに妖精國のカルチャーショックを受けてちょっと固まり、「私の言葉ってちゃんと伝わるのかな……」とドキドキしながら声をかけた。
「あの、ね。どうしたの?」
子供はビクッと肩を揺らして、恐る恐る立香を見上げた。
ロバ頭の子供は酷く警戒していた。けれど立香が少女であり、何より人間だったためにやがて「あのね……」と泣いていた経緯をポツポツと教えてくれた。
彼ももともとはただの人間だったらしい。キャメロットに着いた途端に主人とはぐれてしまい、そこらに居た妖精に悪戯をされてロバ頭になった。さらに虐められそうになったから、この路地裏まで必死に逃げてきたという。
話しながらまた泣き出した子供の頭を撫でてやりながら、立香は優しく言った。
「大変だったね。魔法にかけられて、不安だよね。まずはその魔法を解こうよ。その後で一緒にご主人を探そう! 私の連れもきっと手伝ってくれるよ」
手を引こうとすると子供は警戒した。悪戯されたばかりで、本当に立香を信じて付いて行っていいのか疑っているらしい。
立香は「それもそうか」と思ったので微笑んだ。
「それじゃあ、連れを呼んでくるね。ここで待っててくれる?」
「う、ん……」
子供は項垂れた。付いていくのは怖いが、置いていかれるのも不安らしい。
立香は「うーん」と考えて、それから手にあった花冠を子供の頭に飾ってやった。
「大丈夫だよ。ね、私を信じてくれる?」
その瞬間、驚くべきことが起こった。花冠を頭にした子供がキラリと光り、ロバの顔から浅黒い、見目の整った十二歳ごろの美しい少年に姿を変えたのだ。
インド人のような風貌をしたその子を見つめて「男の子だったんだ」と立香は目を見張った。じゃあ可愛い花冠をあげるのは間違いだったかな。……花冠にこめられた加護や祈りの効力で、この子にかけられたロバ頭になる魔法が解けたのかな?
ペタペタと自分の顔を手で触って確認する男の子に「元の姿に戻ったみたいで良かった」と立香は改めて笑いかけた。
「でも本当にちゃんと魔法が解けているか確認しないとね。連れをつれてくるよ」
「……待って」
少年が手を伸ばして、踵を返した立香のドレスの裾をギュッと握った。
立香は振り返って首を傾げる。
「私と一緒に行く?」
花冠を頭に飾った少年がこくこくと頷いた。
立香は笑顔になって少年と手を繋いだ。そして歩き出そうとする、その時だった。
ビュウ! と鋭い風が吹いた。それは鋭角な刃となって立香を切り裂こうと踊りかかってきた。が、目の前を一匹のアゲハ蝶が横切る。鮮やかな翅をはためかせて、襲いかかってきた風の刃をパンッと弾いたのだ。
立香と少年は驚いて、路地の入り口を振り返った。一人の男妖精が憤怒に顔を歪めてこちらに歩いてくる。
「ご主人!」と、少年が声を上げた。「待って、この人は僕を助けてくれたんですっ」
しかし男妖精は再度手をあげた。
突き刺すような風の白刃が間断なく飛んでくる。それらの攻撃は全て蝶が弾いてくれているようだが、怖いものは怖い。あっという間に袋小路まで追い込まれて、震えた立香は心の内で叫んだ。
——オベロン、オベロン!
スカートの裾が足に引っかかる。バランスを崩して声もなく倒れかけた時、グイと手を引かれた。
「おいで」
気がづけば彼女は大きな手に肩を抱き込まれていた。アザミの刺繍が散ったマントの裏地が見える。
それは、オベロンだった。立香を抱きとめた彼が男妖精から彼女を庇うように立ち塞がり、厳しい声音でこう言った。
「この娘は僕のものだ。傷つけるというなら許さない」
だが、と嘆息する。
「この罪都キャメロットで騒ぎを起こすのは止そうじゃないか。話し合いをしよう」
男妖精はオベロンにサッと視線を走らせた。オベロンの魔力量と格の高い風体を確認して一旦は攻撃を練る手を止める。だが視線は鋭かった。
「私の奴隷を連れ去ったのはお前たちか」
「いいや、違う」
オベロンは術式で編んだアゲハ蝶を手元に喚び寄せた。
「僕はこの使い魔を通して観ていた。もともとその子供が路地で泣いていたんだよ。それを僕の娘が心配して声をかけた。……ね、そうだろ?」
オベロンが視線を向けると、子供はこくこくと必死に頷いた。
「花冠を渡してしまったことは本当に申し訳ない。ただ、理由があったんだ。その子供に悪質な魔法がかけられていた。それを花冠に施された加護で解いてやっただけ。決して、その子の所有権がこちらにあると主張したかった訳じゃない」
子供が発言の許しを得た。地面に両膝をつき、胸の前で手を組んで口を開く。
「全てその方の言う通りです、ご主人。ご主人からはぐれてしまった私が悪いんです。私にロバ頭になる悪戯魔法をかけたのは別の妖精。その女の人は、僕を助けてくれただけなんです」
男妖精は少年を可愛がっているのだろう、改めてそう説明されて申し訳なさそうな顔をした。それを見て、オベロンがすかさず陽気に笑う。
「よかったよかった! どうやら誤解は解けたみたいだね。なぁに、よくある事さ、気にしないで☆ こうして出会ったのも何かの縁だ、仲良くしよう」
オベロンの凄いところは、このあと男妖精とすっかり意気投合をして食事まで共にしたことだ。彼は海運業を生業にしているらしく、妖精國の海に詳しかった。
オベロンと立香は地平の向こうに何が続いているのかを尋ねた。
そして知ることができた、この妖精國ブリテン島は完全に閉ざされた世界だということを。海運に使うための海路より外は何もない。文字通り「無」なのだそうだ。異世界から流れ着くチェンジリングがどのように現れるか、海を生業としている彼らでさえ謎らしい。
□
今日も何も成果は得られないまま、日が落ちる前に秋の森の館へ帰ってきた。エントランスホールを通り、二階へ続く廊下を上がるオベロンを立香は見上げる。
「……今日はごめんね、オベロン」
「何がだい?」
「迷惑をかけちゃったから」
「あぁ、人間に花冠をあげたせいでトラブルになったこと? ……まあ、それは良いよ。妖精にとって花冠がどんな意味を持つかきみは知らなかったんだし」
「……」
「妖精國の外海の情報が手に入ったし、夕食もご馳走になった。結果オーライだ! きみにとっては元の世界に帰る方法がまた見つからなくて、残念だったろうけど」
オベロンはこちらを振り返ることなく階段を登っていく。立香は一度口を閉じて、……やはり我慢できず、こう言った。
「オベロン、怒ってるでしょ」
「……」
「今日は初めの時から怒ってた。……どうして?」
オベロンは足を止めた。「きみの勘違いじゃない?」と軽い口調で肩をすくめる。
「僕は別に怒っていないよ」
「ううん。きみのそれは嘘」
ややあって、オベロンが振り返った。浅い笑みを湛えたその表情はまるで仮面のように謎めいていて、ゾッとするほど美しかった。
「……。ただまあ、そうだね。立香は元の世界に帰る手がかりを必死に探しているんだと思っていた。けど、ヴォーティガーンと服を買いに遊びに行くなんて、わりと悠長だなあとは思ったかな」
「それは……、」
言い淀んだ立香に、オベロンはさらに穏やかに畳みかける。
「何かに懸命になっている者はね、普通は心に余裕が持てないものなんだよ。それは妖精でも人間でも同じことさ。……例えばこの世界に流れ着いてしまったきみが、ここでの生活や、僕やヴォーティガーンの存在を受け入れられずに拒否し続けたようにね。……だというのにロバになった子供には隔てのない慈悲をあげるんだから。優しいんだね、立香は」
「……そのせいでオベロンには迷惑をかけたよね。ごめんなさい」
「……。」
オベロンは階段の手すりに手をかけた。僅かに苛立った様子で、立香の謝罪は見当違いだというように黒のドレスを着た少女を冷めた瞳で見下ろす。
「……。あのさあ、立香。ずっと思っていたんだけど」
「うん」
「今日のきみの格好」
「……」
「……本当に自分で似合ってると思ってる?」
口端を上げてオベロンは馬鹿にしたように嗤った。
「一体どんな心境の変化があったんだい? わざわざヴォーティガーンに頼み込んでまでドレスを買いに行くなんてさ。しかも……よりにもよって選んだドレスがそんなのだなんて。背伸びをしているみたいで滑稽じゃないか」
「……」
「……。まあ、僕にはどうでもいいけどね。きみが見てくれを気にするぐらいここの生活に馴染めているようで何よりだとも。うんうん、なら、今度はもう少しドレス捌きが上手くなれたらいいね?」
そう言い捨てたオベロンを立香はひたと見つめ返した。虫を閉じ込める琥珀を思わせる彼女の瞳に、オベロンは内心でたじろぐ。
立香は言った。
「……オベロン。どうしてそんな、遠回しな意地悪を言うの?」
彼女の声は怖いぐらいに静かだった。
「今だけじゃない。さっきだって、この前ご飯を食べに行った時だって、オベロンは私をわざと遠ざけようとした。意地悪を言って、私のことを嫌がってた。どうして? ……私のことがそんなに気に入らない? そんなに私のこと……嫌い?」
ふいに、立香の顔が涙に歪んだ。「だったら直接そう言ってくれたらいいのに」と鋭く詰る。
「オベロンは、私を傍に置いて力を得ること『だけ』が目的なんだもんね? 私のことなんて本当はどうでもいいんだ。分かってたよ」
「———」
「分かってたけど……でも、だったら最初から私に優しくしなければ良かったのに。私のこと、放っておいてくれて良かったのに。私のことなんて『どうでもいい』って初めから言ってくれたら、私だって……!」
「……り、つか」
オベロンが階段を降りてこようとする。
ハッと顔を上げた立香は「来ないで!」と後ろへ下がって身構えた。
「私のことが気に入らないなら、……嫌いなら、もう私に触らないでよ! 私を理解しようとするフリをしないで。『きみの事なんてどうでもいい』って言って! そうしたら私だって、……私だって、オベロンなんて嫌い。大嫌い!」
立香を見つめていたオベロンの顔色がその時、真っ青を通り越してひゅう、と紙のように白くなった。
しかし立香は、己が放った言葉の刃が返す刀となって彼女自身をも傷つけたために、オベロンの絶望には気づかなかった。
立香は館を飛び出した。涙を滂沱のように流して、嗚咽を漏らしながら庭先へ出たとき、彼女は正面から来るヴォーティガーンに気がついた。
彼と目が合って立香はギクリと足を止める。けれどすぐに涙で濡れた顔をサッと逸らして身を捻り、横道を逸れた。
一人になりたかった。行く宛などなかったけれど、無我夢中で走り続けて、獣道をめちゃくちゃに駆け抜けた先に拓けた場所があった。目の前に倒木があったので、立香は地面に両膝をついて縋り付くように泣いた。
酷く惨めだった。このまま涙と一緒に消えてしまいたいとさえ思った。胸が苦しくて苦しくて、潰されてしまいそうなほど打ちひしがれていたのに、後ろから聞こえてくる足音に気がついた。
「あっちに行って、ヴォーティガーン!」
立香は顔も上げず、ひび割れるような声で言った。
「今は私を一人にして!」
しかし草を踏み鳴らすその音は近づいてきた。泣いている立香に構わずすぐ傍まで来て、座った気配がある。そうしてしばらくし黙っていたが、彼……ヴォーティガーンは、やがて口を開いた。
「そんな風に泣いていたら、せっかくのドレスが汚れるよ」
立香は唇を噛みしめた。……ドレスなんて!
「どうでもいい。どうせ私には似合わないから……!」
「いいや、似合う。君と一緒に、俺が選んだドレスだ」
立香はまた自分のことが大嫌いになった。今はこんな事しか言えない自分が嫌でたまらない。……だから一人にして欲しかったのに。
「ごめんなさい……」
ヴォーティガーンと買い物に出かけた、あの楽しい思い出まで否定してしまうなんて最低だ。立香がまた嗚咽を漏らしたとき、ヴォーティガーンが言った。
「何があったか詳しくは知らないけど、心配しなくていい。オベロンは君にベタ惚れだ」
立香は息を呑む。ヴォーティガーンは皮肉げに嗤って言葉を続けた。
「どうしようもなく君に惚れているから、アイツは自分でも訳がわからなくなっているのさ。だから馬鹿な行動を取るし、捻くれた事を言う」
「……嘘」
「嘘じゃアない」
ヴォーティガーンは気怠げに足を組んだ。
「忌々しいけど俺とアイツは〝同一〟だからね。君は、俺たち二人の番でもある。だから俺には、分かるんだよ」
りつか、とヴォーティガーンが優しく言った。
「おいで」
立香は口元に手を当て、ヴォーティガーンからさらに顔を逸らした。
「……だめ。私、酷い顔してるから」
「ふーん……。だけどさ、君が一人で泣くことを俺が許すと思う?」
そうして立香はヴォーティガーンに抱きすくめられた。
鞄からハンカチを取り出すことは許されたから、立香は顔をそれで覆い、ヴォーティガーンの腕の中でその暖かさを知った。
彼は急かさなかった。
立香の酷く傷ついてささくれ立った心が少しは慰められて、ずっと涙を流していた彼女がようやくハンカチから目元を見せるまでヴォーティガーンは辛抱強く待って、「立香」と静かに口を開く。
「たとえ他の男のためのドレスだったとしても。……今日の君は、綺麗だ」
そう言ってヴォーティガーンは立香の顔を覗き込み、その唇に口付けた。
【続く】