弓 炎がすべてを焼き尽くしていく。
山を、町を、人々を。
黒煙に覆われた空に、黒光りする竜が長い体をくねらせる。その口から吐き出された炎が嘲笑うように大切なものたちを焼くのを、人々は身を振るわせて見ていることしかできない。
嗚呼、神よ、助けてくれ!
その幾千もの悲痛な叫びに呼ばれ降り立った神官たちも、竜の強大な力の前に散っていった。
もうだめだ―人々の心に絶望が広がったその時―
ひと際大きな雷鳴が響き、真っ黒な空を明るく照らすほどの稲妻が二本、空を走った。
その光の中、降りてくる二つの姿を見たのは国師達だけだったが、人々も思わず空を仰ぎ見る。
ひと際高い屋根の上に降り立った風信と慕情は、目を合わせて無言で一つ頷くと、身を翻して二手に分かれた。
風信は空へ向かって矢を射る。新たな神官の登場に気が付いた竜は地上を焼くのをやめ、二人の方へ身をくねらせてやってくる。十分ひきつけたところで、ひらりと宙に舞った慕情が、その長い斬馬刀を振り上げる。
右から左へ上から下へ、胸、首、腹―。燃えるような霊光をまとった斬馬刀が目にも止まらぬ速さで正確に切りかかる。
だが、いつもならどんな妖魔も叶わないその攻撃すら、この竜には全く効かないらしい。黒い鱗はその刃を柳の葉のように弾き返す。
風信は一つ悪態をつくと、炎を吐こうと口を開けた竜のその喉元へ矢を放つ。だが、まっすぐに飛んで行った矢は、吐き出された炎にのまれ雲散霧消した。
慕情は屋根からもう一度宙へ飛び出し、竜の背に飛び乗る。だが、刀を振り下ろした瞬間、硬い鱗に覆われているとは思えない柔らかな動きで竜はぐるりと顔を後ろへ回した。
竜の赤黒い炎が斬馬刀を舐める。だが慕情はその熱に耐えながら、ありったけの法力を込めて切っ先を鱗の隙間に突き刺した。しかし、鱗が一枚剥がれ落ちた瞬間、炎は斬馬刀を焼き尽くし慕情に襲い掛かった。
「慕情!」
竜の背から落ちていくその姿に向かって風信が叫ぶ。屋根を滑り降り、地面に落ちたその姿へ駆け寄る。
「慕情!!」
うずくまった慕情は声にならない叫びを上げながら、真っ赤に焼けた腕を抱えていた。だが、風信の姿を見ると目を怒らせて叫んだ。
「構うな! 行け!」
だが風信はそれを無視し、立ち上がろうとする慕情を抱える。
風信は空を仰いだ。「だが……」
「お前の背にあるそれはなんだ!?」
風信ははっとして背に手をやる。矢筒から取り出したのは、他の矢とは異なる一本の赤銅色の矢。
数億年かけて山に蓄積された精によって鍛錬された矢。風信が持つ法器の中でも貴重で強力なものだ。
「もうそれしかないだろうが……!」
慕情の瞳が、すがるように風信の目を捉える。風信はぐっと顎を噛みしめ、回りを見回した。
あそこだ。煙の中にそびえ立つ城壁の見張り櫓。慕情を抱えたまま、風信は飛び上がった。
二つの姿を探していた竜の目が、櫓の上の人影を見つけ、ゆっくりとやってくる。
竜は、もう少しこの神官で愉しもうと考えたらしい。長い尾を鞭のようにしならせ、櫓の屋根だけを叩き落とす。風信は揺れる柱と慕情をつかみ屈み込んだ。
竜の目と二人の目が正面から見つめ合う。不意に竜の口から声が響いた。
「神官などに、私を倒せはしない」
低くざらついた声が二人の鼓膜を揺さぶる。
風信はすっくと立ち上がり、ゆっくりと弓を構えた。だがその瞬間、竜の鉤爪が上から下へ走った。
櫓の中心が削り取られ崩れていく。数々の戦に耐えてきた櫓は、なんとか崩れずに保っていた。だが、風信は大きく目を見開いて目の前を見つめていた。
その手には、真っ二つに折られた風神弓が握られていた。どんな力でも折れるはずのない風神弓が。
竜は興味を失ったかのように身をくねらせながら町のほうへ後ずさって行く。
「惨めな奴らよ。諦めて天へ戻るがいい」
嘲笑うような竜の声が響いた。だが、それを聞いた風信の目に怒りの炎が灯った。
強く握りしめた弓の折れた左右の端を、渾身の力で櫓の両脇の柱へ打ち込む。櫓全体を弓幹の代わりにし、切れずに残っていた弦を引く。そしてあの矢を取り出した。だが、そこで動きが止まった。
矢を支える先がないのだ。目の前の櫓の柵は大きく抉られ、遥か下の地面が見えている。
その時、風信の前に、すっくと人影が立ち上がった。
「風信」
なんとか残っている床の部分に脚を置き、正面に立った慕情がまっすぐに風信を見つめる。その漆黒の瞳に、風信はその意図を理解した。
つがえた矢の先をそっとその肩に置く。
まだ諦めていないことに気づいた竜が振り返る。
「来い」風信が唸る。
黒い巨体が向かって来る。風信は目を見開き、それを睨みつけた。
竜の起こす風が慕情の長い髪を揺らす。慕情は手で毛束を掴み巻き取って、握った拳を胸の上に置いた。風信は小さく頷く。
しっかりと弦を引き、風信は竜に狙いを定める。その時、風信は気づいた。
鱗の光沢が黒光りする竜の体、その胸の部分に、僅かに光沢がない部分がある。
慕情の刀が鱗を剥ぎ落としたところだ。風信の口に僅かに笑みが浮かぶ。
「慕情。ほんの少し右へ」
風信が言うと、慕情は焼けただれた腕で支えながら体を僅かにずらす。
竜はもう目の前まで迫っている。その口から吐き出された咆哮と熱風に思わず慕情が振り向きそうになる。
「慕情、こっちを見ろ」
体勢を固めたまま、風信が呼びかける。
「慕情……俺を見ていろ」
揺れる炎を映す二人の目がしっかりと見つめ合う。僅かな怯えを強い意思の鱗で覆い隠すような真っすぐな双眸。二人はそこに、昔、仙楽で肩を並べていた頃の相手を見たような気がした。あの頃の炎が胸に宿る。
限界まで引き絞った弦から矢が放たれ、慕情の頬の横で空を切る。
霊光を纏いながら真っすぐに飛んでいった矢は、僅かに覗いた竜の皮膚に深く突き刺さった。
天に向けた竜の叫びが、空に轟き、地を揺らす。一瞬の静寂ののち、その目から光が消え、力を失った巨体が二人の方へ倒れ込む。風信が慕情を抱きかかえ宙へ飛び降りたのと同時に櫓が崩れ落ちた。
地面に降り立った二人は、体を支えながらしばし無言で荒い息を吐いた。
顔を拭いながら見つめ合うと、どちらからともなく笑みが漏れた。
竜は正しかったのかもしれない。
神官などに倒せはしない―
だが、あの瞬間そこにいたのは、上天庭の神官ではなく、八百年共に戦ってきた二人のただの人間だった。