愛しき唸り声 静かなのに横柄なその足音が近づいて来たかと思うと、がらりと風信の執務部屋の扉が開いた。
「慕情、なんの用……」
「ンっ」
顔を上げた途端に、鼻先に巻紙を突きつけられ、風信は思わず顔を引きながら受け取る。
「この間の件の報告書だ。大筋はまとめておいたから、お前の方で書き足して提出しろ」
腕組みをし、窓の外を見ながら慕情が言う。
「もう出来たのか」
「お前に任せたら三百年はかかるからな」
当てつけがましい言葉は無視し、風信は巻紙を机に置いた。
「ああ、そういえばさっき殿下から受け取ったんだが、お前と分けろと……」
机の上の雑多な山をかき分け、箱を取り出す。
「何だそれは?」
慕情が警戒心もあらわに聞く。
「知らん。俺もまだ開けてない」
箱にかかっている紐を切ろうと小刀を手にする。
「なんだこの紐、固いな……。あっ」
つるりと滑った刃先が風信の指を掠める。すぐにじわりと赤いものがわずかに滲んだ。
だがほんの小さな傷だ。小さく舌打ちし、軽く手を振って作業に戻る。
「──んッ」
短い唸り声が聞こえ、手元に小さな小瓶が飛び込んできて、風信は慌てて捕まえた。薬瓶だ。
「あ、いやこのくらい大丈夫──」
「お前の手はどうでもいいが、その下の私の報告書に一滴でも血をつけたら首を飛ばす」
風信は眉間に皺を寄せながら慕情を見たが、慕情の方は相変わらず顔を横に背け、風信の方を見ようとはしない。
「さっさと塗って返せ。全部使うなよ」
薬を少し塗ると一瞬で傷は消えた。
「やれやれ」
弓を仕舞う風信を横目に慕情はフンと鼻で笑う。
「あんなクズ妖怪、鍛錬の足しにもならん」
「そうか、ではこの芋は俺が全部頂く」
偶然通りかかった街道で妖怪に襲われているところを助けた旅人たちから、焼いた芋を渡されたのだ。風信が懐から出して包みを剥くと、ふっくらとした黄金色の芋が現れる。
「ほとんど私の労のおかげだ。寄越せ」
横からさっと奪い取る手に、はいはいと首を振り、風信はもう一つ出して齧り付く。
その美味しさに、一口、もう一口、と頬張る速さがどんどん速くなっていく。
「うまいな……うま……ゥッ……!?」
口に入れ咀嚼し飲み込む一連の足並みが崩れた。
「っ…ンッ」「んっ!」
目を白黒させる風信の唸りに被せるような声と共に、隣から目の前に突き出された水筒を奪うように受け取る。風信は栓を抜くのももどかしく口に流し込んだ。
「……ん、はあー…」
「阿保かお前は!」白い手が水筒を奪い取る。
ぷりぷりと顔を怒らせながら、慕情も水筒を煽った。
「寒……」
このあたりの夜がこんなに寒いなんて聞いてない。体を腕で抱えながら、風信は体を震わせる。
「そんな軽装で来るお前が悪い」
にべもなく言い捨てた隣の慕情は、見るからに暖かそうな外衣を着ている。風信は、その首元の動物の毛皮を恨めしげに見つめた。
「兎か?」それ、と指差すと、慕情は眉を上げた。
「狐だ」その顔がかすかに得意そうに光る。
冷たい風が二人のしゃがんでいる木の間を吹き抜け、慕情の長い髪を揺らす。
「へぁっ……くしょいっ!!!!」
夜空に突然響き渡った風信の野太いくしゃみに思わず慕情の肩がびくっと震える。体が反応してしまったことに腹を立てるように慕情の顔がさっと色づく。
「お前……我慢できんのか!」
慕情が囁き声で罵る。「妖魔を刺激したらどうする!」
「すまん。寒すぎて」
風信は赤くなった鼻をズルルルっと音を立てて啜った。と、その時──
「…んーっ!」
「わっ」
ばさりと頭から何かを被せられ風信はあたふたと腕で掻き分け、顔を出した。
「着ろ! 今すぐ!」
慕情の外衣だ。明後日の方向を向いて腕を組む慕情を見る。
「でもお前は?」
「私は大丈夫だ! これ以上不愉快な騒音を立てるな!」
風信はそっと腕を通した。まだ慕情の温もりが宿っている。
「なぁ慕情」
「なんだ!」
「お前、物を渡す時になんで──」
──なんでそんな不本意そうな唸り声を出すんだ、そう言いかけた風信は、言いかけてやめた。そんなことを言ったら多分やめてしまう。
──それはちょっと惜しい。
少しばかりの優しさを打ち消そうとするかのような、その不満げな唸り。風信は、心の奥でそれをどこか愛おしく思い始めていた。
「なんだ」慕情が不機嫌そうに言う。
「いや、その…あれだ、なんでそっぽ向くんだ? あれか、俺が眩しすぎて直視出来ないとかか?」
「お前……」慕情が目を剥く。「どの口が……!」
外衣の中に顔を埋め風信はひっそり笑った。
「なんでそっぽ向いて唸りながら寄越すんでしょうね」
風信がいうと謝憐は微笑んだ。
「あー、慕情、そういえばそうだね」
「あなたにもですか⁈」
失礼な奴だと風信の眉間に皺が寄る。
「で、なんで顔を背けるのかと言ってやったら、最近はたまに、噛みつくような顔で睨みながら寄越すんですよ」
やってられませんと鼻息荒く茶を啜る風信を謝憐は見つめる。
やれやれ、自分はいったい何を聞かされているのだろう──苦笑いしながら謝憐も湯呑みを傾けた。