熱のいたずら「南風、大丈夫か?」
十時間をこえる長距離往復フライトは、慣れていても堪える。だが、フライト後、一緒に乗務していた南風の顔に疲労以外のものを感じ、風信は尋ねた。南風は、気づかれたことに驚いたように顔をあげる。
「大丈夫です。でもちょっとだけ……頭がいたくて」
にこっと笑って見せる南風の額にすっと手を伸ばす。
「熱はなさそうだな。でも体調が悪くなるようだったら医者にいけよ」
「はい」南風は答える。「機長の手、冷たくて気持ちいい……」
そのトロリとした顔に若干心配になるが、南風のことだ、無理はしないだろうとそれほど気にとめず帰宅した。
次の日の朝、風信は嫌な予感とともに目を覚ました。
枕の上で動かした頭がずきりと鈍く痛む。恐る恐る額に手をもっていく。
——やってしまった。
両手で顔を覆い、溜息をつく。唾を飲み込んだ喉に、針を飲み込んだような痛みが走る。
ゆっくり体を起こす。体が鉛のように重く不気味に熱をもっている。頭を支えながら体温計を引き出しから出して脇に挟む。ほどなくしてピピッと鳴ったその表示を見て思わず目をむいた。
「39度……?!」
ベッドに倒れ込む。こんな高熱を出したのはいつ以来だろう。初めてかもしれない。
なんとか這うように医者に行く。診断は予想どおりだった。
インフルエンザ。明日以降のフライトを変えてもらわなければいけないと、待合室から会社へ電話すると、沈痛な声でお大事にと返ってきた。
南陽航空では、インフルエンザが大流行していた。次々と倒れるパイロットや客室乗務員の代わりをやりくりする地上職員は、日に日に目の下のクマが濃くなっていた。
パイロットとして体調管理には人一倍気をつかっていたつもりだったが、ここにきてやられたか、と不甲斐ない気持ちで布団に潜り込む。その時、ベッド脇に置いたスマホが鳴った。手を伸ばして画面を見る。
『会社から聞きました。大丈夫ですか機長』南風だ。昨日のことを思い出す。
『大丈夫、とは言い難いが、なんとか生きてる。お前は大丈夫か?』と返す。
すると躊躇うように少し間をあけて、今度はビデオ通話の着信通知が鳴った。
なぜよりによって今ビデオ通話、と目をつぶるが、着信が鳴り終わる直前で仕方なく応答ボタンをタップする。画面に南風があらわれた。
「風信機長……! お加減は……」思い切り眉を下げた顔が言う。
「見てのとおり最悪だ……。こんな高熱、慣れてないもんでな」
その途端、画面の向こうで正座した南風がガバッと頭を下げた。
「機長、ほんとにすみませんっ!!」
なんとなく何を言おうとしているのかはわかった。
「今朝起きたら熱があって……インフルエンザでした。機長にもうつしてしまったなんて……それで、直接謝りたくて……」
顔を上げた南風の頬が赤い。目を潤ませる南風に、風信は、ははっと力なく笑った。
「これは仕方ないだろ。別に、戻りの前には異常なかったんだろ?」「はい……でも」
「なら、お前に落ち度はない。それに、俺も向こうについてから若干喉がおかしい気がしたからな。俺からうつした可能性だってある」
南風の叱られた仔犬のような顔に、しょんぼりと垂れた耳が見える気がした。その顔を見ていると、南風からうつされたウィルスならまあいいか、などという考えがよぎり額に手首をあてる。これは相当熱が高い。
「お前のほうは、具合は」と風信が聞くと南風は額を掻きながら「はい、熱はそれほどないんです。頭と体が痛いですが」と言う。
これが年の違いか、と若干悔しい気持ちになりながら「そうか。良かった……いや、よくはないが」と返す。
「だが、ちゃんと温かくしてしっかり休むんだぞ」と言うと、南風は布団をたぐり寄せて、くるまった。火照った顔でむくむくと布団に包まれる様子が、どこか可愛らしい。
「でも、機長のそんな様子初めて見ました」と南風が言う。
「やめてくれ」と風信は呻いた。画面の端に小さく映る自分は、首元のよれたTシャツに、汗ばんだ顔、髪はぐちゃぐちゃと酷い有様だ。
「すみません……。でも、なんか、そのぅ、すごく」
「……なんだ」こめかみを揉む。
「その……い、色気がすごいんですけど……」
風信は思わずむせた。頭と首に鈍器で殴られたような痛みが走り、顔を顰める。
「す、すみません! 失礼しました、つい……!」画面から慌てた南風の大きな声が響く。
「あの……熱、熱のせいですたぶん!」
「……熱、高くないんじゃなかったのか?」風信が腕を額に当てて呻くように言うと、南風は目を泳がせた。
「ちょっと上がってきたかも……」
上げてどうする、とつっこみたくなるが気力が追いつかない。
「お前にしては、頭がまわってないな」と言うと、南風は喜んでいいのかわからないような複雑な顔をした。
「とりあえず、パイロットとして俺たちに今できる最善策は、しっかり休んで、栄養のあるものを食べて——」
とそこで風信は、小さく呻いて目を閉じた。
「どうしました?」と南風が聞く声がする。
「いや、フライトから帰ってから買い出しに行こうと思ってたから……」
冷蔵庫はみごとにすっきりしている。昨晩も、疲れていたからロクに食べずに寝てしまった。
そう言うと、南風が、えっと体を起こす。
「うち、今おかゆのレトルトいっぱいあるんですけど」
「うん?」
「機長のとこに持って行きましょうか?」
「は?」思わず聞き返す。「いや、大丈夫、というか俺の家知らんだろう?」
「あ」と南風が頭を掻く。「そうですね。いや、でも会社に聞けば……」
くらっと激しい眩暈に襲われる。「や、やめろ!……」
「じょ、冗談ですよ、はははは」あながち冗談でもなさそうな顔の南風をぎろりと睨む。
「お前……次の監査の時に、厳しい監査官にあたるように根回しするぞ」
風信が言うと、南風の顔がわかりやすく固まった。その様子に少しばかり溜飲が下がる。
「まったく、お前のせいで変な汗をかいた」Tシャツの首元をぱたぱたと扇ぐ。だが、画面の向こうから南風の視線を感じて手を止める。
「とりあえず」手で前髪をかき上げる。
「二人でこんな会話をしてたなんて、会社で絶対に言うなよ」
「はい」と言いながらも、腑に落ちない様子の南風の顔を見つめる。
「想像してみろ。今頃、目を血走らせてスケジュールを組みなおしてる彼らに言えるか?」
南風の顔が強張る。頬の赤みが若干ひいたような気がした。
「そういうことだ。だから、これは俺たち二人の秘密——」
そこまで言った風信は、画面の向こうの南風の表情に言葉選びを間違えたことに気づき、再び腕で顔を覆った。
どうやら自分も、相当に判断力をやられているらしい。早くなおさなければと、静かに決意をあらたにした。