なぜだかわからないが、目が離せなかった――目の前のその顔から。
日付が変わる頃にやっと業務が終わり、帰宅の前にひとつ調べものを片付けようと寄った資料室。その隅からなにやら気配を感じて覗き込んだ視線の先に見つけた姿に、不思議と驚きはしなかった。頭のどこかで予感していたのかもしれない。
テーブルに投げ出された腕の横に、目を閉じて口を半開きにした南風の顔が横を向いている。頭の横に転がっている空の飲み物、だらりと下に垂れたもう片方の腕。
これはまるで――ミステリーにでてくる殺人現場だ。館の主の死体の隣に赤ワインの瓶が転がっているあれだ。もっとも、視線の先の顔は静かな寝息をたてており、転がっているのはエナジードリンクの缶だが。
そっと缶を戻しながら、その顔の下敷きになっているものを見る。本や貴重な資料ならそちらも心配だが、どうやらそれは過去のインシデント報告のリストを印刷したものらしい。オンラインですべて見られるが、紙で見るほうが頭に入るのだろう。風信も同じだ。なぜか少し嬉しくなる。
細かい字が並んだ紙には、びっしりとマーカーが引かれている。最後の部分だけぐにゃりと曲がっており、ここで息絶えたのであろうことは、名探偵でなくてもわかる。
熱心なのはいいが、休養も大事だぞ。
首を小さく傾げ、その顔を覗き込む。そしてその顔を見つめた途端、目が離せなくなっていた。
綺麗な顔だ。いや、綺麗というのとはちょっと違うかもしれない。慕情のような中性的な顔を一般的には「綺麗」というのだろう――見ても苛立ちしか感じないが。
だがそれでも、風信にとって誰かの顔にこんなに惹きつけるのは初めてだった。南風がそばにいると、つい、その顔を見てしまう。
どのあたりがそんなに自分を惹きつけてやまないのだろう。しかし残念ながら、普通の時は真正面からそんなにじろじろと観察することなどできない。だが、今なら――
そろそろと腰をかがめ、テーブルに肘をついて見つめる。
その健康的で滑らかな頬。しっとりと薄赤く色づいた唇。そして黒く太い睫毛。長さが格別に長いわけではないが、隙間なくその目の上を縁どり、優雅な影を描いている。そしてその閉じた瞼の下に隠れているのは――
その途端、その影がわずかに揺れた。ゆっくりとその丸い瞼が持ち上がり、気づいたときには、その下からあらわれた目が風信を見つめていた。
「……ぁ……ぇ?!」
風信が我に返るよりはやく、南風ががばっと頭を上げた。
南風の大きく開いた目。その深い黒色の瞳は寝起きとは思えないほど艶めいている。風信は南風に会うまで、こんな仔犬のような目をした大人の男性がいるとは思わなかった。
だが、今は風信のほうも、同じように大きく目を見開いていた。なぜなら――
南風の顔が持ち上がったところで身を引けばよかったものの、反射神経の鋭いはずの風信の体は、なぜかそうしなかったらしい。固まったままの風信の顔は起き上がった南風の顔をしっかりと受け止めていた――正確に言えば、唇のところで。
二人の唇は、まるでそこを目がけたかのように、しっかりと重なり合っていた。
さっきまで見つめていた唇のその柔らかさと潤いを、自分の敏感な唇で感じている。そして今は、その薄い皮膚ごしの体温も。
小さく吸い込んだ息には、かすかに金属的な甘さが混じっていた。南風の口を流れていったエナジードリンクの残り香を、自分の口が感じ取っている。そう気づいた頭から流れた指令に、心臓の鼓動が素早く反応する。
だが、早く顔を引けという理性の指令には、風信の体は無視を決め込んだらしい。呪文にかけられたように、唇以外の感覚が消える。
打ち寄せる波のようにわずかに唇が熱を持ち、互いの潜めた吐息が混じり合っていることを感じる。
南風と唇を重ねたのは初めてではない。だが年の瀬のあの時は南風は酔っていた。半ばゲームのように求めてきた口がどこまで本気だったのかはわからない。そこに意味を見出そうとするのは勝手なような気がして記憶の底に埋めていた。
だが、いま目の前にある顔はしっかりと覚醒していて、二人の目は魅入られたように見つめ合い、そして――どちらも身動きできず固まっている。なぜならそれは、どちらにとっても予想外で、意図しない出来事だったからだ。
これは単なる偶発的な事故だ――そのはずなのだ。
なぜ南風のほうも顔を引こうとしないのだろう。
目に見えないほど僅かに動いた唇に、向こうも反応するのを感じた。だが測りかねるようにしばらく互いの体温を宿し合ったところで、やっと風信の体が理性という感覚を取り戻した。
触れていた体温が離れ、二人の顔の間を、空調の効いた空気が素知らぬ顔で流れていく。
ほんの数秒の出来事だったはずなのに、何十分もたったような気がした。
「す、すまん」「いえ……あの、失礼しました」
ゆっくり立ち上がりながら、頭は瞬時にいま起きたインシデントを振り返り、そもそも、なぜ目覚めたら目の前に自分の顔があったのか南風に説明せねばと思い出す。
「その、倒れてるみたいに見えたから、大丈夫かと……。大丈夫そうでなにより」
いったい何を言っているんだ。対処を間違えている気しかしないが、仕方ない。
「カフェインの取り過ぎは体によくない、らしいぞ」
言いながら自分もカフェインには大変世話になっていることを思い出し、尻すぼみになる。
「じゃあ……おやすみ」
そう声をかけて部屋を出ていきながら思った。
今夜眠れなくても、それは夕方に何倍も流し込んだコーヒーのせいではないだろう。それだけは確かだった。